第153話 テオドール・マネの懇願(1)
前回までのあらすじ
力の使い過ぎで倒れてしまったニノンは、「体力をつけるためにも筋肉が必要だ!」と意気込む。そのときちょうどミーシャがお見舞いにやってきて……。
「筋肉、好きなの?」
突飛な勘違いをしながら、アルテミシア・ブォナローティが遠慮がちに部屋へと入ってきた。
「あ、えーと、特別好ってわけでは……」
「筋肉なさそうだもんね、ルカ君」
「まぁ確かに――ってどうしてそこでルカが出てくるの!?」
「見たことあるんだ?」
ミーシャはちょっとびっくりした顔をしながら、「ここ、座るね」と一言告げて、先ほどまでニコラスが座っていた丸椅子に腰掛けた。
「見たっていうか、見ちゃったっていうか。温泉で偶然会っただけで……」
もじもじと言葉にした途端、湯あたりを起こして倒れたルカの、日に焼けていない半身が脳裏を過ぎった。
規則正しく上下する、薄くて白い胸板。
筋肉を纏った肉体とは異なる、淡く繊細な色香――。
「あ。ニノンちゃん、鼻血」
「え!」
叫ぶと同時に、つうと鼻から鮮血が垂れた。ミーシャが流れる所作でポケットのティッシュをニノンの鼻に押し付ける。そのとき、ちょうどティーセットを持ったニコラスが戻ってきた。
「あら、また鼻血!?」
片方の鼻の穴にティッシュを突っ込んだニノンを見て、ニコラスはぎょっとする。が、すぐに大事ないと判断したのか、ベッドのサイドテーブルにティーセットを置くなり「ごゆっくり~」となにか含んだ笑顔を残して部屋を出ていった。
ティーカップの隣には焼き菓子の盛られた小皿があった。ミーシャが手土産にと持ってきてくれた、駅前のアーケードに軒を連ねるコルテの人気洋菓子店のものだ。
「やっぱりまだ本調子じゃないんだね」
ごめんね、とミーシャが萎れた花のように俯く。ニノンは慌てて「そんなことないよ!」と両手をぶんぶん振ってみせた。
「ぐっすり寝たしもうすっかり元気なの。本当だよ」
「でも、鼻血が」
「これはその……」
ミーシャの心配げな視線は、依然としてティッシュが詰まった鼻に注がれている。
「興奮しただけ」
自分で言っておきながら、ニノンはあまりのアホくささに情けなくなった。破廉恥な想像をして鼻血を垂らすだなんて、ただの変態ではないか。
恥ずかしさと居た堪れなさに泣き笑いしていると、ミーシャがふと笑みを溢した。
「二人とも、初々しいよね」
「うい……?」
「付き合いたてなの?」
「うぶっ」
ニノンの口から、顔面を殴られたような声が出る。
「なんで!?」
「違うの?」
「違うよ!? ルカはそういうのじゃなくて、仲間、そう、一緒に旅してる仲間でっ」
露天温泉で告げられたプロポーズじみた言葉が一瞬頭を過ぎるが、そこに他意が含まれていないことは明白である。ニノンは首をぶんぶん振って、その淡い期待ごと振り払った。
「そっか」
そうなんだ、とミーシャは確かめるように頷いた。
慌てふためいていたニノンははっと我に返る。彼女の眼差しに安堵のようなものを感じ取った気がして、心が少しだけ揺れる。
「い、今は仲間だけど、でもいつかルカの特別になりたい……って思ってる」
改まって宣言しているうちに顔中が沸騰したように熱くなり、ニノンは耐えきれず顔を伏せた。ミーシャは「そっか」と今度は納得したように呟いた。
「じゃあちゃんと言葉で伝えないとね。ルカ君、鈍感だから」
「えっ、あ、うん……鈍感、だよね……」
中途半端なまま言葉が途切れる。ごくりと唾を飲み込んでから、ニノンは「あのっ」と思いきって声を出した。大きな目を瞬いて、ミーシャはきょとんとする。
「ミーシャちゃんって」
「……あたし?」
ミーシャは不思議そうに眉をひそめた。
「う、ううん。なんでもない」
力強い輝きを放つ眼に見つめられれば、ニノンの精一杯の勇気もあっという間に萎んでしまった。
ミーシャちゃんもルカのことが好きなの――喉まで出かかった疑問は再び胃に落ちていく。ますます不可解な顔をするミーシャから目を逸らし、ニノンはそそくさとお見舞い品のバターガレットに手を伸ばした。
ハロウィンナイトの大焚火の前で、ミーシャがルカに向けていた視線。
