第146話 亡き少女のためのノスタルジア(1)
〈前回のあらすじ〉
洗浄液を差し替え、ルカが絵画を傷つけるよう仕向けたミーシャ。本音を語った彼女は、やがて憎しみを抑えきれなくなる。そこでニノンは力を使い、この場をおさめようと彼女の過去に飛び込む――。
敏腕な絵画バイヤーの両親の下に生まれた、玉のように愛らしい女の子――。
アルテミシア・ブォナローティの幼少時代は、その裕福で華やかな印象に反してなんとも味気ないものだった。
両親と過ごした思い出は片手で数えるほどしかない。思い返そうとすると、生活感もひと気もない、だだっ広いアパルトマンの景色ばかりが浮かんだ。
多忙を極める両親の様子を見かねたのか、はたまた本人たちから頼まれたのか、ある頃からミーシャは叔母夫婦の元で暮らすようになった。すると、仮住まいのアパルトマンには真新しいおもちゃやブランドものの洋服、高級な菓子類が頻繁に届くようになった。
そのほとんどはミーシャの心を掴まなかったが、ひとつだけ気に入っているものがあった。引っ越す前に自身でアパルトマンから持ち出した、十二色入りのクレヨンセットだ。箱にはとぼけた顔のコマドリが描かれている。腹だけオレンジ色で、その他はピスタチオ色に塗りつぶされた、太ったコマドリ。針金のような脚の右下には、知らない画材店の名前が大きく明記されていた。両親が仕事の関係で貰ったノベルティだった。
ミーシャは一人になると決まってクレヨンを使って絵を描いた。
真っ白い画用紙を色々な風景や人で埋めていくのは、新品のまま放置されたアルバムに写真を一枚一枚増やしていくようで楽しかった。ときどき帰ってきた両親は、スケッチブックのページを開くたびに驚嘆した。彼らの反応が新鮮なほど、動かし方を知らない表情筋の内側で、心は密かに昂ったものだ。
子ども部屋に大きな絵画が運び込まれたのは、それからほどなくのことだった。
『ミーシャ、お前のためにこれを調達してきたんだ』
『素敵な絵でしょう。時がきたら還元しなさい』
スーツをかっちり着こなした両親はそう言付け、無駄のない動作で幼い身体を一度ぎゅっと抱き締めると、額にキスを落とすことなく足早に去っていった。
壁に掛かった贈り物を、ミーシャはしばらく惚けた目で見つめていた。
両親が娘のためにと選んだ絵画には、ミーシャと似た年頃の女の子が描かれていた。艶やかな金の髪、ワンピースの鮮やかな青、少しむくれた表情。ミーシャはその絵をひと目で好きになった。
いつも寂しい思いをさせてごめん、と、両親の申し訳なさそうな声が耳元で聞こえた気がした。
思い返せばその贈り物は、画家という職業への牽制だったのだろう。
見る度に洗練されていくスケッチブックの中身が、両親に娘の将来を想起させた。選ぶ側ではなく、選ばれる側。
今まであらゆる画家を目にしてきた二人は、その職業がいかに博打的かを知っていたに違いない。だから彼らは、娘を自分たちと同じ道へ招くために、幼い足元にそれとなくレールを敷いたのだ。
しかし、両親の意向に反して、ダーフェンの絵画は将来への道しるべではなく、唯一の友人としてミーシャを支えることになる。
たとえ学校で誰かと喋らずとも、家に帰ればダーフェンの娘が出迎え、その視線で語りかけてくれた。たとえ両親が長く家を空けようとも、青いワンピースの少女はミーシャの代わりにキャンバスの中で拗ねてくれた。
暑い夏の日も凍える冬の日も、絵画の掛かった部屋で学校の課題をこなし、叔母が用意してくれたおやつを食べ、青いワンピースの少女の傍らで絵を描いた。
ミーシャはますます絵を描くことにのめり込んだ。やがて、ダーフェンのような唯一無二の絵画を生み出す画家になりたい、と願うようになった。
*
何度目かの引越し先で、ミーシャに初めて友人ができた。
正しくは、渋面の両親に頼み込んでなんとか通えることになった、アトリエ〈目覚まし時計〉の教室でだ。
そのアトリエではふた月に一度課題が出され、課題に沿った絵画を制作するというプログラムが用意されていた。講師によって選出された絵画のいくつかは、半年ごとにまとめてルーヴルへと送られる。
還元率の高い絵画が出たとなれば、アトリエの評判は上々だ。パリには絵画塾なるアトリエがいくつか存在するが、〈目覚まし時計〉はその中でも「実力が身につきやすい」と人気のアトリエだった。
実際に、ミーシャの両親が娘のアトリエ通いを承諾したのも、講師陣が実力者揃いであること以上に、そのアトリエが多くの実績を残していたからにほかならない。
課題絵画は教室の後ろの壁に張り出される。
