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コルシカの修復家  作者: さかな
12章 世界の終わりと夜の虹

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第148話 改悛のミーシャ

〈前回のあらすじ〉

ニノンの力を使って、かつて大切にしていた絵画の最期の姿を確かめたミーシャ。己の過ちを認めた彼女が語るのは……。

 ルカはミーシャに連れられて、北棟の一階にある応急救護室へとやってきた。

 スチール製のデスクと丸椅子、薬品棚と簡素なパイプベッドが一台置いてあるだけの小狭い部屋だ。鍵は開いていたが、中には誰もいなかった。スクールナースは既に帰宅してしまったようだ。


「そこ、座ってて」


 顎先でパイプベッドに座るよう促され、ルカは言われたとおりの場所に腰を下ろした。ミーシャはさっと背を向け、薬品棚を漁りはじめる。指でそっと額の傷をなぞってみると、まだピリッとした痛みが走った。けれど、指先にもう血は付かない。


「ニノンちゃんって、不思議な力……みたいなものを持ってるんでしょ」


 薬品棚のガラス戸を開けながら、ミーシャがやにわに口をひらいた。


「絵画に込められた思いを汲み取る力のことか」

「絵画に……? そのへんはちょっとよくわからないけど、ニノンちゃんのおかげで修復直後のあの子に会いに行くことができたの」


 彼女は少しだけ背伸びして、『清浄綿』と書かれた箱を手に取る。


「ルカ君の記憶を辿った、ってニノンちゃんは言ってた」


 ミーシャが何気なく零した言葉に、ルカは思わず「え?」と声をあげていた。ニノンの力の使い方が今までと少し異なるような気がしたからだ。

 二人が過去の絵画と接触を果たしていた間、ルカはおろか、アダムもニコラスも何が起きているのか把握できずにいた。せいぜい瞬きひとつする程度だ。これまでのように、絵画に込められた画家の記憶が伝わってくることも、声が聞こえてくることもなかった。

 絵画に込められた感情や記憶を、不特定多数に向けてむやみに露呈させない。そう誓ったニノンは今、確実に力のコントロール方法を会得しはじめている。


 ミーシャはごめん、と謝り、「いきなりこんなこと言われても訳わかんないよね」と付け足した。こちらの反応を純粋な疑問として受け止めたらしい。


「でも、あの子に会えたのは事実。この目でちゃんと、確かめたから」


 やがて彼女は、消毒液のボトルと清浄綿、絆創膏を抱えて戻ってきた。そんなに仰々しい処置が必要な怪我ではないのに、と思いつつも、ルカはベッドの上で大人しくしていることにした。額に血をこびりつかせたまま帰宅して、ニコラスに叱られるのは本意ではない。

 ミーシャが清浄綿に消毒液のボトルをトントンと押し付けている。やがて彼女は前屈みになり、ルカの前髪をそっと手で押し上げた。


「ちょっと滲みるよ」


 言うが早いか、消毒液をたっぷり含ませた清浄綿が額の傷口に充てがわれた。


「ぃっ」

「我慢して」


 ぴしゃりと注意されれば、口を噤むほかない。ミーシャの手が執拗に傷口を拭う。そのたびに襲ってくるビリビリとした痛みをやり過ごそうと、ルカは静かに目を閉じた。


「…………本当は気付いてた」


 不意に彼女の手の動きが緩やかになり、頭上から掠れた声が落ちてきた。

 薄っすらと目を開けて見上げた先には、必死に額の傷口に目を向けるミーシャの顔があった。眉根を寄せて不機嫌そうな、けれど泣きそうな表情で、彼女は傷口ではないどこか遠くを見つめている。


「ルカ君が絵画を大切にしてることも、絵画をないがしろになんかするはずないことも。知ってて、わざとミスするように仕向けたの。自分の復讐心を満足させるためだけに。最低なことをしたの。ルカ君にも、関係のない絵画にも……本当に、最低なことをしたの。…………あたし、自分が怖いよ……」


 言葉の最後が揺れ、エメラルドの瞳が不意に波打った。ルカが目を見張ったのも束の間、ミーシャは手首でぐいっと乱暴に目元を擦って、すっかり綺麗になったルカの額の傷口に絆創膏を貼り付けた。


「はい、終わり」


 彼女はさっと立ち上がり、ひとりテキパキと片付けを始めた。一方的に話を切り上げられたような唐突さに、ルカはやや眉をひそめた。

 まだ、彼女の口から聞けていないことがある。


「実際に見てみて、どうだった?」


 ふと、彼女の動きが止まった。


「ひどい修復だったのか、手を加えすぎていたのか。所有者から見た本当の意見が知りたいんだ。ミーシャには、あの絵がどんな風に映った?」


 責めるわけではなく、意見を強制するわけでもない。動かぬ少女の華奢な背中に、ルカは純粋な疑問を投げかけた。事実を知らねばならないと思ったのだ、道野修復工房の修復家として。


