第151話 ある者にとっての唯一、ある者にとっての凡俗(2)
モリゾ副学園長の予言通り、テオたちには反省文の提出と、翌日から四日間の停学処分が言い渡された。
それに加えてもうひとつ、課された罰があった。彼らがまだ肌寒い早朝からデッキブラシ片手に頂上広場に集まっているのは、その罰を遂行するためである。
「だーかーらー……」
連なる山脈からゆっくりと顔を出した淡白い太陽を背に、テオはギギギ、と軋んだ音を立てながら、身体ごとこちらを振り返った。
「なんでルカ君が、ここにっ、いるんですかっ!」
『か』の音とともに、デッキブラシの柄の先端が勢いよくルカの顔面に突きつけられる。ルカは差し向けられたそれにちらりと目をやり、また目の前の少年に視線を戻した。
「朝から元気だな、テオ」
「俺もいるぜー」
アダムはルカの背後からひょこりと顔を覗かせ、陽気にピースサインをぶらつかせた。ジャージ姿の女生徒たちから、各々明るい挨拶が返ってくる。そのすべてが腹立たしいとでも言うかのように、テオは盛大な舌打ちを放ち、デッキブラシを地面にドンと突き立てた。
「うおっ。なんだよ急に」
驚くアダムを無視して、テオの鋭い眼差しはルカを一心に射抜く。
「あのですね。僕たちは自分たちが描いた絵を自分たちで消すって罰を全うしにきてるんですよ。十字架背負ってここまで登ってきてんですよ」
「――消す?」
「で、あなたたちは? 一体なにしにきたんですか。ゴルゴダの丘に集う愚かな民衆なんですか?」
ずい、ずいと距離を詰められて、ルカは上半身をわずかに仰け反らせる。
「消すのか、この絵を……自分たちで?」
「そうですよ! それを見にきたんじゃないんですか?」
「そんなつもりじゃ」
ルカはとっさにかぶりを振った。彼らに与えられた罰則は、てっきり紙っぺら一枚分の反省文をしたためることと休学処分だけだとばかり思っていた。
自分たちで描いたものを、自分たちの手で消すのか。
心の中で反芻すれば、途端にルカの胸はずしりと重みを増した。
「誰がんな小姑みてえなことするかよ」
俯くルカの肩をポンと叩きながら、アダムが隣に立つ。
「俺たちが見にきたのはその壁画。昨日は暗くてなに描いてあるか全然見えなかったからさ。そうだよなあ、ルカ?」
「あ、ああ。うん」
「は? なにを呑気なことを――」
もうすぐ消すんですよ。ひやかしですか。そんな風に憤慨するテオの脇を素通りして、アダムはひとり資料館の壁へと歩いていく。「無視しないでください!」とテオが喚く。ルカもアダムの後を追って建物に近付いた。
そして青い瞳は、壁にめいっぱい広がった彼らの作品を真正面から捉えた。
ルカは息をのみ、目を見張る。
「……これを一晩で?」
一見すると、ただ何色もの“色”がぶつかり合った抽象画である。あるいは、幼子が好きな色のクレヨンで描き殴った一枚の画用紙だろうか。
さまざまな色が混じれば全体的に濁りそうなものだが、目の前の壁画は不思議と鮮やかだった。
「んー」
アダムは腕を組んで眉を逆への字に曲げ、短く唸る。
「ミックスジュース?」
「ちげーよ。虹!」
金髪に青いメッシュを入れた女生徒が、腕を組みつつ後方で吠えた。
「虹ィ? それにしちゃ色が多くねえ?」
「豪華じゃん。かわいいっしょ?」
それからもあれこれと意見を交わす彼らを尻目に、ルカは吸い込まれるようにひたすら壁画を眺め続けた。
描かれている面は横にずっと伸びていて、その全容はほとほと視界に入りきらない。壁画の端を探すために、ルカは一歩、また一歩と足を動かした。だがついに、端を見つけることはできなかった。
その壁画は、巨大な円柱状の建物の壁伝いに、ぐるりと一周かけて描かれていたのである。
「〈夜の虹〉ですよ」
「夜の……虹?」
振り返ると、テオはいつの間にか隣にやってきていた。左手に提げていた重たいバケツを地面に降ろし、その中にじゃぽんとデッキブラシを突っ込む。
「真っ暗な中ではどのスプレーを吹き付けても、僕たちの目は黒色としか捉えない。それでも、夜が明けるとこんなにも鮮やかなんです」
バケツの中には洗浄液が入っているようで、特有のツンとした臭いが漂ってきた。
