かつて存在した村の話④ヴェンデッタ
※動物に関して、流血を含む残酷シーンがあります。
《前回までのあらすじ》
敵対するグロ家の男・ラエルトとひと悶着を起こした翌日、ニコラスたちは授業の一環として屠殺の実習を受けることに。
去年はグロ家の生徒が一人、嘔吐したのだったか。
ガタガタと激しく揺れ動く木箱を見つめながら、ニコラスは記憶を巡らせる。
屠殺実習を受けるのが五度目のニコラスにとっては、退屈で眠たい座学とさして変わらない。けれど、初めてこの実習を受ける生徒にとってはそうもいかないのだろう。
「ココココッ、ッケコッ」
狂ったような甲高い声が、木箱の中から聞こえてくる。実習のために選ばれるのはたいていが役目を終えた採卵用の老鶏で、毎年二〜三羽ほどをここで処理する。今年の鳴き声はまだ大人しいほうだ。
ニコラスは視界の隅で、ダリ家の最年少にあたる生徒の顔を盗み見た。その表情は明らかに強張っていたが、昨年のグロほどではなさそうだった。こんなもので参っていたらこの村ではやっていけないだろうなと、ニコラスは他人事のように思う。実際、他人である。
「まずは先生が手本を示します。そのあと実践する者を指名するので、よく見ておくように」
説明もそこそこに、教師はポケットからコルシカナイフを取り出した。この村で製造されているものは、ほとんどが折りたたみ式だ。
イサベルが手に握ったナイフをひと振りすると、シュッと音を立てて刃が開いた。鋭利に研がれた刃は、下側だけがふくらんだ鯨のような形をしている。
「下側のみが大きくカーブしているのが、我が村のナイフの特徴です」
細い指先が、大きく湾曲した刃先の下部を指し示す。
「この形状のおかげで、力の弱い者でも対象へ容易に刃を突き立てることができます」
開いたままのコルシカナイフを机に置いて、イサベルはそのまま足元の木箱を机の上に持ち上げた。
「ココココケッ、コココココ!」
ガタガタと木箱がいっそう揺れる。鳴き声が甲高く激しくなる。イサベルは木箱のふたを少しだけずらし、中から一羽の老いた鶏を引っ張り出した。身の危険を悟ったかどうか定かではないが、鶏は白に茶が混じったまだら模様の羽根を激しくばたつかせている。
「視界を塞げば、生き物は一瞬だけおとなしくなります」
頭にすっぽりと革袋が被せられた途端、鶏はぴたりと動くのを止めた。まるで、剥製のように。
「その間に足を紐で縛って逆さ吊りに——」
両足を縛られた鶏が、栗の木の間に張られたロープに逆さ吊りにされる。だが革袋が取り外されると、再び激しく暴れ出した。
「頸動脈はここ。ナイフの刃を当てて——一気に手前に引く」
言い終わるか否かというところで、首筋から鮮血が勢いよく吹き出した。
教師の白い頬に、ピピッと赤い飛沫が飛ぶ。
吹き出す血潮をしばらく眺めていたかと思うと、イサベルはふいに口をひらいた。
「……人間の頸動脈は」
風が凪ぐ。
生徒たちが音もなく息を呑むのがわかった。
「ちょうど顎の付け根あたりにあります。隣り合う者同士で確かめてみなさい」
自身の首に人差し指と中指を揃えて当てがい、その場所を示してみせる。
促されるままに、生徒たちはおずおずと隣りあう者同士で首筋を探り合った。
ニコラスはダニエラの首筋に、ダニエラはニコラスの首筋に。迷うことなく触れた指先から、トク、トクトク、と命の振動が伝わってくる。ここにナイフを突き刺せば、人はあっけなく死ぬ。あまりに無防備で、間抜けな構造だ。
「人間の頭はどれくらいの重さだと思いますか。知っている人?」
手を挙げたのはラエルトだった。
見せびらかすように、あえて包帯を巻いた方の手を持ち上げている。
「体重の約一〇パーセント」
「よろしい」
