第146話 亡き少女のためのノスタルジア(2)
忿懣をぶつけて以来、ミーシャがテオと顔を合わすことはなかった。
そのまま両親の転勤に伴ってパリを離れた。夜眠るとき、眼裏に友人の傷ついた顔が度々浮かんだ。その度に拭きれない罪悪感にベッドの中で身を縮こませたが、次第に思い返す頻度も減っていった。
新たな土地では人形のように過ごした。しばらくしてルーヴル発電所から書簡が届き、ダーフェンの絵画がエネルギーに還元されたことを知った。
紙面に記された数値は何かの間違いではないかというほどに低く、修復料や諸々の手数料を差し引くと、利益は大幅な赤字だった。両親は酷く落胆した。
オンファロス――AEP発電装置が導き出すエネルギー値は、神の気まぐれといったところがある。誰も傾向を正しく予想できない。数学の計算のようにはいかないのである。分かっていても、いざ赤字を突きつけられると、ミーシャの心はどろどろとした怒りとやるせなさでいっぱいになった。頭の中では同じ問いがぐるぐると巡り続けていた。
果たしてダーフェンの絵画を還元したことに意味はあったのだろうか、と。
思うような還元率が得られなかった原因を議論する両親の隣で、ミーシャはパソコンを開き、パオリ学園の合否発表を画面越しに確認していた。
パオリ学園は、画家志望者が憧れる名門である。パリのアトリエに通っていた学生たちの何人もがパオリ学園を目指していた。受験者は島内だけに留まらず、さまざまな国から集う。そのためパオリ学園のある町は下宿学生で溢れ、賑やかなのだという。
ほどなくして、羅列された数字の中に自身の受験番号を見つける。
喜びの気持ちはたいして湧かなかった。
両親は、パオリ学園に通うために下宿を決めた娘の背中を、お手本のような笑顔で見送った。学園を卒業するまでは自由にしていい――言外の圧力が、その笑顔には含まれていた。
ミーシャにとってはどうでもいいことだった。
画家になっても、苦労して生み出した絵画がやがてこの世から消えてなくなってしまうのなら。果たしてそこに意味はあるのか?
自分がどうして画家になりたかったのか、昔の気持ちなどとっくに見失ってしまっていた。
暗闇の中、おぼつかない足取りで道を探してふらつき歩く。そんな日々の繰り返しだったからこそ、荷造りの最中に引き出しの中から修復作業完了の証明書を見つけたとき、ミーシャにはその紙切れが、夜道を照らす淡い月の光のように輝いて見えたのだ。
修復完了日 ××年×月××日
納品日 ××年×月××日
依頼品名 ダーフェン作『昼下がりの少女』
担当者 道野修復工房
ダーフェンの絵画に直接手を加えた者たちの輪郭が、くっきりとミーシャの脳裏に浮かび上がった。
友人の無意味な喪失も、神の采配なら仕方がないと諦められた。
けれど、それが神の皮を被った人間の仕業だったとしたら?
『過去のデータを見る限り、エネルギー還元率がこれほどまでに落ち込む可能性は低いはずだ』
ミーシャの耳に、両親の議論が蘇る。
『地方の修復家に賭けたのが間違いだったか……』
『失敗の立証は困難よ。証拠が残らないもの』
瞳に揺るぎない決意を宿して、ミーシャはゆっくり顔を上げた。
目の前にぼうっと道が浮かび上がる。自分の進むべき道が。
証拠がないから逃げ果せると思っていたら大間違いだ。のうのうと生きている相手に必ず罪を認めさせる。それが、消滅してしまった友人へのせめてものはなむけだと信じていた。
