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コルシカの修復家  作者: さかな
12章 世界の終わりと夜の虹

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第152話 テオフィロという男について

 背中まである朝焼け色の髪をなびかせて、幼いニノンは長い廊下を駆けていた。

 目指すのは、屋敷の西棟に設けられた小さな修復工房だ。

 昨日屋敷に届いた修復依頼の絵画の状態があまりにも酷く、作業が難航していると耳にした。だからニノンは自身に宿る不思議な力を使って、ルカの手助けをしようと考えたのだ。

 

 コバルトブルーの円柱が並ぶ傾斜の緩やかな回廊を下っていると、前方から二つの人影が歩いてくるのが見えた。


「カノンお姉ちゃん」


 ニノンが駆け寄ると、カノンはしずしずと歩いていた足を止め、瞼を伏せたまま微笑んだ。真っ白いブラウスと、足元まで覆い隠す若葉色の長いスカートという出立ちで、やわらかな亜麻色の髪は日の光を受けて薄く透きとおっている。傍らには、従者であるダニエラが控えていた。


「また工房へ行こうとしていたのね」

「な、なんでわかるの?」


 ぴたりと言い当てられ、ニノンは狼狽(うろた)える。


「今はお勉強の時間のはずでしょう。抜け出す先はあの子(・・・)のもとくらいしかないもの。今ごろニコラスが探し回っているのではない?」

「で、でもだって、困ってるかもって……この力があれば手助けできるし……」

「ニコラスが困れば、きっとあの子も困ります。元気なのはいいけれど、あまり彼らを振り回さないように」

「うぐぐ……わかりました」


 正論を述べられれば、ニノンも返す言葉がない。

 聖女のように微笑むカノンは、漂う雰囲気と口調こそやわらかいが、その笑顔の圧力は凄まじい。傍らに立つダニエラはもう姉妹のやり取りにすっかり慣れ親しんでいる様子で、こちらも微笑を崩そうとしない。


「ダニエラ、あなたは先に部屋に戻っていてくれる?」

「は、しかし――」

(わたくし)はひとりでも戻れます。大丈夫よ。ニノンに少し話があるの」


 席を外してほしい、と姉は言外に伝える。微笑みの圧力を受けたダニエラは「承知しました」と胸に手を添え、踵を返した。

 円柱と円柱の間に嵌っているガラス窓は天井にまで到達するほど巨大で、屋敷が建つ崖向こうの海を一望できる。コバルトブルーの海に太陽の光が降りそそぎ、水面に細かく白い模様を描いている。

 ここにやってきたばかりのルカを連れ、屋敷の中を案内したとき、彼が最初に足を止めた場所だ。海と空の鮮やかな青を切り取った縦に長い絵画みたいだ、と彼は言った。それからというもの、ニノンはこの廊下を通るたびに“縦に長い絵画”という言葉を思い出すのだった。


「ニノン」


 はっとして、ニノンは視線を姉に戻す。カノンは相変わらず瞼を伏せ、唇を形よく引き結んでいる。


「その力はむやみやたらに使うものではありません」

「でもお姉ちゃん。私、ダメって思っても、最近よく歯止めが利かなくなるんだよ」


 たとえば喉風邪を引いたときに、自然と咳が出てしまうのと同じだ。頭では止めたいと思っていても、気がつけば誰かの声を聞いてしまうし、いつか見た他人の記憶が自然とフラッシュバックする。

 日に日に強くなる力の作用を目の当たりにした父親は、ますます意地になって娘を屋敷に閉じ込めた。ニノンが勉強の時間にたびたび部屋を抜け出すのは、もちろん難しい話が苦手だというのもあるが、束縛に対する些細な反抗心でもあった。


「力を制御する術を学ぶのよ、ニノン。感受(センス)の研究グループをまとめているのはアンデルセン一家です。彼らから学ぶための時間も設けられているでしょう?」

「あ、あー……そうだったかも。明日、いや明後日……?」


 今日この時間ですよ、とカノンは諦めたように嘆息する。ニノンは全力の笑顔を浮かべて誤魔化した。


「力を制御することはあなた自身を守ることでもあるの」

「……うん、そうだよね」


 たしなめる言葉の背後に母親の存在が思い浮かんで、ニノンは視線を下げた。

 強大な感受(センス)の力を宿した母は、外界からの刺激を受動し続けた結果、体と魂が耐え切れなくなりこの世を去った。脱色症は、女性優位で発症する遺伝性疾患だ。母の血を色濃く受け継いだベルナール姉妹もまた、同じく強い力をその身に宿している。

