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コルシカの修復家  作者: さかな
6章 マスカレード・カーニバル
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第38話 仮面の修復(1)

「ルカ、お前さ……なんで熱くないわけ?」


 恨めし気に言いながら、アダムは真っ赤になった己の指先にふぅふぅと息を吹きかける。


「熱いけど、我慢できるよ」

「同じ指なのになにが違うってんだ」

「指の皮が厚いとか」

「なんだそりゃ」


 熱い、もう無理、熱い、とぶつくさ文句を言っているアダムとともに、ルカは鋭利な刃先で、蒸かしたての木の真っ黒い木皮をこそげ取ってゆく。剥がれたところから、ほわほわと湯気が立ち昇る。栗を蒸したときのような甘い香りが、くゆる湯気とともにあたりを漂う。


 二人は屋外の庭――といえば聞こえはいいが、実際のところただの荒れ野原である――にどっかりと腰を下ろして、『コウゾ』と呼ばれる木の外皮をナイフでひたすら剥いていた。黒い外皮が残っていれば、完成した和紙に雑色が混じるので、ここは慎重に作業しなければならない。

 外皮が剥きやすくなるようにコウゾは一旦蒸し焼きにされる。だから作業者は、指先に突き刺さる熱と格闘しながら外皮剥きを進めることになる。


「あー、無理無理。もう無理だ、ぜーったい無理。俺の綺麗な手がどんどん膨れ上がっちまう」


 早口言葉もかくやという勢いでアダムは愚痴を吐き、同時に黒い外皮が残ったままのコウゾを雑草の上に放り投げる。同じタイミングで背後から男の笑い声が聞こえた。


「なに女々しいこと言ってんだ」

「うげえ、クロードさん」


 とっさに首を回して男に視線を向ける。


「時間はカツカツだからな。無駄なく動けよ」

「へいへい。わかってますよっと」


 アダムは無様に転がるコウゾをそそくさと拾い上げ、何食わぬ顔で作業を再開した。初対面では『おっさん』などと失礼な呼び方をしていた割に、今は渋々ながらも彼の指示に従っている。


「剥き終わったやつからこの鍋に入れてけよ。おうカナちゃん、見つかったか?」


 クロードは振り向きざまに、カナコの不機嫌そうな顔を確認した。少女の手には幾つもの袋が抱き抱えられている。


「ほんっとにもう、人使いが荒すぎますわ」

「ああ、そうそう。これだ」

「なんスか、それ?」


 アダムが興味津々といった様子で覗き込む。真似してルカも首を伸ばした。カナコの両手に収まるほどの大きさの袋は、コルシカ島民であればよく見知った物だった。


「重曹?」


 洗濯の際に使う薬剤である。どちらからともなく呟いた言葉にクロードは頷き、顎で背後に佇む家をしゃくった。


「この家からちょっくら拝借したんだ。お前ら、皮剥きなんかさっさと終わらせろよ。この後そいつらを重曹と一緒に煮込むからな、たっぷり三時間」

「さんじかん!」

「手を動かせ」


 素っ頓狂な声をあげるアダムに、すかさず厳しい声が飛ぶ。


「和紙を作るために必要な日数は最低でも5日だ。つまり普通に作ったって仮面の修復に充てられる日数は一日しか残らない。わかるな? 無駄話してる暇なんてないぞ――カーニバルに間に合わせたいならな」


 クロードはカナコの腕からふんだくった袋を豪快にバリッと開けた。鍋いっぱいの内皮の上に、白い粉をザーッと投入する。おかっぱの少女に次の鍋の準備を指示してから、クロードは鍋を両手で担ぎ、家の中へと入っていった。


 男の姿が見えなくなってから、アダムは不満げに呟く。


「五日だあ? 聞いてねえよ」

「仕方ないよ。和紙は作るのに時間がかかるものだから」

「なんだ、知ってたのかよ。っつうか、本当に間に合うのか? 修復作業に充てられるのはたった一日しかないんだぞ」

「大丈夫。間に合わせるよ」


 ルカがあまりにもきっぱりと言い放ったので、アダムは吐きだそうとしていたらいしいため息を、ごくりと飲み下したようだった。


「それしかカーニバルを成功させる方法はないし」


 時間は待ってくれはしない。だとすればやはり、人間が時の流れに必死にしがみつくしかないのだ。

 アダムはしばらく口をへの字に引き結んでいたが、やがて何度かうんうんと頷いて、「ま、たしかにな」と独りごちた。


「そういう奴だよな、お前は。その真ん中に通ってる、ブレない芯を俺にもわけてくれ」

「芯? なんだそれ」

「――褒めてんだよっ」


 アダムはぶっきらぼうに吐き捨てて、それっきりだんまりを決め込んでしまった。ルカも言葉を返すのは止めた。代わりに、作業に集中しはじめた友人の横顔を見て少しだけ微笑み、自身の手元に視線を戻した。


 できることをするしかない――ルカはもう一度心の中で呟いた。

 一人の人間がやれることはそう多くはない。だが、たくさんの力が集まれば成し遂げられることもあると知ったのだ。港町のレストランで。寂れた村で。あるいは虹色の旗がはためくサーカステントで。


 ふと三角屋根の家を見上げた。二階に位置するレンガ壁。散りばめられた曇りガラスの円窓。

 仮面職人ロクスの説得をどう進めているのか、ルカには皆目見当もつかない。そこはニコラスがうまくやれるよう願うほかないだろう。ルカは手元に視線を戻し、ぐ、とナイフの柄を握る手に力を込めた。



