第144話 誰がこいびと殺したの?(2)
「好きなほうを選べよ。今ここで自ら白状するか、白状したくなるまでケツにマスタード塗りたくられるか」
アダムは仰々しく腕を組み、パイプ椅子に座らされている少年に向かってもう何度目かになる台詞を突きつけた。
「問い詰め方、雑すぎでは? それじゃあ警察じゃなくてマフィアですよ」
仁王立ちする面々に取り囲まれてなお、テオは涼しい顔で軽口を叩く。腕を組み、脚も組んで、眉尻は呆れたように垂れ下がっている。この場の主導権を握っているのか誰なのか、もはや分からない。
「い・い・か・ら、さっさと、吐けよ!」
「だから知りませんって。だいたいどうして僕が疑われなきゃならないんです?」
奥歯をぎりぎり噛み締めながらアダムが唸っても、テオはつんと唇を尖らせてそっぽを向くばかりだ。
「て、テオ君を疑ってるわけじゃないよ。この教室で作業してるのを知ってる人って限られてるから、なにか知らないかなって……」
「いーや疑ってんだよ、俺たちはなァ!」
なんとか場を丸く収めようと奮闘するニノンの頑張りを、アダムが容赦なく蹴散らす。彼の後ろでニコラスが額を押さえるのが見えた。
「なんで疑われてるのか、本気でわかんねえのかよ」
「さぁ? さっぱりわかりませんね」
「おもっくそあんだろうが、犯行動機がよ!」
「ひどーい。言いがかりですよぉ」
「そのうぜえ面ヤメロ……!」
テオはあざとく両頬を膨らませていたが、次の瞬間には顔に邪悪な影を落とし、それまでとは対照的な意地悪い笑みを浮かべた。
「そこまで言うなら、証拠を見せてくださいね」
それから当然とばかりに片手を差し出し、にっこり微笑んでみせた。言葉に詰まるアダムを見て、その微笑みはさらに深みを増していく。
「僕がその洗浄液に細工したって証拠ですよ。まさか無いなんてことないですよね? あれあれ、先ほどの威勢のよさはどこに?」
「うぐぐ……」
「そもそも液量が増えてたのだって事実なんですかね。ルカ君の記憶違いってことは?」
テオは最後にルカへと向き直り、その瞳を三日月の形に細めた。例えるならその目は、標的を見定めた狩人、あるいは新しいおもちゃを見つけた子どものように輝いている。
「それはない。……と思う」
「ふぅん? 本当に? まぁ、いいんですけど。それよりも、こんなところで僕を問い詰めるより先にやることがあるんじゃないですか? 洗浄液が怪しいなら、いちから作り直せばいいだけの話でしょう。大きなミスだったなら、依頼者にさっさと謝罪に行かないといけないのでは? ああ――それとも、ルカ君の腕なら上手く隠蔽できるのかな。ふふふ、他人に教えられるほど潤沢な知識をお待ちですもんねぇ」
「この野郎っ、言わせておけば――!」
痺れを切らしたアダムが勢いよくテオの胸ぐらを掴む。が、すぐさまニコラスが彼の首根っこを掴み、軽々と引き剥がした。
「放せよニコラス! 悪いのはあいつだろ!?」
「手を出したらアダムちゃんが悪者になるだけでしょうが」
「先に言葉で殴ってきたのはあっちだぞ!」
捕獲された猫のような格好のまま、アダムは拳を振り回す。
「アダム、ひとまず六秒数えて! さん、はいっ」
「いちにさんしごろく!」
アダムはひと息で数えきり、再び拳を繰り出した。周囲の騒がしさを横目で確かめ、テオは鼻で笑う。そして、優雅な所作で襟首のしわを直した。
音もなくルカが一歩近づくと、彼は「なんでしょう?」と首をわずかに傾けた。
「悪かった」
「はいはい……はい?」
「証拠もないのに疑ったから。だから、ごめん」
そのひと声がきっかけで、騒々しかった教室に静けさが戻った。
ぎょっとする一同の視線を背中に感じながら、ルカはテオを真正面から見据える。その瞳は最初驚いてこそいたが、やがて汚泥に浮かぶ虹色の膜のようなギラついたものが混じりはじめた。笑みを零すまいと必死に力を入れているらしい口元から、「ずいぶん素直ですね」と悦びに上ずった声が漏れる。
「全部テオの言うとおりだった。ここで喋るよりもやるべき事はほかにある」
「うわ……ポジティブにとっちゃいますか」
「ありがとう、テオ。おかげで目が覚めた」
彼との会話は決して気持ちの良いものではないが、いつも何らかのヒントを与えてくれる。その点に関しては感謝すべきだろう、とルカは思った。
テオはまだなにか言いたげに顔をしかめていたが、それ以上の会話は切り上げ、机の上を片付け始める。
「えっ。ルカ、どこ行くの? 検査はもう終わり?」
足早に扉へと向かうと、ニノンが慌てて追いかけてきた。
「いちから洗浄液を作り直す。それが終わったら、作業を再開するよ」
「こいつは? 放っておいていいのかよ?」