罪を暴けないなら、せめて罰と同じ大きさの復讐を与えたい。
*
ミーシャは修復工房の人間との接触を図り、電話口で工房の現状を知った。偶然新聞の端に掲載された記事が目に留まる。若くして工房を引き継いだ少年の、新たなる試みと成功の記事だった。
神の采配か、やがてミーシャはパオリ学園で運命の相手と出会う。
――道野ルカ。あなたにずっと会いたかった。
黒くてぼさぼさの髪に、ラピスラズリに似た真っ青な瞳。
幼さを残した顔つきの少年は、先代が犯した罪をいくつ知っているのだろうか。ひどく意地悪なことを考えながら、ミーシャは何食わぬ顔でルカに近づいた。
彼に言い訳できない失敗を引き起こさせ、自らがその現場の証人になることが目的だった。依頼品に傷をつけた事実が公になれば、〈道野修復工房〉の信頼は地に落ちるだろう。
ルカの前でミーシャは絵画の話題を出し、こちらに興味を惹きつけ、友人という位置に滑り込んだ。
修復現場を見せてほしいと頼めば、初めこそ渋ったものの最終的にはこちらの要望を受け入れてくれた。絵画の話になると露骨に瞳を輝かせ、修復のコツを尋ねれば余すことなく手の内を明かしてみせた。
彼の青い瞳はどこまでも澄んでいる。目の前に復讐の悪魔がいるなんて夢にも思っていないだろう。それどころか、似た価値観を持つ者同士だと、信頼すら寄せているようだった。
ルカが教室から出て行くタイミングを見計らい、ミーシャは職員室からこっそり拝借してきたスペアキーを使って空き教室に忍び込んだ。
手洗いにいくときでさえ施錠をする慎重さを有しているのに、仲間には簡単に背中を見せる。あまりに滑稽だと、ミーシャは内心で嘲った。
脇の甘い男。他人に信頼を寄せるのが早すぎる。
だからこんなにも簡単に、洗浄液をすり替えられてしまうのだ。
本当に、哀れだ。
小瓶の中身を予め用意した濃度の濃い洗浄液に差し替えると、ミーシャはそれをことりと机の上に置いた。薄暗い教室に佇む布の掛かったイーゼルに目をやる。布の上に、ブラインドの隙間から漏れたオレンジ色の西陽が差し込んでいた。
ミーシャは導かれるように手を伸ばし、その布をゆっくりとめくりあげる。
修復途中の絵画が、黄金の輝きを纏って姿をあらわした。
なんの罪もないひと組の恋人たちは、自身の終わりを悟ったかのように、熱い抱擁と接吻を交わしている。
その若々しい肌、艶やかな髪、紅潮する頬の上を、洗浄液を含ませた綿棒の残像が滑らかに行き来した。
「…………」
間近で目の当たりにした彼の手仕事が、いまも頭に焼きついているのだ。
息すらとめて、ミーシャの目はその残像を追いかける。
どこまでも優しく、労りに満ちた手の動き。絵画を見つめる真摯な眼差し。ふとこちらに気付き、顔を上げるルカの、つい溢れてしまったというような僅かな目尻のゆるみ。
そのすべてから滲み出るどうしようもない矛盾に、ミーシャは真正面から向き合うことができずにいる。
ごまかすように罪のないの絵画を指でそっとなぞる。そのとき、机の上に出しっぱなしになっていた手帳のページが何気なく目に入った。羅列された文字には教科書のような美しさこそないものの、端正で読みやすく、少年の性格をよく表していた。
・長期間ダイニングに設置されていたとの証言あり。埃+油汚れ多数。
・同一金箔の用意なし。差し替えずに洗浄のみで対応すること。
・女性の口元に剥離あり。→補彩×、追加調査が必要。フェルメールさんに聞く?
