第147話 本当の価値
黒いエプロンを身につけた男たちが、散らかった部屋の中でそれぞれの作業を進めている。
部屋の中央を陣取る巨大な作業机。その上に散乱する、汚れたタオルや使い終わったティッシュ、綿棒、端からくるくると丸められた絵具チューブ。キャンバスを乗せたイーゼルが三脚。壁に沿ってずらりと並んだ棚には秩序なく物が詰め込まれ、道具入れであろう引き出しは何か所も開きっぱなしになっている。
ここはアルタロッカ地方、レヴィ村にあるしがない修復工房。ルカの記憶の中に残っている、道野修復工房の日常の風景だ。
「ルカー、ブロワー取ってくれー」
頭にタオルを巻いた髭面の男が、気怠げな声を背後に投げた。腕組みをしつつ、男の顔は目の前の絵画と向き合ったままだ。
テーブルの上のゴミを片付けていた黒髪の少年は、膝立ちになって乗っていた丸椅子から飛び降りると、集めたティッシュや綿棒をゴミ箱に捨ててすぐさま部屋の奥の棚のほうまで走っていった。それからすぐに、両手に大きなブロワーを抱えて男の元に駆け戻ってきた。
「ごくろーさん」
男は片手でブロワーを持ち上げ、少年の頭を雑に撫でまわした。子ども扱いに対する不満からか、少年の眉間にしわが寄る。
「体力有り余ってんな。いいねえ、若者は」
「クロードおじさんが動かなさすぎるんだよ」
ルカは頭の上の大きな手を払い退けながら、無表情で小言を漏らす。
「おじさんになると椅子から立ち上がるのもやっとなの」
「それ、ただの怠け者じゃ……」
「んー? なんだって?」
男が持ち手にあるスイッチを押すと、ドライヤー型の機械の先端からごうごうと音を立てて強力な風が吹き出した。キャンバスの表面に残ったわずかな塵が風に飛ばされてゆく。修復が終わった絵画の、仕上げの作業である。
全体的に風をかけ終えた男は、再びスイッチを押してブロワーを机に置いた。そして半身を後ろに捻り、幼い少年の肩を汚れた両手のひらでがっしりと掴んだ。怪訝そうな顔で、ルカが男を見上げる。
「なに?」
「手伝った褒美だ。一番に見せてやるよ、お前に」
男は小さな身体をイーゼルの前に引き寄せた。
途端に、ブルーの瞳が光を帯びる。少年の視線は、抗いようもなく修復を終えたばかりのキャンバスに吸い込まれていく。
「ふん。お前のじいさんにも劣らない出来栄えだろう」
じいさんと呼ばれた壮年の男は、部屋の端でイーゼルの上のキャンバスと向かい合ったまま、綿棒を持った右手だけを規則的に動かしている。己の話題が上がっても、ルカの祖父――光助はぴくりとも反応を寄越さない。
「最期に生まれたときの姿を間近で拝めるってのは、修復家の特権だと思わねぇか? ま、絵画にとっちゃ皮肉な話だろうがな……」
ミーシャは言葉を交わす彼らの真横に音もなく立っていた。完成した作品に夢中になっているルカと反して、視線は足元に落としたままだ。床板のそこかしこにこびりついている絵具汚れを意味もなく目で追って、顔を上げようとして、やめて。握った拳に力がこもった。
――確かめるのが、怖い。
心が友人との邂逅を躊躇っている。
顔をあげたとき、もしも眼前の絵画が自分の記憶の中にある姿となんら変わりなければ? そのときは認めなければならない。ダーフェンの娘の絵に、エネルギーを賜りうる価値がいっさいなかったという事実を。
ニノンは何も言わず、ただミーシャの手を握って隣に立っている。判断を委ねられている。否、ミーシャが勇気を出すのを待ってくれているのだ。
何度も咽頭を上下させ、早く確かめなければと自身を鼓舞する。それでもなかなか顔を上げられないミーシャの耳に、ふと男の掠れた声が届いた。
「世の中にはキャンバスの上のもんをやたら捏ねくり回す同業者もいるがな。俺たちはそんなことはしないのさ」
「なぜだい?」
「お前には喋ってねぇ、光太郎」
席を立ってわざわざ二人の元までやってきたルカの父親に、クロードは半眼を向けて手でしっしっとやった。
「話を聞くくらい良いじゃないか。ねぇ、ルカ?」
「さっさと自分の担当を仕上げろ。納期ギリギリだろそれ」
邪険に扱われても、黒髪の男性は「あはは」と笑って終始にこやかだ。しかも、自分の席に戻る気もなさそうである。
「決して一線を踏み越えない――それこそが僕ら〈道野修復工房〉のポリシーだからね。クロードもなんだかんだ、うちの色に染まってきたねぇ」
「それだけじゃねえよ。じいさんの教えももちろんあるが」
「というと?」
