第154話 肉を切らせて骨を断つ(3)
長くなったので2つに分けました、すみません。次回が本当に最終回です。
「ええー、うそ。どこいったんだろ」
長い黒髪を引っ詰めた事務員の女性が、おろおろしながら〈退学・休学関連〉というラベルが貼られた書類棚を漁っている。
「休学届のファイルに紛れているのでは?」
「全部探したけどないんです。おかしいなぁ、たしかにこのファイルに入れたんですけど」
女性はいま一度、〈退学届〉のラベルが貼られたファイルの中身をぱらぱらとめくった。すぐ後ろにはモリゾ副学長が控え、きりりとした表情で一連の動作を監視している。
彼女たちの数メートル後ろには、身振りの怪しい人物がひとり。男は足音をひそめ、そろりそろりと壁伝いに事務室の扉へと向かった。
「ボルゲーゼ先生」
「ひぃぁあい!?」
副学長が振り向くと同時に、名を呼ばれた教師――ニキ・ボルゲーゼは裏返った声で叫んだ。ハーフアップに結んだボサボサの黒髪を跳ねさせるニキを見て、副学長の細い片眉がきゅっと持ち上がる。
「なにをそんなに驚いているのですか?」
「いやぁ、あのー。実はホラー映画とか苦手で……特に大きい音が出るやつ」
「大きい音を出したのはそちらでは……?」
訝しむ視線から逃れるように、ニキは「ははは」と笑いながら後ろ手で出入り口の扉のノブに手を掛ける。どうやら彼女たちは、ニキが一枚の紙を尻ポケットに捻じ込んだことには気づかなかったらしい。副学長は険しい表情のまま小首をかしげた。
「それより先生、このファイルに入っていた退学届を知りませんか?」
「ええ、はい? 退学届ですか?」
つかつかとヒールの音を響かせて詰め寄ったモリゾ副学長は、周囲を気にしながら声を潜めた。
「一枚行方不明なのです。先ほどから探しているのですが、見当たらなくて。ご存知ありませんか?」
「うーん。残念ながら心当たりはありませんね」
そうですか、と肩をすくめる彼女の姿を見て、ニキのなけなしの良心が疼く。
そのまま退室すればよかったものを、ニキは視線を斜め上に逸らし、ドアノブに掛けていた手を引っ込めて意味深な咳払いをした。
「あー、絵画科の先生に聞いてみたらどうです?」
ぴくりと副学長の片眉が動く。
「絵画科に?」
「ほら、本人の意向でやっぱり退学を取り消したいって相談されたとか、それで書類を持ってっちゃったとか」
「だとしてもまずは事務室に来ません? パオリ学園の場合、一度受理した退学届も、申請すれば前日までなら破棄できるんですから。んー、間違って処分しちゃったのかなぁ。うわあ、それって絶対ヤバイですよね」
「――ボルゲーゼ先生」
再びおろおろしはじめた彼女を素通りし、副学長はずいとニキに詰め寄った。
「どうして退学届の提出者が絵画科の学生だとご存知なのですか?」
「えっ?」
ニキはぎくりとして、笑顔のまま固まった。
「わたくし、学科名までは伝えていなかったはずですが」
「あー……絵画科なんて言いましたっけ?」
「ええ、はっきりと」
ワインレッドのフレームの眼鏡がキラリと光る。
まるで、悪事を見透かす名探偵の目である。
緊迫した沈黙が流れること数秒――。
「先生!」
ニキは勢いよく扉を開け放ち、脱兎のごとく事務室から飛び出した。
「さてはなにかご存知なのですね!?」
「知りません! ぼくなにも知りませんよ〜!」
「えっ、ちょっと、ニキ先生!?」
事務室前の廊下で控えていたニノンとニコラスが、弾かれたようにニキの後を追う。
三人は下校する生徒たちの好奇の目線をぐんと追い越し、“廊下を走らない”と書かれたポスターの前を疾走する。少し遅れてその背を追いかける副学長は、タイトスカートのせいで不恰好な走り方になっている。
「書類は問題なく回収できるって言ってたわよね、先生」
