かつて存在した村の話②遭遇
その夜、ニコラスはなかなか寝つけなかった。
寝不足だと怒られるのも癪だったので、なんとか眠ろうと試みたが駄目だった。浅い眠りを繰り返した後、とうとう夜明け前にベッドを抜け出した。
「ニコラス……兄さん?」
ぎくりとして振り返ると、ダニエラがベットの上で身を起こしてこちらを見ていた。なるべく音を立てずに着替えを済ませたはずが、片割れをすっかり起こしてしまったらしい。ニコラスはばつが悪くなり、頭を掻いた。
「あー、ちょっと散歩」
「……こんな時間に?」
ダニエラは部屋の窓に視線をやった。
カーテンの隙間から覗く窓の向こうは、まだ暗い。
「ダニエラはまだ寝ときな」
ニコラスは肩をすくめて、幼い子どもをあやすように言った。しかし、ダニエラは「僕も行く」と言って聞かなかった。
結局二人は、鶏舎ですら静けさに包まれた時間帯にこっそり家を抜け出した。
だが、歩くだけというのも味気ない。ということで、今日の昼過ぎに採取する予定だった夕飯用のハーブを前もって摂りにいくことにしたのだった。
帰ってくるころには、鶏も卵を産んでいるだろう。朝食の材料を手に、何食わぬ顔をして家に戻ればいい。
夜明け前。
外の世界は、ほの暗い青藍色に沈んでいた。
頬や手足に触れる空気はひんやりと冷たい。
「ダニエラ」
片割れの名を、なんとはなしに呼んでみた。
すぐに隣で気配が揺れて、「ん?」と聞き返す声が返ってくる。
「このあいだ、母さんと大叔父さんが話してるのを聞いちゃったんだけどさ」
空に浮かぶ青白い月の下を、ふたつの影が並んで歩く。
「僕の相手、決まったって。母さんの三番目の従兄弟叔母の、二番目の子」
「そう……まだ小さいね」
「ああ。顔もあんまり覚えてない。まだ先の話だけどね」
ニコラスは歩きながら、足元に転がっていた大きめの石ころを蹴飛ばした。
この村では、決まった年になると同じ姓の中で最も血が離れている者同士が婚姻関係を結ぶ。ニコラスとダニエラは双子だが、兄という名目上、先にニコラスの相手が決まったのだった。
「自分が家族つくって、大人になってって、なんか全然想像つかない」
「うん、僕も」
「な」
石ころを蹴って、転がった先までゆっくり歩いていって、また蹴飛ばす。
「あーあ。いつかでっかい嵐がやってきて、村をめちゃくちゃに壊してくれないかな。そしたら、僕たちだけで逃げ出してやるのに」
石ころが道を逸れて、ダニエラの歩く方向に転がっていく。
ダニエラはそこまで歩いたところで一瞬立ち止まり、力強くそれを蹴り飛ばした。石ころは草むらに飛びこんで、どこにあるのかわからなくなった。
「僕は……僕も、家族は、兄さんと母さんだけでいいかな」
「な」
それから双子はしばらくの間、無言で歩き続けた。
二人分の足音以外、なにも音のするものはなかった。
この世界に二人だけだったらいいのに。
二人だけで生きていけたらいいのに。
ニコラスは月明かりの落とす影に祈った。
そうしたら息苦しさや苛立ちも、きっと全部なくなるのに。
双子は明かりが消えた置き物のような家々を通り過ぎ、植えたばかりのトマトの苗が並ぶ畑や、静まり返った家畜小屋を超えて——途中、やっかんできた連中が管理している小屋があったので、ドアに土を投げて汚してやった——マキの森までやってきた。マキとは、コルシカ島に自生する低木林の総称である。
マキの森は、ダリ姓の村人の居住区域・通称〈ダリ領〉と呼ばれるエリアの最東端に位置している。
村人たちがこの森を訪れる目的のほとんどは、栗の実やハーブの採取か、狩猟だ。それともう一つ重要なのが、この村の特産品——コルシカナイフの原料となる鉱石の採掘だった。
その鉱石は、月のない夜空をぎゅっと集めたように真っ黒で、傾けると表面が鈍色に輝いた。それを村の加工職人が削り、ピカピカになるまで磨き上げたものがコルシカナイフだ。村で作ったものは切れ味がよく見目も美しいからと、どこの市場でかは知らないが高値で取り引きされているようだ。
“金の成る木”といっても過言ではない不思議な鉱石は、ダリ領の森を分け入ったところにある洞穴でのみ採れる。
ニコラスたちの目当てのハーブは、その洞穴のすぐそばに群生していた。
「暗いから気をつけて」
「ん、うん」
背中越しに注意を促しつつ、ニコラスは自身もぼこぼことした木の根に足を取られないよう、慎重に歩を進めた。進めながら、後先考えずに行動しなければよかった、と後悔もしていた。
なにしろ、明かりになるものを何ひとつ持ってきていないのだ。明るい満月が浮かぶ日じゃなければ、歩くのは困難だっただろう。
やっぱり家に帰ろうか——と、ニコラスが踵を返しかけたときだった。
ふと、遠くのほうに砂粒ほどのかすかな光が見えた。
ニコラスはぴたりと動きを止め、振り返る。そして、無言のまま人差し指を自分の唇に押し当てた。
ダニエラも兄の意図することがわかったようで、声を出さずに小さく頷いた。
そうして二人は、音を立てないよう静かに光のほうへと近付いていき、近くにあった大きな木の幹へと身を隠した。
(こんな時間に、いったい誰だ……?)