「ただ僕たちが見えていないだけで、虹は何時だってちゃんと虹色なんですよ。そういう意味を込めた絵なんです…………なーんてね」
テオはいたずらっぽく口の片端を上げると、洗浄液に浸したデッキブラシを持ち上げて、煉瓦壁を力いっぱい擦りはじめた。たちまちのうちにブラシの周りが虹色に泡立つ。
ジャコジャコジャコ、と荒々しい音がそこかしこから聞こえてくる。女生徒たちもお喋りをやめて、各々が罪の償いに徹しはじめたのだ。茶髪の巻き毛の女生徒が、余っていたデッキブラシをアダムに押しつけている。俺関係ねえだろ、とぼやきながらも、アダムは彼女たちに顎で使われることを選んだようだった。
「…………」
ルカは発する言葉の代わりに、無意識に手を伸ばしかけた。その指の先で、彼らの熱意はあっけなく泡に溶けて消えていく。
どろどろと壁を伝い落ちる虹色の液体。欠けていく虹の帯。
腹の底から、何か酸っぱいものが込み上げてくる。それは悔しさだった。そして悲しみと、やるせなさだった。
「本当に消していいのか?」
抑えきれなかった感情が、ルカの口からぽろりと溢れ出た。
一度消してしまえば、その絵はもう二度とこの世に取り戻せないのに。
冗談めかした笑みの裏に彼が隠したのは、この絵に対する未練ではないのか。
珍しく焦燥的な声だと思ったのか、テオは清掃の手を止めると、振り返らずにはっきりと答えた。
「だって、虹は瞬きの合間に消えるものですよ?」
押し黙るルカにテオはちらりと目をやり、「ふはっ、傑作ですねその顔」と歪に笑った。そうしてまた、デッキブラシでジャコジャコと壁を擦りはじめる。
ルカはその場に立ちすくむ。そして、エネルギーに替わることなく消えていく絵画の行き着く先を思った。
瞼の裏に巣くう、黒くもやもやとした闇。じっと目をこらすと、遥か遠くにちかりと光が見えた。さらに目をこらす。光に向かって進む。長い暗闇を抜けると、その先には、今まで修復を手掛けてきた絵画の残像がずらりと並んでいた。
ああ、そうだったな、とルカはひとり頷いた。
「雨が降って空が晴れたら、虹はまた架かるよ」
気がつけば、ジャージ姿の似合わない背中に、そんな言葉を投げ掛けていた。
テオはぱっとこちらを振り返り、一瞬驚いた顔をする。
この世から失われてなお心に残るもの。
それはきっと、エネルギーに替わろうが替わるまいが同じなのだ。網膜に焼き付いた瞬間から、誰かの人生の一部になる。土壌に撒かれた種の糧になる。種はやがて芽を出し、蕾をつけ、きっと新たな花が咲く。
「……俺はそう思う」
「はは。そこは言いきってくださいよ」
思わず、といった風にテオは吹き出した。しかし、次の瞬間にはまた驚いた顔に戻ってしまった。彼の視線はルカの肩を越えて、頂上広場の入り口に向けられている。
「……?」
不思議に思ってルカが背後を振り返ると、そこには息を切らせて坂道を登ってくるミーシャの姿があった。
「あ……え、いったい、どうしてここに?」
慌てふためくテオの声に、女生徒たちも清掃の手を止めてなんだなんだと首を伸ばす。しかしすぐに訳ありな空気を察して、そそくさと各自の作業に戻っていく。
「じっ、あの、授業……授業は大丈夫なんですか?」
「まだ登校前だし。っていうかそんなのどうでもいいよ」
はあっ、とミーシャは肩で大きく息をして、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。彼女はちらりとルカに視線をやると、手で寝癖のついた髪を撫でつけた。ろくに身支度する時間もなかったのか、部屋着のような巨大なサンタクロースの顔が前面に編み込まれた明るい緑色のセーターを着ている。ダサセーターだ、と後ろの方で誰かが呟いた。
「頂上広場の建物の壁にテオが絵を描いたって。だから見に来ないかって、教えてくれたの」
「……誰がですか?」
「アダム君」
「アダム君!?」
卒倒する勢いでテオが叫ぶ。呼ばれていないのに、遠くでアダムが「なんだって?」と首をひねった。
「れれ、連絡先を知ってるんですか?」
「ちょっと前に聞かれたから……。それがなにか?」
