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コルシカの修復家  作者: さかな
6章 マスカレード・カーニバル
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第40話 マスカレード・カーニバル(1)

 翌朝も、ヴェネチアの町にはやはり濃い霧が立ち込めていた。

 丸窓から外の様子を眺めていたルカは、真っ白な景色から視線を外して手元を見た。前日の失敗を経て、今は十分な量の和紙がある。道野家に代々伝わる修復用の和紙だ。

 白く丈夫な紙を一枚、持ち上げて光に晒せば、わずかに繊維の模様が浮かびあがった。まるで葉脈や血管のような長い筋。何度か角度を変えて眺めたあと、満足げに微笑んで、ルカは修復作業を再開した。


 クロード直伝の和紙は強靭だった。

 仮面の裏側に貼り付ければ、まるではじめからそれらの一部であったかのように自然に吸い付くのに、決してビリっと破れたりしない。


「もともとは、お前のじいさんから教わった技術だ」


 男が珍しく謙遜したので、ルカは少し驚いた。反動で手元が狂い、ぶちゅりと紙の端から半透明のふのり(・・・)が飛び出る。慌ててパレットナイフではみ出た部分をこそげ取り、波打つ和紙の表面を親指の腹で押さえつけた。ふのりも道野家に代々伝わる修復材料で、日本発祥の素材である。


 当初はルカだけで進める手はずだった修復作業だが、和紙制作の難航により、クロードも作業員として加わることになった。

 たわんだり破れたりしている仮面は裏打ちして補強し、表面の汚れは絵画修復の要領で元通りにしていく。そうして修復を終えた仮面や、あるいは仮面職人ロクスの手により新たに作られた仮面は、待機するニス要員に手渡される。表面をニスでコーティングすることにより、一層強度が増すのだ。

 ニスを塗るのは、アダム、ニノン、ニコラスである。自分が一番協力したいであろうクロエは、申し訳なさそうに何度も頭を下げて、濃霧の中仕事へと出かけていった。


「そういえばさ」


 透明な液体をたっぷりと仮面に塗りつけながら、アダムは何気なく呟く。彼は左利きなので、絵筆もすべて左手で持つ。


「あのお喋りクソ女、あれから見かけねえよな」

「クソ女って、まさかベッキーさんのこと?」

 口が悪いなぁ、と呆れながらニノンは問う。

「そうそう。しつこく付き纏ってきたらとっちめてやろうと思ってたんだけどよ」

「まだ話を聞きたそうだったもんね。たしかに、最近は町でも見かけなかったかも」


 俺に恐れをなして逃げだしたのかな、などと言って、アダムは意地悪い顔で笑う。


「その件だが」


 会話に続いたのはクロードだった。彼の視線はアダムではなく、同じ作業机で修復作業を続けているルカに向けられる。話を半分しか聞きかじっていなかったルカは、視線を感じて首を傾けた。


「あのアメリカ人、鬱陶しかったんでお前の情報を譲渡して退散してもらったよ」

「え?」


 情報っていったい――訊き返すより先に、クロードはにやっと口元を歪めて。


「なに、ただの個人情報(・・・・・・・)だ。名前とか出身地とか、家族構成とかな」

「お、おじさん……!」


 ルカはあ然とした。それは、ただの(・・・)とは言わないのではないだろうか。れっきとしたプライバシー侵害だ。文句を言おうと口を開きかけて、出てきたのはため息だけだった。


「なんでそんなこと知りたがるんだ」

「さぁな。ただ俺は鬱陶しいのから逃げられて助かった。恩に着る」

「……」


 正直、まったく嬉しくない感謝だった。

 陰鬱な顔を晒していたら、同じような顔をしたアダムとばっちり目があった。アダムはぎゅっと眉間にしわを寄せながら、ものすごく不味い料理を食べたときのような顔をして、べっと舌を吐き出す。アダムはとにかくベッキー・サンダースが苦手なのである。女好きのあのアダムが、彼女とは掴み合いの喧嘩をするくらいなのだから、相当なものだ。隣でニスを塗りながら「なにやってんだい」と呆れた口調でニコラスが呟く。

 彼らのやり取りを背に、クロードはわるびれもせずニヤニヤしている。

 無責任な男の横顔に、ルカはじとりとした視線を投げかけてやった。


 作業は深夜近くまで続いた。

 眠気に勝てずに一人、また一人と部屋を去っていく。

 そうして最後には、年若き仮面職人と修復家の二人だけが残った。


「……アルチザンズ・ハイだね」


 二人を除き、最後の退出者となったニコラスが、部屋を出て行く間際にふと振り返って吐息のような独り言を漏らした。そんな声にも気付かずに、ただただ手元の作業に没頭している。

