かつて存在した村の話①双子のダリ
双子のダリが過ごした故郷の話。
「コルシカ島の中央に位置する町・コルテから北西の方向に、急峻な山々が真一文字に連なった山岳地帯がある。そのほとんどは標高二五〇〇メートルを越え、おおよその植物が根を張ることを諦めた、険しい岩山である。なかでも島の最高峰とされるチントゥ山は、実に二七一〇メートルもの標高をほこり——」
村の中央に建てられた平屋の一室。
少年特有の高い声が、教科書の一節を読み上げる。
教科書といっても、国が支給するような立派なものではない。何人もの手に渡って手垢だらけになった、手作りの小冊子のようなものだ。もともと子ども用に作られていないから、言葉選びも小難しい。そのため、音読の合間によく教師の注釈が入った。それでも幼い子どもには理解しづらいだろう。
「一七六九年、わたしたちの先祖は当時のショードロン商会・会長の命により、件の山峡に遺された先住民の村跡に移住した。この地域一帯に有益な資源が埋没されていることから、占守の命が下ったためである。ほぼ同時期に勃発したコルシカ独立戦争は、約四〇年に渡ってコルテの町を中心に繰り広げられるが、さいわいにして、この地に戦火が及ぶことはなかった」
「よろしい、そこまで」
くせ毛の茶髪をサイドでひとつにまとめた、派手な顔立ちの女性教師が告げる。ニコラスはひと息ついて、前方に目を向けた。
教室に集められた子どもたちは、薄汚い長机に二名ずつ座り、皆熱心に話を聞いたりノートを取ったりしている。
このクラスは全員で八名いて、年齢は六歳から十一歳とバラバラだ。教師は村に一人しかいない。そういうわけで、午前中に初等部が、午後に中等部が交代で授業を受ける。
「コルテからほど近いこの村に戦火が及ばなかったのは、ひとえに自然が作り出した要塞のおかげと言えるでしょう。岩山に囲まれた地にあって、ここは奇跡的に植物が生い茂り、自給自足が可能でした。自給自足というのは、自分たちで野菜や家畜を育て、食べることで——」
村の歴史について、再び女性教師の解説がはじまる。
隔離されたコミュニティの中で生きていくために、村人は各々が役割を担っていること。農畜産業者、役場の職員、教師、医療者、村で出土する特殊な鉱石をもとにしたコルシカナイフの加工業者などなど。誰かが亡くなったら、各々の職業は次世代に引き継がれること。
習わずともこの村で暮らしていれば知っているような内容ばかりが続き、ニコラスは鼻から息を吐いた。
何百年も昔からこの土地を守ってきたのだと大人たちは胸を張って語る。その誇らしげな声を聞くたび、ニコラスは未来へ向けた視界がぎゅっとすぼまるのを感じた。
与えられた役割をこなして、村の外に出ることなく一生を終える。
まるで、版画刷りのような人生だと思う。
ニコラスはもうずっと、この村の閉塞的な空気を好きになれずにいる。
ふと隣に視線をやれば、双子の弟・ダニエラの真剣な横顔が目に入った。生まれたときから癖毛がちなニコラスと違って、弟の毛は見事なほどにストレートで美しい。ダニエラは真面目な表情でもくもくと教師の解説に耳を傾けている。
(よく飽きないな……)
ニコラスは半眼になって片割れを眺めつつ、喉の奥で欠伸を噛みしめた。はずだったのだが、くぁっと大きく口を開けていたようだ。反対側の机に座っている体格のいい男子生徒が「チッ」と舌打ちをした。
ニコラスよりもひとつ年上の、グロ姓の生徒だ。
舌打ちが聞こえた方をすばやく振り返り、ニコラスは相手を睨み返した。
「なに?」
「不真面目なやつを見ると舌打ちが出ちまうんだよ」
「は? ちゃんと聞いてるんだけど。そっちこそ、コソコソ盗み見してないで真面目に授業受ければ?」
「先生ー、ニコラス・ダリのせいで集中できません」
男子生徒はニコラスの反論を無視し、堂々と片手を上げた。女性教師——あるいは双子の母親——イサベル・ダリはため息を吐いて、指でこめかみを揉む。
「寝不足のようね、ニコラス。顔を洗ってきてもいいわよ」
「寝不足だって?」
ふ、と思わず嘲笑が漏れてしまう。
「夜更かしするほどやりたいことなんて、この村にはひとつもないよ」
「ニコラス・ダリ、口を慎みなさい」
隣の机で、大柄な男子生徒が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「あなたもよ、ラエルト・グロ。行動を慎みなさい」
「はい、ダリ先生」
ラエルトと呼ばれた少年は、叱責を受けてなお悪びれる様子もなく、肩をすくめただけだった。
ギスギスした空気に、イサベルのため息がひとつ落とされる。そして彼女の目は八人の子どもたちを順に見渡した。
「この地には莫大な価値がある。来たるべき約束の日までこの地を守るよう課せられたのが、わたしたちダリ家とグロ家です。目的は同じなのだから、本来いがみ合うこともないはず。なのに、」
「——そんなの、無理ですよ」
言葉の途中で、誰かがぼそりと呟いた。
教室の空気が一瞬にして静まり返る。
口にしなかった者も、誰しもが同じことを思っていただろう。
チントゥ山の山峡にある、名前のない村。
総人口、九十八名。
存在する苗字はダリ、グロのたった二つ。
両家が手を携えることは決してないし、その血が混じり合うこともない。
たとえ同じ土地に縛りつけられた者同士であろうとも。
