第154話 肉を切らせて骨を断つ(2)
振り返る彼女の瞳をじっと見つめ返したまま、ニノンは無言を貫く。
腕を掴んだはいいものの、その先をなにも考えていなかったのである。
「(どうしよう!)」
「ニノンちゃん?」
焦りを悟られないよう、ニノンは意味ありげに意味のない笑みを浮かべた。
「私の力って、絵画の声を聞いたり過去を遡ったりできるだけじゃないんだ」
「え、力?」
突然なんの話だと言わんばかりに、ミーシャは眉をひそめる。
「そう。たとえばこんな風に、触れた相手の心の中も見透かせたりする――」
相手の視線が、警戒するようにニノンと掴まれた腕を行き来した。
「このまま自分が一生絵画と関わらずに生きていけるって、ミーシャちゃんは本当に思ってる?」
「……ニノンちゃんに、なにがわかるっていうの」
「だって、筒抜けなんだもん」
腕を掴む手に力を込めると、緑色の瞳が一瞬だけ怯んだように揺れた。
「口出しする権利なんてないってわかってる。でも、こんなに苦しんでるのに、放っておけないよ」
最後の言葉はニノンの本心だった。
ニノンだけじゃない。テオも、ニコラスも、アダムも、ルカも。それは彼らの代言でもあった。
「……っあ、あたし、もう行くから」
「あっ、ミーシャちゃん!」
ミーシャはぱっと手を振りほどくと、逃げるようにしてその場から立ち去った。
人気のない中庭を冷たい風が吹き抜ける。
プラタナスの木からまた一枚、赤茶の枯れ葉がひらりと落ちた。
「――ニノン、怖がらせてどうするのよ」
「え、怖かった!?」
ニノンは驚いて振り返る。いつの間にか、背後には遠くから見守っていたはずのニコラスとテオが立っていた。
テオの顔は涙でくしゃくしゃだった。すっかり意気消沈した様子を見るに、退学届の件はすでにニコラスから聞き及んでいるのだろう。
「そりゃあ、心まで読まれたら怖いでしょうに」
「あ、それは嘘だよ」
「嘘!?」
「ハッタリってやつ!」
「ハッタリって……。あんた、いつからそんな子に……」
ニコラスが片手を額に置いて嘆息する。
ミーシャの選択が彼女の強がりなら、強張った心に少しでも寄り添いたかった。結果的に怯えさせてしまったので、失策であったけれど。ニノンはあははと笑って彼の嘆きを受け流した。
「うっ、ふぐ……もうおじまいです」
テオは芝生の上にぽろぽろと涙をこぼし、汚れた音を立てて鼻水を啜った。ニノンは肩をすくめ、静かに立ち上がる。
「まだ終わってないよ、テオ君」
「おわ、終わっでるじゃないでずか……。だっでミーシャは、明日にはっ……だ、退学じぢゃうんですよ!?」
「それでも会いには行けるよ。ミーシャちゃんはまだコルテにいるんだから」
涙でぐしゃぐしゃの瞳がハッと見開かれた。
そのふちからは、止めどなく涙があふれ落ちている。
「ルカとアダムは今も必死で修復してる。私はその頑張りも、削り落とした絵画も無駄にはしたくないよ。ミーシャちゃんを引き留められるかどうかなんてわかんないけど。でも、絵画をひと目だけでも見てもらわなきゃ――そうじゃなきゃ、テオ君も終われないでしょ?」
「ニノンさん……」
テオの瞳から、最後の涙が一粒こぼれ落ちる。彼は意を決したように白いセーターの裾でごしごしと顔を拭い、くるりと背を向けて走り出した。「あっ」とニノンが手を伸ばしたときにはすでに、その背は廊下に飛び込んでいた。
「ルカたちの邪魔しないといいんだけど……」
「あの子も間に合わせたいって思いは同じなんだ。わざわざ邪魔するはずないよ」
そうかなぁ、とニノンは呟く。脳裏を一抹の不安が過ぎったのは、かつての前科をこの目で幾度も目にしてきたからである。
「さて。じゃあ、私らも行こうかね」
「え? 行くって、どこに?」
ニノンは小首をかしげて隣を見上げる。
腕を組んで少年が消えた先を見据えていたニコラスは、黒頭巾を取り去るとこちらに視線をやり、にやりと笑った。
「決まってるだろう。退学届を取り返しにさ」
*Luca
「ルカ君ッ! 修復作業ってあとどれくらいで終わりますか!?」
静かな教室に、一人の生徒が血相を変えて転がり込んできた。
ルカがキャンバスから視線を教室の入り口に向けると、テオはぎょっとした顔でこちらを見た。ここ数週間の睡眠不足がたたって、ルカの目の下には大きなクマがくっきりと浮き上がっていた。
「大声出すなよ、頭に響くだろが」
掠れた声が、作業机の向かいから弱々しく発せられる。顕微鏡の向こうにいるアダムの目の下にも、当然クマはできている。形のいい輪郭は今やこころなしかやつれており、顔色も芳しくない。
