第154話 肉を切らせて骨を断つ(1)
修復依頼を正式に請けたルカが最初に向かったのは、コルテの町の長い長い坂道をくだりきった最南端――深い森の中に佇むフェルメール邸だった。
屋敷の主人に、現在預かっている絵画の修復作業に遅れが生じる旨を伝え、謝罪するためである。
「おお、もう完成したのか? ずいぶん順調だったの」
白髪白髭の老人があまりにも穏やかに出迎えるものだから、ルカは罪悪感から思わず一歩後ずさりそうになった。小首を傾げるフェルメールに、ちらと控えめに視線をやるのが精一杯だ。
「実は、そのことでお話が……」
相手は修復家にいい思い出がない。そうでなくても、自分の依頼よりも後に請けた依頼を優先されるとなれば、当然いい気はしないだろう。
それでもルカは、ここで彼を説得しなければならない。そうでなければ、テオの絵画を修復する意味がなくなってしまう。
とりあえず中に、と通された応接間で事情を話し終えたルカは、来る罵倒や非難に備えて身を固くした。だが、彼はその事について深く追及しないどころか、作業の遅れを快く許したのだった。
「なんじゃ。なにを驚いた顔しとる」
拍子抜けするルカの顔を、フェルメールが怪訝そうに見つめる。
「あの、もっと難色を示されるかと」
「わしがお前さんに?」
フェルメールは仰々しく驚いたあと、たっぷり蓄えた白い顎髭の中で「くわ、くわっ」と笑ったが、途中で唾が気管に入ったのか苦しげにむせ込んだ。「大丈夫ですか」とルカが問うと、フェルメールは片手を掲げながら頷き、人差し指で目尻にたまった涙を拭う。
「誰かの大事なんじゃろう? お前さんがむやみに約束を破るはずがなかろうて」
「フェルメールさん……」
ありがとうございます、とぎこちなく感謝したら、老人はたちまち破顔した。
「なに、この老体に迎えがくる前に納品してくれたらええ」
「えっと……はは……」
冗談なのか本気なのかわからない返答に当惑しつつ、ルカは頭を下げて邸宅を後にした。
急ぎ足でパオリ学園に戻ると、東棟の昇降口に飾られている〈世迷いウィリアムの肖像〉の前で、ニコラスとニノンがルカを待ち構えていた。二人はニキ・ボルゲーゼを通して、すでに空き教室の借用許可を取っていた。新たに貸し与えられたのは、それまで作業を行っていた古びた倉庫のような教室ではなく、もっと広くて窓から光も十分入る明るい教室だった。
教室に作業道具一式を運び終えたころ、ようやくアダムとテオも教室に戻ってきた。テオはアパルトマンから運び出してきたF3号サイズのキャンバスを、作業机の上にゆっくりと横たえる。
「ルカ君。お願いします」
こちらに真剣な目を向けるテオに頷き返し、ルカは机上へと視線を移す。
小ぶりなキャンバスには、神秘的な青色の世界が凝縮されていた。
分厚いガラス越しに泳ぐ魚の群れ。それらを覗き込む客の横顔。そのすべてに、テオがその目を通じて切り取った青色が配色されている。
この幻想的で美しい世界を、自分は今から排除するのだ。そう思うと、ルカの手は人知れず震えそうになった。
一度深く息を吐き出し、気持ちを切り替える。
名残惜しさは、幾つもの青色とともに網膜に焼き付けて。この絵画が世界に存在した事実は、記憶に刻みつければいい。
どこか遠くで、正午を告げる鐘の音が響いている。
手は、もう震えていなかった。
ルカは顔を上げ、キャンバスを囲むようにして立っている面々を改めてぐるりと見渡した。
「今回の作業だけど、修復が終わるまでは教室に入らないでもらいたいんだ。なるべく、集中力を途切れさせたくなくて」
そう告げると、一同は目をぱちぱちと瞬かせた。
「そりゃいいけど……手伝いも不要なのかい? あんた、いつも『手が多いと作業が楽になる』って言ってるじゃないの」
「雑用でもなんでも、私たちにできることがあるなら協力するよ」
「ニコラス、ニノン」
二人の申し出は、ルカの心をむず痒くさせた。もともと絵画に知見のあるアダムはともかく、彼らも出会ってから少しずつ修復作業についての知識を身につけてきた。現在では、作業に使う備品の準備やキャンバス上の埃取りなど、簡単な作業を任すことも増えてきたくらいだ。一人で作業していたころに比べたら、格段にルカの負荷は軽くなっている。