ひと気のない教室に居残り、壁一面に並ぶキャンバスの中からお気に入りの一枚を選ぶ。それが、ミーシャの密かな楽しみだった。
『花』という課題が出た月は、色とりどりの花が咲き乱れる中で、逆さづりになった赤銅色のドライフラワーに心奪われた。また『友人』という課題では、生意気そうな視線をただ足元に落としているだけの男の絵に目が留まった(後に講師から「それは自画像だ」と咎められている現場を目撃し、絵のモデルが友人ではないことを知る)。
選んだ絵には、はかったように同じ生徒のサインが書かれていた。
彼の名前はテオドール・マネ。題材こそ斜に構えているが、画風はいずれも優等生らしい印象で、間違いのないバランスのよさは、彼が数多くのデッサンをこなしてきたことを表していた。ミーシャは上品な中に滲み出る棘のようなものに好感を覚え、また毎回提出期限を守らない怠惰さに少しだけ呆れもした。
だからこそ、彼が期限を守れない理由を知ったとき、柄にもなく腹を立てたのだった。
陰湿な行為の巣窟となっている放課後の教室に、ミーシャは素知らぬ顔で踏み込んだ。そして、アトリエメイトたちが振りかざす幼稚な加虐心を、言葉に不慣れな口で非難した。
決してテオドールを助けたかったわけではない。
彼が作品を作り出すための時間を、奪われたくなかったのだ。
アトリエメイトたちは何か言いたげな顔をしていたが、次の瞬間には不揃いな足並みで教室から出ていった。コミュニケーション能力がないことも、口下手なことも、ミーシャは自分自身よく理解している。不満の理由が相手にうまく伝わっているかは分からなかったが、この出来事を機に、アトリエメイトたちがテオドールにしつこく絡むことはなくなった。
いつしか二人は、約束するでもなく放課後の空き教室に居残り、絵画制作を行う仲なった。そのうちミーシャ、テオと愛称で呼び合うようになり、時おり互いの作品を鑑賞しては、この描き方は良いだのここはもう少し手を加えたらどうかなどと、忖度のない意見を出し合ったりもした。
友人はただ一人でいい。自分にはダーフェンの娘がいる。面倒ごとを避けられるならと、今までのミーシャは頑なに独りを好んだ。しかし今は、呼べば応える相手がいるというのも悪くない、と思うようになっていた。
帰宅して、ミーシャはいつも通りまっすぐ自室に向かう。
壁に掛かっているキャンバスの中では、ダーフェンの娘が相変わらず不貞腐れた顔をしている。
「友だちできたんだ、あたし」
スクールバッグの中身を整理しながら、ミーシャは壁に向かってぽつりと独り言を零した。「だから何?」とでも言いたげな、動かぬ眼差しがこちらに差し向けられている。かつて同士のそれだった不満げな瞳も、今では機嫌を損ねた妹を宥めるような面持ちで見つめることができた。
「会いたい?」
かくしてミーシャは友人を初めて家に招くことにした。もちろん、ダーフェンの絵画を紹介するために。
その行動が間違いであったことを、ミーシャはすぐに痛感することになる。
自室で二人きりになったとき、テオの瞳がなにかを決意したように潤んだのを見た。まっすぐにこちらへと向けられた熱い眼差しが、ミーシャの脳裏に過去の後ろ暗い記憶を蘇らせる。無駄に整った容姿が意図せぬ好意を多々引き寄せたこと。望まない人間関係の拗れに疲弊したこと。
冷や汗が背中を伝う。心臓がド、ド、と警告音を鳴らしている。
聞いてはいけない。これ以上ここにいてはならない。
「好きです」
道端で咲く珍しい花にふと足を止めてしまうのと同じくらい、その言葉は彼の口からごく自然に零れ落ちた。脊椎反射でミーシャの眉間にわずかなしわが寄る。
テオは自分でも一瞬驚いた顔をして、すぐに「ミーシャの描く絵が」と付け加えた。そして、刹那の動揺をいたずらっぽい笑顔で上塗りした。
きっと本人も、言うつもりなどなかったのだろう。
「もしかして僕に告白されたと思いました?」
「……ごめん。実はちょっと思った」
申し訳なさそうに視線を落とすミーシャの耳に、場違いに明るい笑い声が届く。
「そんなキッチュな感情を僕が抱くわけないじゃないですか。失礼ですね。あなたはヒーローなんですよ?」
実に失礼で、たいそう狡く、友人に嘘まで吐かせてしまう最低な人間だ。
友人なんてお前には贅沢な存在だ、と頭の中で己の声が罵倒した。
「この胸にあるのは敬愛です、敬愛!」
「それもちょっと気持ち悪い」
困ったように口元を歪めて、ミーシャも冗談を返す。
いつもと変わらない友人の笑顔。いつもと変わらないやり取り。目の前にあるのにどうしようもなく懐かしい、そのすべてからミーシャはそっと視線を逸らした。
