第153話 テオドール・マネの懇願(2)
〈前回のあらすじ〉
フェルメールの絵画を傷つけてしまったミーシャは、けじめとして学園を去るつもりだという。その事実を知ったテオは……。
*Luca
「ダメですよ、そんなの!」
ニノンが経緯を話し終えたとき、一番に叫んだのはやはりテオだった。ルカは不意打ちの絶叫に鼓膜をつんざかれ、思わず身体をよろめかせる。
「絵画をこれ以上傷付けないようにって、予防線を張る気持ちはわかりますよ。わかりますけど、それが彼女の本当の願いなはずないじゃないですか!」
「そうは言ってもな。本人が決めたことなら、俺たちが口を挟むわけにもいかねえだろ」
「そうですけど……!」
勢い余ってベッドの上のニノンに覆いかぶさろうとするテオを、アダムは顔をしかめながら引っぺがす。テオは下唇を噛んでうつむいていたが、すぐに顔をあげ、キッと眼差しに力を込め直した。
「だからって放っておけませんよ。二度も彼女から絵画を奪うなんて、そんなのあんまりじゃないですか。目の前で友人が苦しんでるのに、見放せっていうんですか!?」
アダムとニノンは互いに目配せをし、次いでルカを見やってから、そっと肩をすくめた。
いくら説得したところで、他人じゃどうにもできない問題というものがある。長年の付き合いがあるテオだって、ミーシャの頑固さは百も承知のはずだ。それでも彼は、確固たる意志を持ち続けている。
「……今度は」
拳を握って俯いていたテオが、ボソボソと何事かを呟いた。
「今度は僕がミーシャの助けになりたいんです。僕の知っているミーシャは絵画を真っすぐな目で見つめて、絵画のことについて楽しそうに語るような、そんな女の子なんです。あの頃のように、たくさんの絵画に囲まれて笑っていてほしいんですよ――」
そのとき、テオは思いついたようにハッと顔をあげた。そして勢いよくルカに迫り、両肩をがっしり掴む。
「ルカ君!」
「えっ、はい」
ルカはぎくりとする。
間近に迫るヘーゼルグリーンの瞳。その瞳孔はすっかり開ききり、興奮にわなないている。
「僕の言うこと、なんでも聞いてくれるんですよね?」
「え? ええ、あー……」
そんな約束を交わしたような、交わしてないような。
まごつくルカの眼前で、テオはにっこりと噓のようにきれいな笑顔を浮かべた。
要件を意図的に隠した質問は、得てして相手を不安に陥れるものだ。それが底意地の知れない人間ならば、なおさらである。
「なに言ってるのテオ君!? その話は終わったはずでしょ!」
「おうおう、そうだぞお前。ルカにジャパニーズ土下座させたじゃねえか!」
布団を跳ねのけベッドから飛び起きるニノンに、アダムもメンチを切って加勢する。
「あれはルカ君に誠意があるか確かめるテストだって説明したじゃないですか?」
「そ、そんなこと言ってた気もするけど……」
じゃなくてっ、とニノンは首を振る。
「人の心がなさすぎるよ!」
「なくて結構です」
「お前なあ。屁理屈ばっかり捏ねて、パン屋にでもなるつもりかよ!」
「パンでもビスケットでもなんでもいいですけど、権利は使わせてもらいますよ」
テオは鼻で笑うと、ルカの右腕をぐいと引っ張った。
「おい、ルカは渡さねえぞ」
今度はアダムが反対側から腕を引っ張る。
「いいえ、渡してもらいます」
「渡・さ・ね・え」
「手を離してください」
「そっちが離せ!」
おもちゃの取り合いに巻き込まれた人形のように、ルカは両腕を真反対にぐいぐい引っ張られる。そのたびに視界ががくがくと揺さぶられた。
「ちょっと二人とも、ルカの腕がちぎれちゃうよー!」
ニノンが仲裁に入ると、テオは愛想のよさをどこかに置き忘れてきた顔で、チッと舌打ちした。
「僕はただ、絵画を修復してもらいたいだけなんですが!」
「だからダメッ――は、修復?」
アダムの口から間の抜けた声が漏れ出た。
ニノンもルカとともに目をぱちくりさせている。
修復? いったい何の?
