コルシカの修復家

６章 マスカレード・カーニバル

第３７話 ニノンとドロシー

「……く、はは」

　狼が森の中で獲物を見定めるように目を細めていたクロードは、ややあって笑い声をあげた。

「修復家だからねぇ。やっぱり血だな」

「え？」

　困惑するルカを見て、クロードはお得意の意地悪そうな笑みを浮かべた。

「その心意気をかってやる」

　そこでルカは、彼との交渉が成立したことを悟った。新しい技術が学べる。それも、幼い頃からこっそり尊敬していた師匠のような男から。だが、彼の相棒である少女は納得がいかなかったようだ。露骨に眉を吊り上げて、カナコはクロードに詰め寄った。

「心意気をかうですって？　なにを血迷ったことを言ってますの？」

「技術の伝授ってやつだな。いいじゃねぇか。それで作業の頭数が増えるんだし」

「そんなこといって、結局は楽しそうだと思ったからでしょう？　興味あるところにばっかりふらふらふらふらと……まるで堪え性がない、あなたの悪い癖でしてよ！　油を売るのも大概に――」

「すまん、すまん。カナちゃんにはいつも世話になってるよ」

　クロードは余裕綽々(しゃくしゃく)な態度で少女の頭を撫でつけた。カナコはというと、必死に大きな手を払いのけながら「おやめなさい！」と金切り声をあげている。

「とにかく！　お話はこの契約書にサインしてからにしてくださるかしら？」

　二人のやり取りをあ然とした表情で見つめていたクロエの面前に、カナコはばしんと紙切れを突きつけた。修復家協会〈エデン〉がヴェネチアンマスクを買い取る、といった内容が書かれた契約書だ。小難しい文章がつらつらと羅列されており、最後に大きな空欄が用意されている。

　突然突きつけられた紙切れを前に、クロエはたじろぐ。と、カナコの頭上から腕がにゅっと伸びてきて、契約書を奪い取った。

「なにするの、クロード！」

「もっと穏やかにいこう、カナちゃん。どのみち修復するところまでの目的は同じなんだ。俺たちが回収するのが先か、修復が先か。ちょっとばかし順序が逆になるだけで、大した問題じゃない」

「大した問題ですわよ！　修復したって回収できないんじゃあ元も子もないじゃない！　わたくしたちは慈善団体じゃありませんのよ！？」

　慈善団体という言葉が飛び出たところで、アダムが「それは俺も同意する」とどっちの味方なのか分からない発言を漏らす。

「えっと……善哉さん」

　ルカが遠慮がちに名を呼ぶと、カナコはぴくりと片眉を動かした。

「俺は、ただクロードおじさんに和紙の作り方を教わりたいだけなんだ。一介の、弟子として。それに、二人には修復を手伝ってもらおうなんて厚かましいことは考えてない。修復作業は道野修復工房が全部請け負う。そうすればそっちの負担も減るし、悪い話じゃないと思う」

「その子の言ってる話に、条件を付け足すわ」

　話を聞いていたニコラスが、一歩前に出てそう告げた。

「修復後、その仮面をどうするかはあんたたちが改めてこの家と交渉してちょうだい。交渉するのはカーニバルが終わった翌日以降――で、いいわね？　クロエ」

　ちらりとニコラスが隣を振り返る。真剣な顔で肩を強張らせていた少女は、はっとニコラスを見上げ、それから玄関を塞ぐように立つ訪問者に向けて、しっかりと頷いた。

「それで、よろしくお願いします」

　カナコは不機嫌そうに眉をひそめたまま、「仕方ないわね」と条件をのんだ。

「いいですわ。この男を好きに使ってくださいませ。ただし、カーニバルが終わったらしっかりお伺いに参りますわ。――行きますわよ、クロード！」

　ふんっ、とカナコは鼻息荒く踵を返す。後頭部をぽりぽり搔きながら後を追いかけたクロードだが、ふとなにかを思い出したようにこちらを振り返った。

「ルカ。ひとつ勘違いしてるようだから言っておくが」

　砂埃に汚れたブーツが踏みしめた床から、木の軋む音がした。

「俺はただのお人好しじゃないぞ。これは貸し(・・)だ。お前には貸しを作るだけの価値がある。その事を忘れるなよ」

　クロードは意味深に口角を持ち上げると、口を噤んだままのルカに背を向け、そのまま家から出ていった。

＊Ninon

　約一時間後。ルカは準備を終えたクロードと落ち合い、さっそく和紙作りに取り掛かりはじめた。

　和紙の原料に用いられる『コウゾ』という木が、マキの群生に混じって生息しているらしい。「切り出すのに男手が必要だ」という話が出たところで僅かに後ずさったアダムの肩を、ルカがすかさず掴み込む。「男手に数えるには頼りないと思う」だとか「俺は情報収集の方が得意だ」などとのたまうアダムだったが、ルカに半ば引きずられるようにして、マキの森へ連行されていった。