ギュンッ、とテオの首が高速で回る。限界まで吊り上げた目が、相手の首を打ち落とさんとばかりに標的の男を睨みつけた。
「彼女に連絡先を聞いたんですか!!」
殺気に気付いたらしいアダムは、咄嗟に片手を突き出して弁明をはかる。
「一回喋ったら連絡先ぐらい交換するだろ!?」
「しませんよ、この不埒者!」
「なんでだよ! 真っ当なコミュニケーションだろうがっ」
「新しい連絡先なんて僕もまだ知らないのにいぃ」
情けない声をあげるテオの胸倉を、ミーシャが容赦なく掴んで引き寄せた。
「ごちゃごちゃ騒がないで。みっともない」
「ひぃん。ご、ごめんなさい」
「さっき『絵が消される』ってアダム君が連絡くれて。慌てて家を出てきたの」
ミーシャは胸倉を掴んでいた手を放し、ところどころが消えかかっている虹色の壁画を見上げた。そのまま黙って色の集まりを見つめ続ける少女に、テオはそわそわとした視線を投げる。
「慌てて駆けつけてくれるくらい、僕の絵を見たいって思ってくれてたなんて」
光栄ですよ、とテオは照れ臭そうに人差し指で鼻を擦った。
「いいね」
「……え?」
「この絵。楽しい感じがして、あたし好きだよ」
からっと晴れた美しい笑顔を浴びて、テオの顔は沸騰する勢いで赤くなった。
「ぼっ……僕は、ミーシャが――!」
一世一代の、という言葉が似合うほど勢いよくテオが何かを言いかけたところで、頂上広場の入り口から「ぶえっくしょーい」と地を揺るがすほど巨大なくしゃみの音が聞こえた。
驚いて振り返ると、ニキが口元を拭いながら広場に入ってくるところだった。肩まで伸びた黒髪はいつもの如く寝癖でぼさつき、薄汚れたグレーの繋ぎに黒のパファーアウターを着込んでいる。小脇には布で包まれた長方形の物体を抱えていた。
女生徒たちはジャージの袖を捲り上げながら、ニキを黄色い声で出迎える。あちらこちらに片手を挙げながら、ニキはルカの元までやってきた。いい機会だとばかりに、アダムもデッキブラシを放り出してこちらに駆け戻ってくる。
「やー、朝早くからご苦労さま。で……テオドール君は何してんの?」
「驚いて転んだだけです……」
コメディ漫画みたいなこけ方だね、などと笑いながら、ニキは地面に突っ伏すテオの腕を取って抱え起こした。
「それが?」
ルカがニキの脇に抱えたものに目をやると、ニキは「ああ」と頷いた。
「昨日言ってたダーフェンの絵画、持ってきたよ」
画家の名を耳にした瞬間、ミーシャの表情が分かりやすいほど尖った。
「ちょっと埃かぶってるけど……そこはまぁほら、備蓄資源だからさ。許してちょーだいよ」
よっこいせ、とニキは小脇に抱えていた包みを解いた。中からは、腕に収まるほどの大きさのキャンバスが丸裸の状態で姿を現した。その瞬間、ミーシャは弾かれたように前のめりになり、目の前のルカとテオを両脇に押し退けた。
彼女は穴が開くほどの鋭さでキャンバスを覗き込み、次いで勢いよくこの絵の持ち主を問い詰める。
「先生っ。これを、どこで?」
「んー、どこで買ったんだろ? 父が手に入れてきたものだしなぁ。あらかた、バスティアで半年に一度開かれる絵画のマルシェとかじゃない? ダーフェンの暴落以前に購入したのは確かだね。『備蓄として持っていけ』って引っ越しの荷物に突っ込まれたぐらいだし」
「ダーフェンの暴落?」
ミーシャは目を見張って反芻した。
「そう。ダーフェンはまったく同じ構図の絵を何十枚も描いてる。それがこの〈昼下がりの少女〉。最初の一枚は、かなり高い還元率だったんだ。でも、あるときから同じ構図なのに思うようにエネルギーを搾り取れなくなった。それがいわゆる“ダーフェンの暴落”って呼ばれてる事件だね」
「なあ先生。それってそんなに有名な事件なの? 俺、聞いたことねえんだけど」
アダムが横槍を入れると、ニキは困り眉になって「んー」と首を捻った。
「のちに彼は自ら命を絶ってて」
「え――えっ?」
「話題になる前に揉み消されたのかもしれないな。いや、真実はわかんないけどね。揉み消されたといっていいくらい、世間では話題になってないし、調べても情報がほとんど出てこないのは確かだね。実際、君たちも知らないようだし」
