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コルシカの修復家  作者: さかな
6章 マスカレード・カーニバル
32/206

第30話 クロード・ゴーギャン

 祖父である道野光介(みちのこうすけ)が見知らぬ男を連れて帰ってきた日のことを、ルカは今でもよく覚えている。

 陽気な春の日差しがあたりに漂う日曜日のことだった。当時ルカは七歳で、まだ学校に通う学生だった。いつものように工房で修復作業をしていると、屋根の上からコンコン、とノックするような音が聞こえた。ルカが不思議そうに天井を見つめていると、音は次第に増えていき、やがてザアザアと雨よりも固い音に変わった。


「うわ……父さん、これ」

「んー?」


 扉を開けるとすぐに、足元にたくさんの石つぶてのような氷の塊が転がってきた。ルカはその内の一つを拾い上げると、上半身を捻って、父に見えるように氷塊を掲げてみせる。「ああ、(ひょう)だね」と間延びした声を発しながら、光太郎はゆっくりと表に顔を出した。


「空から降ってくる氷のことだよ」


 のんびりと説明する父親の横に並んで、ルカは牧場に降り注ぐ氷のつぶてを静かに眺めた。一見すると雨のようだ。だけど落ちてくるのは水じゃない。しかも春なのに、氷。

 天変地異。世界の異変のはじまり。ふとそんな単語が脳裏に過ぎって、ルカはほんの少し身震いした。放牧されていたムヴラたちはところどころに生えている大木の木陰に身を隠している。


「恐いかい? ルカ」

「なんで……ただの氷だよ」


 すごいじゃないか、なんて言いながら光太郎はふにゃりと笑ってルカの頭を撫ぜ回した。ルカは子ども扱いされていることが悔しくて、手の熱で溶けかけていた雹を、それらが降り注ぐ牧草地へとぞんざいに放り投げた。

 ルカは昔からクラスの子どもたちと一緒になってはしゃぐような子どもではなかった。一見すると冷静沈着で大人びた少年。そんな少年にも、熱意を注ぐ対象があった。だからこそ、涼しい顔をして、胸の内に煌々と熱い炎を滾らせることもあった。年相応のコンプレックス。早く大人になりたいという焦燥感を。この頃のルカは幼い自分という存在が歯がゆくて、いつも余裕綽々(しゃくしゃく)の父親に早く近づきたいと必死だった。


 再び修復作業に専念していると、今度はドンドンと扉を叩く、本物のノック音が室内に響き渡った。

 こんなに雹が降っているのに誰だろうと不思議に思いながらルカが扉を開けると、間髪入れずに男が小屋へ駆け込んできた。白髪交じりの芯太の黒髪に、いくつもの氷の粒をへばりつけて。


「――おじいちゃん!」

「良い子にしていたか、ルカ」


 しゃがれた声で「ルカ」と発した時、男は口の橋を僅かに引き上げた。それだけでルカの心は訳もなく喜びに震えた。突然の出来事に、光太郎は手に持っていた筆を床にパタンと落としてしまった。

 祖父がこの家を出て行って一年。放浪癖があるかと言えばそうでもない。しかし光介は、一年前の今日ぐらい寒い日に突然、この家からこつ然と姿を消したのだった。


「急にいなくなったから、もう帰ってこないかと思っ――」


 ふいに言葉は途切れ、語尾は千切れて空気に溶けた。ルカは目を見開いて扉の向こうを凝視した。光介の後ろに見知らぬ男が立っていたからだ。色褪せた栗の渋皮のような茶毛は無造作に伸び放題で、上下ともに黒づくめの怪しい服装。その身長は祖父をゆうに越している。


「だ……誰ですか?」


 男は気怠そうに声のした方に視線を向けた。そして、両手をポケットに突っ込んだまま頭をぶるぶると振った。途端に髪の毛にへばりついていた氷塊が辺りに弾け飛ぶ。「いたっ」とルカが小さく声を上げると、男は意地悪く笑ってみせた。


