かつて存在した村の話③ラエルト・グロ
※軽い流血表現があります
ダリの採掘場で、本来立ち入ることを禁じられているはずのグロ家の少女に遭遇したその日から、双子の生活は一変した。
もちろん、悪い意味で。
「なんで僕たちが顎で使われなきゃいけないんだ。ルールを破ったのはあっちなのに!」
乱暴な手つきで地面にランタンを置くと、ニコラスはどすんとその場に腰を下ろした。その隣に、ダニエラが静かにしゃがみ込む。
半ば脅される形で双子が青い石探しに協力することになり、はやひと月。週に一度のペースで夜明け前の採掘場にこっそり忍び込んでいる。これまでの収穫はゼロだ。
——まずはひと粒。見つけられたら、この村から逃げる方法を教えてあげる。
この場で初めて彼女と相対したあの日、オフェリアは瑠璃色の小さな石を掲げながら、見下すように微笑んだ。
そもそもが黒い石の採掘場である。青い石なんてそう簡単には見つからない。かつては一人で青い石を探していたオフェリアだって、それは痛感しているはずだ。
なのに、双子が教室に入るときに目配せで不作だったことを伝えると、彼女はこちらにだけ見えるようにこっそり片眉を吊り上げた。舌打ちの音が聞こえてきそうな態度にカチンときて、ニコラスは危うく飛び出しそうになる。そんな兄の身体をダニエラが慌てて止める。そういうことが何度もあった。
忍び込むのは今日で五度目だ。
ニコラスは釈然としない気持ちで、石くずの散らばった足場を手で均らし続けた。道具で岩場を削ると痕跡が残る。だから、こんな非効率な方法に頼らざるを得ないのだ。効率の悪さも、頭の片隅にこびりつく眠気も、すべてが苛立ちの肥やしになった。
「兄さん。首飾り、返そう」
それまで懸命に地面を弄っていたダニエラが、ふとそんなことを呟いた。
「え? 返すって、なんで急に」
「あれこそ共犯の証だよ。突き返して、縁を切ろう」
「でも、村から逃げる手助けをしてくれるって……」
「グロの手なんか借りる必要ない。僕たち二人でもやれるよ。そうだよ、あの子の手なんか借りずに」
「————いやだ」
言ってしまってからハッとしたが、もう遅い。
思わず胸元を手で押さえると、ダニエラはぎょっとしてニコラスの顔と胸元を交互に見やった。
「兄さん、まさかつけてきたの?」
「だっ……い、いや、だってふだんはつけられないし」
ニコラスは服の中に手を突っ込むと、麻紐を掴んで首飾りを引っ張り出した。丸みを帯びた小さな青い石が、オレンジ色の明かりに照らされてキラリと輝く。
グロ家もあの少女も気に入らないが、この首飾りだけは別だった。
吸いこまれそうな海の色。
美しいという感情の上澄みだけをすくいとって形にしたような装飾具。
小指の先よりも小さな青い石を眺めているだけで、ニコラスの気持ちは不思議と安らいだ。
「……首飾りだって、ずっと仕舞われっぱなしは辛い、と、思うし」
手の届かないものを憧れに留めて諦めるより、一度手にしたものを、あるいは手にしかけたものを手放す方が、きっとずっと難しい。
片割れは、兄が共犯の印を突き返さない理由に正しく思い至ったらしい。諦めたように小さく肩をすくめると、それ以上の言及を避け、再び石ころの選別をはじめた。
「あ」
小さな声がしたのはそのすぐ後のことだった。
ニコラスが声のした方に視線をやると、ダニエラが何かを摘み上げ、ランタンの明かりにかざしていた。
それは黒に似て非なる、水底から見上げた深い深い海の色だった。
「あった、青い石」
*
その日の朝、双子は少しだけ早く登校した。そして、やってきたオフェリアの腕を掴み、建物の裏手に引っ張り込んだ。
「離してよ! なんのつもり!?」
「しーっ。静かに」
暴れるオフェリアの口を片手で塞いだニコラスは、もう片方の手の人差し指を立て、自身の唇に当てた。
「ダリと喋ってるところなんて、見られない方がいいんじゃない?」
口を塞がれたまま、オフェリアは不服そうに腕組をする。が、ニコラスがポケットから角ばった小さな石ころを取り出した途端、半眼だった灰黄緑色の瞳は一気に期待を帯びて輝いた。