「ありがとう」
微笑んでから、ルカは「けど」と続けた。
「今回は時間の制約が厳しいから、指示を出してる余裕がたぶんないと思う。だから、集中して一気にかたをつけたいんだ」
建前ではない。それは本当に理由のひとつである。
ただし、懸念は他にもある。今までのように、埃や汚れ、劣化したワニスを除去するだけの作業とは違い、今回は完成されたひとつの作品を、丸ごと消し去らなければならないのだ。その手で実際に絵具層を拭い去ったときの心の負担を、この場にいる人間に負わせたくない――というのがもうひとつの理由だった。
しかしルカは、あえてそれを口にしなかった。知ってしまえば気を遣う人間が一人や二人、三人はいることを熟知していたからだ。
「ルカ、お前の心意気はよーくわかった」
珍しく口を挟まず会話に耳を傾けていたアダムは、大きく頷いたかと思うと不意にルカの方へ歩み寄った。
「アダム、そういうことだから今回は……」
「ああ。俺も教室に残るぜ」
「話、聞いてたか?」
聞いてた聞いてた、とアダムは軽い口ぶりで言い、ルカの肩になれなれしく肘を乗せる。彼は口の端をにやりといたずらっぽく吊り上げた。
「指示出すのが難しいって話だろ。大丈夫だ、俺は指示がなくても動ける」
胡乱な目を向けていたルカは、ハッとした。
「時間ねえんだろ? だったら俺を頼れよ。なあ、相棒?」
立てた親指で自信たっぷりに己の顔を指す自称相棒に、ルカは思わず呆然とする。「なんだよ、その顔。口開いてるぞ」と、なおもアダムは茶化してみせる。
彼は、ルカが言葉にしなかったもうひとつの懸念に気付いたうえで、あえて協力を申し出たのだろうか。否、彼のことだから、きっとそうなのだろう。
お腹の底に温かいものを感じつつ、ルカは「頼む」と小さく頷いた。
「あのぉ、そういうことなら僕も」
「おめーは自宅謹慎中だろ」
「うっ」
「おとなしくお家で懺悔でもしてな」
アダムにばっさりと斬られたテオは、悔しげに唇を噛みしめつつもすごすごと引き下がる。根が真面目なのだ。
「アダムちゃんはね、安心してプロに任せときなって言ってるのよ」
慰めるように、ニコラスがぽんぽんと落ち込む肩を叩いた。「そうなんですか?」と、テオは途端に目を細め、胡散臭そうにアダムを見る。
「申し訳ないんですが、男のツンデレには食指が動かないんですよね」
「動かれてたまるかっ。ニコラスも余計な翻訳すんじゃねえよ」
「あら、本当のことじゃないの」
話題が脇道に逸れはじめたところで、ニノンが「あっ、もうこんな時間!」と壁掛け時計を指差す。針は正午を回ったところだった。
「じゃあ、私たちはもう行くから。お昼ごはんと夕ご飯は持ってくるね、あとおやつも入れておくから。朝はお家で食べるでしょ?」
「う、うん」
ニノンは指折り数えながら心配性の母親のようなことを言う。ニコラスはニコラスで、アダムに「ルカがごはん食べなかったら口に突っ込むんだよ」なんて助言をしている。朝食さえ食べれば支障はないのに、と思いながらルカは聞き流す。
「他にも、必要なことがあったらいつでも言って」
「うん。わかったよ」
紫色の瞳から期待と信頼を受け取ったルカは、顎を押し込めるように頷いた。
ニノンとニコラスは、順にルカの肩をぽんと叩き、連れ立って教室を出ていく。その背中を慌てて追いかけたテオだったが、ドアノブに手をかけたところでふと振り返り、「よろしく頼みます」と会釈して廊下へと駆けていった。
彼らが出ていくのを見届けたアダムは、っしゃ、と小さく気合を入れ、ワイシャツの袖をまくり上げた。
「俺たちもいっちょやるか」
「ああ」
ルカは頷いて、机上へと目を向けた。
キャンバスに広がる神秘的な青色が、修復家の手を待ち構えている。
*
修復作業で最初にやるべきことは、作品の状態を調べたり成分を分析したりといった、事前調査である。
ルカとアダムは検査室機器を使い(学園から使用の承諾を得たのはニノンとニコラスだ)、速やかに事前調査にとりかかった。