・男性の腕の色の黄色化→もともと。必要以上の修正に注意。
・…………
・…………
ミーシャは同じく机の上に置きっぱなしになっていた資料の束に手を伸ばす。
プリントアウトされたA4サイズの資料はずっしりと重たい。ゆうに三〇枚は超えているだろうか。ぱらぱらとめくってみる。紫外線写真、赤外線写真、X線写真、斜光による絵具層の浮き上がり調査写真、各種顔料の化学分析結果――。
膨大な資料は、すべて作業着手前の情報をまとめたものだ。
調査に費やした時間の長さは、作品への配慮の大きさを表している。それだけ不必要な干渉を恐れているということだ。
『俺だって作業をはじめるときはいつもそうだ。不安も、恐怖も感じるよ』
いつかルカが修復中に零した言葉を思い出す。
『元の姿に戻そうと思ったら、見えない線のギリギリまで近づくこともしなくちゃいけない。それは真夜中の山道を明かりもなしに歩くのと同じくらい怖いことだと思う』
『だけど、恐怖心は振り払える。身につけた技術の数だけ、修復家は強くなれるんだ』
ミーシャは逃げるようにして教室を飛び出した。
本当は分かっているのだ。彼が絵画をないがしろにするはずないことくらい。
道野ルカという少年は、あまねく絵画を愛しているのだから。
走って自宅に帰ると、ミーシャは玄関扉に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
両手が震えていた。犯した罪を思い出し、心臓が早鐘を打つ。纏わりつく罪悪感を洗い流したくてシャワーを浴び、濡れた髪のままベッドに潜り込む。
ルカのことが憎い。
憎いはずなのに、喋れば喋るほど彼のことをもっと知りたくてたまらなくなる。心の中をひっくり返して、余すことなく見せてほしい。いつか失われると知っていて、それでも心を砕いて修復にあたる。それが自分の使命だと信じ続けられる、その強さの理由を教えてほしい。自分の足元にある道を、胸を張って歩き続けられるのはなぜなのか。
「う、う……ぐぅ……っ」
喉元からせり上がるものを抑え込もうとして、汚い嗚咽が漏れる。
ミーシャは枕に顔を埋めて泣いた。
己の手で絵画を葬るくせに、どうして慈愛に満ちた目を彼らに向けられるのか。
自分のしたことは本当に正しかったのか。
教えて、ルカ君。
『俺は傷付いた絵画を元の姿に戻したいだけなんだ』
黒髪の少年は夢の中にまで現れて、普段と変わらないトーンで告げる。落ちぶれた復讐鬼はその言葉に頬を殴られ、ハッと目を覚ました。
知らない間に頬を涙が伝っていた。ミーシャは手の甲で目元をぐいっと拭うと、ベッドから抜け出し、手早く朝支度を済ませて家を出た。
朝の静けさに沈んだパオリ学園に、人の影はあまりない。ミーシャは普段使っている教室を素通りし、まっすぐに実験教室へと向かう。
バッグの中から取り出したのは、透明な液体が入った小瓶。洗浄液を差し替えた際に、もともと入っていたものを、後で処分しようとこの小瓶に移したのだ。ミーシャは小瓶の中の液体を分析し、コンマ一桁までそっくり同じ濃度の洗浄液を調合した。
あとはタイミングを見計らって、再度小瓶の中身を入れ替えればいい。これですべてが元通りになる。
ルカが修復を失敗することもなくなる。なにより、罪のない絵画が傷付かずにすむ――。
「探してるものはそこにはないよ」
扉の開く音とともに、背後から悲しそうな声がそう告げた。
途端に背筋が凍りついたのが分かった。
黄金の絵画はすでに、取り返しのつかない傷を受けてしまっていた。
すべて元通りになどなるはずがなかった。
憎しみの刃を不当に振りかざした自分へ、しっぺ返しがきたのだ。それだけでは飽き足らず、関係のない絵画まで傷付けてしまった。
このまま進み続ける以外に道はないことをミーシャは悟る。
たとえ誤った道だとしても、振り返る資格などない。
「――ミーシャちゃんっ!」
「え?」
突然名を呼ばれ、ミーシャは弾かれるように後ろを振り返った。気がつけばそこにはニノンがいて、ミーシャの右手をぎゅっと握っていた。
「よかった……はあ、やっと……はあ、気づいてくれた!」
「ニノン、ちゃん……?」
ニノンは激しく肩を上下させ、苦しそうに息をしている。彼女の肩に手を伸ばしかけたが、触れる前にすっ込める。
「ここは一体どこ?」
ミーシャは頭をぐるりと巡らせながら問う。
先ほどまでは修復作業が行われていた教室にいたはずだ。ところが今立っているのは、見渡す限り真っ白な空間だ。前後左右が分からなくなるほど、白い色があらゆる方向に果てなく続いている。