口を開放してやり、石ころをぽいっと乱暴に投げ渡すと、オフェリアは慌てて受け取った。そしてとても長い間、指先で摘まんだそれをじっくりと眺めまわした。
「驚いたわ。まさか本当に見つけてくるなんて」
「すごいでしょ。弟の手柄だよ」
ニコラスが自慢げに胸を張ると、ダニエラはふいとそっぽを向いてしまう。
あれは照れている仕草だと、ニコラスにだけはわかる。
「すごいわ、本当に。だってこんな短期間で見つけられるものじゃないもの」
「……別に、偶然目に入っただけなので」
オフェリアがキラキラした目を向けた途端、ダニエラはボソボソと冷めた声で呟いた。その横顔は、いつもの無表情に戻っている。
弟はいつもこうだ。
ニコラスや母以外の他人に対して笑顔をほとんど見せないし、自分から喋りかけることもない。人見知りとは少し違う。興味がないという感じなのだ。
「で。僕たちに協力してくれるって話は?」
ニコラスが本題を切り出すと、オフェリアはきょとんとした。
「村、から、出る、方、法!」
「あ、ああっ!」
ぽんと手を合わせるオフェリアを、ニコラスは胡乱な目つきで睨む。
「まさか、騙したわけじゃないよね?」
「そんな卑怯なことするはずないじゃない」
「へぇ、そうかい」
さんざん卑怯な手を使った人間が吐く台詞ではない。ニコラスは半眼になり、無言で先を促す。
「村から出るのに役立つ地図を見つけたのよ。加工場の事務所で」
「げえ。また忍び込んだの?」
「だから、いずれ私のものになるんだってば」
「そういう問題じゃないでしょ」
じとりと睨みつけるニコラスに物怖じもせず、オフェリアは飄々と続ける。
「その地図には、この村から一番近い〈コルテ〉って町まで線が引かれてる。おそらく、私たちの祖先がこの村にやってきたときに利用したルートね」
「ふーん、なるほど。……ちょっと待って。村から出る手助けって、まさかその大昔の地図一枚ぽっちってこと?」
「そうよ?」
オフェリアは大まじめに小首を傾げる。
「この村のまわりには獣道しかないんだから、過去に人が通った道を行くのが一番安全でしょう?」
ニコラスは深く溜め息を吐き、こめかみを指で揉んだ。ちらりと隣に目をやると、ダニエラはこうなることが最初からわかっていたような顔をして黙りこくっている。
自分たちとほとんど年齢の変わらない少女に、夢のような秘策など用意できるはずもない。仮に自力で山を越えられたとして、そこからどうやって生きていけばいいのか。事情を知らない大人に捕まって村に戻されでもしたら、今以上に肩身の狭い思いをすることは明白だ。
冷静に考えればわかることだった。なのに、ニコラスはどこか魔法のような方法でこの閉塞的な場所から抜け出せると期待していたのだ。過信してしまうほど、目の前の少女は堂々としていたから。
「結局、地図の写しはいるの? いらないの?」
「いるよ!」
「逆ギレしないでよ!」
逆ギレ返しをかましつつ、オフェリアはおもむろに白い手を差し出した。今さら握手かよ、とニコラスも渋々手を差し出したが、彼女はスッと手を引っ込めてしまった。
「もう、なんなんだよっ」
「手間賃。そうね……青い石をあと二粒」
「はぁ!? まだ続ける気!?」
「安いもんでしょ? 村を出る気持ちが本物なら」
「くっ……このっ、足元見やがって!」
「兄さん、行こう。授業が始まる」
振り上げた握り拳をダニエラに降ろされ、そのままずるずると腕を引かれる。ニコラスは未練がましく後ろを振り返りながら、「覚えてろよ、オフェリア・グロ」と呪詛めいた捨て台詞を吐いた。
そんな調子で歩いていたせいで前方に人がいることに気付かず、誰かと盛大にぶつかった。
「ってぇ……」
はっとして顔を上げると、そこには双子より二回りは体格のいい少年が立っていた。
「オフェリアが、なんだって?」
「……ラエルト・グロ……!」
先日、教室でニコラスに因縁をつけてきた男子生徒だった。背後に昇った太陽が、彼の表情に影を落としている。
事あるごとに双子に、とりわけニコラスに突っかかってくるのがラエルトという男だった。
普段のように喧嘩を売りたいだけでここにいるなら、買うだけでいい。けれど、もし三人で密会しているところを見られていたとしたら?
