ルクサナとアマチュア写真家
ニコラス・ダリおよび数奇な末路をたどったダリ家にまつわる、世間から隠された物語。
「ニコラスさんの故郷に行きたい」
「は?」
初めて二人で入った喫茶店。同じテーブルの同じ席で、あのときと同じティラミスパフェを頬張りながら、ルクサナは突拍子もないことを口にした。
「この後どこか行きたいところある? って聞いたのはそっちじゃん。だから、ニコラスさんの故郷」
語尾にハートマークを付けながら、ルクサナはお手本のような笑みを浮かべた。何を言っているのだこの少女は――ニコラスが驚愕の眼差しを向けると、当の本人はこてんと可愛らしく小首を傾けた。
「ダメ?」
「駄目!」
脊椎反射で叫ぶと同時に、ニコラスは両手で渾身の×を作った。
「なんで!? このスーパー美少女ルクサナちゃんとドライブデートしたくないわけ?」
「興味もないわ」
「うそでしょ? もったいなさすぎる」
「自分で言うんじゃないよ」
「ぶー」
「とにかくダメ。絶対に、なにが、なんでも」
ニコラスは一言一句語気を強めて言い切ると、いまだ不満げに唇を尖らせる少女を無視して優雅にホットコーヒーに口を付けた。
コルテの町でルクサナと出会ってはや一ヶ月。行くあてのない彼女を小さな教会に託してからというもの、ニコラスは度々こうして二人で食事をしている。
最初は教会に任せっぱなしにしているという引け目が理由だったのだが、今では彼女も掛け持ちでアルバイトを始め、忙しい日々を送っている。先週からは学生向けの格安アパルトマンに引っ越したという。
だから今はもう、引け目云々の感情はない。さしずめ、定期的に顔を合わせる友人といったところだ。
「いいじゃん、ここからそんなに遠くないんだし。ニコラスさん今日お休みなんでしょ? このあと何か用事でもあるの?」
「人を暇人みたいに言ってくれるじゃないの」
ニコラスは口元をひくつかせる。
「休みったってね、やることなんて無限に湧いてくる……」
だが、ふと違和感を覚えて眉をひそめた。
「あんた、なんで村の場所がここからそんなに遠くないって知ってるんだい?」
ルクサナはきょとんとした顔をする。
「え? だって、自分で調べろって言ったのはニコラスさんじゃん」
自身の過去について問われたとき、確かにニコラスは「自分で調べろ」と彼女に告げた。告げたが、それは調べてもろくに情報が得られないという確信があったからだ。
かつてダリ一族が暮らしていた村は、険しい岩山の、日の光も十分に降り注がないような山間にひっそりと存在していた。村に繋がる道は存在せず、辿り着くには自力で岩山を越えるか、ヘリコプターを使うしかない。まさしく陸の孤島と呼ぶに相応しい場所だった。
物理的に世間から断絶された村は、長い年月をかけて独自のコミュニティを築き上げた。外部からの情報が入ってくることはほとんどなかった。その代わりに、内部の情報が外に漏れ出ることもまたほとんどなかったのである。
「調べたところで、村のことなんかわからないと思ってたけどね」
ニコラスは手元のカップに視線を落とす。並々と注がれた黒い液体に、遠い記憶を食んで苦々しく歪んだ瞳が映り込んでいる。
「あー、やっぱり? アタシの探し方が悪いのかと思った」
もしくは職場のパソコンがクソか、と、ルクサナはパフェを口いっぱいに頬張りながら明るく笑った。意地悪心を白状したつもりだったので、ニコラスは少々居心地が悪くなる。自分の携帯端末機器を所持していないルクサナは、このことを職場でこっそり調べたらしい。けれど、くわしい話はわからなかったという。
彼女はごくんと音を立てて口の中のものを呑み込むと、「けどさ」と前のめりになって続ける。
