第151話 ある者にとっての唯一、ある者にとっての凡俗(3)
「ブォナローティ君は、ダーフェンの絵を手放したこと、後悔してるんじゃないの」
ニキの声音は優しいのに、どこか遠慮のない鋭さも感じさせる。
鮮やかな緑色の双眸が一瞬だけ、小魚が跳ねた水面のように揺らいだのをルカは見た。
「ごめん、ただの憶測でものを言うのはよくないな。でも、この絵も君に持っていてもらった方がいいんじゃないかなと思って。ぼくが持ってたらほら、このとおり埃だらけになっちゃうし」
自慢できることでもないだろうに、ニキは自信たっぷりに胸を張る。
キャンバスの上部には確かにうっすらと埃が積もっている。一介の修復家として、ルカも彼の提案には心から賛成した。
しかし、アダムは引っかかるものがあったらしく、「でもさ、先生」と訝しげな顔をする。
「絵画の不法所持は罰せられるんだろ?」
「そうだね。もちろん、この絵も規制の対象になってるわけだけど」
ここ最近、エネルギー供給量は不安定になっている。なにせ、一行がコルテに滞在している間に一度計画停電が実施されたくらいである。
後になって、あのときの電力不足はアメリカの中部から東部を襲った記録的寒波によるものだと報道があった。だが、依然として「絵画の収集量が足りていないのではないか」といった噂話も巷ではまことしやかに囁かれている。
今回のようなトラブルを未然に防ぐためなのか、それとも単純に資源の収集が追いついていないのか。真偽は不明だが、数ヶ月前に絵画の所持を禁止する法律が制定されたのは事実だ。
「ただ、それは誰が持ってても変わらないし。違法になるのも、あくまで提出を求められて拒否した場合だからさ」
「や、確かにそうなんだけど。俺が言いたいのは、譲ったところで結局手放す羽目になるのはかわいそうだって話だよ」
納得いかない、という風にアダムは眉をひそめた。
「取り締まる内容も変わっていくかもよ?」
「んなの希望的観測じゃん」
「果たしてそうだろうか」
「え、そうだろ? ……違うのか?」
アダムの眉頭がさらにぎゅっと寄る。
一方のニキは、腕を組んできりりと眉を持ち上げている。
「そもそも、AEPってのは謎が多い技術だよ。いわば発掘途中の超古代文明都市みたいなもんだから、今後はもっと資源の条件が細かく解明されていくんじゃないかな~。たとえば、エネルギーにならないと最初からわかってる絵画は、資源から除外されるとか」
ニキの含みをもった言葉は、まさにダーフェンの絵画を指しているのだろう。
エネルギー還元率が極端に少ないと、実績から確証を得られる絵画。皮肉なことではあるが、エネルギー資源としての価値がないと認められれば、手元に置いておくことを許される――そんな未来がやってくるのかもしれないと、ルカもニキの話に耳を傾けながら考える。
AEP発電装置を稼働するのにもそれなりのエネルギーが必要なのだろうから、無駄打ちは避けたいと考えるのも道理だ。
「難しい話はわかんねえけど、やっぱうまくいけばの話じゃんか」
「ははは。いやでも、今だって例外は定められてるわけだから」
「未完成品、破れや欠損のあるジャンク品、それから贋作……でしたっけ」
今まで大人しく話を聞いていたテオが、行儀よく顎に手を添えて答える。ニキは「正解です!」と教師然として頷いた。
「今後はもっと条件が増えるかもね。逆に、減る可能性も十分ある。……ま、その話は今は置いておいて」
ニキは再度ミーシャに視線を送ると、キャンバスの向きを変えてそっと差し出した。
「ぼくとしては、この絵画を譲渡してもいいと思ってる――君が望むならね」
むすっとした青いワンピースの少女が、キャンバスの中からこちらを見ている。
「…………」
ミーシャもじっとキャンバスの中の少女を見つめ返す。