オフェリアと繋がっているのがバレるのはまずい。
ニコラスは反射的に挑発的な目を向けた。
「あのさ。おたくのところのお嬢さん、通りざまにぶつかったのに謝罪もなしなんだけど? ちゃんと教育してんの——うっわ」
「兄さん!」
言葉の途中で胸ぐらを掴まれ、身体ごと持ち上げられる。足先が浮き、自身の体重によって首が締まる。
「ぐっ、う……」
「随分楽しそうな声が聞こえた気がしたんだが、オレの聞き間違いか?」
ニコラスはオフェリアの肩がびくりと跳ねるのが見えた。怯えているのか、その顔はすっかり血の気を失っている。
「楽しそう? ……アハ、そりゃ完全に……聞き間違いだね……! グロと、楽しく話せる、わけないだろっ……ぐぅッ!」
胸ぐらを掴む腕がさらに高く持ち上がり、首に襟が食い込む。その瞬間だった。
「がぁッ!」
獣のような雄叫びとともに、ニコラスは地面に放り出された。
何が起こったのかと視線を前方にやると、二つの影が絡まり、取っ組み合っているのが見えた。
白い肌に真っ赤な血が滴っている。
ラエルトの太い腕だ。
ダニエラが相手の二の腕に思いきり噛みついたようだった。ダニエラ、と叫ぼうとしたが、ニコラスは咳き込むことしかできなかった。
「畜生、ダリめ……イカれてやがる!」
ラエルトは噛み付いたままのダニエラを必死で振り払うと、負傷した二の腕を押さえてその場にうずくまった。
鮮血がボタボタッと地面に落ちる。
「クソ野郎がァ……!」
口のまわりを血だらけにしたダニエラが、冷めた表情で相手を見下ろしている。
「汚れた手で兄さんに触れるな」
氷のように冷たい声音で吐き捨てると、ダニエラはプッ、と口の中に入った血を吐き出した。
「悪魔の双子め、大叔母に報告してやる! ただじゃ済まさないからな——おいオフェリア! なにボサっとしてる、手当ての準備をしろ!」
「はっ、はい。ごめんなさい……っ」
ラエルトはオフェリアの長い髪を鷲掴み、引きずるようにしてその場から立ち去った。
残された双子はしばらく呆然としていた。
しばらくするとダニエラは目が覚めたというようにハッとして、やがてガタガタと震えはじめた。
「兄さん……ごめん、僕、また……」
「ダニエラ、大丈夫だ」
「はっ、はっ……どうしよう……兄さんにまた、迷惑をかける……!」
「大丈夫、大丈夫だから」
異常に震える弟の身体を、ニコラスはこれ以上ない力できつく抱きしめる。
「僕のためにしてくれたんだろ。ありがとうな」
「っふ、ぅぐ……うああ……!」
大粒の涙がダニエラの頬を伝い、口元の鮮血を滲ませる。ニコラスは己の手が汚れるのも厭わず、弟を穢す涙と血の入り混じったものを拭い続けた。
*
翌日の授業は、平屋の教室ではなく近場の空き地で行われた。
村の学校では、読み書きや歴史といった基礎的な教養の他に、生きていくために必要な知識も学ぶ。今回の実習はまさに後者にあたる。
子どもたちは半円を描くようにして並び立ち、その向かいで教師イサベル・ダリは点呼を取っていた。
ラエルトは腕に巻かれた包帯を見せびらかすように、片袖を捲っていた。全員が上下ともに黒い長袖の衣服を着用しているから、包帯の白さは余計に目立つ。
ラエルトは、ニコラスと目が合うと聞こえるように舌打ちした。周囲にニヤニヤといやらしい笑みが広がる。最高に居心地の悪い空気だった。グロ家の中でただひとり、オフェリアだけが蒼白な顔をしていた。
「今日行うのは、屠殺の実習です」
点呼を終えたイサベルは、生徒に向き直り、普段どおりの口調で告げた。
目の前には簡素な木製机がひとつ。その上には古びた革袋とぼろきれが数枚束ねられている。机の足元には、大きな木箱がひとつ置かれていた。