「俺の名前はクロード・ゴーギャン。お前のじーさんに師事することになった修復家だ」


 野生の狼みたいで少し恐い――それが、ルカの男に対する第一印象だった。


 *


「今までどこに行ってたんだよおじさん。俺、ずっと心配で……」


 ルカは言葉を詰まらせた。


「ちょっくら仕事でフランスの本土の方にな」

「三年も音沙汰なしってそれ、ちょっくらって言わないよ」


 ルカにしては珍しく子どもじみた顔で口先を尖らしたので、隣でやり取りを眺めていたアダムはぎょっとした。


「ルカお前、このおっさんと知り合いなわけ?」

「ねー君たちどういう繋がり?」

「おい、俺の質問に割り込んでくるなよクソ野郎!」

「あたし、女の子なんだけど?」

「揚げ足ばっかり取りやがって……このクソ女!」

「うわ、なにその暴言。クソしか単語を知らないの? 言葉選びが楽そうでなによりだわ」

「てめェ、この……!」

「またクソって言った!」

「まだ言ってねえ!」


 取っ組み合いに発展しそうな勢いで火花を散らす二人の間に割って入ったニノンは、慌てて「ストップ、ストップ!」と叫んだ。


「もう、喧嘩しないでよ。――ねぇルカ、このおじさんは誰?」

「五年間俺や父さんと一緒に工房で働いてた、クロードさんだよ。でも……」


 と、ルカはそこで一旦言葉を切って不安げな眼差しをクロードに向けた。


「三年前に、急に工房から出ていっちゃったんだ」


 その理由をルカは知らない。その話について父親は深く語ろうとはしなかった。しかし、とルカは思う。心当たりなら二つ(、、)ある。


「おじさん、聞きたいことがあるんだ」

「どうぞ。答えるとは限らんが」


 クロードはく、と口の橋を吊り上げた。ルカはそんないじわるな笑みなど素知らぬ顔で言葉を続ける。


「おじさんが工房を出ていったのはいなくなったおじいちゃんを探すため? それとも――父さんとなにかあった(・・・・・・)?」


 不安に揺らぐ青い瞳が、クロードの不敵な笑みを見つめ続ける。

 雹の降った日から五年経った春のこと。祖父・光介はまたしても姿をくらました。後を追うようにしてクロードが失踪したのは、その半年後。彼は師匠を探す旅にでも出てしまったんじゃないかと、ルカは幼心に思っていた。


 大きな嵐が来るからと、その日の学校は急遽午後から休校になった。重たい雲の下、帰宅したルカが工房のドアノブに手をかけたとき――扉の向こう側から、クロードと光太郎の言い争う声が聞こえてきた。

 分厚い木の板を通り抜けるほど大きな声だ。尋常じゃない。いつもへらへらと笑っている父親からは想像もつかない、ものすごい剣幕だった。ルカは扉の先の光景を見るのが恐くて、静かにその場から立ち去った。


 それから一週間後、クロードは光介と同じく工房を去った。



「まぁ、正直言うと一方は正解だな」

「一方って――」


 どっちのこと、と問いかけた言葉は突如響き渡った甲高い声に掻き消された。

 一同が声のした方へ振り返ると、石階段の一番上に、広場を見下ろすようにしてひとりの少女が立っていた。真っ黒いおかっぱ頭の少女は、鬼の形相でクロードを一心に睨みつけている。同じく真っ黒な瞳はやけに透明感があって、睨むとずいぶん凄みが増した。