例えるなら、光の充満した宇宙空間だ。
「うーん、どこだろ? ミーシャちゃんを追いかけて、気付いたらここにいたからなぁ……ふぅ、よしっ!」
ニノンは気迫を込めて両膝をぱんぱんと叩き、ぐっと姿勢を正した。
「本当はね、ミーシャちゃんが大切にしてた絵画をいっしょに見に行きたかったんだけど……修復されたあとの」
「大切にしてたって、ダーフェンの絵画?」
「うん」
「え。どうやって?」
「記憶の中をね、こう、魂だけで泳いでくっていうか」
ゲームの話でもしているのか? ミーシャの顔が真顔になると、ニノンがすぐに、自身の持っている不思議な力の説明を付け加えた。
「でも私気付いちゃった」
ニノンは顔をぐっと寄せて、内緒話をするように口元に手を当てる。思わず、こちらも耳を寄せる。
「実際に修復した後の絵画を見た記憶がないから、遡っていっても辿り着けないよね?」
「それは、まぁ、そうだね」
名推理、といった顔をニノンがするものだから、ミーシャもつられて真面目に返したが、普通に考えれば当然の話だ。存在しない記憶は覗きようがない。
「うーん、どうしようかな……」
「考えても無駄だよ。最後にあの絵画を見たのはあたしじゃない。ルカ君たちだから」
「……それだ!」
ニノンは唐突に人差し指を立てた。
「え、なに?」
その人差し指がミーシャの背後へまっすぐ向けられる。振り返れば、それまで何もなかった空間に、ターコイズブルーの扉がずらりと列をなして出現していた。二列の扉は互いに向かい合い、それが白い空間の奥の方まで続いている。まるで、客室の多いホテルの廊下のようだ。
「ルカの記憶を頼ろう」
ニノンに手を引かれ、ミーシャは訳が分からないまま扉のひとつに近付いた。
扉には金色の丸いドアノブが付いている。目線とちょうど同じ高さのところに、金縁の小さな窓も付いていた。
透明なガラス窓の向こうに広がっていたのは、夕日色に染まった薄暗い教室だった。黄金の絵画を乗せたイーゼルの前に佇んでいるのは、ミーシャ自身だ。この後、記憶の持ち主にガラス瓶をぶつけて怪我をさせるのだ。そっと目を逸らしたとき、唐突に右手を引っ張られた。
「奥に行ってみよう、ミーシャちゃん。この辺りはたぶん最近の記憶ばっかりだよ」
気を遣ってくれているのだろうか、とミーシャは思った。華奢な背中を覆い隠す赤いポンチョが、歩く動きに合わせて揺れている。
二人はしばらくコバルトブルーの扉の間を歩き続けた。時おり立ち止まり、小窓を覗いてはどのあたりまで戻ってきたのか確認する。そうしてまた、歩き出す。
「ニノンちゃん」
「あった?」
ニノンが足を止めてこちらを振り返る。桃色の髪の下を、汗がひと筋伝うのが見えた。ミーシャは首を横に振る。
「どうしてあたしのことを助けようとするの? ルカ君にひどいことしたやつなのに」
「それは……」
「他人のあたしなんか、助けたってあなたになんの得もないでしょ」
「同じ世界に生きてる以上は、他人じゃないよ」
ニノンはそれだけ言うと前に向き直り、再び歩き始めた。手を繋がれたままのミーシャも、半ば引きずられるようについていく。
手を繋ぐのは、力を使いやすくするためだとニノンは言っていた。夢みたいな話、夢みたいな景色。もしかしたら自分は夢を見ているのかもしれない、とミーシャは思う。だったらまだ気分が楽だ、とも。
「ルカと出会ったとき、私記憶をぜんぶ失くしてて」
歩きながら、ニノンが唐突にそんなことを口にした。
「記憶喪失なの?」
「今はけっこう思い出してるよ。でも最初は本当になにも思い出せなくて。この部屋みたいに、頭の中真っ白だったなぁ」
左右をゆっくりと流れていくコバルトブルーの扉。小窓の向こうに広がる世界は、進むにつれて時を逆さまに刻んでいく。
「ルカと一緒にいろんな町に行って、いろんな人と出会って、私この世界に独りぼっちじゃないんだって思えたの。だから私にとって、同じ世界で生きてる人は他人じゃないんだ」
「ニノンちゃん……」
「あっ! あれ光ってる!」
突然の叫び声がしんみりしかけた空気を蹴散らす。彼女の指差した先にある扉の小窓からは、ほかと違って確かに淡い光が漏れている。
「絶対あれだ!」
「え、絶対なの?」
「たぶん、ルカも今思い出してるんだよ。そのことを思い浮かべる人が多いほど、私の力は強く反応してくれるの」
「ふうん……?」
なんだかふわふわとした内容でよく分からない。オカルトチックな話は専門外である。この場は事情をよく理解していそうなニノンにすべて任せることにして、ミーシャはとりあえず光の漏れる扉のノブを回した。




