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コルシカの修復家  作者: さかな
12章 世界の終わりと夜の虹

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189/206

第150話 誰が為のアート

前回までのあらすじ

学生指導担当のニキに一報が入る。なにやら、テオが問題を起こしたようで…。

 薄明(はくめい)の空に一番星が瞬く頃、テオドール・マネはコルテの町のてっぺんにいた。


 頂上広場に辿り着くまでには急こう配の坂道が続く。

 重たい荷物を背負ってここまでやってきたテオは、肩で息をしながら眼前にそびえる煉瓦造りの建物を見上げた。山間の夜は冷える。吐き出した息はほの白く、鼻先で溶けるように暗がりへと消えた。


 コルテの町並みを見下ろすように、山の頂に鎮座する円柱状の巨大な建造物。かつてそれは、コルシカ島で勃発した独立戦争において要塞(シタデル)として革命軍の盾の役割を果たし、やがてコルテの地に集う学生たちの学び舎の一部となった。

 そして今、ひとりの学生の目にそれは巨大なキャンバス(・・・・・・・)として映り込んでいる。


『ねぇテオ』


 遠い記憶の彼方から、彼女の弾んだ声が聞こえてくる。


『昔、ルーヴル発電所は“ルーヴル美術館”って名前の施設だったんだよ。そこには何千、何万もの絵画が飾られていて、世界中からたくさんの人が絵画を観るためにやってくるんだって』


 静かな夜だった。建物の傍の植え込みで鳴くヤブキリの声もどこか弱々しい。テオは地面に置いた鞄の中から、手探りでいくつかのスプレー缶を取り出した。先ほど、グレコ画材店で手に入れたものだ。


『テオは、画家集団のカナンって知ってる?』


 その名が世間に知れ渡るよりもずっと昔から、ミーシャは画家集団のことをよく知っていた。何気なくそんなことを問われたのも、もうずいぶん昔のことだ。

 ミーシャは彼らのことを「絵画のことを好きかどうかで見る人たち」だと説明した。そのときの彼女の好意的な眼差しや、時おりニュースに紛れ込む彼らの活動に耳を傾ける姿を見て、テオも人知れずカナンに興味を抱いたのを覚えている。

 正しくは、ミーシャの関心を引くためのヒントがそこにあるのではないかと考えたのだ。


 画家集団(カナン)のメンバーになりませんか――。


 パオリ学園で出会った友人たちを軽い口調で誘ってみれば、彼女たちはあっさりと首を縦に振って話に乗ってきた。

根拠も証拠もないというのに、テオがカナンの正当なメンバーだと信じて疑わない。ある友人は以前からカナンに憧れがあったと吐露し、またある友人は学生生活のいい思い出になりそうだと瞳を輝かせた。学校で出る課題の評価がいつも低い友人は、評価によらない描画活動にたいそう食いついたものだ。


 そこからの行動は早かった。放課後に集まってどの絵画を題材にするか話し合い、陰影の箇所を変えたステンシル用のシートを何枚も制作し、画材店に買い出しに行く。下絵は画力のあるテオが担当した。ルカが見せてくれとせがんたスケッチブックの中身は、まさしくシートのためのエスキースだった。


 そして完成したのが、〈民衆を導く自由の女神〉の模倣壁画だ。


 テオはミーシャが頂上広場にやってくるのを待った。ときにはアダムを誘い、スケッチの練習をするふりまでして。

 しかし、ミーシャが件の壁画を見に来ることはついぞなかった。

 テオの胸に焦りばかりが募る。昔はうまくやれていた。なのになぜ彼女の興味を引けない。自分にとって宝物だった“二人だけの思い出”が、相手にしてみれば取るに足らない日常の一コマなのだと、そう突きつけられるのが恐ろしかった。


 焦燥感に駆られて、視線は教室の片隅でひとり黙々と作業を続けるミーシャの姿を追いかける。

 彫刻のようにかたい横顔がふと緩んだのは、学園前のイチョウ並木が萌黄(もえぎ)色から黄色に染まり始める頃だっただろうか。

 彼女の視線の先には見知らぬ黒髪の少年がいた。かつてコルシカ島で出土したというラピスラズリのような、深い青色の瞳を持つ、大人しそうな少年だった。


 ひたすら腹立たしく、純粋に妬ましい。一方で、テオは優位な笑みを浮かべることもできた。彼女の本当の笑顔を知っているという自負があったからだ。


(少し笑顔を向けられたからっていい気になって。ミーシャのこと、何も知らないくせに)