あまりの惨状に言葉を失ったらしいテオは、しかしすぐに我に返り、慌てた様子で近寄ってくる。
「みなさんおっ、お、落ち着いて聞いてくださいね」
「いやまずはお前が落ち着けよ」
テオは律儀に深呼吸を繰り返す。そして、ごくりと唾を飲み込んでから、作業机に両手を突き立てた。
「ミーシャはすでに退学届を提出しています。明日には受理されちゃうんですよ!」
アダムとルカは互いに顔を見合わせた。
どちらも「それは想定外だ」という顔をしている。
「正直、もう時間がありません。できれば今すぐ持っていきたいくらいなんですが、いけそうですか?」
「見りゃわかんだろ。まだ終わってねえよ」
アダムが眉間にしわを寄せてキャンバスを指差す。
ヴェネチアの水路のような深緑色を背に、丸椅子に腰かけたアルテミシア・ブォナローティの姿が描かれている。彼女の周りを取り囲むのは、数多のキャンバスだ。全容はほぼあらわになっているが、ところどころに青い絵具が残っている。
「だったらもう少しスピード上げられませんか!」
「無茶言うなっての!」
「――わかった」
「!?」
小さなそのひと言にいがみ合う二人は口を閉ざし、教室はしんと静まり返った。
「ちょっと待ってて」
目を丸くしたままの二人にそう告げて、ルカは再び顕微鏡の中を覗き込んだ。
レンズを通して拡大されたキャンバスに、残された青色の絵具を見つける。ルカは指先の神経を集中させ、絵具層にメスを入れた。
たった数マイクロメートル。わずかな厚みのその根本目がけて、刃先を食い込ませる。柄を握る手に力を込め、息すら止めて――。
数分か、あるいは数十分か。
沈黙の時間が過ぎ去った頃、短く息を吐いて、ルカは顕微鏡から顔を引き剥がした。
背中をどっと汗が伝う。遠近がブレて一瞬くらついた視線の先に、依頼主の姿を捉える。焦燥と僅かな期待が入り混じった目がこちらを凝視していた。
「上層の絵具層の除去作業は終わりだ」
「じゃあっ、今から持っていっても!」
飛びつこうとするテオを片手で制して、ルカは続ける。
「まだ細かなクリーニング作業が残ってる」
「くううう! 期待させておいて! クソッたれ!」
「今日の夕方までには完成するよ」
「本当ですか!?」
悪魔に憑りつかれたかの様な禍々しさを放っていたテオの表情が、一瞬にして浄化される。
テオは神の前にひざまずいた信者のごとく顔の前で手を組み、目にキラキラとした輝きを宿して天を仰いだ。
「ルカ君……ああルカ君! 僕は信じてましたよ! やっぱりあなたは僕が見込んだおとこおお――ってちょっと、なんですか!?」
両手を広げハグの体勢で迫ってきたテオを、ルカがすんでのところで避ける。間髪入れずにアダムが首根っこを掴み、
「うるさい部外者はお引き取りくださーい」
と言って教室から放り出した。
廊下の外ではしばらく熱烈な応援が聞こえていたが、しばらくするとそれも聞こえなくなった。
教室がもとの静けさを取り戻し、ルカはほっと胸を撫でおろす。悪魔憑きだなありゃ、などと適当なことを言いながら、アダムは両腕をぐっと上に伸ばした。
一番の山を越えたとはいえ、まだひと仕事残っている。悠長にお喋りしている暇はないのだ。
相棒に倣って凝り固まった首をぐるりと回したルカは、小さく息を吐いて再びキャンバスに向き直った。
それからの二人は、昼食も摂らず、休憩を挟むことも忘れ、ひたすらキャンバスにかじりついた。
やがて、大きな窓から差し込む西陽が絵具の盛り上がりに陰影を落としはじめた頃、ついに作業は終わりを迎えた。
「修復……完了……」
です、と、ルカが息も絶え絶えに宣言する。
同時に、二人は揃って机に突っ伏した。
「信じらんねえよ、お前……。ほぼ休憩なしで、ぶっ通しで作業するとか、なんなんだよ。人間じゃねえだろ……」
「疲れたら抜けていいって、最初に、言っただろ」
「お前が頑張ってんのに、俺一人だけ休憩するわけにいかねえじゃん」
下校する学生たちの足音と喋り声が、廊下を賑やかに通り過ぎていく。
「なぁ。今さ、俺すげえカッコいいこと言ったよな」
「そうだな……最後の言葉がなければ」
机に頬をへばりつかせたまま目を合わせた二人は、同時に力なく笑った。
目の下にはくっきりとクマが浮き出ており、顔いろはあまりにひどかった。力を入れ続けた手首はツキツキと痛み、目の奥にも芯の残る痛みが蔓延っている。満身創痍だった。けれど、心はどこまでも晴れやかだった。
失敗せずにやり遂げた。
依頼主が望んだ、下層に眠る絵画を蘇らせることに成功したのだ。