 パタンと音を立てて、扉が閉まる。

 室内が静寂に満たされる。あるのは、壁掛け時計の秒針が遠慮なしにカチカチと時を刻む音だけだ。


 夜はさらに更けていく。

 カーニバルの幕開けを告げる太陽が目を覚ますまで、あと数時間――。



 *



「おはよう! ハッピーカーニバール!」


 次に部屋の扉が開かれたのは、窓辺に太陽の光が差し込む頃だった。

 悦びに満ち溢れたニノンの朝の挨拶が、部屋の中に溜まったままだった静けさを吹き飛ばす。だが、机に突っ伏す二人はいっこうに動かない。


「こいつら、夜寝てないんじゃねえの?」


 生あくびを噛み殺しながら、アダムがのろのろとやってくる。そのままずかずかと遠慮なしに部屋に押し入って、彼は仮面だらけの部屋をぐるりと眺め回した。

 部屋にはまだ新しいニスのにおいが充満している。本当に、直前まで作業をしていたのかもしれない。ニノンが窓を開けて部屋の換気をしていると、作業机の方から呻き声がした。


「起きてるよ……」


 二人はぎょっとして振り返る。そこにはすっかり疲弊しきった顔がふたつ、首をもたげて並んでいた。目の下にはひどいくまができている。まるで今蘇ったばかりのゾンビのように、顔色もひどい。


「さっき完成、したから……」

「おうおう、わかったから。カーニバル始まるまで寝てろよ」

「仮面、町に持っていくの、頼んでいいか……」

「そんなの当然! どーんと任せて」

「飯はいいのか? 水は?」

「……いらなぃ……」


 ミミズのようなか細い音が終わらないうちに、ルカはゆるゆると頭を机に伏せた。瞳に前髪が覆いかぶさっているせいで、起きているか寝ているかわからないロクスも、無言でこっくり頷いて、やっぱり同じようにして机にぺたりと顔を伏せたのだった。





 次にノックの音が響いたのは、太陽が随分と昇ってからだった。ベッドに沈み込んだ少年たちの耳には当然、控えめな音など届かない。


「ロクス」


 クロエはすぅすぅと寝息を立てる弟の肩を優しく揺すった。何度かそうしているうちに、少年はくぐもった声を出した。


「お姉ちゃん……なに」


 お父さんが呼んでるの、とクロエはなおも優しく肩を揺する。

 ぼんやりしたまま起き上がり、ロクスはごしごしと瞼を擦った。まだ眠っていたいと思ったが、ベッドサイドに立つ姉の視線に急かされたので、仕方なくベッドから抜け出す。

 スプリングの軋む感覚に、ルカも薄っすらと瞳を開けた。


「あっ。ごめんなさい、起こしちゃって」


 クロエの柔らかな声に、ルカはゆっくりと目を瞬いた。窓から射し込む陽射しが強い。もうお昼を過ぎているのだろうか。カーニバルは何時から始まるのだったか。脳裏で忙しなく予定を組み立てつつ、今起きようと思ってたところなので、と呟こうとした矢先だった。


「いや、結構。起こしてくれてちょうどよかった。少し、こいつと話があるんでな」


 聞き馴れた声が頭上から振ってきたかと思うと、横向きのままの視界に、男の黒いズボンが割って入ってきた。微かに

 見上げると、目の前にクロード・ゴーギャンが立っていた。




「珍しいな、ルカ。お前が寝坊するなんて」


 姉弟が部屋を出ていったあと、入れ替わるように部屋に入ってきた男は、ベッドの前までやってきてニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべた。今日の彼はタバコの代わりに棒付きのキャンディを咥えている。


「室内禁煙だってさっきカナちゃんにどやされたんだよ。これは代用品。口寂しいからな」


 ルカの視線を口元に感じたからか、クロードは聞いてもいないのに弁明する。


「おじさん、用件は?」


 まさか世間話をしにきたわけでもないだろう。頑固な寝癖を手で押さえつけながらルカが促すと、クロードは「相変わらず素っ気ねえな」と笑った。


「もうすぐこの町を発つ。用件的には『別れの挨拶』ってところだ」

「え? でも、カーニバルは今日……」

「残念ながら不参加だ」


 てっきりクロードとカナコの二人もカーニバルに参加するものだとばかり思っていたので、ルカは少々面食らった。カーニバル終了後にヴェネチアンマスクを回収するという話ではなかったのか。最終的に、交渉が破談になったのだろうか。


「寂しいか?」

「別に……」


 久々にクロードと共同で修復作業を行ったこの数日間は、ルカに故郷レヴィの工房で修復業を営んでいた頃を思い起こさせた。

 父親の光太郎と、祖父の光助と、祖父が連れてきた男のクロードと、自分。母親を早くに亡くしたルカは、険しい山に囲まれた村の小高い丘に立つ、小さな丸太小屋で、三人の男と日々修復作業に明け暮れていた。身近に触れ合う人間といえば道野修復工房の男たちだけ。友だちは己の膝くらいしかない小さな犬一匹だった。


