かつて存在した村の話⑥運命の出会い
前回までのあらすじ
血で血を洗う風習「ヴェンデッタ」がおこなわれ、ダリ家の宿敵であるグロ家の老婆が殺された。「今回の争いの火種は、ダリの双子がグロ家の少女オフェリアをたぶらかしたからだ」という噂がまことしやかに流れると、ダリの長は双子にヴェンデッタを起こした罰として、彼らに三日三晩の断食を命じる。そのことを知ったオフェリアは、双子を助けるために立入禁止区域へと向かう。
オフェリアが自室の窓からこっそり家を抜け出せたのは、夜も十時を過ぎたころだった。夏至を間近に控えたこの時期は、日が暮れてからもなかなか夜の帳が下りない。おかげで、オフェリアはしばらくの間、布団の中でやきもきしながら時間を潰すはめになった。
ぼんやりとした半月が浮かぶ、うす曇りの夜。
オフェリアは慣れた足取りで、静まり返ったグロの集落をひた走る。村人たちの就寝は早く、窓から光が漏れている民家はほとんどない。それでもオフェリアは、なるべく窓から見えない道を選んで進んだ。何度も採掘場に忍び込んだ経験があるから、その足取りは慣れたものだった。
共用エリアに入り、学校の裏手からダリ家の敷地へと忍び込む。オフェリアの頭は、傷つきいたぶられる双子のことでいっぱいだった。
双子は無事だろうか。
痛い思いをしてやしないだろうか。
これまでも、彼らはことあるごとに罰の対象に定められてきたのだろうか。
そのたびに双方の家を恨んできたのだろうか。
——それなのに、ニコラスは屠殺実習で恥をかいた私を庇ったというの……。
目裏に浮かぶ、憎らしげな琥珀色の眼差し。その途端、オフェリアの胸の内に名も知らない感情が込み上がってきた。慌てて唇を噛み、やみくもに手足を動かして暗闇を駆ける。喉の奥も頬も、焼けるように熱い。心臓の音が耳元でやかましく鳴り響いている。
「あ……」
オフェリアはぴたりと足を止める。畑を隔てて遠く前方に、暗闇に溶け込むようにして、長四角の形をした木造の建物がぽつんと建っていた。これまで何度もこっそりダリの土地に侵入しているオフェリアには、それが豚小屋だとすぐにわかった。
父親の言うとおりなら、双子は見せしめとしてあそこで野晒しにされているはずだ。見張りがいるとも限らない。オフェリアは足音を忍ばせ、慎重に建物へと近づくことにした。
ふいに、空を覆うぶ厚い雲が流れ、隠れていた半月があらわになる。
弱々しい月明かりが降りそそぐ。あわい光は、入り口のそばにうずくまる背中をひとつ、ぼんやりと白く浮かび上がらせた。
少年は一糸まとわぬ姿で首に縄をかけられ、豚小屋の窓の柵に繋がれていた。
まわりにその他の人影はない。
人の気配に気付いたらしく、その人影がゆっくりと顔だけを持ち上げた。
「——ダニエラ!」
オフェリアは小声で片方の名を呼び、少年の元に駆け寄る。何も身につけていない華奢な体を抱え上げると、ひどい悪臭が鼻を刺激した。
「ニコラスは一緒じゃないの?」
尋ねながら、周囲の暗闇に目をこらした。
彼と常に行動を共にしているもう一人の姿が、見当たらない。
「にっ、かはっ……」
咳き込むダニエラの口元に、オフェリアは慌てて持ってきた水筒を当てがう。すぐにゴク、ゴクと喉のなる音が聞こえてくる。ホッとして視線を下げると、汚れた首にかかる縄が目に入った。咄嗟にその縄をほどこうと手をかけたが、ダニエラに水筒ごと払い除けられてしまった。
「兄さんは……鶏小屋の、ほう、に」
言いながら、ダニエラは人差し指を弱々しく掲げる。指先の方角に首をひねり、オフェリアは「鶏小屋?」と繰り返す。
「一緒にしておくと、罰に、ならない……からって」
オフェリアは暗闇の先に目を凝らしながら、瞬時に頭の中でダリの敷地の地図を広げた。鶏小屋なら、ここから採掘場に向かう途中にあるはずだ。ちょうど、この少年が指差す方角に。こっそり採掘場に忍び込んだ日の夜明け前、時おり鶏が寝ぼけた様子で鳴くことがあったので、よく覚えている。
「あっちね。わかったわ」
頷いて、オフェリアは再び水筒をダニエラの口元にあてがった。
「っ、僕じゃなくて」
「兄さん、でしょ。わかってる。でもまずはあなたが飲みなさいよ。お菓子もあるから、食べられるなら食べて」
「いらない。いらないから、その分を——」
「兄さんに?」
一瞬、相手が言葉に詰まる。
オフェリアはふんと鼻を鳴らして、ポケットから包み紙にくるまれたクッキーを取り出した。干し果物やくるみが入った歪な形のそれは、妹弟たちがこっそり持ってきてくれたものだった。
「そういう気遣い、あなたのお兄さんは喜ばないと思うけど」