「それは、はひ……ふ、深い理由が」
「まさかとは思うけど、盗んだわけじゃないだろうね?」
並走しながら、ニコラスは訝しげに問う。すると、顎を上に向けたままの体勢で、ニキは「違う、違う!」と呻くように弁明した。
「ちょっと手順が、逆になっただけ、だから」
「そう? ならいいんだけど……」
「いつでも助手してくれるって約束、ハァ……守ってよね、ニッキー、ハァ」
「呼んでくれたらいつでも駆けつけるわよ」
退学届を取り返しに行くと宣言したニコラスが向かった先は、建築科棟にあるニキ・ボルゲーゼの研究室だった。
そこでニコラスは、常々「助手になってくれないか」とせがんでくる彼の前に“いつでも助っ人として呼べる権利”を餌としてぶら下げた。さすがにそれはとはじめこそ渋ったニキだったが、事情を説明すると一瞬だけずる賢そうな笑みを浮かべ、即座に協力する姿勢をみせたのだった。
作戦は至極単純で、ニキが退学届けのファイルから書類を抜き取り、ニノンたちがそれを本人に届けるという算段だった。だが、現実はそううまくはいかないようだ。
「言ったね? 言質取ったよ? じゃ、ニノンちゃん、これ」
ニキは尻ポケットからくしゃくしゃになった退学届を引っ張り出した。先ほど事務員が探していたファイルの中から盗み出したものだ。
ニキはその紙をニノンに手渡すなり、すぐに前方を見やった。長い廊下は数十メートル先で左右に分かれている。右に曲がれば、ルカたちが修復作業を行っている東棟がある。
前をゆく大人二人は、ちらりと視線を交わしあった。
「あんたは右に行きな、ニノン」
「えっ、ニコラスと先生は?」
「鬼ごっこ続行だな。まだ走れるでしょ、ニッキー?」
「ええ、私は大丈夫だけど……」
濁した言葉尻から、心配なのはむしろそっちだという声が聞こえてくる。ニキは「ははは」と豪快に笑ってから、くるりと首だけで後ろを振り返った。
「そういうわけだから、後処理は大人に任せなさい」
ニキはばちんと下手くそなウィンクをする。ニノンがしっかりと頷き返したのを合図に、三人は二手に分かれて廊下を駆け抜けた。
*Theodore
重たい鉄扉を勢いよく押し開けると、一気に視界がひらけた。眼前に、オレンジと紫のグラデーションが織りなす暮れの空が広がっている。
途端に、冷たい風がテオの頬をうった。
無心になってミーシャを追いかけているうちに、いつの間にかパオリ学園東棟の屋上に辿り着いてしまったようだ。
背の高いフェンスにぐるりと囲まれた敷地には、扉を開けて右手側に貯水槽や無線受電装置、非常電源などの大型設備群が並び、左手側には菜園エリアが広がっている。インディゴ染料の原料になるホソバタイセイの小さくて黄色い花々。それから、黄色の染料をつくるのに欠かせないレセダ・ルテオラの黄緑色の長い穂が、強風に煽られてしなっている。
テオの視線は揺れる花々を通り越し、その向こう側にいる人物を捉えていた。
「どうして……ハァ、逃げるんですか……!」
冷たい風が叩きつけるような強さで吹き荒れ、汗をかいたテオの身体をたちまちのうちに冷やしていく。
「に、逃げてない」
「どう考えても逃げてるじゃないですか」
テオが近づくと、ミーシャは自身と同じ髪色の真っ赤な夕日を背に、なおもじりじりと後ずさった。やがて彼女の背中がフェンスにぶつかり、カシャンと乾いた音が響く。追い込まれたと悟ったミーシャはひときわ視線を鋭くし、テオを睨め上げた。
「テオが追い回してきたからでしょ。どいて。あたし帰って家の片付けしなきゃいけないの」
「そうやって今回も逃げて、また後悔するんですか?」
見惚れるほど鮮やかな緑色の瞳に、苛立ちを煮詰めたような色が宿る。
「テオには関係――」