横たわる残酷な現実に、それぞれは思わず息をのむ。アダムはすぐに眉間にしわを寄せて、「ルーヴル発電所のやりそうなことだぜ」と吐き捨てた。ニキはさらに眉尻を下げ困ったように笑ったあと、ふと何かに思い当たったように「あ」と声をあげる。
「もしかして、ブォナローティ君もダーフェンの絵画を持ってた?」
「あたし……そう、あたしも持ってました。この絵をコピーしたみたいな、構図もまったく同じ絵。先生のおっしゃる暴落が起きた後に還元したから、あたしの持ってる絵画はほとんどエネルギーにはなりませんでした」
「なるほどね。ダーフェンが同じ絵画を何十枚も制作してたって知らなきゃ、そりゃあ驚くよね。なんたって、同じモチーフやテーマを扱ってるのとはわけが違う。コピー同然の代物だからね」
ニキは絵画を持ち上げ、青いワンピースの少女をしげしげと眺めた。
露わになったキャンバスの裏面に、ルカはふと目を移す。木枠はささくれだっていた。汚れた桐製の、安価なものだ。少し歪んでいるようにも見える。
こういった粗雑なキャンバスを使うのは、だいたいが資金繰りに困っている画家である。けれど、ダーフェンは駆け出しの画家ではないし、当たりを一枚も出したことがない画家でもないはずだ。
不思議に思ってルカが僅かに首を傾げたときだった。
「これは学園長から聞いた話なんだけど」
ニキはそう前置いて、訥々と語り始めた。
「ダーフェンはもともと、愛娘を題材に多くの作品を描いていたんだ。それまでもそこそこ評価は得ていたみたいだけど、大きく当たったのがこの絵――もとい、この絵の元になった〈昼下がりの少女〉だったんだって。その後に何作か違う絵画もルーヴルに送ってるみたいなんだけど、まぁ還元率はまずまずって感じで。悩み抜いた末に、彼はかつての自身の最高傑作を複製して、再びルーヴルに送ったんだな」
「で、それがまたしても高還元率を叩き出したってことか」
顎をさすりながらアダムが呟くと、ニキは「そのとおり」と言って人差し指を突き立てた。
「〈昼下がりの少女〉の複製はそこから始まったと言われているね」
「そうだったんですね。じゃあ、この……これらの絵は、彼にとってはなんでもない一枚だった、ってことですね……」
ぼそりと呟いたミーシャは、かさぶたを無理やり剥がされたような悲痛な顔をしていた。自分が大切にしていたものの価値を、その生みの親に否定されたも同然だと感じたのだろう。薄い下唇を噛む少女は、またしても泣いてしまうのではないか。
「ダーフェンさんは、お金に困ってたんじゃないかな」
だからルカは、ニキが口をひらくよりも早く、そんなことを発していた。
お、とニキが面白そうな顔をしてルカを見る。
「ルカ、どうしてそう思う?」
「キャンバスの質が貧相だから」
ニキはくるりとキャンバスを裏返して、木枠を注意深く眺めた。肩をぶつけるようにしてアダムも隣に割り込み、ニキの手元を覗き込む。
「うちの工房にもたまに入ってくるけど、そういうのはだいたい、駆け出しの若い画家か、貧しい画家が描いたものが多いから」
「よくわかったね、ルカ。実際ダーフェンは、親族のこさえた借金やら親の介抱やらで相当お金に困っていたみたいだ。普段は働きに出て、家族が寝静まった夜中に絵を描くことも多かったらしい。彼には、還元率の高い絵を描かなければいけない理由があったってわけ」
ニキの腕に抱かれたキャンバスの中で、幼い少女はそれは豪勢なワンピースを身に纏っていた。腰から広がるギャザーたっぷりのスカート、袖口に光る、縦に三つ並んだ金色のカフスボタン。スカートの裾から覗くのは、つま先が丸っこい形の、黒いエナメルシューズ。
もしかしたら、現実はこうではなかったのかもしれない。豪華な衣装も腕に抱いた毛並みのいい白い猫も、ただの空想で、現実を絵の具で飾りつけただけなのかもしれない。それでも、不満げな表情までは偽ることができなかったのではないか。
ニノンがいない今、真実を知ることは永遠にできない。知る必要もないと、ルカは思った。
「で、ひとつ提案なんだけど」
ニキは話題をきってそう告げ、ミーシャに視線を向けた。
「この絵を君に譲ろうかと思うんだ。どうかな?」