そうしてしばらくお互いに見つめあったあと、最終的にミーシャはおずおずとキャンバスを受け取った。その眼差しは、束の間離れていた我が子を出迎える母親のもののような、慈しみと優しさに満ち溢れている。
ミーシャは決心したように、唇を薄くひらいた。
「画家にとって、〈昼下がりの少女〉はなんでもない一枚だったのかもしれません。でも、あたしにとっては、たった一枚の大切な絵画だったんです」
女生徒たちの話し声も、空を舞う鳥のさえずりも、今はそっと息を潜めている。静かな朝の空気に、彼女の澄んだ声だけが響く。
伏せた少女の瞼をふち取る、長いまつ毛が朝の光を受けて煌めいた。
「この絵は、あたしが失った絵と構図も筆遣いも色も、なにもかも同じだけど。だけど、一緒に過ごしてきた思い出の数が違うんです。だから……」
ミーシャは迷わずにキャンバスをニキへと差し出した。
「せっかくのお話ですが、この絵画は受け取れません」
力強く言いきったその緑色の瞳の中に、ひと筋の光が宿るのを、ルカは確かに見た気がした。
彼女は毅然とした態度でこう続ける。
「あたしにとって唯一だった絵画は、もうこの世には存在しません。たとえ見た目が同じでも、あの子の代わりにはならないから。だからあたしにこの絵画はもう必要ないんです」
それから、「気遣ってくださってありがとうございます」と申し訳なさそうに頭を垂れた。
「そうか、うん、わかった」
再びキャンバスを受け取ったニキは、何度か頷きながら安堵したように微笑んだ。
「でも先生、たまには埃くらい掃除してあげてください」
「ははは。善処しよう」
冗談を言えるくらい彼女は強くなっていた。
頼もしい姿に、テオは教祖を崇める信者のような熱い視線を送っている。放っておいたら、彼女を崇め祀るための銅像をこの地に建ててしまいそうな勢いだ。アダムはそんな彼に一瞬だけ侮蔑の眼差しを向けたが、ふとニキの手に抱かれたキャンバスを見つめて、こんなことを呟いた。
「ダーフェンさんも苦しかったんだろうな。周囲から同じ絵を求められて、機械みたいに同じものを描かなきゃいけなくて。でも、生活するためにはそうするしかなくてさ」
アダムの口調には同情の色はみられず、どこか懐かしむような雰囲気があった。
彼も絵描きのはしくれである。憐れんでいるのではなく、同調しているのかもしれない、とルカは思った。
「最後には絵を描くのをやめちゃうくらい辛かったんだ。還元率の暴落も、もしかしたらダーフェンさんのそんな気持ちが原因だったのかもな」
誰もがひととき、ダーフェンの人生に思いを馳せる。
ややあって、ニキがマダムのように指先を口元に当て、つややかな眼差しをアダムに向けた。
「アダム君て、意外とロマンチストねえ~」
「なんだよ先生、茶化すなって!」
顔を赤くするアダムを見て、ニキはなおもニコニコしている。
「だって、まるでAEPが絵画に込められた思いを糧にしてるみたいな言い方じゃない。画家が魂を削って作り上げた絵画ほど資源としての価値が高まるってことだよね。アダム君の発想はおもしろいなぁ」
「じ、実際そうかもしんねえだろ。だってAEPは――」
「アダム!」
次に続く言葉を察知して、ルカは咄嗟に大声を出した。
アダムを含め、その場にいたものが驚いて一斉にこちらを振り向く。
「どうしたの、ルカ君」
「大声出すなんて珍しいじゃないですか」
ミーシャとテオ、それぞれから奇異の目を向けられ、ルカはハッと我に返る。
「すごくおもしろい話だと思って」
焦った結果、全然おもしろくなさそうな声になってしまった。ルカの耳元で心臓がうるさく跳ねている。アダムを見やると、彼も冷や汗をかいていた。AEPにニノンの姉が関わっているのだと、うっかり口を滑らせかけたのだろうか。
――く、口が軽すぎる……。