イサベルは小さく頷く。
「体重六十キロの大人であれば、頭は約六キロあることになります。ですから、たとえ頸動脈に傷をつけたとしても、立った状態のままだと頭の重みで傷が塞がる恐れもあります」
「首を完全に飛ばしたほうがいいってことですか?」
今度は別のグロの生徒が尋ねた。すぐにイサベルがかぶりを振る。その背後では、いまだに鶏がバサバサと羽根をバタつかせている。鮮血がそこらじゅうに飛び散り、草原の緑色はもはや真っ赤な血の色に染まっていた。
「誰しもが行える方法ではないので、それは却下。望ましいのは今見せたような逆さ吊りですが、重量がある者の場合は、複数人で横倒しにして行うのが現実的です。傷が浅いと一命を取り留めるケースもありますから、皮膚から三センチ、ちょうど小指の先端から第一関節くらいまでは確実に刺し込むように」
まるで食材の下処理の仕方を説明するような、淡々とした声色だった。
だがこれは下処理の話でもなければ、屠殺の話でもない。
これは、人間の殺し方についてだ。
あるいは、この村に住む人間にとって必要な知識の話だ。
「“害を与えた一族”に対して、“与えられた一族”が復讐を行う、血で血を洗う報復行為——ヴェンデッタ。みなさんご存知のとおり、争いの抑止力としてこの村に古くから根付くしきたりです。この地で生きていく限り、あなたたちはそのしきたりから逃れられない」
村の中で大きないざこざや問題が起こったとき、ヴェンデッタの権利を有する家は、報復として相手の人間を一人殺すことができる。
ヴェンデッタが行使された瞬間、加害と被害の関係は逆転する。相手に与えた罰の行為が、今度はそのまま自分たちの罪になるからだ。
報復される側に反転した者たちは、相手に付け入る隙を与えないよう自ずと慎重な行動を心がけるようになる。だから、ヴェンデッタは争いの抑止力に繋がるのだといわれている。
なにが始まりだったのか、どちらが先に手を掛けたのか。
きっかけは遠い過去に埋もれて、今はただ制裁の義務のみがイタチごっこのように続いている。
「大事なのは怯まないこと。たとえ殺す間際に同情心が沸いたとしても、そんなものは捨ててしまいなさい。情けは誰も救いません。ただ相手の痛みを長引かせ、苦しめるだけです」
逆さ吊りの鶏冠から、真っ赤なしずくがぽた、ぽたと垂れ落ちる。 忙しなくバタついていた羽根はだらんと垂れ下がり、いつの間にか動かなくなっていた。
「じゃあ先生、逆に苦しめたいときは情けをかければいいんですね?」
生徒の誰もがかつて生き物だったものを見つめるなか、薄く笑いながらラエルトが尋ねた。ジョークのつもりでの発言だとしたら随分と品がない。ニコラスは心の底から軽蔑した。
「心まで悪魔に成り下がりますか、ラエルト・グロ。恥を知りなさい」
ニヤニヤ笑っていたラエルトは、途端にムスッとした。
「ふん。掟破りのクソババァが」
ぎくりとして、ニコラスもダニエラもイサベルを見やった。ぼそりと呟かれた暴言は本人の耳にも届いていただろうが、彼女は何事もなかったようにナイフに付着していた血をはぎれで拭っている。
「さて、実践に移ります」
イサベルはバインダーに目を落とし、なにかを確認するように指で紙をなぞる。よし、と小さく頷いた。指名する生徒が決まったようだ。
「オフェリア・グロ」
びく、とオフェリアの肩が揺れる。
「確かまだ一度もやったことがなかったわね。前に」
「は……はい」
腰まで伸びた癖毛を揺らしながら、オフェリアはおずおずと前に進み出る。その表情がやけに強張っていたから、ニコラスはなにか珍しいものを見たような気持ちになった。
他家の領土に堂々と侵入した挙句、他人を顎で使う肝の座った女が、緊張を?