二人きりの教室で修復作業をしていたときの距離感。
ルカに嘘がばれたときの、彼女の瞳の揺らぎ。
さまざまな場面で、ニノンは彼女の視線に秘められたものを感じることがあった。だからこそ、ミーシャがこちらの背中を押すような言葉を掛けたことに、疑問と違和感を抱いた。けれどそれもすべて、ただの勘違いだったのだろうかと、ニノンは胸中で首を傾げる。
そわそわと落ち着かない様子でティーカップに口を付けている間に、ミーシャは今朝の頂上広場での様子をかいつまんで喋りはじめた。ニキから例の絵画の譲渡の話を受けたことや、テオたちが罰として自分たちの手で壁画を掃除したこと。
いつの間にか先ほどまでのちぐはぐした空気は消え去っていた。そのことに、ニノンは人知れず安堵する。
「壁いっぱいに虹の絵かぁ」
聞き齧った情報だけで、ニノンは頭の中に虹の絵を描いてみる。睡魔にのまれかけながら文字を追っても頭に入ってこないのと同じで、その虹はいつまでたっても朧げで、はっきりとした形を成さない。ひるなかに溶けてしまった夜の虹を思って、ニノンは嘆息する。
「私も見たかったな。もうほとんど消えちゃってるよね」
「今度また新しい絵を見せてもらったらいいよ。たとえ消されても、燃やされても、テオは新しい作品を生み出し続けるから」
ミーシャが毅然とした態度で言いきったので、ニノンはハッと顔をあげた。鮮やかな緑色の瞳には、テオドール・マネという画家に対する厚い信頼のようなものが宿っているように見えた。
「それが、テオ君の選んだ戦い方なんだね」
ニノンが呟くと、ミーシャは少しだけ目を見開いた。それから、腑に落ちたというような顔でひとつ頷いたのだった。
そのとき、彼女のポケットから携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。「ちょっとごめん」と言ってミーシャは寝室を出ていく。
急に静まり返った部屋の中では、音を立てるものもない。ニノンはテオの選んだ戦い方について考え、同時にルカを思った。誰よりも修復家であることに誇りをもち、それ故に悩んでいたルカのことを。彼が、自分なりの戦い方を見つけられたらいいと、ニノンは心から思う。
「――だから、画商になるつもりはないってば!」
突如、ドア越しに廊下から叫ぶ声が聞こえてきた。ミーシャは電話口の相手と口論をしているようだった。ニノンは気まずくなり、飲みかけだったティーカップに口をつける。中身はもうほとんど冷めていてぬるかった。
分厚いコイン型のガレットを意識的に頬張っていると、ガチャリとドアが開いた。入ってきたのはミーシャではなく、ニコラスだった。「洗濯物、取りにきただけだから」と言い訳のように囁きながら早足で隣のベッドに駆け寄ったニコラスは、放りっぱなしの濃いグレーのトレーナーを手繰り寄せ(ニキのパジャマだ)、再びコソコソと部屋を出ていった。
「学園も辞めるつもりだから」
ドアが閉まる直前、隙間からやけにクリアな声が聞こえてきた。そのままドアはパタンと音を立てて閉まる。
学園を辞める。学園を辞めるって、学園を辞めてしまうってことか。
静かな怒気を含んだミーシャの声が、ニノンの頭の中で反響する。ティーカップを両手で抱えたまま固まっているうちに、通話を終えたミーシャが部屋に戻ってきた。
「急にごめんね、ニノンちゃ――」
ミーシャの言葉が途中で止まる。やけに強張ったニノンの顔を見て、状況をすぐに察したようだ。彼女はさっと顔色を暗くして、携帯端末を固く握りしめた。
「もしかして、聞こえてた?」
「ううん――、ちょっとだけ」
ニノンは首を横に振りかけて、素直に頷いた。なんかごめんね、と落ち着いた声が謝罪を紡ぐ。
「今の、うちの親」
ミーシャは丸椅子に腰掛けながら、嘆息とともに短く吐き出した。
「パオリ学園の絵画科に通ってるのが気に食わないんだって」
「そうなの? どうして?」
「絵画科の卒業生がだいたい画家になるから。うちの両親はあたしが画家になることに反対なの。画商の道に進ませたいんだよ。二人ともがそれで成功してるし、職業柄、食べていけない画家を何人も見てるからって」