紫外線、赤外線、X線。調査にはさまざまな種類がある。その中でも、X線調査の結果は隠された下層の絵を浮かび上がらせるため、今回の修復作業において特に重要な調査になる。
データが集まれば、次はいよいよ実際に絵具層を削り取る作業だ。
二人は長辺273ミリメートルの小ぶりなキャンバスを挟み、額を突き合わせる形で作業机に座った。キャンバスを拡大させるための専用の顕微鏡と鋭利なメスを用い、各々で絵具層を削り取っていく。
決して大きくないサイズのキャンバスだが、すべての絵具層を除去するのにはかなりの時間を要する。厚みわずか数マイクロメートルしかない絵具層を、下層を傷つけずに削り取るには、相当の集中力と技量が必要になるのだ。
少しずつ、少しずつ青の絵具層を削る。
下層のくすんだ色が見えたら手を止める。
少し位置をずらして、また削る。
気の遠くなる作業だ。それでもルカは休憩もとらず、無心で青色を削り続けた。
時おりアダムにキャンバスから引き剥がされて、ニノンたちが持ってきたランチボックスを口に詰め込むか、あるいは無理やり突っ込まれた。夜は見回りにきた守衛に追い出されるまで教室に居残り、帰宅後もできる範囲で作業を進め、朝はまだ薄暗い中どの生徒よりも早く登校し、キャンバスにかじりついた。
そんなこんなで、約二週間が過ぎたある日――。
*Ninon
「退学届、もう出しちゃったの!?」
パオリ学園の中庭の中央に生えたプラタナスの木の枝葉から、バサバサと音を立てて小鳥が数羽、飛び立った。
昼どきを過ぎた中庭は人もまばらで、閑散としている。巨木の根本に座って遅めの昼食をとっていたミーシャは、バゲットサンドに齧りつく直前でぴたりと動きを止め、「うん」とあっけなく頷いた。
「もうっていうか、一週間くらい前だけど」
「い、一週間……」
この一週間、どうにか彼女の気持ちを変えることはできないかと、ニノンは毎日ミーシャに話しかけにいったり、昼食を共にしたりしていた。
すべての行動が無駄足だったのだと思い知らされ、ニノンはがくりと首を垂れる。
二人の背後には、少し離れて清掃員の姿があった。
すらりとした長身のその人物の正体は、短期アルバイトとして学園に雇われているニコラスだ。彼は緑色の派手な髪の毛を黒い頭巾の中に隠し、中庭の落ち葉を箒で掻き集めながら、二人の会話に耳を研ぎ澄ませている。
さらにその向こう、中庭の入り口付近で行ったり来たりを繰り返す不審人物が一人。謹慎明けのテオである。
ミーシャが警戒するからと、この場に同行したがるテオを突っぱねた。変なところで律儀な彼は、言いつけこそ守ってはいるものの、そわそわしながらこちらの様子を必死の形相で見つめていた。
「ニノンちゃん。いろいろありがとうね」
不意にそんな言葉が振ってきて、ニノンはふと顔をあげた。ミーシャは前を向いて、もくもくと口の中のものを咀嚼している。
「ここ最近よく顔出してくれたのって、心配してくれてたからなのかなって」
「それは……」
「本当は、誰にも言わずに辞めるつもりだったの。知ってるのはニノンちゃんだけだよ」
そう言われて、ニノンはぎくりとした。実はもう他の人に喋っちゃいました、なんて口が裂けても言えない。曖昧な笑いでごまかして、ニノンは隣の少女の横顔を窺い見る。
「ミーシャちゃんは、本当にそれでいいの?」
「いいもなにも……退学届はもう受理されてるし、今さらどうこうなんてできないよ」
二人の間にしばしの沈黙が降りる。
小鳥たちが舞い戻り、あたりをちょこまかと動き回る。そうしてパンくずを見つけると、小さなくちばしで器用についばんだ。
「あたしは明日付けで退学扱いになる。そのあとは引っ越し作業で忙しくなるから、ここでさよならだね。今まで、仲良くしてくれてありがとう」
ミーシャは食べかけのバゲットサンドを袋に戻し、服に付いたパンくずを手で払った。まわりに小鳥たちが寄ってくる。
風が吹いて、赤い髪が揺れる。
そのわずかな隙間から強がる瞳が覗いたとき、ニノンは無意識に彼女の腕を掴んでいた。




