第145話 贋(まやかし)
前回のあらすじ:修復用の洗浄液が取り換えらえれていたことに気付いたルカ。人けのない教室に戻ると、作業道具を漁る人影が…。
ミーシャはその場でゆっくりと立ち上がった。
ブラインドの隙間から漏れる光がその背に遮られ、教室はより一層薄暗くなる。
妙に冷めた翠色の目が、入り口に立つ面々をゆっくりと確かめていく。その視線が最後にルカの右手の中のガラス瓶に辿り着くと、彼女の口元がにやりと奇妙に歪んだ。
「濃度が変わったこと、気付いたんだ」
彼女の手にも、透明な液体で満たされたガラス瓶が握られている。
「ミーシャがやったのか?」
悲しみに打ちひしがれた声でルカが問う。
彼女は妖艶に微笑むと、はっきり頷いた。
「そうだよ。あたしが中身を取り替えた」
「……どうして……」
ルカはぎゅっと眉根を寄せた。言葉が詰まって出てこない。まるで、何本もの針で突き刺されているかのように、心臓がちくちく痛む。
「使ったんだ、その洗浄液」
ミーシャはつまらなさそうに呟くと、くるっと後ろを向き、イーゼルに掛かった布を取り払った。そうして露わになったキャンバスを、興味深げに覗き込む。正確には、ルカが失敗してしまった箇所を確認しているのだろう。
キャンバスに向けられる萌黄色の真摯な眼差し。人形のような表情の裏側で、静かに燃え滾る絵画への愛情。華奢な背中を丸めてキャンバスを覗き込む姿に、今まで見てきたミーシャの残像が重なり――そして消える。
「剥がれちゃったんだね、金箔」
ルカは、心に満ちた悲しみがゆるやかに怒りへと変容していくのを感じた。
彼女の思惑を見抜けなかったことが悔しくて、絵画を傷つける隙を与えてしまった自分が情けなかった。
「どうして絵画を傷つけたんだ」
語気を強めて再度問い質す。睨みつけた先の背中は、僅かな光を受けて黄金に縁取られている。
「…………先に傷つけたのはそっちでしょ?」
ぼそっと呟かれた言葉は、思ってもみない反論だった。ルカは眉をひそめて思案する。聞こえはしたが、言われている意味が理解できなかった。
「覚えてないよね。だってルカ君、その頃はまだ見習いだったんだろうし」
「見習い……」
その言葉でルカは確信した。
「ダーフェンの絵画のことを言ってるのか」
僅かな沈黙の後、ミーシャはゆらりと力なく振り返った。
その瞬間、ルカの背筋をゾッとしたものが這い上がってきた。
美しい色の瞳に宿る、明らかな憎悪と狂気。薄く色づいた唇は、それらの感情を抑えきれなかったというように両端がいびつに吊り上がっている。
「六年前。あたしが大切にしていたダーフェンの絵画は、両親の手によってアルタロッカ地方にある小さな修復工房に運び込まれた」
「アルタロッカ地方の、修復工房……」
まごうことなく、ルカが生まれ育った故郷である。
「両親は還元率の高くなるタイミングを先読みして、ルーヴルよりも腕があると見込んだ修復家たちに修復を依頼したの。だけど実際に還元された数値は稀に見るひどいものだった。ルーヴルが公開しているアーカイブの足切り設定、ルカ君も知ってるよね」
「還元率が一定数以下の絵画は、一般に……公開されない」
続きを促され、ルカはロボットのように読み上げる。頭は彼女が口にした事実を理解することで手いっぱいだった。そう、とミーシャは静かに頷く。
「あたしが大切にしてた絵画はアーカイブにも載ってない」
身体中に憎悪を纏わせながら、彼女が一歩、また一歩とこちらに詰め寄る。その度に、憎悪の圧のようなものがピリピリと肌を刺激した。
「それまでダーフェンの作品はどれも高還元率を保ってた。例外なくすべてだよ。だから、いきなりあの絵だけ酷い結果になるなんてありえない」
ありえない?