*Nicolas



 K.M――道野光介みちのこうすけ

 それは、道野ルカの祖父の名である。


 小花柄の描かれたマスクの裏に刻まれたイニシャルを、ニコラスの細長い指が撫でた。


「ねぇ、ロクス。この仮面に絵を描いた修復家の名前ってさ――“ミチノ”じゃなかった?」


 製作机に肘をついて指先をいじくっていたロクスは、しばらく首をひねって考え込んだ。


「そうだったかな……うん、そうだった気もする」


 たっぷり間を置いて返ってきた返答は、なんとも歯切れの悪いものだった。


「あの、でも、どうしてニコラスさんが知ってるの?」

「私が一緒に旅してるルカってのが、そのじいさんの孫でね。一族で絵画修復工房を経営してるのさ。コルシカ島で修復家っていうとそう多くもないからね」

「へぇ……え?」


 頷きかけた頭をふと止めて、ロクスはぱっとニコラスを見上げる。そして、あらん限りに目をまん丸くした。


「た、旅って……サーカス団は?」

「やめたよ」

「やめ――」


 言葉の途中で、ロクスは操り人形の糸がぷっつりと切れたように肩を落としてしまった。ニコラスは縮こまった背中をぱしんと叩いて、「まぁ人生なんていろいろあるもんさ」と軽やかに言った。


「それよりこの仮面、あんたにとって大事なもんだったんだろう?」

「……え、ど、どうして……」


 ゆるゆると持ち上がった顔は、まだ青白い。


「使い終わった仮面は全部一階の壁に掛けてあるのに、これだけこの部屋に置いてあるんだもの」


 それは漠然とした違和感だったが、どうやら図星だったようだ。


「その人は、僕の作った下手くそな仮面を、ほ、褒めてくれたんだよ」


 ぐしゃぐしゃの前髪の奥で、ロクスが恥ずかしそうに目を瞬かせた。そうして少年は、旅の道すがらヴェニスに立ち寄ったという修復家の話を語ってくれた。


 まだロクスが姉の身長を越していなかった頃。ふらりとこの島に立ち寄った一人の修復家がいたという。どこか東洋の血を思わせる顔立ちで、芯の太いグレイヘアーや、目尻に刻まれた深い皺に年齢を感じさせる男だった。

 縁あってこの家に宿泊した際、修復家はロクスの父親と絵の話で意気投合した。父親は仮面を一枚差し出して、これに色を付けてみないかと提案した。修復家は自前の筆を手に取り、そのまっさらな仮面に絵を描いた。


 彼が描いたのは、ポップコーンのような、小さな黄色い花が散りばめられただけのシンプルな模様だった。


 今風の装飾などなにひとつ取り入れてはいないし、派手な色が使われているわけでもない。なのにどうして心惹かれるのだろうと、ロクスは幼心に思った記憶がある。


――なんのお花を描いたんですか?


 見ず知らずの男に臆することなく尋ねたのは姉のクロエで、ロクスはただ身を縮こめて彼らの会話を聞いているだけだった。


――コルシカ島の南方に咲いている花を。


 修復家は言葉少なく答えた。それから、続けてこうも語った。


――心を込めて作ったものには想いが宿る。まるでアルバムみたいだろう。そういうものを『芸術』と呼ぶんだ。


 芸術? と、ロクスが無垢な瞳を向けたのを、修復家は少しだけ微笑んで受け止めた。


――いつかわかる。


 終始寡黙な修復家だったけれど、そのときだけは饒舌で、口元は少しはにかんでいるように見えた。




「――ふふ、言いそうだわ」


 ニコラスが思わず笑みをこぼすと、ロクスはぎょっとして尻を浮かした。


「ニコラスさん、その人に会ったことがあるの?」

「あ、違う違う。孫がね、そのじいさんによく似てるんだよ。そいつも腕利きの修復家でさ。その大事な仮面も直してくれるよ。それを被れば、あんただってきっと外に――」


 言いかけて、ニコラスははっと口を噤んだ。ロクスの顔が、一瞬にして曇ってしまったからだった。焦るんじゃなかったと、ニコラスは心の中で独りごちる。

 今のロクスには自信も勇気もない。無理に自信を持てと言ったって、暗闇の中でやみくもに出口を探させるようなものだ。

 せめて彼が出口を見つけ出しやすいように、灯りをつけてやれたら。そのとき、ニコラスの脳裏に先ほど少年が刻んだリズムが過ぎった。

 激しく空を切り裂く四肢。

 解放の踊り(ダンス)、カポエイラ――。


「……ダンスか」


 口の中でぽつりと呟く。

 え、と少年が訊き返すより早く、ニコラスはベッドから軽快に立ち上がった。


「ねぇロクス。私と一緒に踊ってみない?」

「え、え――ええっ」

「さっきの踊りを見ていてわかったんだ。あんたには、踊りの才があるよ」

「あの、でも、僕……っ」

「別に誰かに見せなくたっていい。そう、これは私からのお願いなんだけど」

「お……ニコラスさんが僕に、お願いだなんてっ……」

「今朝見せてくれたあの踊り、ぜひ私に教えてくれないかい?」

「…………っ」


 純粋な懇願が、期待に満ちた瞳が、頑なな少年の心を動かしたのか。ロクスは両頬を真っ赤に染めながら、何度も何度も頷いて、「ぜひ」と絞り出すように答えたのだった。

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