「一枚だけ写真がヒットしたんだよね」
「写真? 村の?」
「そそ。アマチュアの古い写真家が作った、今はもう動いてないサイトなんだけど」
ニコラスは顎に手を添え、考え込む。――カメラを所持している村民がいたのか? ましてや外部に情報を発信しようなどと考える者は極めて少ないはずだ。そもそも、その写真を撮影したのが村の人間かどうかも怪しい。
仮に部外者が険しい岩山を越えてやってきたのだとして、はたしてその何者かは本当に写真を撮るためだけに村を訪れたのか。それともなにか、別の目的があったのか……。
「ニコラスさん、自分の故郷のこと“地図から消えた村”って言ってたじゃん? それって、この写真に写ってる場所じゃないの?」
空になった食器をテーブルの脇に寄せると、ルクサナはバッグから一枚の紙を取り出して机の上に置いた。
それはサイト画面をそのままプリントアウトした紙で、中央に一枚の写真と、その下にタイトル、それから簡素な説明が載っていた。
『コルシカ島、地図にない村』
××××.5.29 チント山南部、山峡の村跡にて撮影。
写真に写っているのは、みずみずしい黄緑色の草原が広がる、のどかな風景だった。左側には子どもの背ほどの石碑が立っている。表面になにか字が刻まれているようだが、読み取ることはできない。石碑の背後にはたくさんの低木が繁っている。森といってもいいだろう。写真の四分の一を覆う薄暗い森を認めたとき、ニコラスのこめかみに鈍い痛みが走った。
「おーい、ニコラスさーん。どお? 正解?」
俯いた視線の先で、褐色の手のひらがぶんぶんと揺れる。微かな痛みを流し込むように、ニコラスはごくりと咽頭を上下させ、顔をあげた。
「確かにここは私の故郷だよ」
「そっかー。やっぱり……え、ほんとに?」
「嘘吐いてどうするのよ。この低木林を抜けたところに村があるんだ。この石碑みたいなものは、私が小さいころはなかったはずだけど」
わお、と感嘆の声を漏らす少女の瞳は、なぜか期待と喜びに満ち溢れていた。
「じゃあここは村の入り口的な?」
「入口っていうより、けもの道だね。舗装された道じゃないし、もちろん車も通れないよ」
「ははぁ、秘境ってやつね」
「そんないいもんじゃないわよ」
否定の言葉などまるで耳に入っていないようで、ルクサナは期待のこもった眼差しをニコラスに向けた。
「ニコラスさん、ここまで案内してよ!」
机の上の紙を取り上げたルクサナは、褐色のか細い指でトン、と写真を指差した。ニコラスは「うぇ」と露骨に眉をひそめる。
「嫌だよ」
「なんで?」
「行きたくないのよ。故郷にはあまりいい思い出がないから」
「むむ……」
ニコラスはむくれるルクサナを無視して、ぬるくなったコーヒーを喉に流し込む。酸味が際立っていて、ひどい後味だ。
「自分の故郷でもないでしょうに、そこまでその村にこだわる理由がわからないね」
しなだれる黄緑色の前髪の隙間から、ニコラスはちらと鋭い視線を向ける。
「――ルクサナ、あんた何を企んでるんだい?」
「ええ~? ひっどいなぁ。アタシはニコラスさんの全部を知りたいだけだよ♡」
耳にまとわりつくワントーン高い声に、ニコラスは辟易する。きゅるんとした上目遣いに迫られるのが堪らない人間もいるのだろうが、あいにくニコラスにそういった技は効かない。食べたくもない甘ったるいお菓子を無理やり口に詰め込まれたような不快感を与えるだけで、むしろ悪手といってもいいだろう。
ニコラスがグラスに注がれた水で口直しをしていると、ルクサナは不意にぽつりと呟いた。
「アタシ、この場所見たことある気がするんだよねぇ」
え、と視線を向ければ、少女の瞳は紙面上の写真を通してどこか遠いところを見つめていた。