 そんな作ったような偽りの微笑みじゃない。自分は、彼女が大好きな絵画の前で見せる無垢な笑顔を知っている。彼女が今までどんなふうに生きてきたのかも――そのとき、不意にテオの脳裏を青いワンピースの少女が過ぎった。彼女が大切にしていた一枚の絵画。この世から失われてしまった、彼女の親友。


――ダーフェンの描いた娘の肖像……。


 テオはある結論に思い至り、口元を震わせた。

 あの絵を壁に蘇らせればいい。エネルギーに換えられることのない壁画にするのだ。

 それはとても素晴らしいアイデアのように思えた。



「ミーシャは、喜んでくれるでしょうか」


 ぼそりと呟き、テオは鞄から取り出した何枚ものシートと資料を、携帯端末で照らし出した。

 シートはパーツごとに分かれていて、模倣元の色味を細かく再現できるようになっている。テオはまずベージュ色のキャップのスプレー缶を手に持ち、カシャカシャと振って蓋を外した。

 今一度資料を確認してから、先日までカナンの壁画が描かれていた場所にシートをあてがい、シュウーッと勢いよくスプレーを噴射する。途端に鼻孔の奥をえぐるような刺激臭に襲われて、テオは思わず咳き込んだ。今さらマスクを忘れてきたことに気づいたが、構わずスプレーの吹きつけを再開した。


――僕のことを認めてほしい。絵を描く理由なんて、いつだってそれだけで。


 何枚もシートを変えて、奥に配置されたものから順番にパーツを浮き上がらせていく。部屋の奥の家具、ドアの木枠、地面に敷かれたプロヴァンス調の絨毯、少女の白い靴下。


――それだけのはずなのに。


 最初はいいアイデアを思いついたと自画自賛したテオだったが、時間が経つにつれて、今回も振り向いてもらえなければどうしようという不安が頭をもたげてきた。夢中になって壁にスプレーを吹き付けていても、頭の中ではもう一人の冷静な自分が「無意味だ」と吐き捨てる。

 どれだけ丁寧に絵を再現しようとも、そんなもの、ただの(にせもの)なのだから。


「認めてもらえないってわかってるのに……どうして僕は、いまだに筆を握ってるんだろう」


 ぽつりと呟いたとき、頂上広場に続く坂道の向こうからやにわに騒がしい声が聞こえてきた。テオはぎくりとして音のする方に顔を向け、暗闇に目を凝らした。


「えっ、あれ? テオー?」


 聞き知った女生徒の声が名を呼んだ瞬間、眩い光がテオの目を貫いた。


「ぎゃっ! 目がァ!」

「あー、ごめんごめん」


 誰かが携帯端末のライト機能を使ったようだった。レーザービームのようなそれを直視してしまったテオは思わず飛び上がり、腕で目を覆い隠した。


「もしかして、ひとりで始めちゃってる?」


 頂上広場にやってきたのは、偽りの画家集団として共に活動している女生徒たちだった。


「一緒に次の作品作ろって約束したじゃん」

「うわ、シートの厚みが恐ろしいことになってるんですけど」

「これ一人は無理くない?」


 突然やってきた彼女たちは、スプレー缶やシートを物色しては、ずけずけものを言う。我が友人ながら台風のような奴らだと、テオは嘆息した。


「どうして僕がここにいるって分かったんですか?」


 彼女たちは、いまだに目をしょぼつかせながら訴えるテオを見て、暗闇の中できょとんと顔を見合わせた。


「え? たまたまだよね」

「たまたま……」

「うん」


 不自然な様子の友人をわざわざ探しに来てくれた、という訳ではないらしい。


「ってかなんでテオが先回りしてんの? 腹痛くて帰ったんじゃなかったの?」

「なんの話ですか?」


 ほらやっぱり腹痛じゃないじゃん、じゃあなんだったの、と友人たちは一層騒ぎ立てている。少し離れたところで好き勝手歩き回っていた友人のうちの一人が、建物に近づいて煉瓦壁をぺちぺちと手で叩いた。