 以前、アンデルセン家の授業を逃げ出さずに聞いたとき、そういった小難しい話を小難しい口調で説明されたことがある。けれど残念なことに、ニノンの頭には全体の一割もインプットされなかった。専門用語が出てきたあたりから眠気に襲われ、ノートに落書きすることで意識を保つのに精いっぱいだったからだ。姉のカノンとは違い、ニノンは勉強が得意ではないのだ。


「それに、今はきっと工房にあの方(・・・)もおられます」

「あの方って……」

 一瞬考えを巡らせ、ふとその名を紡ぐ。

フィロ(・・・)のこと?」


 フィロ――テオフィロ。


 それは二年ほど前にこの屋敷へ食客として招かれた、とある科学者の名だ。容姿は二十代半ばに見えるが、腰まで伸びた髪は老人のように白く、どこか浮世離れした雰囲気をまとう男性だった。

 彼は芸術、とりわけ絵画に関して造詣が深いようで、絵画修復家であるルカとすぐに打ち解けた。昼夜問わずたいてい研究室に篭っていたが、そこに居なければ彼は必ずルカのもとにいた。それくらい親しかったのだ。ルカとよく遊んでいたニノンも、彼とは必然的に仲良くなった。


感受(ちから)の詳細をあの方に知られてはなりません」

「どうして知られちゃいけないの?」


 頭ごなしに言いつけられて、ニノンは少しムッとする。姉のカノンはどうも彼を信用していないらしい。


「彼の出身地は、史上最高の画家の一人であり、類稀なる才能を有した科学者とも謳われたとある芸術家――その名を冠する村です。そこでは高度な科学技術の研究が行われていたといいます」


 カノンは不意に、彼の出自に関する情報を口にした。以前から少しずつ彼の身元情報を探っていたのだと、姉は事もなげに言う。

 

「彼の一族はみな優秀な研究者で、様々な功績を残している。けれど、ある日を境に学会を追放されているの。禁忌に手を出したのよ」

「禁忌……?」

「ヒトに関するクローン技術の研究よ」


 ごくり、とニノンは生唾を飲み込んだ。

 幼いニノンにもそれがタブーであると理解できたのは、瞼を伏せたままの姉の表情が強張っていたからからだ。彼がこの屋敷にやってきたのは、一族が学会から追放されてからの話だという。


「でも、それは家族の話でしょ? フィロが実際に実験をしてたって決まったわけじゃないよ」

「ニノン、気を許しすぎないで」


 常に閉じられたままの瞼はいまや真剣さを伝えるために持ち上がり、白く濁った(まなこ)がニノンの顔があるあたりをじっと見つめている。否、焦点が定まっていないその眼差しを“見つめている”と表現するには少々語弊がある。

 姉のカノンは、目が見えない。


「今あの方が従事している研究は、表向きには脱色症患者の症状の緩和……つまり私やあなたの力の暴走を食い止めるための方法を探してくれている、ということになっているわ。でもその裏で本当は、人間を媒介にしたエネルギーの――」


 カノンは言葉の途中でハッと降り返った。


「こんなところで立ち話ですか?」


 低くも高くもない声に呼ばれて、ニノンも振り返る。深紅の絨毯が敷き詰められた廊下を、疑惑の渦中にある人物がちょうど下ってくるところだった。フィロはいま、絹のような長い白髪を後ろでひとつに括り、細身の白衣をまとっている。


「姉妹水入らずのお喋りですわ」


 カノンは再び瞼を閉じ、普段どおりの微笑を口元に浮かべた。


「あなた方は二人揃うと実に絵になりますね。どうです、今度我々の絵のモデルになど」

「ありがとうございます。お気持ちだけ受け取って――」

「えっ! フィロとルカが私たちを描いてくれるの?」


 やんわりと断ろうとしていた姉の言葉を、ニノンが脊髄反射で遮った。ハッとして姉に目配せし、次いで心の中で謝罪をする。ニノンの頭の中にある天秤が、姉に咎められる恐ろしさよりも、ルカの筆先が己を捉えることの光栄さに傾いてしまったのだから仕方がない。