「ありますよ。大ありです。だって好きな人が苦しむ姿なんて見たくないじゃないですか!」
「は……!?」
ミーシャの顔が夕日に負けないくらい真っ赤に染まる。
その顔を見て、テオは愕然とした。
「嘘でしょ……まさか本気で気付いてなかったんですか?」
「だ、だってテオ、あたしのことそんな風に見てないって言った……!」
「フラれるのが目に見えてたからに決まってるじゃないですか!」
「はぁ!?」
叫びたいのはこちらだと、テオは胸中で額を押さえる。
ミーシャが友人としての自分を求めていると気付いたときから、この気持ちは墓場まで持っていくと決めていたのに。やるせなさと恥ずかしさで、いまやテオの頬もミーシャに負けないくらい真っ赤になっていた。
「はー、最悪。なんかもうどうでもよくなってきた」
「え……っ」
テオは肺の中の空気をひと思いに吐き出すと、大きく一歩詰め寄って、未だに混乱しているミーシャの顔の横に手を付いた。カシャンとフェンスが鳴り、ミーシャの肩がびくっと揺れる。桃に似た香りがふと鼻先を掠める。密着にも近い体勢なのに、睨め上げてくる彼女の視線はあまりにも鋭く、甘い雰囲気とはまるで無縁の状況だった。
「なんのつもりよ」
「だってミーシャ、こうでもしなきゃ逃げるじゃないですか」
「は――」
眉根を寄せた彼女がなにか言う前に、テオはもう片方の手に持っていたキャンバスを彼女の眼前に突き出した。あ、と小さく可憐な声が、風に乗って背後に流れていく。
萌黄の瞳がいっぱいに見ひらかれる。
そこに一枚のキャンバスが映り込むのを、テオは確かに見た。
言葉もなくただキャンバスを見つめ続けていたミーシャは、やがてテオの手からゆっくりとその絵を受け取った。そうして彼女は目尻と口元をくしゃりと歪めた。
「ふ……これ、すごい陰気な笑い方なんだけど」
その笑顔は、キャンバスに描かれた表情と瓜二つだった。
テオは心臓をぎゅっと掴まれた心地がして、どうしようもなく泣きたくなった。
けれど情けない姿を見られたくなくて、唾と一緒に鼻の奥のツンとした痛みを飲み込んだ。
「僕の知るアルテミシア・ブォナローティは、いつもたくさんのキャンバスに囲まれていました」
あともうひと押し、という期待が焦燥を生む。
そして、焦燥はテオの舌を饒舌にさせる。
「あなたの眼差しは彼らを救いますよ。エネルギーを秘めていなくても、その絵がその絵であるからこそ愛してくれるんですから。あなたの目は、彼らにとって必要なものなんじゃないですか」
たとえば崖から飛び降りる間際の人間を止めるために、足の遅いのも忘れてがむしゃらに駆け出すような、そんな心地でひたすら訴えた。
けれどテオは、喋りすぎたことをすぐに後悔する。
ミーシャが悲しそうに笑って、小さく首を振ったからだった。
「絵画に必要なのは、恐怖に負けたあたしじゃない。描き続けることを選んだテオだよ」
呆然とするテオの胸に、キャンバスがそっと押し当てられる。ミーシャはテオの腕をくぐって、フェンスの傍から静かに離れた。
行かないで。そう叫びたいのに、テオの舌も手も足も、凍ったようにまるで動かない。
「迷惑ばっかりかけてごめんね。今までありがとう、テオ。……さよなら」
背中越しに儚い声を聞いた瞬間、テオの腹の中で熱いものが爆発した。
「――僕だって! 絵の一枚や二枚、傷付けたことくらいありますよ!」
フェンスに向かって叫ぶテオのあまりの剣幕に、背後で少女が足を止める気配がした。
「一度は完成したこの絵を真っ白な絵の具で塗りたくって、無かったことにしたんですからね。子どもの火遊びみたいなミーシャの罪とは比べものにならないくらいですよ!」
「でも、テオのは自分の絵でしょ。あたしは他人の絵を……」
「そんなのどーーだっていいんですよ!」