*
――あたしの友人はあの子だけ。
そう思いを改めた矢先、ミーシャの部屋から絵画は忽然と姿を消した。
学校から帰ってきたときには既にダーフェンの娘の姿はなく、壁には空っぽの額縁が掛かっているのみだった。膝立ちになって呆然と額縁を見上げるミーシャに、叔母はそろりと近付いて申し訳なさそうに説明した。
昼間にあんたの父さんと母さんが急に帰ってきてね、三〇分もかからないうちに業者の人が持ってっちゃったのよ。あんたが大事にしてたのは知ってたんだけど、わざわざ学校に連絡入れるってわけにもいかないでしょ。でもまぁ、いつかは還すものだったんだしね――。
「あんたも部屋に籠ってばっかりじゃなくて、たまには外で友だちと遊んできたらどう? この家にだって何人でも、招待していいんだから――」
「……っ放っておいてよ!」
大声に怯む叔母を振り返ることもせず、ミーシャは自室に飛び込んで、叩きつけるように扉を閉めた。
それからは他人との会話を避けるように自室に篭りきりになった。学校には通ったが、やはり誰とも会話をしなかった。アトリエ通いは止めた。講師には事前に相談を済ませており、来月には退会する予定でいた。物好きなアトリエメイトからの心配するメッセージにも、徐々に反応を返さなくなった。
一週間、一ヶ月、ミーシャは空っぽの額縁に背を向けて、何を考えるでもなくキャンバスに絵具を塗りたくり続けた。
いくつもの色が混ざり、キャンバスの上には濁った溝色が氾濫した。一度与えたくせに奪っていった両親への怨嗟、大切な友人を資源として利用された悲嘆、どうにか救う手立てはなかったのかという後悔、世の中に対するままならない思い。あらゆる感情がない混ぜになった色だ。右腕からずぶりと浸かったまま抜け出せず、ミーシャは徐々に溺れていく。
どれくらい経ったかわからない頃、アパルトマンに一人の来訪があった。
執拗に鳴らされるチャイム音。それだけでは飽き足らず、声まで張り上げはじめた客人のしつこさに痺れを切らし、ミーシャはオイルの臭いを纏わせながら自室を這い出た。
扉の隙間を二センチほど開けて、知った顔を睨みつける。
大きなキャンバスを背負ったテオが、安堵と戸惑いを混ぜた顔でそこに立っていた。
舌打ちだけしてそのまま扉を閉めようとするも、意志をもって輝く瞳が「話をするまで帰らない」と強く訴えかけてきた。さらに扉の隙間に足を捩じ込まれてはどうしようもない。相手の足の骨を折るよりも、こちらが折れた方が早いだろう。
わざわざここまでやって来た物好きなアトリエメイトを家に上げ、ミーシャはダイニングで手短に近況を伝えた。
アトリエを辞める。もう会えないと言外に伝えれば、しばらく俯いたのち、テオはおもむろにキャンバスを机の上に立てて、絵の解説をはじめた。
「これは、〈シネアクアを訪れる人々〉です。ミーシャの水族館の絵にインスパイアされて描いたんですよ」
両親の優しげな眼差しに見守られながら、水族館の中でガラス張りの海を見上げる幼い少女。ダーフェンの娘をイメージしたという幼い娘の髪色はたしかに金色で、青いワンピースを着ていた。少女は水槽の中の魚がよく見えるよう、父親に抱きかかえられている。
少女の横顔には不満の色など微塵も残っていない。父親や母親らしき人物も、目の前の大きな水槽ではなく我が子をつぶさに見つめている。この絵の中にはただただ幸福な時間と、きらきらしい表情が溢れているだけだった。
「よければ受け取っていただけませんか? あなたの為に描いた絵なので――」
照れくさそうな笑顔が、ミーシャの中の怒りを助長する。
ずっと大切にしていた友人はもういない。優しい両親だって初めからいなかった。そしてまた一人、目の前から消えていく。
「あたしは……あたしの為に絵を描いてほしかったわけじゃない……」
いつかニュースで目にしたナガミヒナゲシの姿が、ふと脳裏を掠めた。道端に咲く、ポピーによく似たコーラル色の愛らしい花。アレロパシーを有するその花は、海を渡った異国の地でついに特定外来生物に指定されたという。
ナガミヒナゲシが放つ物質は、周囲の植物が繁殖することを許さない。そうして周囲を自分の色に塗り替えてしまう。他者を喰らう害悪な存在は、今の自分とそっくりだった。
ミーシャの愛した、上品な中に滲み出るいくつもの棘。テオがテオである故に生まれくるはずだった数多の作品が、生まれる前に壊され消えていく。
壊したのは、紛れもなく自分だ。
長くなったので2つに分けました。後半は明日あたりに投稿予定。