言外にお前たちのせいだと糾弾されているのを感じて、ルカはごくりと咽頭を上下させた。
「つまりミーシャは、修復工房の失敗が原因だって言いたいのか?」
憎しみにぎらつく瞳が一瞬だけ揺らぐ。
しかしすぐに、愚問だと言わんばかりにこちらを睨み直した。
「ルーヴルに提供していたらきっとこうはなってなかった。いったいどんな風に塗り替えたの? どこまで作り替えたの? まぁ、依頼品のことなんて一枚一枚覚えてないか。そうだよね。あたしは……あたしは最期にも立ち会えなかった。あの子の最期の姿も知らない。手元に戻ってきたあの子は、無価値だと烙印を押された紙切れ一枚の姿だったから」
押し殺すような声でそこまで捲し立てると、ミーシャは言葉を区切った。その顔は、なにか腹の底から込み上げてくるものを必死に呑み込もうとしているようにも見えた。
「……覚えてるよ」
掠れた声で呟けば、睨むようにミーシャがこちらを見た。
「今も覚えてるよ、あの青いワンピースの女の子のこと。作者の名前を聞かれたときは正直わからなかった。でも、絵を見て思い出したんだ。その当時俺はまだ見習いだったけど、この手で確かに修復の手伝いをした。そのことも全部、覚えてる」
眼裏に浮かび上がるのは、山の上に建つ小さな丸太小屋の中の雑多な修復工房。当時主だって作業に従事していた父親の光太郎と、同じく工房に勤めていたクロード・ゴーギャンは、その日も一枚の絵画を修復していた。
そのときルカは十歳で、修復家見習いという立場ではあったが、十分な腕を持っていた。だから当然、その絵の修復作業にも加担していたのだ。
大人たちの背中越しに見た少女はふわふわとした白い毛並みの仔猫を抱え、まるくて大きな目をこちらに向けていた。腰からたっぷりと裾の広がったワンピース、その布地の鮮やかな青色が印象的な絵だ。口角はやや下がり気味で、少女はあまり楽しそうではなかった。そこはかとない違和感は、見るものを妙に惹きつけもした。
『この絵のモデルはね、画家の娘さんなんだそうだよ』
綿棒でキャンバスの表面を擦りながら、父親はなんとはなしに語った。ダーフェンという画家は、もっぱら娘の絵ばかりを描いていたのだという。何枚も何枚も同じ絵を描いて、そのうちの一枚が高エネルギーに還元されると、他の絵も後を追うように次々と膨大なエネルギーを生み出すようになったということだ。
『いつになったら一緒に遊んでくれるのパパ、って訴えてるんだよ、この子は。だからほら、少し不機嫌そうな顔をしているだろう』
そんなふうに拗ねられたら、僕だったら喜んじゃうな。冗談とも本気ともつかないことを口走る光太郎に、クロード・ゴーギャンが「子離れしないと嫌われるぞ」と忠告する。この子は拗ねているのか、と、自分よりいくらか幼い女の子を興味深げに眺めながら、ルカもまたその絵画の修復を手伝った。
それが、五、六年前の話だ。
依頼者に納品したあと絵画がどれほどのエネルギーに換わったのか、修復家なら把握しておくべきだったのだろう。良くも悪くも数値に興味がなかったルカは、ダーフェンの描いた絵画が後にどのような悲劇に見舞われたかをついぞ知ることなくここまできたのだった。
「――あのときの復讐なのか?」
肯定の代わりに、彼女は口元に浮かべた笑みをいっそう深くした。
ミーシャはこの数年間、大切な絵画を奪った修復家に恨みを募らせながら生きてきたのだろうか。
「この学園に入学する直前、あの絵の修復をした工房がコルシカ島にあるって偶然知ったの」
引っ越し準備を進めていた際、領収書や書類などをまとめてあるひきだしから一枚の紙切れを見つけたのだという。それはダーフェンの絵画の修復が完了したことを示す報告書だった。ミーシャはその紙面から『道野修復工房』の名を知った。
連絡先として記載されていた電話番号に電話を掛けると、のんびりとした声の男が出た。
男は、工房は現在休業中だと告げた。
「潰れたんだ、いい気味って思った」
ミーシャは加虐的な笑みを浮かべ、けれどすぐに「でもその人はこう続けた」と表情を曇らせた。
