第149話 信頼
〈前回までのあらすじ〉
以前より気にしていたニコラスの隠し事について、ついに問い質すことにしたルカ。しかし、一方的な問い詰めはフェアじゃないと判断し、自身も秘密を打ち明けることに……。
「隠してる事……? あー、ヤバイ趣味的な」
ワケ知り顔で眉をひそめるアダムに、ルカは「ちがう」と即答した。
「実は南の島の王族の息子とか」
「それもちがう」
「魔法で人間の姿に変えられたカエルとか」
「『かえるの王さま』の逆バージョン?」
「ルカお前、カエルだったのか?」
「そう見えるか?」
アダムと無意味なやり取りを繰り広げている間、ニコラスは傍で口元に手を当てて黙り込んでいた。が、唐突に顔を上げ、「わかったわ」と決意の滲んだ声で切り出した。親鳥の気配を察知した雛鳥のように、二人は同時に首を回して振り返る。
「あんたがそこまで言うんなら、私にも関係ある話なんだろう」
聞こうじゃないか、とニコラスは腕を組み、意気込んでみせた。彼の耳元で金色の大きなフープピアスがしゃらっと揺れる。ルカは小さく頷き返してから、アダムにちらりと目をやった。
察しのいい男は、それだけで己が除け者にされる気配を感じ取ったようだ。即座に「おい待て」と手のひらを突き出した。
「今さら席外せ、なんて言うんじゃねえぞ」
「まだ言ってない」
「言う気満々じゃねーか!」
アダムは拗ねたように口先を尖らせ、そのままルカの肩を雑に抱く。
「水くせえな。いいから話せよ、懺悔なら二〇ユーロで聞いてやるからさ」
親指と人差し指でつくった輪っかの向こうに、にやつく顔が見える。
「有料ならいいや」
「まけてやろうか?」
「神様が耳にしたら泣くわよ、アダムちゃん」
ルカは少しだけ笑ってから、薬指にはまった鈍色の指輪に目を落とした。
大切な人たちを巻き込むことへの罪悪感、父親から託された使命。そのふたつが頭の中で天秤に乗ってゆらゆら揺れている。
眠り続ける少女に目をやり、他愛もないやり取りを繰り広げる二人に視線だけを移す。信頼、という言葉がぼんやりと脳裏に浮かんだ気がした。そうして片方の皿が僅かに傾いたとき、ルカはやにわに薄い唇をひらいたのだった。
「ルーヴルに攫われたとき、ダニエラさんに会ったことは話したと思う」
眼裏に、薄ら暗くて神聖なる風景が蘇る。
オンファロスが静置されているとされる、ガラスのピラミッドの地下空間。イモーテルの花々が一面に咲き誇り、天井から突き出した逆三角形のガラスのピラミッドから地上の光が降り注ぐ場所。
車椅子を押して歩くスーツ姿の男が、黄色い花畑の中を進む――。
「そこで、AEP発電装置が稼働する瞬間を見たんだ」
*Theodol
小柄な少年の影がひとつ、人けのないオレンジ色の廊下を足早に駆け抜ける。
思い出したくもないのに、見つめ合うミーシャとルカの姿が頭の中から消えてくれない。むしろ見せつけるように脳裏にこびりつき、圧倒的敗北感でテオを叩きのめそうとしてくる。
そうして思い知らされるのだ。あの教室で自分は、ただの邪魔者だったのだと。二人の間に流れる神聖な空気は、何人にも侵せない。喉から手が出るほど欲しかった役割には指先すら届かず、逆立ちしたって勝てない相手がいとも簡単にかっさらっていったのだと――。
乱暴に教室のドアを開けると、まだ居残っていたクラスメイトたちが驚いた顔で振り返った。その中には普段からつるんでいる女生徒たちもいた。
「びっくりした」
「どしたん、テオ?」
左右から掛けられる明るい声をすべて無視して、テオは窓際の机へと真っすぐ向かう。置きっぱなしにしていたキャメル色のリュックを煩雑に掴むと、机がガタッとうるさい音を立てた。
「センセーに呼び出されたか」
「ハラ痛いんだってェ、ぜったい」
「荷物を取りにきただけです。もう帰るので」
テオはイライラした口調で吐き捨てた。
驚いた友人の顔にハッと息を呑み、ばつが悪くなってそのまま踵を返す。
慌てて教室から出ていく少年の後ろ姿を見送った友人たちは、互いに顔を見合わせ、不思議そうに小首を傾げた。
「本当にハラ痛かったんじゃん?」
「……バカ」
*
校舎を出て正門をくぐると、冷たい秋風が容赦なく頬を打った。
テオは引っ掴んだままだったモスグリーンの上着を羽織る。イチョウ並木はすっかり葉が落ち、見るからに寒々しい。早足で坂道を駆け下り、中央駅近くの商店街へと向かう。
アーケード街を中ほどまでいけば、年季の入ったパレット型の木製看板が見えてきた。学校帰りにぶらりと立ち寄ることの多い〈グレコ画材店〉だ。