「私たちも次この壁に何描こうかな〜って話してて、ね?」

「あ、そうそう。こういうのって、実物見たほうが閃くし」

「は? まさか、僕抜きで次の作品の構想を練ろうとしてたんですか?」

「いや、おめーに言われたくねーし」


 厳しく指摘するや否や、女生徒たちは地面に放り投げたままだった鞄の中を勝手に漁り出した。


「ちょちょ、ちょっと! なに勝手に漁ってんですか!」

「なにって、手伝うだけだけど。“カナン”は画家集団(・・)なんでしょ?」

「それは……」


 真っ当な善意が、テオの罪悪感を肥大化させる。言葉に詰まっている間に、目の前の暗闇からはシュウシュウとたくさんの噴射音が聞こえてきた。いくつもの小さなライトが点灯し、壁にあてがったシートを照らし出す。暗闇にチカチカ点灯する光は、まばゆくて俊敏なホタルのようだ。


「ちが……違うんです」

「なにー? どっか間違えてる?」


 正式なメンバーだと信じて疑わないその背中を、テオは直視できない。

 「僕はっ……」真っ暗な地面に視線を落とし、声を振り絞った。


「カナンの、正式なメンバーなんかじゃないんです。だからみなさんも違うんですよ……僕は、僕はみなさんを騙してたんですよ!」

「はー? どーでもいいわそんなもん」

「へえええ?」


 決死の告白を怒号で跳ね返され、テオは思わず情けない声をあげた。


「それよりこれ、間違ってんのかって聞いてんだけど!」

「え!? いや、間違ってたら取り返しがつかないんですけど……!」

「こっちも確認してよテオ〜」


 今度は反対側から名を呼ばれる。

 かと思いきや、今度はまた反対側から「やば」と雲行きの怪しそうな独り言が聞こえてきた。


「色間違えたかも」

「はあ!?」

「あー、間違えてるわ。てへ」

「ちょっと! てへ、じゃないんですよぉ!」

「もういいじゃん。この絵難しいよ、今度にしよう」

「ダメですが!?」


 一念発起して描くと決めた絵だ。そうやすやすと変えられてたまるかと、テオは壁の絵に向かって駆け出した。


「せっかくこんなにたくさんスプレー缶あるんだからさ、レインボーに塗っちゃおうよ」

「いいね、それ!」

「い――」


 いいわけあるか!

 理不尽な計画を阻止するため、暗闇に手を伸ばす。


「えーい」


 指の先で、無慈悲にもスプレー缶は噴射された。

 プシュウウゥ……と、スロー再生される噴出音。情けなく突き出した手のひらの向こう。目には見えない七色の輝きが、真っ暗闇の中でゆっくりと壁に虹を掛ける。


――本当にやりやがった!


 テオは頭を抱え、声にならない悲鳴をあげた。

 出鼻をくじかれ、先ほどまでひとり心の中で盛り上がっていたのが嘘みたいに、熱意がしぼんでいく。少し冷静になった自分が、背を丸めて項垂れるもうひとりの自分を俯瞰した。「一方的な感情で動けば碌なことにならない」「お前は行動しない後悔より行動した後悔の方が多いじゃないか」と、冷静な自分は嘲笑する。

 たしかにそうだとテオはしぶしぶ納得する。が、それではなんだか悔しいので、友人たちに聞こえるようにこれみよがしに深いため息を吐いた。

 女生徒の一人が、陰湿な抵抗を無視してスプレー缶でテオの頭をコツンとぶつ。


「ほら、テオもさっさと手伝う」

「手伝うったって、ぐっちゃぐちゃなんですけど!?」

「好きに描けばいいじゃん。あたしなんて、いま何色塗ってんのかわかってないよ」

「バカなんですか?」

「どんな絵になってるかは、日が昇ってからのお楽しみだねー」

「あー、バカですねー」


 テオが皮肉を込めて上品に笑えば、友人も暗闇の中であははと笑った。

 幼い頃、両親に連れらてやってきた海で溺れたことがある。死を予感して必死にもがいていたが、実は足が着くほど浅瀬だったと気がつき、拍子抜けした記憶がある。そんなことを思い出したら、必死に掴んでいたものが途端にくだらなく思えて、自然と笑いが込み上げてきた。心も身体も、いつの間にか軽くなっていた。

 テオは自らスプレー缶を掴み取る。それから肺の中の空気をすべて吐き出して、ぐいっと腕まくりをした。


「お、やる気だ」

「当たり前です。僕が用意してきた画材ですよ。好き勝手使われるなんてたまったもんじゃありません」

「理由がケチすぎるでしょ~」


 背後で友人がからから笑う。テオは何色か分からないスプレー缶を両手に構え、ノズルを押して思いきり壁面に吹きつけた。



 リアン・テドング洞窟の壁画って知ってる?