一旦安堵してしまえば、途端にどちらのものかわからない腹の虫が鳴った。朝食はシリアルのみ、昼食は抜きだったのだから、腹も減って当然だ。
だがそれよりも、強烈な睡魔に襲われた頭は、すぐさま意識を手放そうとしていた。瞼は水を吸った布団のように重たかった。
「(だめだ。絵画を、届けなきゃ……)」
意識が飛ぶ直前、教室の扉が開く音がして、誰かが入ってくる気配がした。
それは聞き知った仲間の声だった。再び安堵に包まれたルカは、泥水の中を掻くような手つきでなんとか絵画を託し、今度こそ糸が切れた人形のように机へと突っ伏したのだった。
*Misha
黄昏色に染まった教室で、ミーシャはひとり、絵筆や油壷などの画材道具をまとめていた。
こまごまとしたものを巾着袋に入れて、紐を引っ張り口を絞る。製作途中のキャンバスなど、大きなものはあらかた昨日までに自宅に運び終えていた。今日持ち帰るものは、黒いリュックサックに収まる量がすべてだ。
世話になった教師陣への挨拶もすでに済ませてある。
このあと教室を出て帰路を辿れば、二度と正門をくぐることはない。
ミーシャはふと顔をあげて、誰もいない作業教室を見渡した。
ふだんは学生たちの使っているイーゼルがずらりと並んでいるが、今はそれらも片付けられて、がらんとした空間が広がっている。
大きなガラス窓からは、オレンジ色の西日の帯が降り注いでいた。その帯の先に、誰かがしまいそびれたイーゼルが二脚、丸椅子とともに並んで置かれていた。
ミーシャはそこに、幼き日の少年と少女の幻影を見た。
夢中になってキャンバスに向かった日々。
ひたすら絵画の話をして、心から笑ったあの時間。
「あ……」
思わず伸ばした手の先で、真剣なふたつの背中は瞬く間に掻き消えた。
空席のままの丸椅子をしばらく眺めたあと、ミーシャは未練を断ち切るように教室を出た。
「ミーシャ!!」
突如、背後から聞いたこともないくらい大きな声で名を呼ばれた。
驚いて振り返り、ミーシャは露骨に顔をしかめた。そこにいるのが、今一番会いたくない人物だったからだ。はちみつ色のくせ毛の少年――テオドール・マネが、肩を激しく上下させながら廊下の真ん中に立っている。その腕に、なにやら小さなキャンバスを携えて。
「……テオ。そんなに急いで、なにか用」
「なにか用、じゃ、ありませんよ……。また一言も告げずに、僕の前からいなくなるつもりですか?」
どきりとして、ミーシャの背中をいやな汗が伝う。
「なんで、そのこと……」
「ミーシャのことならなんだって知ってます」
絶妙に気味の悪いことを言いながら、テオはゆっくりと近付いてくる。一歩距離が縮まるごとに、同じ分だけミーシャも後退する。
「知ってるなら、なおさら話すことなんかないんだけど」
「僕にはあります」
テオは力強く言いきると、腕に抱えていた小さなキャンバスをおもむろに差し出した。
「なに……?」
「五年前、あなたに渡したいものがあると言って、僕は水族館の絵を見せましたよね。覚えてますか?」
真剣な眼差しの向こうに、神秘的な青い色のキャンバスが見えた。
同時に蘇るのは、苦々しい思い出だった。
心を奪われるほどに美しい絵画だったのに、自らの孤独な人生をキャンバスの中の幸福な家族と重ねてしまったこと。
埋められないその苦しみを、なんの関係もない友人にぶつけて八つ当たりしたこと。
謝ることもせずに、彼の前から姿を消したこと。
全部、全部、覚えてるに決まっている。
答えようとミーシャは口を薄くひらいたが、うまく言葉が出てこなかった。
「あのとき本当は、別の絵を渡そうと思っていたんです」
「え?」
初耳だった。
ミーシャは思わず眉間にしわを寄せる。
「五年前、ミーシャは最後にこう言ったんですよ。自分のために絵を描いてほしかったわけじゃないって。だから持ってきたんです。これは誰のためでもなく、僕が僕のために描いた絵です。……受け取ってもらえませんか、今度こそ」
ずい、とテオが一歩詰め寄った。
ミーシャの足は根が生えたようにその場から動かない。差し出されたキャンバスに、目は釘付けになる。
ひと目だけでも見たいと、心が訴える。
けれど頭は「見るな」と叫んでいる。
見てしまったら諦めきれなくなると、ミーシャにはわかっていたからだ。
「……ごめんっ」
「ミーシャ!」
だからミーシャは絞るような声で拒絶を示し、テオに背を向けて走り出した。
画家を志した少年、絵画を愛した少女、絵画修復家の少年。三人が見つけた答えは、各々に新たな道を指し示すか。
次回、12章最終回(予定)
第155話「未完の絵画」、よろしくお願いします。