光太郎が首を傾げると、男はにやりと口の端を持ち上げて悪い顔をした。
「俺は純粋に素材の良さで勝負をしたいんだよ」
ルカの祖父は会話の輪に背を向け、相変わらず右手を動かし続けている。
「他人がごちゃごちゃ飾り付ける装飾品なんざとっぱらって、裸のまんまで価値を測る。それこそがAEPの醍醐味ってもんよ。下手に俺たちが捏ねくり回して、それで還元率が増えたってつまらねぇだろ」
「とことんギャンブル気質だね」
「本物を見つけたいんだよ、俺は。たった一枚で世界中を何ヶ月も光で満たしたっていう“伝説の絵画”を描いた、画家カナンの作品みたいな……って、こっちのクソガキは聞いてやしねぇ」
男は伸びかけの髭で覆われた顎をぽりぽり掻きながら、呆れたように――あるいは見守るように鼻から息を吐いた。ルカの意識はもうここになく、青い瞳はひたすら目の前のキャンバスを熱心に見つめているのだった。
――ルカ君は、昔も今も変わらないんだ。
絵画に向ける眼差しの真っ直ぐさに、ミーシャの表情がわずかに綻んだ。
ルカにとって修復家とは、絵画の身に秘めたるエネルギーを増幅させる技術者でもなければ、旅立ちを助力する納棺師でもない。
彼は傷付いた絵画を癒す医者。
そして、絵画がそこに在ることに意味を見出す、彼らの友人だ。
道野修復工房の修復家たちは、持てる力の限りを使って修復にあたった。ならばこちらも、彼らのその誠意に真正面から向き合うべきだろう。
ミーシャは決心し、顔をあげた。
息を止め、キャンバスを下から順に、ゆっくりと視線で辿ってゆく。
焦茶のフローリングを踏む、足先の丸い小さな青い靴が見えた。それから、靴と同じ色の、いっさいくすみのない青いワンピース。腕に抱えた仔猫の、白さを取り戻したやわらかな毛先。ひび割れを知らない、幼い少女のむくれた頬。よりくっきりと浮かび上がる不満の表情――。
『パパ、今度はいつ遊んでくれるの?』
どこかから、舌足らずな声が聞こえた気がした。
二人で過ごした毎日の記憶がミーシャの頭の中を駆け巡る。家に帰ると直行する自室。定位置のベッドに寝転がると、見上げた先にいつも同じ少女の姿があった。
言葉にするには幼すぎるからと呑み込んだ不満の種を、代わりに惜しげもなく表してくれたかわいい妹。静寂に満ちる家から孤独を掬い上げてくれた、ただひとりの友人。
穏やかな五月の日差しを受けてくつろいだ日々も。
十一月の冷たい雨に降られて自室に逃げ帰ったときのあの安心感も。
数値だけでは表せない彼女の価値を、ミーシャはすべて思い出せる。
「――…………」
薄く開いた唇の隙間から、かぼそい吐息が漏れた。
ルカの記憶を通して見た大切な友人は、己の記憶の中の姿と何ひとつ変わらぬ姿でそこに佇んでいた。
否、記憶よりもきっとずっと、本来の鮮明さを取り戻していた。
「変わってなかった」
ミーシャの頬を、涙がひと筋伝った。
「あの子は、あの子のままだった」
「うん」
「……なにも、……」
「……うん」
知らず強張っていたミーシャの手を、ニノンの手が力強く握り直した。
またひと筋、ふた筋と、温かい涙が頬を伝う。それは顎にまるく雫を作り、ぽたたっと床に落ちた。黒く小さなしみはやわらかな光を発し、その光は足元から徐々に広がっていく。
手を繋いだまま二人の少女は光に包まれ――やがてすべてが白い光の中に消えたとき、ミーシャは夕暮れに沈んだ教室でうずくまっていた。
*Luca
「……な」
抱きしめ合う二人の少女の姿を見つめながら、ルカは驚嘆の声を漏らした。
ニノンがミーシャに抱き着いた瞬間、あれだけ全身に圧し掛かっていた重みが一瞬にして消えた。試しに右手を握ったりひらいたりしてみたが、いまはもう違和感なく動く。肌の上を這うピリピリとした痛みも、いっさい消えていた。
「あっ、戻った。どーなってんだ?」
教室の入り口でテオに馬乗りになっていたアダムも、この教室の変化に気がついたようだった。「だったら早く、どいてくださいよ、重いんですけど……」と、下敷きになったテオが苦しげに呻いている。
本当に一瞬の出来事だった。ニノンが宥めたことで、ミーシャの気持ちも落ち着いたということだろうか。不可解な現象にルカが戸惑っていると、すぐさまニコラスがニノンに駆け寄った。
「ニノン、大丈夫かい?」
「――あっニコラス。うん。大丈夫!」
ニノンは立ちあがって元気よく宣言し、にかっ、とひと仕事終えたと言わんばかりの笑顔を見せる。その瞬間、鼻からひと筋の鮮血がつぅーと垂れ落ちた。
「!?」
