第38話 仮面の修復(2)
和紙作りは順調に進んでいた。
ルカはいくつもの手順を着実にこなし、時折熱心な眼差しでクロードに何事かを尋ねたりした。連日早朝からの作業が続いていたが、慣れてきたのか、アダムも大げさに弱音を吐くようなことはなくなった。
「今更だけどさ、和紙は修復のどの作業で必要になるんだ? 今までの修復では使ってなかったよな」
四角い枠の中は、潰れたリゾットのような液体で満たされている。その上に重しをはめ込みながら、アダムはふと疑問を口にする。
「うん。裏打ちに使うんだ」
「裏打ち?」
よっ、とアダムが重しの上に手で体重をかけると、ぐじゅりと音を立てて余分な水分が枠から滲み出る。
「劣化して弱くなった表面を補強するのに、裏から紙とか布とかを貼りつけるんだよ」
「普通の紙じゃダメなわけ?」
「裏打ちには和紙が最適なんだ。ヴェネチアンマスクは全部が紙でできた仮面だから、和紙との親和性は特に高いんだよ」
「ふーん」
ぐじゅ、じゅぶり。湿った音を立てながら、型の底面から次々と水分が溢れ、流れてゆく。これを何度か繰り返したあと、枠の中に残ったコウゾを天日干しして和紙は完成する。
手間暇かけて作られる和紙は、他の紙にはない強靭さを持っている。それはこの紙が生まれた国の人々の気質である、粘り強さや我慢強さに通じるものがある。
こんなふうに、ルカは行ったこともない日本について、たまに思いを馳せることがある。祖父や、曾祖父の生まれ故郷だからかもしれない。それとも、コルシカ島と同じように、日本が海にぽっかりと浮かんぶ島国だからだろうか。
「そういや、ニノンはどこいった? 手が空いたらこっち手伝いにくるって話だったよな」
アダムに言われ、ルカもはたと彼女の存在を思い出した。
そういえば仮面の在庫数の報告を受けてからろくに姿も見ていない。
「なにか問題でも起こったのかな」
「町をほっつきあるいてるに賭けるぜ、俺は」
いったい何を賭けるつもりなのか。噂の少女の声が、川の向こう岸から聞こえてきたのは、それから間もなくのことだった。
「おーい」
手漕ぎ小舟の上で、ニノンは二人に向かって無邪気に手を振っている。
ルカは、あ、と顔をあげたが、手を振り返すまではできなかった。走り回る子ども一人分くらいの重しを出し入れしていたせいで、腕の筋肉が悲鳴をあげはじめていたのだ。
隣でアダムが眉間に思いきりしわを寄せて、ものすごく長い溜息を吐いた。
「……さっきお前の話をしてたところだ」
「えっ?」
なぜか少女の瞳がパッと明るくなる。
「悪い方の噂だよ、バカ!」
「な、なんで怒ってるの!?」
ニノンは岸辺に寄せた小舟からぴょんと飛び降り、あたりをきょろきょろ見渡した。
「ロクス君いるかな。ちょっと渡したいものがあるんだよね」
「部屋にいるんじゃねえの。俺たち重労働に必死だったから、家の様子はよくわかりませえーん」
アダムは下唇を突き出して、相手を苛立たせるような顔をした。
「もー、カリカリしないでよ。はい、これ」
ニノンは腕に抱えていた茶色い紙袋を二人に手渡した。受け取ってみるとそれはほんのり温かくて、少しだけ甘い香りがした。
「栗のクッキーだよ。差し入れ!」
相槌を打つように、アダムのお腹からきゅるきゅると音がなった。少女なりの気遣いを感じ取ったのか、アダムは先ほどまでぶちぶち言っていた自分を恥じるように、肩をすぼめて自身のお腹を押さえた。
「大通りの人気パティスリーじゃねえか」
だが、彼は紙袋に押された店のスタンプを見てハッと目を見開いた。
「さてはお前、町で遊んでたな!?」
アダムが叫んだころにはニノンの姿はもうそこになく、代わりにドアの閉まる乾いた音だけが響いたのだった。
*Ninon
仮面職人一家の家に戻ってきたニノンは、木の軋む音を響かせながら、二階へと続く階段を上った。三つ並んだ扉の真ん中がロクスの部屋だ。
「ロクス君、いますかー?」
ノックをしてみたが返事はない。
ただ、部屋の中にはここのところニコラスもいるはずだった。なにも返事がないのは不可解だ。
扉越しに耳をそば立ててみるが、やはり部屋の中からは物音ひとつ聞こえてこない。しばらくそのまま突っ立っていると、隣の部屋から湿った咳の音が数回聞こえてきた。
あそこは確か……とニノンは一瞬考え、すぐに思い出す。