マキの森でハーブ採取や狩猟をするときは、巡回警備も兼ねるものだ。相手の家が境界線を踏み越えていないか、ましてや窃盗などはたらいてはいないか。
厳しく目を光らせる習慣は、ニコラスの身体にも染み付いていた。
双子は木の陰からそっと顔を出し、あたりの様子をうかがい見る。
薄暗い視界の中で、ニコラスの目はぼんやりとしたランタンを提げたひとつの人影を捉えた。その人影は、周囲を気にするようにきょろきょろとあたりを見回してから、サッと洞穴の中に入っていった。
「きっとグロ家のやつだ。追いかけよう」
意気込むニコラスの服の裾を、ダニエラの手が咄嗟に掴む。
「追いかけるって、でも、丸腰なのに?」
「顔を見るだけさ。証拠を掴んで報告すれば、あとは大人たちがどうにかするよ」
「でも兄さ——」
ダニエラがなにか言うよりも先に、ニコラスは駆け出していた。観念したように、ダニエラも後を追いかけてくる。
洞穴の入り口にこっそり忍び寄ると、双子は背ばいになって耳をすませた。なにか硬いもの同士がぶつかるようなカンカンといった音、あるいは石を転がしているような、ガラガラといった音が聞こえてくる。
間違いない。何者かが鉱石を盗もうとしているのだ。
否、何者かではない。グロ家だ。
ニコラスとダニエラは半身を捻り、入り口のふちから洞穴の中を覗き込んだ。
オレンジ色の光が、岩肌をあわく照らしている。
天井にまで伸びる影が、ゆらゆらと頼りなく揺れていた。
そこにいたのは、双子と同じくらいの年頃の子どもだった。こちらに背を向けてしゃがみ込んだ盗っ人は、ゆるく波打つ長い髪が地面を擦るのも気にせずに、必死になって石ころを掻き集めている。
人目につかない時間帯を選んで犯行に及んでいること、子どもを使っていること。そのどれもに苛立ちを覚え、ニコラスはたまらず飛び出した。
「おい!」
盗っ人はひどく驚いて飛び上がり、「ごめんなさい、ごめんなさい!」と呻いて駆け出した。しかしニコラスは決して逃がすまいと、少女の体を地面に押さえつけた。少女は手で顔を隠し、ひたすら謝罪の言葉を唱えている。
「ここで何をしてる?」
「ごっ、ごめんなさ……」
「何を盗もうとした?」
「ごめんなさい、許して、許して……っ」
「——僕の声を聞け、オフェリア・グロ!」
ニコラスが名を呼ぶと、少女はびくりと身を震わせた。
彼女のことは、ニコラスもダニエラも知っていた。同じ初等部で、双子よりもひとつ年下だったはずだ。毎日教室で顔を合わせるが、話したことはない。
「ねらいは鉱石か? ここに忍び込んだのは初めてか?」
矢継ぎ早に問うてみても、少女は顔を隠しながら嗚咽を漏らすばかりだ。
しばらくその哀れな姿を眺めているうちに、ニコラスの中になぜか同情めいた気持ちが湧いてきた。ため息を吐いてから、掴んでいた腕をそっと放し、彼女から静かに離れる。
ダニエラに支え起こさた少女は、しばらく膝に顔をうずめるようにして泣いていた。
「ここは立入禁止区域だって知ってるよね」
ニコラスは哀れな少女を見下ろし、少しだけやわらかい口調で問いかけた。
「どうして忍び込んだの? 大人たちに命令されたから?」
ややあって、ブリュネットの長い髪にうずもれたところから、「ちがう」とかすれた声がした。
少女の足元には、大小さまざまな黒い石の塊が転がっている。ランタンの明かりに照らされて、それは鈍い輝きを放った。
「私が勝手にやったの。グロ家は関係ない」
「じゃあ、どうして」
少女はおもむろに顔を上げた。
そばかすの散った頬は涙で濡れていた。けれどその眼差しは、思ったよりもずっと力強かった。先ほど動揺していた姿とはまるで別人だ。もしかしたら、演技だったのかもしれない。
「…………アクセサリー」
「え?」
あまりに唐突な言葉だったから、ニコラスはうっかり問い返してしまった。
「アクセサリーを作りたかったの」
「ア、ク、セサリー?」
「これ、見て。黒色の鉱石に混じって、青いのがあるでしょ」
少女——オフェリアは、散らばった鉱石を両手でざらざらと均していく。その中から一粒だけを摘まみ取り、手のひらに乗せる。地面に置いてあったランタンをサッと持ち上げ、手のひらに近づけると、小さな石ころは確かに青い色をしていた。