　再びロクスの部屋へ戻ることにしたニコラスに別れを告げて、ニノンは単身岸の向こう側へとやってきていた。

　手の空いたニノンには、現在町の店にどれくらい仮面が残っているかという調査が任された。使える仮面の数を差し引けば、ロクスが新たに作らなければならない仮面の数も、修復しなければならない仮面の数も、大幅に減らすことができる。

「まずは〈ルボワ〉ってお店か……。えーっと、噴水広場に、面する――」

　午前一〇時。市場の連なる通りが一番賑わう時間帯だ。

　ニノンは手元のメモ用紙に羅列された店の名前と、目の前に広がる町並みを交互に見比べる。真っ赤なフードを目深に被って桃色の髪を隠し、ニノンは自らに課された役割を果たすべく、仮面を扱う店々を渡り歩いた。

「――協力してくれてどうもありがとう」

「お安い御用よ。お嬢ちゃんも、カーニバルの準備がんばれよ」

　仮面の在庫調査は案外順調に進み、午後二時をまわる頃にはほぼすべての店のチェックが終了した。

　ニノンは調査リストの最後に記されたショップの店主に頭を下げて、店を出た。

　ドアに括りつけられたベルが、カラカランと乾いた音を響かせる。涼しげな音色に、ニノンは自身の肌がじんわりと汗ばんでいることに気づいた。

　忙しなく行き交う人々の熱気なのか、それとももうコルシカ島に夏の風がやってきているのか。そのどちらもだろうか。

　夏の訪れを感じて、ニノンはふと空を見上げた。

　目が痛くなるほどの鮮やかな水色に、くっきりと白い雲が浮かんでいる。

　幼いころ、画用紙に描いた空にそっくりだ。そう思ったとき、ニノンの脳裏に懐かしい光景が蘇った。

　窓のないおもちゃ箱のような部屋。ニノンはずっとそこにいて、屋敷の外に出ることは許されなかった。隣には、似たような年頃の男の子がいつもいた。ニノンは、その男の子といつも一緒に遊んでいた。

『ニノンは水色が好きなの？』

　クレヨンで画用紙に絵を描いていると、黒髪の男の子はその絵を覗き込んでぽつりと尋ねた。一面鮮やかな水色で塗りつぶされた画用紙。別に水色が好きだから塗りつぶしているわけではなく、単に空を描いているだけだった。幼い頃のニノンが描く空はいつだって快晴で、それは絵本や写真で見る景色がいつも晴れていたからだ。

『そんなことないよ？　どうして？』

　ニノンが首を傾げると、少年は苦笑しながら、ドングリのように丸まった水色のクレヨンをつまみ上げた。

『だって、水色のクレヨンだけこんなに減ってる』

『うわ、ほんとだ』

　一本だけ減りの早かった綺麗な水色のクレヨン。

　少年の苦笑する笑顔。つられてくすくす笑う、自分の楽し気な声……。

　ニノンはヴェネチアの上空に広がる青い色を見上げた。

　一色のクレヨンが水に溶け出したような鮮やかな青空が、ニノンに幼い頃の記憶を呼び戻してくれた。この島には、ニノンの記憶の扉をノックする存在が、そこかしこに散らばっている。