テオは振り返り、ぎょっとしているミーシャを力強く睨みつけた。背後からいっとう強く風が吹きつけて、乱雑になびく蜂蜜色の髪が視界を邪魔する。
「一度塗り潰した絵が、どうして今ここにあるのかわかりますか?」
「…………え?」
「僕が最も信頼している男に修復を頼んだからですよ!」
それが誰のことを指すのか、ミーシャはすぐに気付いたようだった。
訝しげだった目が、はっと息を呑むのと同時に大きく見開かれる。
この場にいないくせにこんなにも容易く彼女の瞳を揺らがせるなんて、つくづく卑怯な男だとテオは歯噛みする。それでも。
「もしも絵画が傷付くようなことがあれば、ルカ君に修復してもらえばいいじゃないですか! 失敗も間違いもやり直しがきくんですよ。罰がほしいならその度に傷付いて落ち込めばいいじゃないですか。それでもう同じ轍を踏まないようにって反省すればいいじゃないですか。だから、辞めるなんて……言わないでくださいよ……!」
テオは俯き、拳にぐっと力を込める。
視線の先に、たくさんのキャンバスを見つめて微笑むミーシャの姿があった。
やり直しがきくなんて、本当は嘘だ。
若き修復家が完璧に修復してみせた愛しい人の肖像も、いつかはエネルギーに換わって消滅する。死んだ人間を蘇らせることができないように、この世から消えてなくなった絵画は、たとえ優秀な修復家とて元に戻すことはできない。
それでもテオは嘘を信じると決めた。
彼女の絵画を失わないためにどうすればいいのか、彼女自身が考えることを止めないように。
「本当はこんなこと勧めたくないですし、頼ってほしくもないんですけど! でもやっぱり、ミーシャを救えるのはっ……ルカ君だけなんですよ!」
顔を真っ赤にしてテオが叫んだとき、屋上にひとつだけある鉄製の扉が音を立てて開いた。二人は視線を扉に向ける。そこには渦中の人物が、その両脇には彼の友人らが立っていた。
「ルカ君……ニノンちゃんに、アダム君も……」
「なんでこんなところにいるんですか! 鏡で自分の顔見ました!? 校内をほっつき歩いてないで、さっさと家に帰って寝てくださいよ!」
「お前が言うセリフかよ!?」
アダムから当然のごとく叱責を受けるが、テオの知ったことではない。
理不尽な物言いに対してルカは気にする素振りもなく、よろめく足取りでテオに近付いてきた。
「実は、最後の仕上げを忘れてて」
「はい? 忘れてたぁ?」
こくりと頷く彼のまぶたは、疲労がたたって三重にも四重にもなっていた。その隣では、アダムが「こいつを引っ張り起こすの、大変だったんだからな」と自慢げに胸を張っている。
「まだ修復作業は完了してなかったってことですか? いや、別にそれはもういいんです。もう、僕には必要ありませんから」
修復が完了しているか否かなど、今のテオには興味のない話なのだ。
いくら修復したところで、この絵がミーシャを救うことはないのだから。
「ちがう」
だが、ルカはかぶりを振ってはっきりと否定した。
「修復作自体はちゃんと完了してる」
「は……? じゃあいったい何の話です?」
「今から施すのは、絵画をずっと手元に置いておくための作業だ」
言葉の意味が咄嗟に理解できずに、テオは首を傾げた。
ミーシャも訝しげに眉をひそめている。
「もしも絵の持ち主が承諾してくれるなら――」
ルカはアダムからパレットと絵筆を受け取り、それらを淀みない動作でテオへと突き出した。
強風に乱れる黒髪の隙間に、強い意志を宿した夜空色の瞳が見え隠れする。
青いその光を認めたとたん、テオはゾワリと奇妙な感覚が背筋を這い上がってくるのを感じた。
「その絵のサインを塗り潰してくれ」
次回、ほんとのほんとに12章最終回。
第155話「未完の絵画」、よろしくお願いします。