「もし本当に修復を失敗してたなら、責任を取らなきゃいけない」

「ちがう」


 ミーシャは静かな所作でガラス戸を閉め、震える声で小さく呟いた。


「ちゃんと修復してくれてたの……あなたたちは、最高の仕事をしてた……!」

「……ミーシャ」


 振り返った彼女の表情は、普段の冷静さとはほど遠く、幼い少女のようにくしゃりと歪んでいた。


「あたしは、大好きなあの子が世間から“価値のないもの”って烙印を一方的に押されたのが許せなかった。でも違ったの。還元率の低さに怒って嘆いてるあたしこそが、あの子の価値を還元率に縛りつけてたの……!」


 エメラルド色の目のふちから、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。


「あたしが悲しいのは……悲しい本当の、理由は」


 波打つ声に力がこもる。


「あの子がもう、この世界に存在しないこと……!」


 彼女の濡れた瞳に宿る、鮮烈な光。

 それは、前を向いた者にのみ差し込む山間の来光を思い起こさせた。あるいは、見上げた者にのみ降り注ぐ夜空の星明かりを。


「ありがとう、ルカ君。あの子を元の姿に戻してくれて」


 ミーシャは今一度手のひらで目元をぐいっと擦り、それからぱっと顔をあげて、花がほころぶように笑った。


「これからはもう見失わないよ。あたしにとっての、絵画(あのこ)の価値」


 彼女の決意が、胸に心地よく響く。


「うん。俺も(・・)


 ルカも同じように笑顔になった。

 道野工房の貫いてきた信条が、誰かの笑顔を守った――その事実が、なによりも誇らしかったのだ。



*Nicolas



 ニキ邸二階。物静かな寝室のベッドの傍らで、ニコラスはポーチの表面にイモーテルの花の刺繍を施していた。服飾店から請けている内職の針仕事である。生成(きな)り色のキャンバス生地に、サフランイエローの刺繍糸をちくちく刺していると、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。


「ニコラス、ニノンの調子は?」


 扉を開けるなり、エプロン姿のアダムがずかずかベッドサイドまでやってきた。


「まだ寝てるわ」

「マジで大丈夫なのか……?」


 アダムは黒いエプロンを外しながら、懐疑と心配の入り混じった眼差しをベッドに落とした。

 鼻血もすっかり止まった少女は、規則正しく胸を上下させ、ぐっすり眠りこけている。「爆睡してら」と呟くアダムからは、ほのかにトマトスープの香りが漂ってくる。本日の夕食当番だったニノンに代わって、今まで一階のキッチンで料理をこしらえてくれていたのだ。


「ぶっ倒れたりするのってやっぱ、ニノンの力と関係あんのかな」

「だろうね。感受(センス)を酷使すれば、相応の負担が身体に掛かるのさ。だからこうして安静にしていれば――」


 ふと胡散臭げな視線に気がつき、ニコラスは「なんだい?」と片眉をあげた。


「やけに詳しくねえか?」

「別に、そうかなって思っただけだよ。歩いた分だけ足が疲れるのと同じでしょう」


 努めて冷静に答えながら、ニコラスは刺繍の糸始末を終えた。ざっと仕事道具をまとめて袋の中にしまう。「まあ、そう言われりゃそうか」とアダムが潔く頷いたところで、ううん、とニノンが呻いて寝返りをうった。ニコラスは放り出された腕をベッドの中に戻し、乱れた布団をかけ直してやる。アダムはどこか遠くを眺めるような目で、乱れた桃色の髪をじっと見つめている。


「こんなワケわかんねえ力持ってるとさ……利用したくなる奴もいるのかな」


 それは、無意識に漏れ出たうわ言のような呟きだった。


「利用?」

「いや、たとえばの話だって。珍しい人間って狙われたりするだろ。あー、ほら、心臓が右にある奴とかさ。貴重だからって」

「人体実験ってことかい?」

「じん――物騒な話すんなよ!」

「アダムちゃんが話し始めたんでしょうが」


 変に取り繕うアダムとごちゃごちゃ言い合っていたら、怪我の治療を終えたルカが戻ってきた。額の右側には四角い形の大きな絆創膏が貼ってある。

 おーお帰り、ただいま、と口々に挨拶を交わし、ルカもアダムと同じく真っすぐにベッドサイドへとやって来た。


「ニノンは……まだ寝てるのか」

「もうすっかり落ち着いたよ。今日はこのまま寝かせてあげましょう」


 落ち着いたという言葉をまだ信じきれていないのか、ルカは眠りこけるニノンをじっと見つめている。


「で、ミーシャちゃんと話はできたのかよ?」


 アダムが問うと、ルカは思い出したように頷いた。


「今度、破損した部分の修復を手伝ってもらうことになった。自分のせいだから、やらせてほしいって」

「そりゃあ信用できるのか?」

「うん。ミーシャはもう、大丈夫だよ」


 ルカは応急救護室で彼女と交わした会話をかいつまんで喋った。ほんの瞬きの合間に、ニノンとミーシャが一体何をしていたのか。ニノンが、どんな風に感受(センス)を使ったのか。