 時折り舞い込む依頼で目にする絵画と、毎日違う顔を見せるコルシカ島の空だけがルカの心に潤いをもたらした。

 それが少年の世界のすべてだった。


 彼と共に作業をしたことで、郷愁めいた想いに駆られただけ。寂しいわけじゃないと、ルカは心の中で言い訳めいたことを考える。

 知らぬ間に口先が尖っていたらしく、クロードがふっと笑い声を漏らした。ルカは慌てて口先を引っ込める。


「やることが多くてな。一度帰るが、またここには戻ってくる」


 クロードは一枚の紙をルカに差し出した。

 それは契約書だった。クロードたちがこの家にやってきたときに、クロエに突きつけた仮面買収についての契約書だ。

 書面の文章を目で追い、一番下の行までいったところで、ルカは静かに息をのむ。

 あの日空欄だった箇所にサインがあった。

 筆記体で書かれた男性名は、ロダン家の父親のものだった。


「じゃあ、カーニバルが終わったら」

「用済みになった仮面はすべて、エデンの方で回収させてもらう」


 くっと肺を握られたような感覚を覚えて、ルカはそれ以上言葉を続けられなかった。


「寂しいか?」


 先ほどと同じ質問。

 寂しい、と口の中で小さく反芻する。

 その瞬間、ルカの心の中に渦巻いていたもやのようなものが、はっきりとした形を成した気がした。


 寂しい。

 そうだ。自分は、仮面職人が一つひとつ丁寧に仕上げた仮面が資源として失われることが寂しいのだ、とルカは思った。


「もしお前がそう思っているとしたら、それはまやかしだ」

「まやかし?」


 ルカは怪訝な表情を浮かべて男を見た。


「それはお前の親父やじいさんの考えであって、お前自身の考えじゃない。刷り込まれてるだけだ。仕方ないよなぁ。生まれてから今まで、周りにたったあれだけの人間しかいなかったんだから」

「……どういう意味、」

「医者の子どもが医者を目指すように、漁村に生まれた子どもの多くが大人になって海へ出るように、人生の七割は生まれた環境で決まる。人生の方向性だけじゃない、考え方もそうだ。あの村から出てお前自身、異端だということに気づいてるかもしれないが」

「おじさん……なんの話をしてるのか、俺、わからない」


 埃まみれのブーツがベッドの角に当たって、コツンと音を立てる。

 見下げてくる瞳が標的を定めた動物のようにギラリと輝いて見えて、ルカは狼狽した。


「お前は、もっとたくさんの絵画を修復したいと考えている。この世界に散らばる、ありとあらゆる絵画を元の姿に戻したくはないか?」

「それは……そんなの、修復家として当然の願いだ」

「個人で工房を営んでいては叶わない願いだな。もっと大きな組織に属する必要がある。“絵画をそっくりそのまま元の姿に戻す”という道野修復工房のポリシーに背かなければならないこともあるだろう。だがその代わり、お前はもっと大きなフィールドに立てる。お前がこのまま個人で活動していては生涯出会うことがない絵画にも、触れられる機会はやってくるはずだ」

「……お、俺は…………」


 クロードが腰をかがめてルカの真っ青な瞳を覗き込む。ラピスラズリを思わせる瞳に、漠然とした不安の影が泳いでいる。


「お前の本当の願いはなんだ?」


 魚影が跳ねて、水面が揺れる。


「お前はこっち側の人間だ。〈エデン〉に来い、ルカ」


 狼のような瞳に、ルカが見たことのない自身の顔が映っていた。不安定な足場に立たされたような、不安に満ちた表情で、セピア色の瞳の奥からじっとこちらを見つめ返してくる。


 こっち側(・・・)とはどういう意味なのか。絵画がエネルギーに代わってしまうのは悲しいことだと、気付いてしまった。それまで自分はどう考えていたのか――頭の中に次々と疑問が浮かんでぐちゃぐちゃになっていく。

 生まれた疑問は石となり、消えないまま積み上がって川の流れをせき止める。溢れた水で頭の中がいっぱいになりそうだった。


「心が決まったら連絡してこい。いつまででも待ってやる」


 クロードはいつもの意地悪な笑みを浮かべると、返事も待たずに踵を返して部屋を出ていった。

 一人部屋に残されたルカは、扉が閉まった後も、男が消えた先をただただじっと見つめていた。まとまらない思考は、相変わらず頭の中で氾濫を続けている。答えは、出ない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] それはお前の本当の価値観なのか環境がそうさせてるんじゃないのかって問われるとなんか色々考えちゃいそうですね……でもその問は何処に生まれて育とうと同じ問が待っているわけで……。誘いに乗るのに…
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