「いつ、どこでだったかもう覚えてないんだけどさ。覚えてないくらい、すごく小さいころだと思う。夢で見たのかな、もしくは雑誌? ポスター? 見せてくれたのはお兄ちゃんだったのかな、それとも母さんかな。道に落ちてたチラシを見たのかも」
夢の中で見た風景を必死になってメモするように、ルクサナは頭の中に浮かぶ情報一つひとつを口に出した。
「だけどもしかしたら、アタシの写真を撮ってくれた人が見せてくれたのかも」
「写真を? パリのお屋敷で働いてたときかい?」
「ちがうちがう! そうだ、見せたげるよ」
ルクサナはおもむろにバッグをごそごそやり、財布に挟んであった一枚の写真を取り出す。それを顔の前で自慢げに掲げてみせた。
「これ。アタシの宝物」
ボロボロに擦り切れた写真には、褐色肌の小さな女の子が映っていた。
女の子は片足に重心をかけて立ち、両手を後ろ手に組んでいる。立っている場所は砂っぽい路地裏のようなところなのに、靴も履いていない。腰まで伸びたボサボサの黒髪に、ボロ布を繋ぎ合わせたような粗末な服。
きっと、誰が見てもみすぼらしいという言葉を思い浮かべることだろう。そんな容姿をしているのだった。けれど、伏し目がちの目には力強さが宿っていて、どこか吸いこまれそうな魅力を感じさせた。年齢にそぐわない大人びた雰囲気といってもいい。
いま目の前に座る彼女の顔に、そのみすぼらしい女の子の大人びた表情が重なって、ニコラスは柄にもなくドキリとした。
幼き日の面影は、たしかに残っていると感じる。
「この写真を撮った人と、村の写真を撮ったアマチュアの写真家が同じだって?」
「わかんない。名前も顔も覚えてないんだもん。でも……」
そこでルクサナは言い淀む。しばらくしてから、泥濘を掻き分けるようなゆっくりとした口調でこう続けた。
「すごくやさしい人だったような気がする。アタシ、その人のこと大好きだったんだと思うなー。写真を撮ってもらったとき、すごくうれしかったもんね」
褐色の細い指先が、パフェグラスの外側についた小さな水滴同士を繋げて、まるい雫をつくる。雫はつぅ、とグラスを伝ってゆっくり落ちていく。
「ニコラスさんの村の写真はその人が撮ったんじゃないのかもしれないけど。でも、もしそうだったら――その人が見たのと同じ景色を、アタシもこの目で見てみたかったんだよね。ただそれだけなんだけどさ」
「ルクサナ……」
机に落ちた雫が、テーブルの上にいくつも盛り上がっている。ルクサナの指がそれらを意味もなくなぞる。ニコラスはその赤みがかったこげ茶の瞳に、写真の中の女の子が隠そうとしたあどけなさを見た気がした。
「ってことだから!」
少女は唐突に席を立った。
「ニコラスさんの気が変わったら、アタシも一緒に故郷に連れてってよね。入り口まででいいからさー」
「あっ、ちょっと」
「今日はアタシの奢り!」
明るく言い放ったルクサナは、空っぽになったパフェグラスと二人分の札束を残して颯爽と店から出て行った。中途半端に椅子から立ち上がったニコラスは、折れ曲がった札束を眺めながら再び席に腰を下ろす。
「あの子の奢りなんて、珍しいこともあるもんだ」
彼女はもしかしたら、不鮮明な記憶の中に見え隠れする親しかった人の影を追いかけようとしているのではないか。手がかりの乏しい暗闇で、一枚の懐かしい写真が目の前に舞い落ちてきたら。きっと自分も同じ場所に立ち、その人がレンズ越しに眺めた景色と同じものを見たいと願うのではないか。
人知れず、ニコラスはかつての主人の姿を思い浮かべた。民に愛され民を愛した、崖上の街の王――オーランド・ベルナール・ド・ボニファシオ。あるいはニノンの父親、その人を。