 4万年以上も前に人類が残したイボイノシシの絵で――。


 遥か彼方から、ミーシャの声が妖精の粉のようにきらきら降り注ぐ。


 黄土(おうど)で描かれた太古のイボイノシシが、暗闇にふと浮かび上がる。かつてミーシャが興奮気味に語った話だ。壁画のたもとで火柱を囲み、全裸の男たちが豊狩を祈願して激しく足を踏み鳴らす。火柱は激しく燃え盛り、伸びた影がイボイノシシの上で踊る。

 足踏みのリズムが遠ざかると同時に、今度は七色に輝くステンドグラスが現れた。手前には、最後の審判やアダムとイヴの創造などを描いた三連祭壇画(アルターピース)が鎮座している。


 大昔はどこの教会にも宗教画が飾られていて――。


 弾んだミーシャの声が続ける。その昔、文字が読めない人たちに聖書の教えを伝える役割をしていたと。ボロボロの身なりの親子がやってきて、祭壇画をじっと見上げる。幼子がなにかを尋ね、親は画を指差してそれに答える。あれは受胎告知。あれは馬小屋でイエス様がお生まれになった場面。東方の三賢者が贈り物を携えて来訪し――。


 過去にあったかもしれない絵画にまつわるさまざまな出来事が、暗闇に浮かんでは消えていく。

 絵を描く為の崇高な理由に憧れていた。誰かの為に筆を執る、そんな大義名分をずっと求めていた。自分が描きたいからという理由を掲げられるほど、自分の絵が好きではなかったから。


 けれどこれからはきっと好きになれる。

 自分を認めてくれたミーシャが、もう自分を必要としていなくても。

 ミーシャが自信をくれたから、これからもきっと。


 水族館を眺める人々の肌が青いこと。

 日暮れの空に浮かぶ雲の影がオレンジ色なこと。

 怒りに満ちた人間の瞳孔は開いていること。

 開いた瞳孔を描くのは楽しいこと。

 キャンバスを見つめるミーシャの横顔が美しいこと。

 そこに孤独の影がないこと。


 生きていく中で見つけたあらゆる法則や事実を形として表現することに、テオはいつの間にか楽しさを見出していた。


――絵を描く理由は、ひとつじゃなくていいんだ。


 誰かの為でもいい。自分の為でもいい。ときに衝動に駆られることがあったっていい。すべては生きている証拠。人間として生まれ落ちたときから決まっている。芸術家(アルティスト)は、頭の中に生まれたアイデアの種を撒かずにはいられない生き物なのだ。

 テオは夜空に輝く星を集めて閉じ込めたようなきらきらしい瞳を壁に向け、夢中でスプレーを吹きつけ続けた。

次回、テオ怒られるの巻き。


テオたちを指導している最中、ニキの口から偶然にも語られた“ダーフェンの絵画に関する事実”。それを聞いたミーシャの反応は?


「ルカくん、僕の言う事なんでも聞くっていったじゃないですか!!」



第151話 ある者にとっての唯一、ある者にとっての凡俗

よろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[一言] なんだよ……、ちゃんとテオの周りにもいっぱい仲間がいるじゃないっ! ミーシャという憧れを手放したとして、(完全ではなくても)テオも大丈夫そうですね。
[一言] 「もういいじゃん。この絵難しいよ、今度にしよう」 「ダメですが!?」 これ以後も続くテオと女生徒たちの掛け合いにクスクス笑いました。こういうノリのいい会話、私はとても好きです。 テオは自分…
[一言] テオ君もしがらみから解き放たれたみたいで良かった……。・゜・(*ノД`*)・゜・。 でも、そりゃ叱られますよねwがっつりお灸据えられるといいw
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