「――お嬢様！　お待ちください！」

　懐かしい記憶の霞に沈んでいたニノンの耳に、男の慌てた声が飛び込んできた。

　その声とともに、市場の通りがわっとざわついた。店の軒先から雛鳥のようにいくつもの顔が覗く。

　何事かと、ニノンも周囲が注目する先をじっと凝視した。こちらに向かって猛スピードで駆けてくる――小柄な青いワンピース姿の少女？

「ドロシー！？」

　ニノンは思わず弾んだ声をあげた。

「ニノン！」

「どうしたの――って、ちょ、ちょっと！」

　ドロシーはスピードを落とさずにニノンの手をがっしりと掴み、そのまま市場の通りを駆け抜けた。

　両脇の店からは、「今日はお友だちも一緒なのかい？」なんて呑気な野次が飛び交う。後ろから追いかけてくる、怒りを押し込めきれていない男の唸り声。

　ニノンはわけが分からないまま、足がもつれないように懸命に走った。

＊

「ハァ、ハァ……」

　小路地をジグザグに走ると、適当なところで運河に出た。男の声が聞こえないことを確認して、二人は運河に向かって備え付けられたベンチに腰を下ろした。

「ドロシー……いったい、なにがあったの……」

　息も絶え絶えにニノンが問う。ドロシーは真っ青なベレー帽を脱いで、汗ばんだ頭を風にさらした。

「ジルから逃げてたの」

「ジル……？」

「ジルベール。私の執事」

　ドロシーは眉尻をきりりと上げ、「お待ちください、お嬢様」「お勉強の時間です、お嬢様」と低い声で捲し立てた。どうやらジルベールという執事の真似をしているらしい。

　思わず吹き出したニノンの顔を見て、ドロシーも笑った。

「ドロシーってお嬢様だったんだね」

「言ってなかったっけ。私、ワズワース家の末娘なの。だけど、いいことなんてひとっつもないわ！　なにかあれば『危ない』だの『はしたない』だのガミガミうるさいんだもの――ニノン？」

　あまりに驚きすぎて、ニノンは目をまん丸に見開いたまま相槌を打つのも忘れてしまっていた。

「ドロシーのお家って、ワズワース家(・・・・・・)なの？」

「そうよ。あ、知ってた？」

「う、ううん。名前だけ。ドロシーがそうだとは知らなかったよ」

「まぁ、パパはこの町の市長だものね」

　ワズワース。その名を耳にしたのはつい先日のことだ。

　クロエが語ってくれたお話の中に出てきた男性――ハンドクリームを薬だと言ってプレゼントした男はドロシーの執事で、まさしく先ほどまで二人を追いかけてきた人物だったのだ。

――クロエから聞いてた話と、印象がちょっと違うかも……！

　思わぬ点と点が繋がった驚きと、印象のギャップにニノンが困惑していると、ドロシーが隣でふぅと小さなため息をついた。

「私、ニノンがちょっと羨ましいな」

「え？」

　隣を見ると、ドロシーはベンチに腰掛けながら、つまらなさそうに足をぷらぷらと揺らしている。

「ニノンは旅人でしょ。だからほら、行こうと思えばどこへだって行けるわけじゃない？　船を使えば島の外にだって……。世界はもっと広いのに、それを知っているのに、私はこの町から出られないの。勿体なくて死んじゃいそうよ。まるで大きな鳥かご(ケージ)に飼われているインコの気分」

　囚われのという意味でも、よく喋るという意味でも、彼女は小鳥によく似ている。ドロシーは思いの丈を吐き終えて、再びぞんざいにため息をついた。

「ドロシーの気持ち、私もわかるよ」

「本当？　ニノンも窮屈な思いをしていたの？　それで、どこかから逃げ出してきたの……？」

　運河を流れる手漕ぎのボート。獲れたばかりの魚を運ぶ漁師がこちらに向かって手を振っている。ニノンはゆるく手を振り返しながら「そういうわけじゃないんだけど」と言った。

「私も小さい頃、ずっと同じ部屋で過ごしてて。長いあいだ家から出られなかったんだ。そのときは、ああ私一生、このお屋敷の中で暮らすんだって思ってた」

　霞む記憶の向こう側に出てくる白い部屋。それは鳥を閉じ込めておくケージだった。ニノンは、自分がそこでずっと暮らしていたことを思い出した。

「でもそんなことなかった。だって私はいまここにいて、こうしてドロシーとお喋りしてるんだもん」

「私も行けると思う？」

　体をひねり、ぐっと顔を近づけながら、ドロシーは期待をはらんだ眼差しを向ける。ニノンが満面の笑みで頷くと、その目はさらに輝きを増した。

「そう。そうよね。人は行こうと思えばどこへだって行けるんだわ。私、こんな退屈な日常から、絶対抜け出してやるわ……！」

「えっと、あ～……」

　少し背中を押しすぎたかもしれない、とニノンは一瞬戸惑った。だが、両こぶしを握り締め、闘志――まさしく戦いに赴く前の戦士のような――を燃え上がらせているドロシーがなんだか生き生きとしていたので、ニノンは挙げかけた手をそのまま下ろした。

　それからも二人は他愛もない話で盛り上がった。ニノンが今まで旅してきた町や村の話、サーカスの話、ドロシーの退屈な毎日の話、ジルベールが一度だけ大寝坊した日の話、霧の中で出会った少年の話――。