まだ何か言いたそうな少年の口に、クッキーを一枚押し込んだ。
「っふぐ」
「あっちにもちゃんと行くわよ。私だってねえ、ニコラスを助けたいんだから……!」
勢いで言ってしまってから、オフェリアは急に気恥ずかしくなった。一瞬ぽかんとしたダニエラの顔に拍車をかけられ、誤魔化すように水筒を相手の口に突っ込む。
「第一、あんたが元気なかったら、お兄さん心配するでしょ!」
「うぐっ」
「だから今は食べて、飲むのよ!」
「ごくっ……!」
捨て身の説得が効いたのか、それからダニエラはおとなしくクッキーを咀嚼し、自ら水分を摂取するようになった。この様子なら、ニコラスが囚われている場所に向かっても問題なさそうだ。そっと立ち上がったとき、掠れた声がオフェリアを呼び止めた。
「オフェリア、ありがとう。兄さんをよろしく」
振り返ると、ぼんやりとした月光の中でダニエラがじっとこちらを見上げていた。その両の眼を見たとき、オフェリアは彼が何か狂気めいたものを抱いていることに気がついた。今まで何度となく見てきた目と同じだったからだった。ヴェンデッタによって肉親を殺害された村人が抱く、報復を誓う目。
「ダニエラ、あなた……」
もしかしたら彼は、自分たちを——兄を苦しめる同族に刃を向けようとしているのではないか。
胸に過ぎった一抹の不安を実現させまいと、オフェリアは短く息を吐いた。それから首にかかる縄をぐいと引っ張って、耳元に口を寄せる。
「明日、準備をしたらまた来るわ。そのときに、この縄を解いてあげる」
だが、ダニエラはゆるく首を振って拒否を示す。
「意味がないよ。また繋がれるだけだ」
「この村から逃げるのよ! 繋がれない場所まで、あなたたち二人で!」
唐突すぎる提案だったのか、ダニエラのぎょっとする気配がした。
「なおさら駄目だよ。大叔父が黙ってない。僕たちの逃亡に加担した人間を見つけ出すに決まってる。あの人は鋭いから、きっと君も疑われる」
「私の心配をしているの?」
今度はオフェリアが息をのむ番だった。
「君になにかあれば、兄さんが悲しむ」
「まさか。憎まれはしても、心配される覚えはないわ」
オフェリアは誤魔化すように口角を持ち上げた。
今さらそんなことを聞かされても困るのだ。困るのに、些細な言葉ひとつで両頬が熱くなるのを止められない。オフェリアは悔しくて、うれしかった。それからほんの少しだけ、自分の運命を恨んだ。この村を捨てられない、自分の運命を。
「脱走したと思われなければいいんでしょう?」
「……なんだって?」
「明日の夜、たまたまここにお腹を空かせた獣がやってくる。かわいそうな双子は、争う武器も持っていないし、逃げようにも縄に繋がれていて身動きが取れない。この世界は弱肉強食だもの。そういう事故も起こりえる」
命を落としたことにすればいい。
そうすれば、逃走の介助をした者が罪に問われることもなく、双子が村人たちに追われる心配もなくなると、オフェリアは説明した。この件について、ダリ一族が誰かを責めることはできない。自らが招いた結果なのだから。
「言ったでしょう、あなたたちをこの村から出す手伝いをするって」
「本気だったんだ」
「借りはきちんと返すわよ」
にこりと勝気な笑みを浮かべたが、暗がりでは相手に表情まで見えなかったかもしれない。
オフェリアは鶏小屋に向かいながら、頭の中で予定を整理する。明日中に双子が山を越えられるだけの荷物をまとめなければ。カモフラージュのための血液も必要だ。あのとき屠殺実習を受けていて本当によかった、とオフェリアは心の底から思った。
何もかもがうまくいく気がして、興奮していた。
だから、背後から足音が迫っていることに気付かなかったのだ。
「——っあ」
短い悲鳴とともに、オフェリアは何者かに茂みへと引きずり込まれた。
*Nicolas
「今回の件さ。双子のどっちかが、グロ家の女に手を出したらしい」
「よりによってグロ家の女って……。俺ムリ。人間に見えねーし」
「やっぱり双子の血は双子だよ」
「え? どういうこと?」
ドスン、と重たいものの落ちる音が、暗闇の中に響く。
むき出しの背中を地面に打ちつけ、ニコラスの喉から言葉にならない声が漏れた。体のあちこちがじんじんと痛む。息をするのもやっとで、すぐには起き上がれなかった。
眼前に広がるのは、星のない夜空。月を隠して淡く輝く雲。
重いまぶたを閉じると、それらもすべて見えなくなる。
「双子の母親のさ、イサベル先生。あの人も双子だろ」
「そうだっけ?」
「そうだよ。まぁ、もういないけどさ」