画商とは、世の中に埋もれている価値のありそうな絵画や、手数料が払えないような貧しい画家から目ぼしい絵画を買い取って、タイミングを見計らいエネルギーに還元する人たちのことだ。ニノンは以前、そのような説明をアダムから聞いたことがあった。
「ミーシャちゃんは学園、辞めるの?」
「うん」
あまりにもあっさりと頷かれ、ニノンは狼狽えずにはいられなかった。
「どうして……なにか、言われたの?」
「別に、あんなのいつものことだよ。まぁ、あの人たちの言うことも正しいっていうか。絵が好きで今の学校を選んだけど、画家になりたかったわけじゃない。そろそろ真面目に将来のこと考えなきゃとも思ってたし」
「ミーシャちゃん、ダーフェンさんみたいな画家になりたかったんじゃないの?」
そう尋ねると、セーターの先から覗く爪先をいじっていたミーシャがふと顔をあげた。形のいい眉が、怪訝そうに歪んでいる。なぜそんなことを知っているのか、とでも言いたげである。しかしすぐに合点がいったらしい。
「ああそっか、ニノンちゃんはあたしの過去の記憶も旅してきたから知ってるんだね。そう、最初はダーフェンに憧れて、画家になりたいって思ってたの。でもたぶん、あたしは自分で描くより、誰かが描いた絵を眺めるほうが好きなんだ」
「そう、だったんだ」
「うん。好きだと思える絵画に出会えるとうれしいし、そんな絵を眺めている時間が幸せで、この世から失われることがつらくて、傷付ける人間を許せない。だから――」
束の間、逡巡するような空気が流れる。やがてミーシャは決意したように続きを口にした。
「だからあたし、絵画のそばを離れようと思う」
え、とニノンは驚いて小さく呟いた。
「あたし、憎しみに駆られてこの手で誰かの大切な絵画を傷付けた。許せないって思ってた人間に、自分がなってたの。これからも同じように、無意識のうちに絵画を傷付けるかも」
「そんなこと!」
「ないって言いきれないでしょ」
ぴしゃりと跳ね除けられて、ニノンは口を噤む。
「あたしみたいな人間は、絵画と関わるべきじゃない。テオの戦い方が描き続けることなら、あたしの戦い方は離れることなんだと思う」
そう言って、ミーシャはぎこちなく笑った。けれど、頬も眉も引きつっていたから、ニノンには彼女が泣いているようにしか見えなかった。
「ミーシャちゃんは、絵画を傷付けたりなんかしないよ……」
暗闇を手探りで歩くように、ニノンはおずおずと言葉を口にした。うまく考えがまとまらなくても、なにか言わなくてはと思った。
「絶対にそんなことしない。だってミーシャちゃんは、誰よりも傷付けられる悲しみを知ってるんだもん……そうでしょ……?」
縋るように伝えた言葉は、少女の寂しげな微笑みに受け止められる。
しかし、そのベールの内側に隠された心にまで届くことはなかった。
「ありがとう、ニノンちゃん。だけど、実際に傷付けた事実は消えないし、絶対なんて保証も未来にはないんだよ」
*
ミーシャが部屋を出ていったあともずっと、ニノンは彼女が最後に告げた言葉を頭の中で反芻していた。
実際に傷付けた事実は消えない。それはついこの間、悩み苦しむルカが口にした言葉でもあったからだ。
しばらくして、階段を上ってくる足音が複数聞こえてきた。なんだか騒がし気な話し声もする。
「アダム君の料理の腕前、本当に信用していいんですよね?」
「そりゃもう、パリの一等地にリストランテの一軒や二軒建つくらいだぜ」
「過剰発言する人間の言葉ほど信じられないものはないんですよねぇ」
「文句言わなきゃくたばる病気なのかよ? 昼メシ食ったらさっさと掃除しに戻れよな!」
バン、と音を立てて扉が開き、アダムとテオがずかずかと寝室に入ってきた。アダムはこちらを見やるなり、「起きてたのか」と安堵したように笑った。二人の後ろにはルカの姿もある。青い瞳と目が合った途端、ニノンの胸にどうしようもない焦燥感が込み上げてきた。動揺して、視線が揺れる。
「ニノン?」
「どうしよう」
ルカの言葉を遮り、ニノンはベッド脇までやってきた彼の袖を無意識で掴んでいた。首を傾げるルカの瞳に、焦燥感に駆られたニノンの姿が映っている。
「ミーシャちゃんが……学園、辞めちゃう……」