「仮面の少年？」

「そう！　運命を感じたの。きっとあの人が私の王子様だって」

　興奮するドロシーに苦笑いを浮かべながら、ニノンは森の中で見た仮面の少年の姿を思い浮かべた。

「私、その人に会ったかも」

「えっ！　それ本当？　いつ、どこで？」

　ものすごい勢いで食いついてくる少女に気圧されながら、「数日前に……森で……」としどろもどろに答えていると、突如背後から悪霊のようなうめき声が聞こえた。

「見つけましたよ……ハァ、ハァ……お嬢様……」

「ジル！」

　ドロシーは脱兎のごとくベンチから飛び退いて、なぜかファイティングポーズをとった。対するジルベールは走り過ぎて顔を真っ赤にしつつ、不気味な笑い声をもらしている。

「うふ……ふふふ……」

「な、なによ、そんな気味悪い笑い方して」

「ふふ……。こんな茶番じみた鬼ごっこを終わらせるために、私もひとつ考えたんです」

　にじりよる男があまりにも不気味で、ニノンも思わずベンチから離れてドロシーのそばに寄る。クロエが語った男性と今目の前にいるこの男は、本当に同一人物なのか？　ニノンの疑惑は大きくなるばかりである。

「あなたのお父様に『カーニバル』の中止を申し立てます」

「ど、どうしてよ！」

「お嬢様の気分が浮つく原因だからですよ」

「そ――そんなこと」

　薄っすらと笑みをたたえながら、ジルベールは一歩、また一歩と二人の立つ河べりに近付いた。

「それに、カーニバルを中止にすれば、この町が政府にやっかまれることもなくなるでしょう。延いては娯楽だのお祭りだのと、町人が熱に浮かされ無駄ごとに手を染めるリスクだって減らせるのです」

　勝ち誇ったような笑みを浮かべるジルベール。ドロシーは唇をぎゅっと噛み締める。悔しさが喉元まで込み上げてくるのに、それを上手く言葉にできずにいるという様子だった。目の前の男が世間的に正しいことを言っていると、認めているからだろうか。

　納得がいかないのはニノンも同じだ。そしてニノンには、彼の言い分を認める義理もなかった。

「無駄ごとってなに？」

　ニノンの静かな怒りは声にのって、確かに相手に伝わったらしい。ジルベールは片眉をひそめ、怪訝そうに顔を持ち上げた。

「あなたはお嬢様の……？」

「ニノン。ドロシーの友だちだよ。ジルさんは正しいことを言ってるかもしれない。でも私にはよくわかんないよ。どうしてカーニバルが無駄ごとになるの」

「ふむ。あなたもお嬢様と同じようなことを質問なさる。無駄ごとというのは、人々が生き延びる為の『効率性』を欠く行為のことです。質素倹約を是とする発電所の意向に沿わないのがカーニバルであり――」

「だったらクロエはっ……」

　我慢しきれず、ニノンは叫んでいた。

「クロエだけじゃない、この町の雑貨屋のおじさんも、スーベニアショップのお姉さんも、花屋のお兄さんも……みんな、カーニバルを楽しみにしてるんだよ」

　仮面の在庫を探して回ったとき、ニノンは出会う人々を通じて感じたのだ。ヴェネチアの住人はカーニバルを待ち望んでいる。そして、祭りに誇りを抱いてもいるのだと。

「それこそ、心が浮ついている証拠でしょう」

「ひどいよ。毎日あなたからもらったハンドクリームを大事に使って、擦り切れるように働いて、帰ってきてからもカーニバルを成功させようと必死で……クロエのがんばりも、無駄だっていうの……」

「ハンドクリーム！？」

「あっ」

　ニノンは自身が口を滑らせたことにようやく気がつき、ぱっと手で口元を覆った。

「ち、違うの。今のは――」

「あの方はクロエと仰るのですか？　なぜあなたがそのことを？」

「え、どういうこと？　誰？　ジル、聞いてないわよ！」

「お、お嬢様には関係のない話です」

「関係なくないでしょうっ。さては、浮ついた話ね！？」

「断じてそのようなことはありません！」

　主人に喚かれて、男は年甲斐もなく顔を青くしたり赤くしたり忙しない。

　ニノンは己の失態に肩を落としたが、こうなったら仕方ないと開き直ることにした。

「クロエは仮面職人の娘なの」

「……え？」

　騒がしかった声がぴたりと止み、主人と従者は揃ってニノンを見た。

「カーニバルは今年が最後だって、クロエは言ってた。ジルさん、お願いだよ。仮面の晴れ舞台を奪うなんて言わないで」

「…………」

　痛いほど真剣な眼差しを直視できなかったのか、ジルベールは視線を逸らして「……考えます」とだけ答えた。

　心なしか落ち込んでいる様子の従者を哀れに思ったのか、ドロシーは分厚い制服の裾を引っ張った。

「ジル、私お屋敷に帰るわ。鬼ごっこして疲れちゃったし」

「左様でございますか」

　心ここにあらずといった様子で、男は主人に縄を引かれた従順な犬のごとく素直に歩き出す。

「ドロシー、ちょっと待って」

　はっとして、ニノンは咄嗟に声を掛けた。運河沿いに歩き始めていた少女は「なぁに？」と、首だけを捻って振り返った。

「ドロシーにお願いがあるの」