見張り役の青年たちの会話が、細切れになって耳に届く。
「うちの母ちゃんがこの間言ってたんだけど、あの人も昔、グロの男とそういう関係になったことがあったらしい。すでに婚約相手も決まってたのに」
「ええー、ああ……双子の血ってそういう」
「結局、二人の関係は長たちにバレて、あの人の婚約相手もグロの男も死んだんだって。死んだっていうか、殺り合ったっていうか」
「ヴェンデッタの順番、完全に無視してない? ただの人殺しじゃん」
「当時はいろいろ揉めたらしい」
「ふーん……。それにしてもすごいよ、先生。今でも平気な顔してこの村で暮らしてるんだもんな」
「母ちゃん、家ではあの人のこと『掟やぶりの女』って呼んでるよ」
パンッ——頬を張る、乾いた音が響く。痛みにうめくニコラスの腹の上に、ドスンと重たいものが圧しかかる。伸びてきた太い腕が、細くて白い首をキュッと締め上げた。
「っか……あ……ッ」
「勝手にくたばるな。ばあちゃんの受けた痛みはこんなもんじゃないぞ」
憎しみにまみれた声で吐き捨てたのは、ヴェンデッタにより先日殺された老婆の孫だった。
ニコラスが鎖で鶏小屋に繋がれ、放置されて二日。夜もすっかり更けたころ、見張り役の少年二人を引き連れてやってきたのだった。森に隠れていた月が頭上高くにのぼっても、暴力や、言葉による侮辱、それ以外の名状しがたい行為は終わらない。だが、今ここに彼が留まっている限り、ダニエラの無事は保証できる。それがニコラスにとっての救いだった。
「なんで……」
ぽた、とニコラスの頬にあたたかい雨粒が落ちた。
「ばあちゃんが殺されなきゃいけないんだよ……。もっと一緒に、居られたはずだったのに」
「…………んなの、知るか」
僕だって知りたいよ。
声にならなかった言葉が、頭の中でこだました。
その瞬間、首に掛かっていた手に、あらんかぎりの力が込められた。
「教えてやろうか! お前の、せいだろうが……!」
「っか……ッ」
力の入らない四肢をバタつかせ、ニコラスは必死にもがいた。血走った目から涙を流す少年は、タガが外れたように容赦のない力で首を絞め続ける。ニコラスの頭は徐々に真っ白になり、指先がしびれて動かなくなってゆく。
「——おい、誰か来たぞっ」
見張りの少年の声だった。小声で叫びながら彼らが駆け寄ってくると、孫の少年は大きく舌打ちをして、ニコラスの上から乱暴に退く。そうして最後に、咳き込むニコラスの丸まった背中をひと蹴りして、見張りの少年たちとともに走り去っていった。
「げほっ、ごほっ!」
立ち上がる力もなく地面に丸まっていると、足元のほうでざり、と砂を踏む音が聞こえた。
「夜分に失礼——おい君、大丈夫か?」
それは、聞いたことのない男の声だった。
ニコラスが小さなうめき声をもらすと、慌てた様子で駆け寄ってきた男に体を抱え起こされた。男はニコラスがなにも身にまとっていないことに気が付くと、すぐさまジャケットを脱ぎ、なんのためらいもなく汚れた体を包み隠した。
「あ……の……」
「うん、意識はあるな」
「ふく……」
汚れてしまう、と伝えたいのに、声がうまく出ない。
「なにがあったかわからないが、心配しなくていい。家の場所は喋れるか? 送り届けよう」
男の手がニコラスの膝下に差し込まれ、そのまま軽々と抱え上げられる。夜風がこたえる季節でもないのに、顔をあずけた胸板から感じる人肌のあたたかさが、じわりと身に沁みた。
「ちょっと、先に行かないでって言ったじゃないのよ。ベルナールさん!」
忙しない足音とともに、今度はややハスキーな女性の声が聞こえてきた。どこか聞き覚えがある声に思えた。だが、ニコラスにはそれが誰だったのか思い出せない。
「すまない、マリソルさん。騒ぎ声がしたものだから……」
「こんな夜中に? あらあ、首輪に鎖。まだこんなことやってんのか、あんのクソジジイ」
ピカッと視界が白く光り、ニコラスは再びうめいた。マリソルと呼ばれた女性は、光る端末をかざして男の腕に抱かれたままのニコラスをしげしげと観察しているようだ。が、すぐに女性のぎょっとしたような叫び声が耳をつんざいた。
「やだ、あんたニコラス!?」
「う……っ」
「私のかわいい甥っ子になんてこと……!」
——マリソル……マリソル叔母さん……母さんの、双子の妹……。
彼女は、かつてこの村から姿を消したとされる、行方不明の双子の片割れ。
なぜここに、今までどこに。聞きたいことはたくさんあったが、どうにも頭がはたらかない。たくましい腕とぬくもりに抱きしめられながら、ニコラスはまどろみの中に沈んでいった。