それも、吸いこまれそうなほど美しい夜空の色、あるいはどこまでも澄んだ、深い深い海の色だ。
「本当だ……。とても……、綺麗だね」
無意識に言葉が口をついて出る。
少女はふっと顔を上げ、まっすぐにニコラスを見つめた。
「素敵よね。集めたくなるでしょ?」
「うん——いや、だからって勝手に入ってきていいわけじゃないから」
「いま、『うん』っていったくせに」
オフェリアは得意げに笑うと、裾の長い衣服のポケットから似たような小石をいくつも取り出した。手のひらの上に乗せられた小石は大小さまざまだったが、どれも青い色をしていて、不自然に丸みを帯びていた。
「尖ったままだと痛いし不格好だから、削って磨いたの」
「君が?」
「そう」
糸を通すための孔もあけてある、と言いながら、オフェリアはポケットをごそごそと漁る。やがて麻ひもを取り出すと、青い石の小さな穴にひもを通しはじめた。それから自身の首回りを使って糸の長さを測り、手近にあった鋭利な鉱石で糸を切って、結ぶ。
「……まさかとは思うけど、加工場にも忍び込んだの?」
呆れ返る双子の声を聞いても、オフェリアは顔を上げもしない。
「そう。っていうか、私の父は加工場の共同責任者よ」
「でも勝手に入って道具を使ったんでしょ?」
「いいじゃない。いずれ私のものになるんだから」
「うわぁ。君ってさ、かなり図太いよね」
ニコラスは嫌味たっぷりに吐き捨てる。
「に、兄さん。言い方が……」
「だってそうだろ、ダニエラ。目の前にダリがいるのに、逃げもしないで堂々と工作なんかしてる。開き直ってんの? もしくは僕たちのこと、舐めてるとか?」
「安心してるのよ。ちゃんと質問には答えたんだから、見逃してくれるんでしょ?」
少女は顔を上げないまま、ふてぶてしく言い放つ。
途端に、ニコラスの口の端がぴくぴくと痙攣した。
「あー、答えたら見逃すなんて一言も約束してないんだけど?」
「じゃあいま約束して。私のこと密告しないって」
「は? イヤだよ。だってこっちになんのメリットもないじゃん」
ふーん、とオフェリアは冷めた相槌を打ってから、ちらりとニコラスを仰ぎ見た。
「こんな時間に森の中をウロついてるってバレるけど、いいの?」
困るには困る。が、別にやましいことをしてるわけじゃない。寝付けなかったから、と弁明すれば済む話だ。
「もしそっちの長の前に突き出されたら、私、『あなたたちにここまで連れ込まれた』って言うかも」
「そんな嘘っぱち、誰が信じるか」
「そう?」
オフェリアは余裕たっぷりに笑う。
「グロ家もダリ家も、たぶん私を信じるんじゃない? だって、双子の肩なんて持ちたくないもの」
脅されている。突きつけられた言葉の意味を理解した途端、ニコラスはカッと頭に血がのぼるのを感じた。
「いいよ、だったら嘘でもなんでも吐けばいい。今すぐ大叔父さんのところに突き出してやる!」
「兄さんっ、落ち着いて!」
ニコラスがダニエラに押さえつけられている間に、オフェリアは双子の首にポイポイッと何かを掛けてよこした。
「なに——」
「あげるわ」
「は!?」
「口止め料」
ぎょっとしてニコラスとダニエラは自身の首元を見下ろした。胸元には、ランタンの明かりを受けて輝く青い石がひと粒。今しがた少女が作ったばかりの首飾りだった。
ニコラスはバッと顔を上げ、目の前の少女を睨みつける。
オフェリアは口元を持ち上げ、得意げな顔をしていた。
「綺麗なものを作るのが好きなの。部屋のひきだしには試作品がもっといっぱい入ってる。あ、そっちの領で調達した材料はこの青い石だけだから、安心してね」
「そんなの当たり前だろ!」
叱責が耳に響いたのか、オフェリアの眉間にしわが寄る。
「私も危ない橋を渡りたいわけじゃない。だから、これからはあなたたち双子が青い石を調達してくれない?」
「っ、この期に及んでまだそんなこと——!」
少女の人差し指がニコラスの唇を塞ぎ、言葉が遮られる。
ランタンのオレンジ色の明かりに照らされた双眸が、双子の顔を交互に見やった。
「その代わり、私はあなたたちの手助けをしてあげる。この村から出ていきたいんでしょ?」