 雪のように白い肌に、小柄な体型。笑えばきっと愛らしい容姿なのだろう。少女は眉を吊り上げたまま紫紺の袴をがっつりと鷲掴んで、ガツンガツンと石階段を駆け下りてきた。


「クロード……わたくしを使いっ走りにして、またこんな所で油売ってましたのね!」

「おう、カナちゃん。サンキュ」

「『カナちゃん』なんて馴れ馴れしく呼ばないでくださいまし!」


 怒り心頭の少女は勢いに任せて手に握っていた小箱をクロードへと投げつけた。ぺしん、と乾いた音を立てて落下した箱を拾い上げたクロードは表を眺めるとチッ、と小さく舌打ちした。


「メンソールかよ」

「どこまで厚かましい男ですの? 人がせっかく何件も回って見つけた煙草ですのに――」

「そうカッカするなよ。ハゲるぞ、カナちゃん」

「少なくともあなたより先に禿げることはありませんわ!」


 腕を振り回して殴りかかる少女の頭を上から軽々押さえつけて、クロードは余裕たっぷりに煙草の封を切った。咥えた煙草に火をつけようとエネルギー式ライターをかちかちやっている先で、遠慮がちに視線を送る青い瞳が目に入ったので、クロードは僅かに顎を引いた。


「ああ、こいつ。俺の相方だよ」


 クロードは煙草に火をつけながら少女を顎でしゃくった。


「雑な紹介しないでくださる?」


 片眉を吊り上げて男を蔑視(べっし)した後、少女はルカ達に向き直ってすまし顔を作った。微笑をたたえた少女は繊細に作られた人形の様で、やはり美しかった。


「わたくしは善哉(ぜんざい)佳那子(かなこ)。日本の由緒正しき修復一家・善哉家の跡取り娘でございますわ」

「日本の修復家?」


 ルカは驚きに目を丸くして小さくお辞儀をする少女を凝視した。確かに彼女の顔立ちは幼げで、艶めく黒髪は日本人そのものだ。それに修復家なら袴姿なのも頷ける。祖父も修復作業を行う際には、日本に伝わる古式ゆかしい衣装を身に付けていたものだ。


「わたくしをご存知なの?」


 佳那子の表情はぱっと花が咲いたように明るくなった。残念ながら共通点が多いことに少し驚いてしまっただけで、彼女と面識がある訳ではない。

 まごつくルカの裾を引っ張って、ニノンは小さく耳打ちした。


「あんまり聞かない名前だね」

「うん。まぁ。日本の苗字だから」

「ゼンザイってどういう意味?」

「え、意味……意味か。日本のお菓子だよ、たしか……甘い豆の汁に焼き餅が入ってる」

「お菓子! いいなぁ、おいしそう」


 目の前で繰り広げられる談義が癇に障ったのか、カナコは眉尻を吊り上げて唇をわななかせた。


「あ、あなたたち、小馬鹿にするのも大概にしてくださらない? 善哉家は日本有数の老舗修復家の一族で――ちょっと、クロード! 人の顔に煙を吹きかけるのは止めて! その煙の臭いが服に付くとなかなか取れないって何度も言ってるじゃない!」


 白い煙をくゆらせながら男はくっくっと喉の奥で笑った。親子ほど年の離れていそうな二人だが、どうやらカナコは年長の男に相当手を焼いているらしい。


「肺の中がスースーして冷えたみたいになるのが嫌なんだよ」と本当に不味そうに顔をしかめたクロードの靴を、カナコはあらんばかりの憎しみを込めて踏んづけた。そして、まるで言うことを聞かない飼い犬の散歩でもするように、裾をむんずと掴んで力の限り引っ張った。


「休憩はおしまい、さっさと仕事に戻りますわよ!」

「はいはい」

「返事は一回!」

「はいよー」


 大型犬は怠そうに少女の後に続いたが、ふと立ち止まり、なにかを思い出したように踵を返した。後ろで佳那子が怒りに唸る。


 クロードはルカの前までやって来ると、肺に溜まった煙を一思いに吐き出した。ルカが思わず顔をしかめると、クロードはにっと笑ってみせた。

 ふいに蘇るいつかの日の光景。丸太小屋の軒先に生えた栗の木の下で、クロードはよく煙草を吸っていた。口から白い煙を吐き出す男の後ろ姿は妙にかっこ良くて、こっそり後をつける度にルカはその煙を顔に吹きかけられては煙たさに咳き込んだものだ。