「過去がそうでも未来がそうとは限らないでしょう。いいですか、この土地が両家に託されたものであるということ、その意味を今一度考えるべきです」
念を押すように教師が言うと、子どもたちの視線は教室の中心を境にして互いを見やるように交わされた。まるで、透明の壁を隔てて二組のグループが対立しているような。そんな張り詰めた空気が、教室内を満たしていた。
*
授業が終わると、ニコラスは片割れと連れ立って早々に教室を出た。
声をかけるべきか迷っているのだろう、隣からそわそわとした気配が伝わってくる。ニコラスは少しだけ自身の頭の芯が冷えるのを感じた。
「ニコ——」
「ダニエラ。ごめん、空気悪くしちゃったよな」
「そんなの、気にしてないよ……」
心配性の双子の弟は、やや眉尻を下げつつも、控えめに首を横に振った。
「グロが突っかかってくるのはいつものことだから」
「まぁね」
仲が悪い。そんな言葉で括りつけられるほど単純な関係ではないが、有体に言えば、ダリ家とグロ家は仲が悪い。それはニコラスたちに限った話ではない。代々伝わるとある制約のせいで、先代も、先々代も、そのずっと前からそうだった。
どれくらい不仲かというと、村の土地に綿密な線引きがされていて、一方が他方の土地を踏むことを固く禁じるほどである。こんなにせまい村なのに、両家が顔を合わせるのは『共有区域』と呼ばれる場所に限られていた。
共有区域には、学校や役場や診療所といった、両家が利用せざるを得ない施設が集まっている。だから、学校では両家によるいざこざが頻発する。大人たちでさえピリついた空気を隠さない者もいた。
今さら手を取り合って仲良くしようだなんて虫のいい話は、この村に部外者が訪れるくらいあり得ない話なのだ。
「母さんもあんな炊きつけるようなこと、わざわざ言わなくてもいいのに」
「それでこの間も、大叔父さんにすごく叱られてたよね。今回のことも、誰かが報告しなきゃいいけど……」
ダニエラの心配をよそに、「まぁ無理だろうな」とニコラスは嘆息する。
この村に『両家は仲良くするべきだ』なんて声を挙げる人間は一人しかいない。対して賛同者はゼロだ。双子の母親が村で異端者扱いされるのも仕方がないことなのだった。
「ただでさえ周囲から嫌われてるのにさ。母さん、その自覚ないんじゃないの?」
「うん。心配だよね」
「は? 別に心配してるわけじゃ……」
「おい、ニコラス・ダリ」
突然、向かいから歩いてきた集団に荒々しく声をかけられた。
ニコラスは立ち止まると、ダニエラを自身の背後にやって、近付いてくる集団を静かに睨みつけた。午後の授業を受けにやってきた中等部の生徒たちだ。
厄介なのは、彼らがグロ姓ではなく、仲間であるはずのダリ姓だということだ。
「聞いたぞ。お前、またグロの奴らといざこざを起こしたって?」
「ちがう、僕はなにもしてない。あっちが言い掛かりをつけてきただけで……!」
「言い訳するな!」
集団の中で最年長と思しき青年が一喝する。互いの身体がぶつかりそうなほど近くまでせり寄って、青年はさらに覗き込むようにしてニコラスに威圧感を与える。
咄嗟に逸らそうとした視線を、しかし青年はニコラスの胸倉を掴んで引き戻させた。
「お前らが問題を起こしたら、悪く言われんのはダリ全体なんだよ。わかってんだろうな。舐められてあいつらに殺す隙を与えでもしたら、許さないからな」
「…………っ、わかってるよ」
青年は押し退けるようにしてニコラスを突き放した。後ろによろけたニコラスの身体を、ダニエラが駆け寄って支える。
「いいか、双子。次はないぞ」
「…………」
集団は平屋の方へ向かいながら、蔑みや嘲笑を含んだ視線をチラチラとこちらに投げてよこした。
「双子ってだけで迷惑してんのに、これ以上面倒を起こされたらたまんねぇよ」
「そのうえ同性だ。疫病神だよ、あいつら」
「次がお前んところのばあちゃんじゃなくて、あいつらだったらよかったのになー」
「それはあれ、仕方ないだろ。順番だから。でもまぁ、年功序列っていうのもな、今どきって感じだけど……」
「たとえば……話し合いで…………」
会話はだんだんと遠ざかり、やがて双子の耳にも届かなくなった。
ニコラスは下唇を噛んで前方を睨みつけた。いつの間にか、握りこぶしにぎゅっと力が入っていた。
双子の敵はグロ家だけではない。本来身内であるはずのダリ家も、ニコラスたちが双子だというだけで忌み嫌い、除け者にする。
「あんなの気にすることないよ、ニコラス」
「『兄さん』」
「え?」
「僕のことは、兄さんって呼ぶんだ」
え、ともう一度戸惑った声をもらした後、ダニエラは黙り込んだ。
そして、寂しげに頷いたのだった。
「……わかったよ、兄さん」
この村では身内に双子が生まれることを忌避する。
曰く、血が濃くなるからだと。
同性の双子だと、さらに陰でひどく罵られた。
曰く、男女の均衡が崩れるからだと。
母親が双子の弟にダニエルではなくダニエラと名付けたのも、せめてもの抵抗だったのだろうか。
今しがた自分が弟に命じたことを振り返りながら、ニコラスはそんなことを思う。だとしたら、まったく意味のない抵抗だな——先ほどの連中の背中が見えなくなってからも、平屋の方をじっと睨みつけたまま、ニコラスは心の中で自分を嘲った。