姉弟の父親の部屋だ。
「おじさん?」
扉越しに、ニノンはそっと声を掛けてみた。だが、返事の代わりに聞こえてきたのは、酷く苦しそうに咳き込む音だった。ニノンは迷うことなくドアノブを回す。
「あの、大丈夫ですか?」
「君は――」
どうやら発作は落ち着いたようだ。初老の男は部屋の隅に置かれたベッドの上で身を起こし、こちらに顔を向けていた。
「妻から話は聞いているよ」
止まりかけたゼンマイ仕掛けのおもちゃのように、男はゆっくりと微笑んだ。
「お世話になってます。おじさん、具合はどう?」
「今日はずいぶんと調子がいい」
先ほど耳にした咳の音を思い出して、それは嘘なんじゃないかとニノンは思った。
だが男はそれ以上答えず、窓の方に視線を向けてしまった。この部屋に唯一ある窓の向こうには荒れ野原が、そして家と平行に流れる川が見える。野原では、黒髪とオレンジ髪の二人の少年が、和紙作りに奮闘している。
何気なく、視線をベッドの隣にある年季の入った作業机に向ける。机の上には未彩色の仮面が積み上げられていて、錆びたトマト缶には絵筆が雑草のように突き立っている。この場所でたくさんの仮面が生み出されたのだろう――そこまで考えて、ニノンはある違和感に気付いた。
父親は体調を崩していて、もうずいぶんと長い間仮面を作っていない。クロエは確かにそう言った。
では、ここにある仮面はいったい誰が作ったのか?
「それを作ったのは私の娘だよ」
ニノンの視線に気がついた男は、問うより先に答えを告げた。
「私が倒れてからというもの、あの子は私の代わりにここで仮面作りを続けてくれていてね」
「クロエが……? 全然知らなかった」
「幼い頃から私の仕事場をちょこちょこ覗きにきては、遊び半分で仮面作りの真似事をしていたからね。腕前だけでいえば、いっぱしの仮面職人以上だ。なによりあの子には色彩のセンスがある」
そこを見てごらん、と男はベッドの上で作業机の下を指差した。椅子を引いて覗き込むと、そこには大きな段ボール箱がひとつ置いてあった。埃の被っていないその箱をあけて、ニノンはあっと息を呑む。
「仮面……それも、色が塗ってある!」
そこには、彩色済みのヴェネチアンマスクがたくさん仕舞われていた。目元から頬にかけて、黄色と黄緑のひし形模様が描かれたもの。紫色の下地に金色の絵の具で細かい蔦模様が描かれたアイマスク、宇宙を思わせる濃紺色のペストマスク、先端にいくつも鈴の飾りをつけたピエロ帽を被っているもの、ルージュのような艶やかな紅色が右半分を覆い、もう片方の白い頬に血の涙をひとしずく流したもの。
どの仮面も色や模様、形が異なっていて、ニノンは一瞬で心を奪われた。まるで隠された宝石箱を見つけたような心地だった。完成品がこれだけあれば、ルカたちの負担もいくらか減らせるのではないか。
「それもすべてあの子が彩色したものだ」
「すごい、すごいよ! でも、こんなに上手に作れるのに、どうしてクロエは自分で仮面職人になろうと思わないんだろう――あっ」
疑問を口にしてからすぐ、ニノンはクロエの言葉を思い出した。
「女の子は、仮面職人にはなれないから……」
確かに彼女はそう言った。だからこそ後継者であるロクスに頑張ってほしいのだとも。
クロエが必死だったのは、己の家系が代々繋いできた“仮面職人”という職業に誇りがあるからだと、ニノンは思っていた。もちろんそういった思いもあるのだろう。
けれどなによりも、彼女自身が仮面職人に憧れていたのだとしたら――。
「それは私の単なる願いだ」
「え?」
「職人など継がず、どこかに嫁いでくれればいいと思っている。そうすればあの娘は、この島から出られるからね」
男は目を眇めた。優しい言葉とは裏腹に、青白い横顔はそれでもなお父親の威厳を称えている。
その横顔を眺めているうちに、ニノンはぎゅうっと肺を掴まれたように息苦しくなった。かつて自分も、誰かから――自らの父親から、同じような顔を向けられたことがある。そのときに感じた苦しみが、朧げな記憶の中から手を伸ばし、ニノンを蝕もうとしている。
「それは、本人が決めることだと思う」
痛みを断ち切るように、ニノンは無理やり言葉を絞り出した。
ベッドの上の男は一瞬目を見開いた。しかしすぐに微笑んで、ニノンの紫色の瞳を見つめ返す。