アダムに腕を引っ張られ、ルカの身体が後ろに傾ぐ。「いや、テオは……」と言いかけてそのまま振り返ると、椅子から立ち上がった不機嫌そうなテオと目があった。
そのときふと、視線がそのすぐ下――彼の腕に抱えられたクリアファイルに留まった。中に挟まっているのは、プリントアウトされた資料の束。いくつかの画像やテキストが並んでいる。
その資料の見出しに、見覚えのある名前が載っていたのだ。
“ダーフェンが描く『昼下がりの少女』の変遷”
「僕が……なんですか?」
意識の外から苛々した声が飛んでくる。
ルカはその声を無視し、吸い寄せられるようにテオの元へと引き返した。
「ルカ君も僕のこと疑ったままなんでしょう? 結局いつも悪者扱いですよ。あーあ」
「その資料、見せてくれないか?」
「僕の話完全に無視しましたね」
テオは諦めの混じった溜め息をつくと、「あのですねぇルカ君」と前置いて、指でこめかみを揉みはじめた。今から文句を言いますよ、のポーズだ。
「あなた、僕のことを頼めばなんでもかんでも言う事聞いてくれる『お人好し』だと勘違いしてませんか? 生憎、僕はそんなに安っぽい人間じゃないんですよ。先日スケッチブックを見せたのは、本当に気が向いたからで――」
「いや、そんな風には思ってない」
「そこはおだてるところでは!?」
肯定したのに憤怒され、ルカの肩が思わず跳ねる。正直に答えないほうがよかったらしい。
「お前はお人好しだよ。俺たちと同じくらいすげえ優しい男だ」
ぶつくさ文句を垂れている少年の肩に、突如アダムが馴れ馴れしく肘を乗せた。そして「俺は知ってるぜ」などと分かったふうな口を利く。ものすごくいい笑顔だ。途端に、テオの目が胡散臭い人間を見るように細まった。
「さっきまで殴りかかろうとしてた人がよく言いますよ」
「え? 殴ろうとしてた? 誰が――俺が?」
「その胡散臭い笑顔、こっちに向けないでください」
「あー、あの、あれはアダムなりの愛情表現っていうか」
うろん気な視線が、今度は無理矢理会話に割り込んだニノンへと向けられる。
「本当は大好きなんだよ、優しいテオ君のこと。そうだよね、ニコラス!」
「え!? そう、そうだね。困っている人を放っておけないスーパーマン……みたいな子だって……聞いてるわよ……」
しどろもどろになっているニコラスを背に、ニノンが「あの資料がなにか関係してるの?」とこっそり尋ねてくる。
「わからない。でも、知りたいんだ。ダーフェンのこと」
「ダーフェン……?」
今回の出来事と関係があるかどうかは分からない。けれどルカの直感が、ダーフェンについて知らなければならないと告げていた。ダーフェンを知る、彼女の――ミーシャのことを、知りたかったからだ。
短く頷いてから、ルカはテオに大きく一歩近づいた。
「テオ」
「嫌ですよ。僕のことを邪険に扱う人たちの役になんか立ちたくないでーす」
テオは拗ねた子どものように、つんとそっぽを向いてしまっている。頑としてこちらの言葉に耳を貸さない姿勢だ。
「そうか……わかった」
これ以上押したところで埒があかない。そう判断したルカは、ならば自分で調べようと意識を早々に切り替えた。修復作業が終わったら、図書館の利用許可を得るかニキ・ボルゲーゼの研究室に赴いてパソコンを借りればいい。
頭の中で予定を組み替えていた矢先のこと。
「まぁ、そうですね。ルカ君が僕の言うことをなんでも聞いてくれるなら、見せてあげてもいいですよ」
「……本当か?」
思わず顔をあげた先には、にこにこと天使の笑みを浮かべるテオがいた。
そんな約束やめとけよ、思う壺だよ、と背後から様々な声が聞こえてくる。だがルカは、頷く以外の返答を用意する気はなかった。
「俺にできることなら」
「交渉成立ですね。……ですが」
微笑む少年の表情に、鋭い雰囲気が混じった。
「正直僕は、本当にあなたが約束を守ってくれるのかまだ疑っています」
「テメー、マジでふざけんなよ。ルカはなあ、約束は守る男なんだよ!」
拳を振り上げたアダムが、再びニコラスに羽交い絞めにされる。ルカは相手から視線を外さないまま、真っ直ぐ問う。
「だったら、どうしたらいい?」
「そうですねぇ。まずは、試しに僕がお願いしたことをやってみてくださいよ。この場で」
と、テオは人差し指で床を指し示した。
「わかった」
「やめとけやめとけ! そいつ、ロクなこと考えてねえぞ」
「そうだよ、ルカ。そこまですることないよ……!」
「言い忘れていましたが、外野が余計な口出ししたらこの交渉はなしということで」
ぴしゃりと周囲を黙らせると、テオはコツ、コツと足音を響かせて一歩ずつ近付いてきた。