ルカが全身汗をかいて焦るレベルの口の軽さである。ルーヴル発電所の地下で目にした光景を不用意に口にして噂が広まりでもしたら、どんな報復を受けるかわかったものではない。
信じられないものを見るような目で口の緩い男を一瞥すると、アダムはへつらうように笑った。
「結局はさ、作者がどんな思いを抱えてその絵を描いたかなんて関係ねえんだ。それがエネルギー還元率にかかわってたとしても、ミーシャちゃんみたいに絵画そのものを大切にしてる人間からしたら、それすらも関係なくてさ――」
「おーい、堂々とサボってんじゃねーよ!」
アダムが本来伝えようとしていたのであろう気持ちを必死に口にしていると、不意に建物の方から怒声が発せられた。
振り返ると、金髪に青いメッシュをひと筋入れた女生徒が、肩を怒らせてずんずんとこちらに歩いてきていた。どうやら、いっこうに作業に戻ってくる気配のないテオたちに業を煮やしたらしい。
彼女は近くまでやってくるなり、テオと、なぜかアダムの首根っこもひっ掴んで、目力のある両眼をさらに見開いて凄んだ。
「ちんたらしてんなよ。さっさと掃除しなきゃ日が暮れるだろ!」
「俺関係ねえんだけど!?」
首根っこを掴まれたまま、アダムがじたばた暴れる。
「どうせ手ぇ空いてんでしょ」
「ぐぇ――い、いいのか? 俺のレンタルは高いぞ?」
「いーよ。テオが払うから」
「なんで僕が!? 払いませんよ!」
女生徒はアダムとテオの喚きを無視し、乱暴な手つきでずるずると建物の方へ引きずっていった。ははは、と能天気に笑っていたニキも、「仕方ないな。ぼくも手伝ってこよう」と腕まくりをしながら三人の背中を追って、向こうへ行ってしまった。
ルカは唖然として、嵐のような騒がしさが去った先に目を向ける。
朝焼けに白む空を背に、立派な煉瓦壁の建造物がそびえ立っている。その壁を彩る虹色の絵は、下の方から少しずつ、溶けるように消えてなくなっていた。
「ルカ君、ありがとう」
突然お礼を言われ、ルカは驚いて隣を振り返る。
ミーシャは睨みつけるように遠くの壁画を見つめている。
「俺は別になにも」
彼女は小さく首を振った。眉間にしわを寄せて、けれど瞳を揺らがせて。不機嫌そうな表情は、彼女が感情を我慢しているときによくするものだと、ルカは最近ようやく気がついた。
「あたし、ルカ君たちに出会えてなかったら、大切なあの子を悲しい記憶の中に置き去りにしたままずっと過ごしてたと思う。それにきっと、世界中の修復家を恨んだままだった」
「今はもう恨んでない?」
「う、恨むわけないでしょ。だってあたし――むしろ、あたしはっ……」
咄嗟の返答に、嘘偽りはないのだろう。
ルカの顔が自然とほころんだ。
その瞬間、声を荒げかけたミーシャの頬がカッと赤く染まった。そうして彼女は勢いよく顔を背けてしまった。
怒らせてしまったのだろうか、とルカは自身の失言を反省する。「ごめん」と謝ってみたが、彼女は一向に顔を背けたままだ。燃えるように赤い髪の間から覗く耳までもが、真っ赤に染まっている。
「ミーシャと修復作業をしてるとき、俺、本当に楽しかったんだ。毎日、学園に行くのが待ち遠しかった。俺も、ミーシャに出会えてよかったと思ってる」
「……ルカ君。そういうこと、軽々しく言わない方がいいよ」
相変わらず顔を赤くしたままミーシャは振り向き、くぎを刺すようにルカを睨めつけた。やはり、ものすごく怒っている。
「嘘じゃないよ。本心だ」
なんなら心の中を覗き込んでくれたっていい。そんな気持ちを込めて真剣に見返せば、ミーシャは「うっ」と急所を突かれた生き物のようなうめき声をあげた。
「……あたし、ニノンちゃんのお見舞いにいってくる」
「え、今から? 授業は……」
「サボる!」
堂々と宣言して、ミーシャは逃げるようにその場から立ち去った。