だが同時に、先ほどの出来事が脳裏を掠めもした。ラエルトに髪を鷲掴まれ、引きずられていく少女の悲壮な表情が、目の前のそれと重なる。
(身内に怯えてる? まさかね……)
オフェリアは震える手で木箱から鶏を掴み、引っ張り出す。見ていて不安になるたどたどしさだ。そう思った矢先に鶏は暴れ出し、彼女の腕の中から転げ落ちた。
「コココココッ!」
「あっ、逃げないで……!」
狂ったように走り回る鶏。オフェリアは必死になってその後を追いかける。
どっと笑いが起こった。ダリではなく、グロの一群からだった。
「ラエルトの嫁ってほんと鈍臭いよな」
グロ家の一人がニヤニヤしながらラエルトを小突く。
(オフェリアの相手は、ラエルトだったのか……)
またしても髪を鷲掴みにされる少女の姿を思い出す。ニコラスの脳裏に、憐れという言葉が浮かんだ。
仮にもパートナーへの暴言だというのに、ラエルトがオフェリアを擁護する素振りはない。それどころか、意地悪い笑みを浮かべながら楽しそうに醜態を眺めてすらいる。
「一人じゃなんにもできないんだよ、アイツ」
「大変だなぁ。そんなトロくさいのが、よりによって加工場の責任者の後継ぎだなんてさ。もっとちゃんとした人間が後を継ぐべきだよ」
この村では親から子へ、ベルトコンベアーに乗せられた荷物のように役割や職業が引き継がれる。グロ家は加工場、ダリ家は採掘場。それぞれの責任者がもっとも重要だと考えられている。オフェリアに対する身内からの当たりの強さは、約束された将来に対するやっかみか、彼女を見下す気持ちの表れだろうか。
どちらにせよ、彼女はもうずっと肩身の狭い思いをしてきたのかもしれない。
「ま、ラエルトがいるなら大丈夫か」
「まぁな」
「コケケコココーッ!」
狂ったような鳴き声も、胸糞悪い会話までは掻き消してくれない。
ニコラスの口から無意識に舌打ちが出た。
それからオフェリアは時間をかけて鶏を捕らえ、なんとか足を縛って逆さ吊りにするところまでこぎつけた。まだナイフも握っていないのに、髪は乱れ、顔じゅうに汗をかいている。すでに満身創痍の状態だった。
彼女の手がナイフを握る。もう片方の手が布袋の端を掴む。ごくりと咽頭が上下する。手がぶるぶると震えている。
「オフェリア・グロ? 大丈夫ですか?」
「はい、あのっ……やりますから、今すぐ」
何度もナイフを握り直すオフェリアを取り巻くようにして、意地の悪い空気が漂っている。どちらからともなくクスクスと小馬鹿にした笑い声が聞こえてきた。その途端、オフェリアの頬にさっと朱が差した。
ぐっと歯を食いしばって、惨めさに耐えて。今にも泣きそうな顔で。
——気がつけば、ニコラスは盛大なため息を吐いていた。
自分でもぎょっとするくらいの大きさだった。さすがにその場の誰もがこちらを振り返った。
ニコラスはもう一度大きなため息を吐いた。
「あのさ、いつまでうだうだしてんの?」
ニコラスは頭を掻きながら前に歩み出る。心配そうにこちらを見つめる片割れが視界に入り、少し申し訳なく思いながらも、オフェリアの手からナイフを奪い取った。
「あっ……」
「ニコラス・ダリ。勝手な行動は許しません」
「だって、いつまで経っても終わらないじゃん。僕にやらせてよ」
「ニコラス・ダリ!」
教師の叱責を無視して、ニコラスは鶏の首筋に素早くナイフを走らせた。
プシッと鮮血が吹き出し、白い肌に飛び散る。その赤い斑点をオフェリアの瞳がじっと見つめていることに気付かないまま、ニコラスは三度目となるため息を気怠げにこぼした。
「今日はこれでおしまいでいいんじゃないですか? この後またダラダラ続けられても迷惑だし」