 フィロが「ぜひ」と微笑んだとき、一度姿を消したはずのダニエラが再び戻ってきた。


「ダニエラ。ひとりで帰れると言ったでしょう」

「申し訳ございません。オーランド様がカノン様をお呼びでいらっしゃったので」

「お父様が? そう、では参りましょう。テオフィロ様、失礼いたします」


 カノンは若葉色のロングスカートの裾を少しだけ摘まんで、腰を下げる。


「ニノン、あなたはニコラスの元に戻ってお勉強をするのですよ」

「はーい」


 ダニエラを引き連れ廊下を引き返していく姉の背中に、ニノンはひらひらと手を振った。コバルトブルーの円柱が並ぶ廊下には、再び静けさが舞い戻る。

 と、ニノンの隣で同じく二人を見送っていたフィロが、視線を廊下の先に向けたまま口をひらいた。


「実は今、二人である大がかりな作品を手掛けようと相談していまして」

「そうなんだ。この前描いてたボニファシオの崖の絵よりも大きい?」

「そうですね。壁一面なので」


 両手をいっぱいに広げ、キャンバスのサイズを予想していたニノンは思わずぎょっとする。それはもう絵画ではなく、壁画ではないか。

 フィロはくすくすと笑いながら、首だけでこちらを振り向いた。その柔和な笑みを目にすれば、姉だって彼が人体実験を行うような非道な人間じゃないことくらいわかるはずだ。そもそも、集めてきたという情報がどれほど正確なのかさえ疑わしい。


「おそらく、我々が手掛ける作品の中でも最大級のものになると思います」

「パパに依頼でも受けたの?」

「ええ、実は。身に余る光栄です。我々のような素人にさえ快く芸の場を提供してくださる、あなたのお父上は良い人だ」

「素人とか素人じゃないとか、関係ないよ。だって私、フィロの絵好きだもん」

「お嬢様、」


 フィロは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「ありがとうございます」とやわらかく目尻を緩ませた。


「人も世の中も、価値観も、時とともに変化し続けます。けれど、時が経っても変わらないものがあったっていい……そう思うのです。だから私は、人がこの世に遺す芸術が好きなのかもしれません」


 やさしい声音で紡がれる本音に、ニノンは心が温かくなるのを感じた。

 やはり姉は、フィロのことをなにか勘違いしているのだと改めて感じる。


「そんなに大きいと、完成はまだまだ先かなあ。早く見たいな」

「本職の片手間に進めるので、時間はかなりかかると思いますよ。まずはエスキースを描くところからですね」

「お仕事を誰かに代わってもらったら?」


 フィロは困ったように笑うだけだ。ニノンは肩をすくめて溜息をつく。


「ルカもフィロももう何枚も作品をつくってるんだし、いっそのこと本当に画家になっちゃえばいいのに」

「それは……過分なお言葉ですよ。でも、ありがとうございます」


 男の瞳がわずかに(かげ)る。だがその影は瞬きの内にどこかへいってしまった。代わりに彼は、五月の日差しのようなやわらかな微笑みをたたえた。


 今になって思う。

 あの影の正体を、ルカは知っていたのだろうか。

 ニノンが理解せずに過ごしてしまったその理由を。

 どうして彼が、そんなにも悲しそうな目をするのかを。



「――待って!」


 自らの大声にびっくりして、ニノンはベッドから飛び起きた。

 心臓がいやにどきどきと激しく脈打っている。あたりを見回すと、どうやらここはニキ邸二階にある寝室のようだった。


「び……びっくりしたわね」

「ニコラス」


 ベッドサイドには丸椅子に腰掛けたニコラスがいて、驚きに目を丸くしていた。彼の膝には縫いかけの白いポーチが乗っている。


「昨日、学園の教室で鼻血を出して倒れたんだよ。無理に感受(センス)を使ったろう?」

「あー……」


 霞みがかっていた頭の中が、次第に冴え渡っていく。

 夕暮れが迫るパオリ学園の教室で、ニノンは暴走するミーシャを止めるために力を使ってルカの記憶にアクセスした。うまくいったと思ったら突然身体が怠くなって、鼻血が出て。意識が朦朧とするなか、ニコラスに抱きかかえられて――記憶はそこでぷつりと途切れていた。