テオは年季の入った木製扉を押し開ける。店主の老人はいつものようにカウンターでパイプ煙草をふかしていた。下校時間から少しずれているせいか、店内には珍しく客の姿がない。テオは煙たい目をちらりとカウンターの向こうにやりつつ、カゴを引っ掴んだ。
この店の店主は学生たちから“グレコじいさん”と呼び慕われているが、テオは正直言ってあの白髪老人が好きではない。
自分の店とはいえ、店内で四六時中煙をぷかぷかやっているのが癪に障る。画材をたくさん買い込んでもおまけのひとつすら付けてくれない、そんなしみったれたところも気に食わなかった。
貧困にあえぐ学生がツケてほしいと懇願しても、知らんぷりで煙草をふかす姿を何度も目にしたことがある。その度にテオは「融通の利かないどケチ老人め」と心の中で悪態をついたものだ。
この町に画材屋がひとつしかないから、あぐらをかいているのだ。
テオは無心でスプレー缶をかごに突っ込み、満杯になったそれをカウンターに叩きつけた。
ふうー、と白髭老人は長い煙を吐いて、のろのろとした動きで商品をレジに通していく。店主のだらしのなさと不真面目な態度はいつものことなのに、今日は無性にイライラする。テオは唇を噛み、太腿の横でトントンと指を打ち鳴らした。
「七十一ユーロと四セント」
ボソッと告げて、店主はまたぷかぷかパイプ煙草をふかしはじめた。見下す以外の意図を感じられず、テオの中にさらに苛立ちが募る。口の中で舌打ちをして、財布から札と小銭を掻き集めるが――。
「…………ぁ」
足りない。
思わず零れた吐息に、店主の片眉がぴくりと持ち上がった。レーズンそっくりのしょぼくれた瞳が、催促するようにちらっとこちらを見る。
その瞬間、テオは頬が燃えるように熱くなるのを感じた。
横暴な態度をとっておいて今さら返品なんて、間抜けにもほどがある。ミーシャにもう一度振り向いてもらいたい。そのためには絵を描くしかない。絵を描くしかないのに、絵を描くまでにも至れない――悔しさと恥ずかしさが腹の底からむくむくと込み上げてくる。
悔しさが鼻の奥を焼き、ツンとした痛みが目に沁みたときだった。
「ツケ一」
店主はやけにはっきりとした声で、短く告げた。
ぎょっとして、テオは相手に不躾な視線を向ける。
「ツケでいいっちゅうとる」
目を丸くするばかりのテオにしびれを切らしたのか、店主がもう一度言った。
「え、だっていつも『ツケはやらん』って……」
「サービスと勘違いしてる奴にはやらん。ツケっちゅうんは必ず返すもんだ」
そこで、濁った小さな瞳がテオの姿をじっと見た。
「返す気がある奴はまぁ、わしも考える」
視線はすぐに逸らされて、店主は興味なさげに小指で鼻をほじりだした。
「僕がツケをはぐらかすとは思わないんですか?」
「そしたら学園に請求するわい」
「うわぁ……」
店主はがっはっはと快活に笑い、「ほれ、はよう行け。貴重な休憩時間を邪魔するな」と手のひらでテオを追いやった。
頭の芯がじんわりとしたまま、テオはずっしりと重い通学鞄を提げて入口の扉を押しひらく。冴えた空気とともに、暮れの光が薄く店内に差し込んだ。外へ踏みだそうとして、しかし今一度振り返る。
「僕、描きたいものがあって、だから――ちゃんと、描いてきます」
お代は必ず返しにきますから、と、テオは店の奥に向かって叫んだ。返答の代わりに、店主はしわだらけの浅黒い手をやる気なく持ち上げた。
あのしわくちゃなレーズンの瞳は、こちらの心の内なんかすっかりお見通しだったのかもしれない。テオはふとそんなことを思う。そうやって手を差し伸べられた学生は、今までに何人もいたのかもしれない。いつもだらしなくて、ケチ臭くて、でも本当は。
煙たい空気に背中を押され、内から湧き上がる気持ちに急き立てられ、テオは画材店をあとにする。
静けさを取り戻した店内では、相変わらずグレコじいさんが気持ちよさげにパイプ煙草をふかしていた。
*Luca
ルーヴル発電所の地下で目にしたことを、ルカは二人に話した。
花畑の中央には三角屋根の小さな小屋が建っており、地上から繋がる自動搬送用のレールを介して、絵画が小屋の中まで運ばれていたこと。その地下空間にダニエラがいて、女性を乗せた車椅子を押して小屋の中に入っていったこと。
直後、視界はまばゆい光に包まれた。
まるで、雷鳴の轟かない落雷のようであった。あの小屋の中で生み出されたエネルギーは、かつてカルーゼル広場とチュイルリー庭園だった場所に鎮座する巨大なタービン群を回し、莫大な電力を作り出す。やがてそれらは、地上のガラスピラミッドに守られた無線送電装置によって世界中に送られるのだ。