「……いいでしょう。あなたへのお説教はこの後たっぷり時間をとりますからね」
言葉の端々に棘を忍ばせながら、イサベルは目尻に飛び散った血潮を小指の背で拭った。ニコラスはうんざりとした気分で肩をすくめる。
そのとき突然、ヘーゼル色の長い癖毛がスッと目の前を横切った。
再び木箱の前に臨んだのは、オフェリアだった。
え、と思う間に、彼女は木箱から鶏を掴み出し、あっという間に逆さ吊りにしてしまった。さらに唖然とするニコラスの手からナイフを奪い取って、一瞬の躊躇いもなく筋張った首を掻っ切った。
「終わりました、先生」
整然とした声が告げた。広場がしんと静まり返る。
生徒たちのぎょっとした視線が集まるなか、血だらけの少女は教師に血の滴るナイフを手渡して、振り返りざま一瞬だけニコラスに目配せした。どこかやり遂げたような、自信を感じさせる眼差しだった。
誰にも見えないところで、ニコラスは思わず拳を握った。すぐにハッとしてその手をひらく。
相手は敵のグロ家なのに。
親しみなど湧くはずがないのに。
それなのに、いつの間にか妹の成長を見守る兄のような心境になっているなんて。
(ないない! ありえない、そんなの絶対ない、あるわけない!)
ニコラスは慌てて手のひらを太ももに擦りつけた。怪訝な表情をするダニエラ、そして小馬鹿にしたように片眉をひそめるオフェリア。そんな彼女の横顔を見つめる婚約者の眼差しは、ニコラスの胸に芽生えはじめた気持ちとは正反対の昏さを宿していた。
*
「あなたがしたことは、オフェリアが積むべきだった経験のチャンスを奪う行為なのよ」
「でも結局、あの子は自分でもやったじゃん」
「それは結果論でしょう」
粗末な四角いダイニングテーブルの上に、薄汚れた裸電球がぶら下がっている。向かいに座る母・イサベルの方を見ないようにして、ニコラスは皿の上に乗ったチキンのソテーにフォークを突き立てた。
授業で使った教材は毎年母が持ち帰り、その日の夕食になる。
母は食事に手を付けるのもそこそこに、まだ小言を垂れ流している。ニコラスはしかめっ面のままチキンを頬張った。
味は旨いが、歯が折れるかというほどの硬さだった。平然とこの肉を食べ続けるダニエラの歯が心配になる。
「——結果論でもなんでも、経験できたんだからいいでしょ。だいたい、母さんはどうしてそこまで屠殺実習にこだわるわけ? これからイヤでも殺す機会はあるんだから、別に全員が実習を体験しなくてもよくない?」
「だからよ!」
バンッ、と力強くテーブルを叩く音に、さすがのニコラスも目を見張った。
そっと顔を上げる。肩で息をする母親の頭上で、裸電球が揺れていた。
「必要以上の苦しみを相手に与えてほしくないのよ。そのためには知識も実践も必要なの。別に理解しなくてもいいわ。あなたたちはただ教えられたことを頭と手に叩き込めばいい」
「……なんだよそれ」
「兄さん」
胸の前に伸びてきた弟の手を払いのけ、ニコラスは椅子から立ち上がる。
「母さんも結局そうだ。大人はいつも勝手に僕たちに将来を押しつけるんだ」
「ニコラス!」
「今まで続けてきたってだけのどうでもいいしきたりとか、決まり事とか。もうウンザリなんだよ!」
思わず声を荒げたとき、誰かが玄関の扉をドンドンと叩く音がした。
イサベルは立ち上がり、不信な面持ちで玄関に向かった。
扉を開けると、そこには初等部の最年少にあたるダリの子どもが佇んでいた。なにか緊急の報があるらしい。
「あの、言伝です」
少年は不安そうに手をこまねき、たどたどしい口調で告げた。
「第四家の、ダリのおばあ様が殺されました」