「とりあえず、疑ってごめんなさいって、改めて謝罪してもらおうかな」
「…………『ごめんなさい』」
おそるおそる口にすると、テオは「あ、違います」と軽やかに手を振った。
「ジャパニーズ土下座、してください」
「え?」
「ご存知ないですか? 地べたに這いつくばって額を地面に擦りつける、アレですよ」
「あ……」
知識はある。日本で行われる最上級の謝罪のポーズだ。相手から強引に赦しを引き出す先制攻撃でもある。以前なにかのテレビ番組で見たことがあるから、やり方も朧げだが知っている。
「僕の言うことだったらなんでも聞くんですよね、ルカ君?」
語尾に踊るハートマークが、視界でぱちんと弾けた。
「するわけねーだろそんなもん!」
「アダムちゃん、暴れないで」
暴れる四肢を押えつけながら、しかしニコラスも「ルカ、あんたね、そんなの聞く必要ないよ」と彼に同意する。
「余計な口出ししないでくださいね。これは僕とルカ君の取り引きですから」
納得のいかない様子で歯噛みする三人。腕を組み、ニヤニヤと笑うテオドール・マネ。双方に視線をやったあと、ルカは優越感に浸る彼の目を見据えた。視線を逸らさず、その場でおもむろにしゃがみ込み、床にゆっくりと左膝をつく。
「……ルカ!」
制止する声を背に受けながら、右膝も床につける。
息を止めて見下げてくるテオの表情が、待ちきれないというように大きく歪んだ。
ぴっちり揃えた両膝の前に両手のひらを置いて、芋虫のように背中を丸める。そうしてルカは、頭を下げ、額を床にコツンとぶつけた。
「……すみませんでした」
その瞬間、テオは世界中の欲望を集めて煮詰めたような表情を浮かべた。
「…………く、ふふ……! うふっ、まさか本当にやるなんて……あはは!」
地べたで縮こまる身体に、降り注ぐ侮言と嘲笑。
ルカにとってそんなものは痛くも痒くもない。情報が得られるなら、額を地面に擦りつけることなど造作もない。自分で情報を探す時間のぶんだけ、修復作業に充てられたらそれでよかったのだ。
しかし、ゆっくりと顔をあげたとき――屈辱に唇を噛む仲間たちの姿が視界の隅に映ったときだけは、少しばかり心が痛んだ。
「く……あはは、あー傑作……。あは……はい、これお貸しします」
目尻に溜まった涙を拭いながら、テオはクリアファイルを差し出した。
無言でそれを受け取ると、三人が飛んできてルカを庇うように目の前に立ちはだかった。
「ひどいな、僕だって約束は守りますよ」
「うるせえ。これ以上近づくな、サイコ野郎」
「……ルカ君へのお願い、どうしようかなー」
「ついさっき命令したでしょ!?」
思わずニノンが反論すると、テオはニヤニヤと口元を歪めた。
「あれは本当に言うことを聞いてくれるのか試しただけです。本番のお願いはまだ伝えてません」
「汚ねえぞ!」
「ほんとサイテーだよテオ君……」
「卑怯の化身だね」
「なににしようかなぁ。少し考えさせてくださいね。決まったら、またお声がけします」
飛び交う非難を伴奏に、テオは顎に人差し指を添えて今にも鼻歌を歌い出しそうだ。悔しさを滲ませる仲間たち。だが、そのどれにもルカの意識が向くことはない。
辿る視線の先にはダーフェンが遺した一枚の絵画があった。
鮮やかな青いワンピースを身に纏った幼い少女が、一匹の仔猫を抱えている。
「この絵――」
ぽつりと言葉が漏れた。
ふ、と周りの目がルカに注がれる。
目に映る情報はルカの脳裏に滑り込み、過去の記憶を確かに掘り起こしていく。
どくん、どくんと耳元で心臓が鼓動を速めた。
「俺、実物を見たことがある」
*
狭くて埃っぽい教室に、ブラインドの隙間から漏れた光が一筋、差し込んでいる。机の上には絵筆や消しゴム、綿棒が整然と並び、主人の帰りを待っていた。
壁に時計は掛かっていない。だから秒針の刻む音も、ここには存在しない。あるのは僅かな衣擦れの音だけ。
それは、物音を立てないように慎重に手を動かしながら、椅子に置かれた鞄の中を探っていた。
ガラ、と音を立てて扉が開いた瞬間。びくりと跳ねたその影は、身を隠すようにイーゼルのたもとへうずくまった。
「探してるものはそこにはないよ」
右手に洗浄液の入ったガラス瓶を握りしめ、ルカはうずくまる影に向かって静かに声をかけた。
それは、なにも返してこない。
返せないのかもしれない。
悲しいという感情は、きっとこういうときのためにあるのだろう。
ルカは教室の奥へとゆっくりと歩み寄り、良き友になり得たその背中に告げた。
「話をしよう、ミーシャ」
燃え盛る炎を切り取った赤い髪が小さく揺れる。
振り返った翠色の瞳に、物憂げなルカの姿が映っていた。
次回、「第145話 アルテミシア・ブォナローティ」をお届けします。