 どうやらニコラスが学園からここまで運んできてくれたらしい。


「ありがとう、ニコラス。もしかしてずっと看病してくれてた?」

「内職の片手間にね」


 ニコラスは気を遣わせないためか、ミモザの刺繍が途中まで施されたポーチを掲げてみせる。それからぐっと顔を近づけ、ニノンの額に右手をあてがった。


「熱はなし。うん、顔色も良さそうね」

「なんだか、よく寝たーって感じがするよ」


 両腕を伸ばせば、ニコラスは声を上げて笑った。


「そりゃそうさ。なんせ十五時間もぶっ通しで眠ってたんだもの」

「そんなに!?」


 自覚すれば、とたんに空腹で胃がしくしく痛みはじめた。驚いた際に床に落としたらしい縫い針を拾い上げながら、ニコラスは「どこか辛いところはあるかい?」とやさしく問う。


「おっ……」

「お?」

「お腹空いた!」


 コミカルな動きで丸椅子からずり落ちた後、ニコラスは一階に降りてキッチンからチキントマトスープを運んできてくれた。体力がないときはこれが一番効くからと、アダムが一昨日たっぷり作り置いてくれたものだった。

 温かいスープで異常な空腹を満たしながら、ニノンはニコラスから現状の説明を受けた。自分が眠っている間にテオがやらかした(・・・・・)こと、アダムとルカが彼の様子を見るために朝から頂上広場へと出かけていったこと。


 空になった皿を片付けるためにベッドから出ようとすると、ニコラスは「病み上がりなんだから、まだ横になってなさい」と諭して、ニノンを再びベッドへ寝かせた。過保護な母親役はぴしりと掛け布団のしわを正し、そのまま皿を持って一階へと降りていった。

 もう十分過ぎるほどの休息をとったと反抗すれば、ますます彼を困らせてしまうだろう。ニノンは厚意に甘えてもうしばらく身体を休めることにした。室内はとても静かで、空気は少しひんやりとしていた。視線の先には、ニキが手塗りした漆喰の天井が広がっている。


「張り切りすぎて、逆に心配かけちゃったな」


 天井の凹凸模様を目で辿りながら、 ニノンは人知れず嘆息する。

 今しがた見た夢、あれは過去の記憶だ。昔からもうずっと、ニノンは力を抑えきれず周囲に迷惑をかけてきた。そのことをはっきりと思い出したことで、胸に重たいものが溜まっていく感覚がした。

 この力を応用すれば、絵画に秘められた声だけではなく、あらゆる物質――ひいては他人の記憶にさえ干渉できる。姉は、この力を他人に悪用されることを恐れていたのだろうか。


 力を制御しなさい、と姉はことあるごとに口にしていた。

 ミーシャと記憶の旅から戻ったとき、ニノンは自分も感受(センス)をようやくコントロールできるようになってきたと、鼻高々だった。とんだ奢りだ。周囲に迷惑をかけたことは正面から受け止めることにして、しかし力の行使に身体がついていかないという事実が知れたことは、今回の収穫だろうとも考えた。

 となると、次なる課題は……。


「体力をつけなきゃ」


 ニノンは布団の中で拳を握り、独りごちる。


「でも体力をつけるにはどうしたらいいんだろう……体力、体力……体の力…………はっ、筋肉!」


 得心してニノンが思わず布団から身を起こしたとき、扉の向こうから階段を上ってくる小さな足音が聞こえてきた。


「ニコラス聞いてっ、あのね、筋肉――」


 前のめりになってそう言いかけ、はたと言葉が止まる。

 開いた扉の先に見えた、燃えるような赤髪に、エメラルドそっくりの煌めく瞳。


「ミーシャちゃん?」

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― 新着の感想 ―
[一言] わわわ。重要そうな部分! 後を思えば、やっぱり彼がお姉さんを……? 体に有害な余分なエネルギーだけ変換できればいいのだろうけど…… 続きも気になる気になります!!
[気になる点] 前話のあとがき欄の次回予告が、今回の話の内容と違うので変更したほうがいいかも? [一言] >けれど残念なことに、ニノンの頭には全体の一割もインプットされなかった。専門用語が出てきたあた…
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