 話を聞くうちに、ニコラスの中に眠る記憶が自然と呼び起こされる。

 まだ幼かった頃のニノンは、力のコントロールがうまく行えずによく鼻血を出したり倒れたりしていた。本人は覚えていないだろうが、酷いときは幾度も発熱を繰り返した。彼女の父親であるオーランド・ベルナールは、娘が倒れる度に胃を痛めていたものだ。

 普段は威厳をまとった主人の、押せば簡単に倒れてしまいそうな弱々しい背中を、ニコラスは今でもはっきりと思い出せる。


「俺は……けっこう心配してる」


 脈絡のない言葉が、ニコラスを現実に引き戻す。

 顔をあげれば、ラピスラズリの瞳がじっとこちらを見据えていた。


「ニノンのことかい?」

「うん。ニノンのことだ」


 微動だにしない眼差しは、まるで心の内側を見透かしてくるようで薄ら寒い。ニコラスはその静かな圧力に負けて、さっと視線を逸らした。


「アダムちゃんにもさっき言ったけど、ちょっとばかり力を使いすぎたせいで疲れが出たんだよ。心配するほどじゃない。寝てればじきに治るわ」


 迷いなく出てくる説明は、ニコラス独自の見解ではない。

 かつてニノンらと共に暮らしていたボニファシオ邸。そこで新エネルギーの研究を(・・・・・・・・・・)行っていた科学者の男(・・・・・・・・・・)が、不安に駆られる主人を落ち着かせるために度々口にしていた常套句である。彼の助言には説得力があった。脱色症の症状にも精通していたからだ。


「そうだとしても、“なにも知らないまま”は嫌なんだ」


 言葉に僅かな含みを覚えて、ニコラスは思わず咽頭を上下させた。


「教えてほしい。ニコラスの知ってる(・・・・・・・・・)こと、全部(・・・・・)


「……ルカ、あんた……」


 薄ら寒さの正体がはっきりと形を成した瞬間、ニコラスは顔じゅうから血の気が引いていくのを感じた。ルカは勘付いているのだ。ニコラスが隠し事をしていることに。


「え、えっ? どうしたんだよ急に。なんの話をしてんだよ、ルカ。ニコラスがなにを知ってるって?」


 二人の間を取り持とうとするかのように、アダムの口調はわざとらしいほどに明るい。


「俺は知ってる。あの日の夜、偶然聞いちゃったから」

「……!」


 その一言だけで、ルカが何を知っているのか分かってしまった。

 計画停電の夜の、ニノンとの密談が漏れ聞こえていたのだ。記憶喪失のフリをしていること、ニノンの過去に関する情報を隠していることも、すべてバレている。ニコラスは頭を抱えたくなった。ただ一人、状況を理解していないアダムだけが「なぁ、ほんとになんの話?」と視線を右往左往させている。


「本当は話してくれるのを待つつもりだった。でも、そうも言ってられないと思ったから」

「………………」


 情けないことに、なに一つうまいかわし文句が出てこなかった。

 ニコラスとて、いつまでも隠し通せるほど現実が甘くないことくらい分かっていた。いつかこうなることも覚悟していた。


 ルカだって、ニノンが心配だからこの話を切り出したのだ。

 しかし、ニコラスにも主人から授かった使命がある。秘密を漏らすわけにはいかなかった。


 自ずと右手がこめかみを抑えたとき、ルカの口から短いため息が漏れた。


「やっぱり、フェアじゃないよな」


 なにが、と問おうとして、ニコラスは思わず口を噤んだ。ルカの表情がいつになく真剣で、なにかを決意したような目をしていたからだった。


「俺にも隠してる事がある」


 あまりに唐突な告白に、ニコラスもアダムもただ目を見張ることしかできなかった。

 普段から口数の少ない少年だ。こちらが把握していないことなんてごまんとある。しかし、あえて「隠している」と前置くほどの話が――それも、ニコラスの隠し事と天秤にかけるほどの話など、いったいどれほどあるというのか。


 言葉に詰まる二人に追い討ちをかけるように、ルカはゆっくりと双方の顔を見渡した。


「二人には悪いけど、巻き込まれてくれ」

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― 新着の感想 ―
[良い点] お互いの秘密を共有して、もう一段仲良くなれるといい……がんばれ!
[一言] ミーシャがちゃんと気付いて、次の一歩を踏み出せそうでよかった。 ニコラスの話は気になるよね!私もだよ!ルカ! ここからまた絆を深められるのか……!
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