「……そのとおりだ。自分の考えを押し付けるのはよくないな。そう、頭ではわかっているのに」
ニノンは手の中の仮面に視線を落とした。細く開いた目の穴の下に、赤いしずくがペイントされた仮面。
「私たち子どもは知らないことだらけだから。大人の目からしか見えない危険が、きっとたくさんあると思う。大事に思ってくれてるからこそ、安全な場所にかくまってあげようって、鍵をかけるんだよね」
胸の中に埋もれていた気持ちを壊れないように拾い上げながら、ニノンはゆっくりと言葉にした。
「でも、その気持ちを優しい眼差しに変えて、見守ってくれるのが一番うれしい。……私ならそう思います」
「見守る、か」
そうだな、と男は頷く。男が微笑むと、目尻にいくつも深いしわが刻まれた。
そのとき、廊下から階段の軋む音が聞こえてきた。
「あ、誰か帰ってきたんだ。ニコラスかな。おじさん、私行くね」
慌てて仮面を戻し、ニノンは扉へと急ぐ。その背中を、男は呼び止めた。
「君は、どうしてそこまで私たちのために尽くしてくれるのかね」
優しい声で問われ、ニノンはぱちぱちと目を瞬いた。
なぜかと問われても明確な理由は思い浮かばない。だからニノンは、ある少年の言葉を借用することにした。
「そこに助けを求めてるものがあったから――って、私の知ってる人は言うの。その人はね、修復家なんだよ」
修復家。と、男が口の中でぼそぼそ呟いた気がした。
「昔、この家にもやってきたことがあったよ。自分のことを“しがない修復家”だと言っていたな」
「私の知ってる修復家の男の子も言いそうだなぁ」
「はは。懐かしいな……」
窓から差し込む光が、微笑む男をやさしく包み込む。そこにはいつの間にか夏の色が溶け込んでいて、まるで一枚の絵画のようだとニノンは思った。
* Luca
カーニバルまで残り二日。
この島に朝の訪れを知らせるのは、太陽ではなくマキの森に住み着く小鳥たちの鳴き声だった。なにしろ雪のように真っ白な霧が立ち込めるので、朝日の光など軽々と呑み込まれてしまうのだ。
「ぬかったな」
クロードが眉間にしわを寄せて呟いた。
彼は建物の壁に沿って立て掛けられた板から、和紙をペラリと剥がし、指先で何度も感触を確かめている。ルカも倣ってその場にしゃがみ込み、板から和紙を剥がしてつまんでみた。指先で触った瞬間に、看過できない湿気をたっぷり含んでしまっていることが伝わってくる。
朝方に大量発生するこの町特有の霧が、外で天日干しをしていた和紙をすべてダメにしてしまっていた。
「クロードさん、なにか問題でもあるんスか?」
「問題大ありだ。これじゃあ使い物にならない」
クロードは足元の雑草をなじり、苛立ちを露わにする。
「そんな! どうすりゃいいんだよ。もう時間もないってのに」
へなへなとしゃがみ込むアダムの隣で、ルカは頭の中のスケジュールを忙しなく組み直そうと奮闘していた。
あと一日あれば、必要量の半分に相当する和紙は作れる。しかし、どうあがいても残り半分の和紙を作る時間が残されていない。考えれば考えるほど、焦燥感が募る。
残された時間は少ない。なのに、代替案が思い浮かばない。
どうしたものかと各々が頭を捻っていたとき、真っ赤なポンチョを羽織った少女が家から元気よく出てきた。
「おはよ――ってうわ、お葬式みたいな顔」
ニノンはぎょっとこそしたものの、しけた面の男三人とはまったく異なる明るい雰囲気を纏ったままだ。
「なんだよその笑顔は。こっちは今それどころじゃねえんだよ」
「え? なにかあったの?」
「修復に使う予定だった材料が、全部台無しになっちまったんだよ。この霧のせいで!」
と、アダムはあたりに漂う真っ白い霧に向けて、やみくもにパンチを繰り出した。だが、ニノンは得心したように頷くだけだ。アダムはその余裕が気に入らないのか、修道士らしからぬガンを飛ばす。
「じゃあ、ちょうどよかった」
「ああ?」
「大丈夫。カーニバル、間に合うよ!」
根拠もなく言いきられ、アダムだけでなくさすがのルカとクロードもぎょっとした。
「だーかーらー。この状況、どこをどう見たら間に合うんだよ!?」
アダムはばっと両手を広げて訴えた。背後は相変わらず立ちこめる濃霧によって白んでいる。それでもニノンは勝ち誇ったように両腰に手をあて、こう宣言した。
「仮面職人、完全復活!」