唖然とする空気の中で、テオは心外だとでもいうように顔をしかめてみせる。
「なんですか、その反応」
「はぁ? いやだってお前が……」
「別にとって喰ったり奴隷にしたりするつもりなんて毛頭ありませんけど」
「言い方がややこしんだよ!」
「僕のせいにしないでください。本当に失礼な人たちですね」
テオが一層強く腕を引っぱると、ルカの腕はアダムの手からすっぽ抜けた。「あっ!」とアダムが叫ぶ間に、テオはさらにルカを引き寄せ、まるで“僕たちは仲間です”と言わんばかりに親密に肩を抱いた。
「ルカ君に修復してもらいたいのは、以前僕が制作した水族館の絵画です」
「水族館?」
せめてもの抵抗にと首を反らしていたルカは、ふと視線を隣に向けた。
水族館の絵といえば、覚えがある。テオが以前言っていた、エッフェル塔の地下にある水族館・シネアクア。そこを訪れた観光客の姿を捉えた作品だったはずだ。
「実は、そのキャンバスにはもともと別の絵を描いていたんですよ。最終的に納得がいかなくて、塗りつぶしてキャンバスを再利用したんです。――ただ、今必要なのはその塗りつぶした方なんですよね」
「つまりテオは、下層の絵を掘り起こしたいんだな」
「さすがルカ君。話が早い」
ご名答、と指を鳴らすテオを、ルカは複雑な表情で見つめた。
シネアクアにやってきた人々の姿を描いた絵。それは、自らの絵を好きになれないと語っていたテオが、唯一気に入った自分の作品ではなかったか。
「掘り起こすって、そんなことできるの?」
ニノンが首を傾げながら、会話に割って入る。
「うん、修復自体はできるよ。似た依頼をいくつか請けたこともあるし」
「そうなの?」
ルカはこくりと頷く。
「たとえば、経済的な事情で真っさらなキャンバスをいくつも買えない画家は、使い古したキャンバスを塗り潰して再利用したりするんだ。あとは、単純に気に入らなくて上からまったく違う絵を描くパターンもある。でも……」
そこまで言って、ルカは口ごもった。
修復自体はできる。しかし、一度修復してしまえば、その絵は――。
「修復したら、上に描かれた絵は消えちまうけどな」
ルカの代わりに、アダムが言葉を繋いだ。
「えっ、消えちゃうの!?」
「アダムの言うとおりだよ。下の絵を蘇らせるには、上の絵具層を洗浄液で全部溶かすしかない」
ニノンはショックを隠しきれない声で「そんなぁ」と嘆いた。
「あっ、でもルカなら、上と下の絵を分けて二枚にできるんじゃない? こう、スパーッと切って、パパッと二枚のキャンバスにわけて……!」
ルカは静かにかぶりを振る。そっか、と再度ニノンはしゅんと肩を落とした。
「将来的にはそういう方法も確立されるかもしれないけど、今の技術じゃどちらか一方しか生かせないんだ」
それからルカは、ちらりとテオに視線をやった。
下絵を掘り起こすということは、上層を犠牲にするということだ。つまり、ずっと自分の絵を好きになれなかったテオが、唯一好きだと自覚できた作品。それを、永遠に失うということに他ならない。
「それを承知の上での依頼なんだろうな?」
「愚問ですね」
アダムの鋭い指摘を、しかしテオはフンと鼻で笑って跳ね返した。
「下層には、昔のミーシャの肖像があります。ひたすら絵画を描いて、観て、語り合ったあの頃の記憶を思い出してもらいたいんです。そうすれば、ミーシャにこちら側に留まるためのきっかけを作れるんじゃないかって、そう思うんですよ」
「もし説得に失敗しても、絵画は元には戻せない。本当にそれでもいいのか?」
もう一度だけ、ルカは問いかける。
するとテオは、口の端を持ち上げてニヤリと笑った。
「僕の自己満足より、彼女を救える可能性のほうが何十倍も価値がありますから」
よどみなく答える少年に、ルカはそうか、とだけ呟いた。
「あ、作業は最優先でお願いしますよ。彼女に辞められちゃ困りますから。現在着手しているお仕事はあとにでも回してもらって……」
「テオ君!」
「お前、また勝手なこと言って――!」
テオは優雅な所作でアダムの唇に人差し指を突き立てた。
むぐ、とアダムは不満げな顔で言葉をのみこむ。
「みなさんなにか勘違いされてません? これはお願いじゃなくて命令ですよ?」
「……!」
「僕の命令――聞けますよね、ルカ君?」
ヘーゼルグリーンの目が、楽しげに湾曲する。
ルカはごくりと咽頭を上下させ、それからテオの邪悪な微笑みを睨み返した。
「命令は聞かない」
「………………は?」
一節置いて、テオの笑顔にぴしりと亀裂が入った。
「え、え、どうしてですか?」
引きつった笑顔のまま、テオは訊き募る。
「ルカ君、なんでも言う事聞くって約束したじゃないですか」
「テオ」
「嘘ついたんですか? 僕の絵じゃミーシャの心を動かせるはずないってことですか? なるほどそんなことしても無駄だって言いたいんですか」
「俺は、」
「嘘吐かんッゆーとおやいが!」
「!?」
突如、テオの表情が豹変した。
「わあはこんしか持たんどん、どっしょもないけ! でかん頼んどおが、おんは悪魔よ! いっときこくんだら、しょぉえんぐうが筋いやろがい!」
ルカは胸倉を掴まれ、聞き慣れないイントネーションの言葉を一身に浴びせられる。それはひどく荒々しく、普段の彼らしい丁寧な言葉遣いとは程遠い。正確な意味こそ把握できずとも、そこに必死さがあることだけは、ルカにもはっきり伝わった。
かつて掴んだ光を手放してまで、彼には助けたい相手がいる。
「命令なんか必要ない、って言ったんだ」
「…………へ、ええ?」
「修復が必要な絵画があるなら、命令なんかされなくても手助けする。それが道野修復工房のポリシーだ」
唖然としたテオの目から、ぽろっと涙が一粒こぼれ落ちた。
「あ、う……ぼ、僕……ウッ……!」
鋭さを失った目のふちに、じわじわと涙が盛り上がる。やがてテオは、ルカの胸元に顔を埋めて泣きはじめた。
「僕の、僕のために……ありがとうございます、うう……っ」
「テオのためじゃない。絵画のためだ」
持ち主が下層の絵を表に出すと決めたなら、それは絵画にとって望むべき姿なのだろう。だからこそルカは、たとえテオの大切な上層の絵が犠牲になろうとも修復を決意したのだ。
何度もひ弱な声で感謝の言葉を繰り返すテオを、ルカはげんなりしながら引き剥がす。想定外のことで執拗に感謝されるのが苦手だし、ベタベタされるのはもっと苦手なのだ。
それでもしつこく縋り付かれ、ルカは目顔で二人に助けを求める。ニノンは楽しそうに微笑むばかりだ。その隣では、アダムが「ほんとブレねーなあ、お前」と呆れたように笑っていた。
信奉者の純真(?)は彼女を救えるか?
次回、『第154話 肉を切らせて骨を断つ』