「あーーれれ……?」
「ちょ、ニノン、あんた!」
ニノンの身体がふらりとよろめく。
間一髪、ニコラスが咄嗟に広げた腕の中に、華奢な身体は力なく倒れ込んだ。
「ニノン!」
「どうした!?」
ルカとアダムも慌てて二人に駆け寄る。そして、ニコラスの腕の中を覗き込みぎょっとした。ニノンの額には玉の汗が浮かび、汗で濡れた桃色の髪は頬にぺたりと張り付いていた。呼吸が乱れていて、上下する肩の動きも大きい。
「全然大丈夫じゃねーじゃん!」
「アダムちゃん、大きい声出さないで」
「あっ、わり」
ニコラスはポケットから取り出したハンカチで手際よく鼻血を拭う。ニノンの顔を下に向かせてから、鼻をつまんで鼻孔にハンカチをあてがった。「ニコラス、ママみたい……」と力なく笑う少女の顔色はあまり芳しくない。
「あたしの、せいです」
それまで床にうずくまっていたミーシャがぽつりと呟き、立ち上がった。
乾ききっていない萌黄色の瞳が、またしても水の膜を張って揺らめいている。
「ニノンちゃんがあたしを、あの子の元に連れて行ってくれたから。そのためにニノンちゃんは力を使ったって……だからきっと、そのせいで……」
「なるほどね。だいたい分かったわ。話してくれてありがとう」
「え? あの――」
ニコラスは会話を切り上げ、ニノンを抱きかかえて颯爽と立ち上がった。
「お嬢さん、大丈夫よ。寝ていれば治るから」
「ほ、本当に……?」
その疑問はミーシャだけではなく、その他一同の総意でもあった。ニコラスはもう一度「大丈夫、ちょっと疲れが出ただけだよ」と笑顔で頷き、歩き出した。
「とりあえず私はニノンを先生の家まで運ぶよ。ルカ、あんたは額の怪我の手当をしておきな」
しばし逡巡したのち、ルカは頷いた。
「……わかった。ニノンを頼む」
ニコラスが大丈夫と言うのなら、そうなのだろう。短くない共同生活を経て、ルカは彼が頼りになることをよく理解していた。
ことニノンの事となると尚更だ。なぜなら、彼はルカたちの知らないニノンの過去を知っているからだ。その事実を隠している理由はいまだに聞けていないが、然るべきときが来たら打ち明けてくれると、ルカは信じている。
任せときな、と己の胸を叩くように、ニコラスもしっかり頷き返した。
「待てってニコラス、俺も行くよ!」
アダムはニコラスたちの荷物を拾い、慌てて彼のあとを追う。唯一事情を呑み込めないでいるテオだけが、混乱した表情で床にへたり込んでいる。
教室から出ていく間際、ニコラスはふと振り返り、いまだ不安げな顔をしているミーシャに厳しい目を向けた。
「ニノンはあんたにメソメソしてもらいたくて、この力を使ったわけじゃないよ」
バタン、と音を立てて扉が閉まる。
ミーシャは長い間、扉のほうをじっと見つめていた。
薄暗い教室を静寂だけが満たす。ブラインドから差し込む光も鮮やかさを失いつつある。
誰も動かず、声も発しなかった。
ややあって、ミーシャは金縛りが解けたようにこちらを振り返った。かと思うと今度はつかつかと早足で歩み寄ってきて、唐突にルカの腕を掴んだ。
「え」
「手当て、するから」
「あ、おでこ……。大丈夫、もう治ったから――」
「来て」
険しい顔で言い放つ彼女の真意がルカには分からない。手当てと言いながら、今度こそ傷口にマスタードでも塗りたくられるのかもしれない。内心怯えるルカを、ミーシャは有無を言わさず出口へと引きずっていく。
それまで扉の側でへたり込んでいたテオが、急き立てられるように立ち上がる。
ミーシャがぴたりと足を止めた。つられてルカの足も止まる。目の前に立ち阻んだテオの表情には覇気がなく、少しだけやつれているように見えた。
「結局、僕はなんの役にも立ちませんでした」
「テオ」
「あなたを救いたかった。なんて、烏滸がましいですよね」
「…………」
「……すみません、もう行きます」
わずかに揺らぐ萌黄色の眼差しを振りきるように、テオは顔を背けて教室を出ていった。その背中はひどく寂しげで、ルカでさえ哀れに思うほどだった。
*
「……僕にできること……僕だけができることをしなきゃ……」
ほのかにオレンジ色が残る人けのない廊下に、ぼそぼそとした呟き声がこぼれ落ちる。それは誰の耳に届くこともなく、静寂の中に消えていった。
自分の犯した本当の過ち。傷つけてしまった絵画への懺悔。
すべてを認めたミーシャはルカと対話をする。
一方テオは……。
次回「第148話 改悛のミーシャ」の予定です。