 ニノンはこんな風に、自分の記憶のページを探し当てては夢見るのだろうか。ルカは頭の奥の方で上映される映像を懐かしんだ。ニノンだけじゃない。光太郎やニコラスだって、こうやって昔を懐かしんでいるのだ。思い返すことさえできれば、記憶はいつだって鮮明に蘇るものなのかもしれない。


「ここでお前に出会えたのは、偶然じゃないと思ってる」


 数年前よりも縮まった視線の距離。この数年間で、ずっと尊敬していた兄弟子にどれだけ近づくことができただろうか、とルカは思う。胸のうちで形容しがたい感情の泉がこんこんと湧き上がり、それはルカの心をふるえさせた。


「おじさん……もう、レヴィには帰ってこないの」


 掠れた水彩絵の具のように薄い声で呟いてから、それ以上目を合わせていられなくて、ルカは視線を足元に落とした。そんなこと聞かなくたって、答えなどとうに分かっているのに。

 クロードは煙草を肺一杯に吸い込んで、吐き出した後、返答の代わりにルカに紙切れを握り込ませた。とっさに顔をあげると、そこにはいつものいたずらな笑みとは程遠い大人の男の顔があった。


「お前にその気があるのなら返事をくれ」


 どく、とルカの心臓は跳ね上がった。弟子を見る目ではない。これは、相手を対等に見ている目だ。


「俺はずっと、お前と仕事がしてみたいと思ってたんだ」


 どくどくどく。血液が駆け巡る音がいやに大きく響く。ルカは昂った感情が喉元からせり上がってくるのを抑え込むのに必死だった。そうして言葉を発せずにいるのを満足げに眺めたクロードは、今度こそ踵を返して佳那子と共に図書館の方へと歩き去って行った。


 呆然としていたベッキーは、はっと我に返るとキンキン声で何やら喚きながら二人の後を追い掛けていった。残されたのは人通りの少なくなってきた広場に佇む三人と、寂れたベンチが一つだけだった。


「嵐のようなヤツらだったな」

「うん……ニコラス、帰ってこないね」

「ウンコでもきばってんじゃねーの」

「ニコラスはウンコしないもん」

「いや、さすがにするだろ」


「そういやさぁ」とアダムに呼ばれてルカは顔をあげた。


「最後、あのおっさんと何話してたんだよ?」

「連絡先、もらったんだ」

「ふぅん?」


 自分から聞いておいて随分ぞんざいな相槌だ。


「ルカの昔話、また今度教えろよ」

「昔話ってほど長く生きてないよ」

「私も聞きたい!」

「ニノンまで……。俺はアダムの昔話の方が聞きたいけどな」

「確かに。こんなに口悪いのにどうして修道士なのかーとか」

「お前らなあ、悪口は本人がいないところで言え!」


 いつものように他愛のない話をして笑い合う様子を、ルカは視界だけで捉えていた。頭は別のことでいっぱいで、会話が耳に入ってこない。

 紙切れにチラリと見えた『修復家協会』という五文字。クロードは未だに修復家を続けている。そして、彼に勧誘されたという事実。思い出すだけで胸の内から何かがせり上がってきそうだった。

 広場はすっかり閑散とし始め、時折吹きすさぶ風は水路に荒波を引き起こしていく。ルカは紙切れが吹き飛ばされないようにそっとポケットへしまい込んだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] いきなり日本人の名前が出てきて、何でしょう、自分が日本人なのに、この物語の中の異邦人感が凄いです(笑)少しずつ少しずつ、だけど常に物語が広がっていきますね…… お父さんもこのゴーギャンも、…
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