「工房は息子が継いだからそのうち再開しますって。修復の依頼ですかなんて聞かれて、あたしはすぐに電話を切った。それで、しばらく考えてた。いくつもの絵画がまた犠牲になるかもしれないって思ったら、無性に悔しかった」
一方的な言い草にルカの表情が険しくなる。けれど言い返す隙もなく、ミーシャは淡々と捲し立てた。
「でもあたしにはどうすることもできないってわかってた。だから仕方ないって割り切ろうとしてたの。あのとき新聞の記事を見つけていなかったら、たぶん諦めてたよ」
「……新聞?」
「ヴェネチアでマスクの修復、したんでしょ」
そこまで言われて、誰もがハッとした。
ベッキー・サンダースと名乗る記者が一度、ルカの記事を地方新聞に掲載したことがある。そこにはヴェネチアンマスクがエネルギー源として試験的に採用されたこと、その修復を手掛けたフリーの修復家の素性が盛り込まれていた。彼女は偶然その記事に目を留めた。そして、仇敵の姿を見つけ出したのだ。
「学園でルカ君を見たとき、これは運命なんだって思った。神様が復讐のチャンスをくれたんだよ」
そう言ってミーシャは、あまりにも美しく微笑んだ。
その微笑みが、ルカの心臓をぎりぎりと締め上げる。
「友だちになりたいって言ったのは、演技だったのか」
「うん」
「修復のことを学びたいって言ったのも」
「ぜんぶ贋」
「…………そうか」
項垂れたルカの薄く閉じた瞼の裏に、ハロウィンナイトの大焚火が燃え上がっている。
頬をオレンジ色に染めながらミーシャが喋る。友だちになりたいと微笑む。教室で弟子にしてくれと懇願した、必死の訴えも。絵画が好きだと笑った横顔も。すべては失敗を誘発させて、『道野修復工房』の評価に傷をつけるための巧妙な贋だった。
「理不尽だよね。ルカ君はちょっと手伝っただけなのに、責任全部押し付けられてあたしに恨まれて」
「そんなこと……」
思うはずがない。
悲しいのは、そんな理由じゃない。
「かわいそうなルカ君」
囁くようなつぶやきが聞こえた瞬間。
「――でもそんなの、関係ないからッ!」
低く唸るとミーシャは身体を後ろへ捻り、ガラス瓶の握られた手を大きく振り上げた。視線の先にはイーゼル。そして、その上に鎮座する黄金のキャンバス。
「やめろ!」
ルカは床を強く蹴り、彼女とイーゼルの間に身体を割り込ませた。一瞬驚いたミーシャの顔が見え、すぐにガシャン、という音とともに額に衝撃が走った。粉々に砕け散ったガラスの破片が足元に散らばる。その上に、ぽたぽたと透明の雫が垂れ落ちた。
「ルカ!」
ニノンが叫び、飛びつく勢いで駆け寄ってきた。足元に散らばるガラス片を気にせず踏みつけ、ルカの額を覗きこんで顔を青くさせる。
「ち、血が……!」
言われてやっと、ルカはぐっしょりと濡れた前髪の生え際あたりを指で触ってみた。見ると、指先が少しだけ赤く濡れていた。
「大丈夫。たいしたことない」
「でも……!」
痛みはあるが、血が滴ってくるほど傷が深いわけでもない。ルカは額を手の甲でぐいっと拭うと、血の気のない顔で立ち尽くしているミーシャに視線を向けた。肩をびくりと震わせ、彼女は一歩後ずさる。
「ば――馬鹿じゃないの。ガラス瓶の中身がもっと危険なものだったらとか、考えなかったの!?」
「でも、ただの洗浄液だった」
ルカは濡れた髪先を指でつまみ、ぬるつく液体のにおいを嗅いだ。皮膚を溶かす類のつんとした刺激臭はない。ミーシャは信じられないといった顔でこちらを凝視している。
この洗浄液は、彼女が再び用意した替え玉だったのかもしれない。思うような大きな失敗が起こらなかったから、改めて失敗を誘発させるために。
「大切な宝物でもないのに、どうして身をていしてまで庇うの。そこまでその絵に執着する理由なんてないでしょ、ルカ君には……!」
彼女の憤りを、ルカは悲しい気持ちで聞いていた。
「あるよ」
そして、心のままの声音で嘆くように呟いた。
青い瞳を向けると、ミーシャの頬が僅かに引き攣ったのがわかった。
「修復家は、目の前で絵画が傷つけられるのを見過ごせない」
「でも――でもあたしの友人を傷つけた。本来の姿を取り戻せないまま、贋の価値を与えられて……! あなたたちが行ったのは、修復とは名ばかりの破壊行為でしょ。それはいいっていうの!?」
「傷つけてない!」