「『輸送費が高い』って嘆く依頼者を見るたびに、どうしてAEP発電機をルーヴル発電所内にしか設置しないんだろうって不思議だった。発電所が世界各所にあれば、絵画の輸送コストは抑えられるのに」
二人は目を見開いたまま――アダムに至っては口を開けたまま――ただただ話の向かう先を追っている。
「設置しないんじゃない。できないんだ」
「できない……?」
眉をひそめるアダムとニコラスを順に見やってから、ルカは続けた。
「オンファロスが世界に一機しか存在しないのは、車椅子の女の人が必要だから」
「え――え? ちょっと待てよ、ってことはつまり……どういうことだ? オンファロスは機械じゃないってことか? いや……機械だよな?」
アダムは人差し指でこめかみを押さえ、眉根をぎゅっと寄せた。
対して二コラスの表情は以前厳しいままだ。
「どうして断言できるんだい。小屋の中を確認したわけじゃないんだろう?」
「ダニエラさんが教えてくれたんだよ」
「……あの子が?」
片割れの名前に動揺したのか、ニコラスの瞳が波打つ。
「車椅子の女の人がカノンさんだってことも、教えてくれたよ」
女性の名前を口にした瞬間、ニコラスの瞳がこれ以上ないくらいに見開かれた。引きつった表情からは、驚きというよりもどこか恐怖の色が垣間見える。
「カノンさんは、ニノンのお姉さんだ」
「え!? ルカ、ニノンの姉ちゃんに会ったのか!?」
アダムは真っ先に叫ぶなり、すぐさま眉間にしわを寄せて、
「なんですぐ言わねえんだよ」
と厳しい口調で咎めた。
責められても仕方がないとルカは思う。
しかし、容易に口に出すことはできなかった。
底知れぬ闇を抱くダニエラの瞳に見つめられれば、ガラスのピラミッドから伸びる黒い手に絡めとられる母の姿が思い浮かんだ。その手が大切な仲間に伸びるところを想像して、肌が粟立った。
犠牲になるのが自分ひとりならまだいい。
けれど、彼らは駄目だ。
そう思ったから、今まで口を閉ざしてきたのだ。
血の気を失った顔で、ニコラスは「そんなはずないわ」とだけ呟いた。青い唇がかすかに震えていた。
「カノンさんがオンファロスと関係しているのは、ベルナール家の末裔だから? だったらニノンはどうなるんだ? もしかしたらニノンの力も、オンファロスとなにか関係あるんじゃないか」
ルカは口で言い募りつつ、一歩踏み込んで距離も大きく詰めた。
聞こえてないはずがない。なのに、ニコラスは口を閉ざしたままだ。
「……言い直す。関係あったとして、ニノンに危険が及ぶ可能性はある?」
アンバーの瞳はいまや波打つ水面のように揺れている。その動揺がなにかを隠しているからなのか、追いつかない理解によるものなのか、端から見ただけでは分からない。
「俺には父さんから預かった、ベルナール家の末裔を護るって使命がある。だけど、このままじゃきっと護れない。なにも知らないままじゃ……。だから、俺の知らないことを教えて、ニコラス」
白い喉元の膨らみがごくりと上下する。
「違うわ……」
掠れた声が、青白い唇から漏れる。
ファンデーションで整えられた頬を、大粒の汗が伝った。
「それは……カノンお嬢様じゃない……」
「え?」
「居るはずないのよ。だってカノンお嬢様は、すでに――」
そのとき、大層な音を立てて扉が開いた。
三人は驚いて振り返る。寝室にやってきたのは、この家の主であるニキ・ボルゲーゼだった。右肩と右耳で器用に携帯端末を挟み、困り顔で誰かと会話している。
「あー、はい、そっちにはまぁ五分もあれば行けそうですが……」
ニキは流れる動作でクローゼットの扉を開け、チェストから毛玉だらけのグレーのセーターを引っ張り出した。かと思いきや「へえっ!?」と素っ頓狂な声をあげ、あやうく携帯端末を落としかける。
「モリゾ先生、来てくれないんですか!? うげえ……いや、そりゃ生活指導担当のぼくの役目なんですけどぉ、心許ないっていうか……」
ルカを含め三人は顔を見合わせた。パオリ学園でなにやらよからぬ問題が発生しているようだ。しかもボサボサ頭のこの男、なんと学生の生活を指導する担当らしい。チェストからずるりと引き出したジーンズに、加工なのか本物なのか分からない穴が見えた。ルカたちは再度顔を見合わせる。
「はいはい、くぅ、わかりましたよ、今準備してますよ……。っていうかそれ、うちの生徒で確定なんですか? はぁ、そうですか……テオドール――ええ? あの優等生がですか?」
聞き知った名前に、三人は思わずニキを凝視した。
次回「第150話 誰が為のアート」
テオドール・マネ最終局面です。