大きく発した声が、部屋じゅうに広がった。
ミーシャは大きく目を見張る。萌黄色の瞳が頼りなく揺れている。
「道野修復工房は、絵画を本来の姿に戻すことをモットーにしてる。たとえ失敗したとしても、傷を治さないまま依頼者に戻すことは絶対にしない」
「だったらどうして……? どうしてあたしの友だちはあんな数値になってしまったの。本当にそれだけの価値しかなかったってこと?」
「俺たちは、絵画を元の姿に戻しただけだ」
「……うそ。……そんなはずないでしょ……!」
ミーシャが震える声を絞り出したとき、肌の上を先ほどよりも強い痛みがビリビリと駆け抜けていった。ハッとして振り返ると、仲間たちも一斉にニノンを見ていた。疑いの目を向けられたニノンは、身の潔白を晴らそうと両手を上げかけ――すぐに自身の顔を指差して何度も頷いた。ジェスチャーで「私です」と自白しているらしい。
「修復家なんて、いなくなればいい」
憎しみの言葉とともに、エメラルド色に輝く目のふちからぼろっと涙がこぼれ落ちた。
その瞬間、ミーシャを中心にして、目に見えない力の塊のようなものが瞬く間に膨張した。途端に、ずしんとした重みが身体全体にのし掛かる。「あっ、やばい」とニノンが蛙の早口言葉を唱え始めたときには既に、それはその場にいるものを丸ごと呑み込んでいた。
「ミ、シャ……!」
荒れ狂う嵐のなか、逆風を全身に受けているのかと錯覚するほど、まるで身体の自由が利かない。それでもルカは泥沼の中を掻くように手を伸ばした。指先の向こうに、手で両耳を塞ぎ、苦しそうに喘いでいるミーシャの姿が見える。
「蛙ぴょこぴょこみぽこぽこ……」
「言えてねえし、全然抑えられてねえぞ!」
「だ、だって! ミーシャちゃんの力が強すぎて――わっぷ!」
「悪いけどニノン、一旦退避するよ」
ニコラスは一言告げると、ニノンをお姫様抱っこの形で抱え上げた。
しかし同時に、扉の一番近くにいたテオが両手を広げて二人の行く手を阻む。ニコラスは片眉を上げ、その障壁を睨みつけた。
「坊や、そこ退いてくれるかい?」
「嫌です」
両者の冷ややかな視線がぶつかり合う。赤子のように抱え上げられたニノンは、両手を顔の前で組み、必死に早口言葉を唱え続けている。テオはその奇行をちらりと垣間見てから、すぐにニコラスへと視線を戻した。
「これがミーシャの抱えている苦しみなら、一緒に耐えましょうよ。あなたたち、ルカ君の仲間でしょう? 共に罪を抱えるのが仲間ってやつなんじゃないんですか?」
「つべこべうるせえヤツだな! そういうんじゃねえっての! 説明はあとでしてやるから、とりあえずどきやがれ」
「い・や・です!」
「かーっ! 言葉の通じねえクソボケ野郎め!」
アダムは威勢のよさに反比例して〇.五倍速で一歩踏み込み、テオの肩に掴みかかる。テオは意地でも扉の前を譲らない気らしく、とうとうスローモーションな取っ組み合いが始まった。強行突破しようとニコラスが片足を上げる。そのとき、腕の中で突如ニノンが開眼した。
「も、もうダメかも……」
「え!?」
嘔吐を我慢しきれなくなったときのような弱々しい呟きに、ニコラスがぎょっとしたのも束の間。
「あっ、ニノン!」
ニノンは早口言葉を止めて、腕から飛び降りて走り出した。
向かったのは塞がれた出口――とは正反対の方向だった。
「あの子の価値はあんなものじゃない……! あの子はもっと……っ」
ルカの視界の端を駆け抜ける、桃色の髪。
「ミーシャちゃん!」
彼女はあまりにも軽やかに、ルカが指先すら届かなかった少女の元へと飛び込んでいった。そして、床にくずおれたミーシャの元にしゃがみ込み、もう一度その名を呼んだ。迷子の幼な子が雑踏の中から親の呼び声を聞き拾ったように、涙で濡れた翠の瞳が、声を頼りにふっと上を向く。
「会いにいこう、ミーシャちゃんの大切なお友だちに!」
力強く言い放ち、ニノンは今にも壊れそうな少女の身体を両腕で優しく包み込んだ。
ミーシャとともに彼女の記憶の中に飛び込んだニノン。
憎しみに囚われた彼女の心を開放するには、いったいどうしたらいい?
次回は「第146話 亡き少女のためのノスタルジア」をお届けします。




