第143話 問題が山積み
前回のあらすじ
テオから、カナンの壁画を描いたのは自分だと告げられたルカ。同じくして、壁画を介し画家集団・カナンの正体の一人がテオであることを見抜いたニノン、アダム。一同は夕食の席で、その日の出来事を報告しはじめるが……。
この日の夕食はアダムの担当で、メインはぶつ切りにした猪肉の煮込み料理だった。付け合わせのマッシュポテトと栗粉のパンが一山ずつ、ダイニングテーブルの中央にどんと置かれている。
スパイスの香り立ちのぼる料理を前に、食卓を囲む面々の顔はみな一様に暗い。
いつもは真っ先に料理に手をつけるニノンが、今は皿の中の肉をスプーンで意味もなく転がしているし、その隣ではどこか上の空なニコラスが、手元でパンをひたすら小さくちぎっている。ルカの隣に座っているアダムは、そんな彼らを落ち着かない様子で見守っていた。
「えーっと」
ただひとり、その空気感に首を捻りきりだったニキ・ボルゲーゼが、頬をぽりぽり掻きながら口をひらいた。
「……なにこの重たい空気?」
大皿からマッシュポテトを取り分けていたルカは、誕生日席から飛んできたうろんな視線を辿ってハッと目線を下げた。料理をよそった皿の縁に、こんもりとマッシュポテトの山ができている。あきらかに一人前の量じゃない。
らちが明かないとでも言うように、アダムは短く息を吐いてから口火を切った。
「頂上広場の壁画あるじゃん。あれ、消されちゃってさ」
「ああ。そういや今朝、副学長がバタバタ走り回ってたな」
ニキが思い出したように呟くと、ニノンはうなだれた頭を力なく揺らした。
「私もアダムも、ちょうどその場にいたの」
「あそうなの?」
ルーヴルから派遣されてやってきたのが、ニノンの友人であるユリヤと、ルーヴル発電所職員となったアダムの師匠・シャルルだったこと。ニノンが二人の前で能力を使い、壁画に干渉したこと。ルーヴルへの否定的な感情が彼女たちに伝わってしまったこと。そのせいで彼女たちに不快な思いをさせてしまったこと――。
今日あった出来事が、二人の口から交互に語られる。
個人差はあれど、絵画への干渉は心身に負荷がかかる。体力のないユリヤは、壁画に干渉したことで倒れてしまったのだという。一旦別れたあと、再び頂上広場に戻ってみれば、壁画は痕跡すら残らないほど綺麗に一掃されてしまっていた。
「つまりニノンちゃんが落ち込んでるのは~、自分のせいで友だちを傷つけたからってこと?」
「先生っ!」
ニコラスは短い悲鳴をあげ、次いで心配顔でニノンを振り返った。
「力を使ってほしいってお願いしてきたのはあっちなんだろう?」
「う、それはそう……なんだけど」
「だったらあんたが落ち込むことじゃないよ。壁画が描かれた意図は向こうだって当然把握してるだろうし、批判の声があることも覚悟してるはずさ。傷ついたってんなら、そりゃその子らの好奇心の代償だ。言い方は悪いが、自業自得だよ」
ニコラスはこんな調子で、普段からよく過保護な母親らしい振る舞いをする。その度にアダムは「出たよ」と目を回して肩をすくめた。
「ありがとう、ニコラス。でもね、あの……そういうわけでもなくて」
今度はニノンが困ったように眉尻を下げる番だった。
「他人に伝えるために形にしたものを受け取るのと、形になる前の感情に触れるのとじゃ、やっぱり全然違うの。覚悟しててもショックは受けると思う。それを私は知ってたのに……。はぁ……余計なことしなきゃよかったな」
ニノンは後悔の塊を口から吐き出して、パンをちびりと噛んだ。
画家が絵画に込めるのは、喜びや希望ばかりじゃない。悲しみや憎しみ、批判、怒り。あらゆる感情が原動力になる。ルカは今まで彼女の力を通して触れてきた絵画を思い浮かべた。荒削りな感情はときとして牙を剥く。たとえば、理性を失った獣のように。
「でもさー」
この場にそぐわないのんびりした声が聞こえて、ルカはそちらに顔を向けた。
「仮にそこで余計な行動を取らなかったとしてもだよ。どうせどこかでは失敗してるからね、絶対」
「うぐ」
「せ、ん、せ、い!」
ニコラスは青筋を立て、椅子から半ば立ち上がった。視線で絞殺されそうな勢いなのに、本人は責められている自覚がないのかヘラヘラ笑っている。ニノンは「せっ、先生のいうとおりだから!」と大慌てでニコラスの肩口を引っ掴んだ。
「わかってるの! だからもう私っ、次からは絶対変なタイミングで力使わない! 使わないよう気をつけて、訓練もするって決めたのっ!」
まるで試合前の宣誓だ。一節置いて、ニキが「よっ、その息だぞ!」と酔っ払いオヤジ然とした合いの手を入れる。アダムも気のない顔でぱらぱらと拍手をするので、とりあえずルカもそれに乗っかった。ニコラスだけが行き場のない不満を視線に込めて、ニキをじとりと見つめている。
「ま、大丈夫だよ。ニノンちゃん」
「先生?」
視線が合うように首をすくめ、ニキはへらっと笑った。
「行動理念を変えるには失敗が一番の薬、ってね。知ってる? 経験を次に生かせる子はね、強くなるよ」
「……ニキ先生……」
「ハァ〜ケ・セラ・セラ〜ァ、ハクナ・マタ〜タァ〜、フンフン♪」
ニキは即興ソングを口ずさみながら再び籠盛りのパンに手を伸ばした。
目の前の男が教師であることを、おそらくこの場にいる誰もが思い出したことだろう。ニノンは口をぽかんと開けたまま、パンにかぶりつく男を見つめる。それまで眉間にしわを寄せていたニコラスは「先生らしいこと言ってるわ」と面食らった表情で呟き、アダムも同調するように頷いた。
天井から吊るされたランプが、ゆるやかに食卓を照らす。妙ちきりんな鼻歌が流れるその風景を、ルカはパンを咀嚼しながら静かに眺めていた。
ケ・セラ・セラ――なるようになる。
「……うん。…………うんっ」
ニキの言葉を噛み締めるように何度か頷いたニノンは、すっかり忘れ去られていたスプーンを握り直し、パンと料理を一気に口に詰めこみはじめた。
「そんなに急いで食うなよ」
両頬が膨らみリスのようになっているニノンに、アダムが小言を漏らしている。それでもニノンは嬉しそうに頷くだけで、食べる手を止めなかった。
彼女の心を曇らせていた憂いの雲は、無事晴れたのだろうか。きっと晴れたのだろう。ルカは胸を撫で下ろしかけて、ふと首を傾げる。
「ニノン」
「ふぉ?」
右手にスプーン、左手にパンを掴んだまま、リスがこちらを向いた。ふるんと頬袋が揺れる。
「そもそも感受は自分の意思に関係なく発動するんじゃないのか?」
彼女の力は日に日にその威力を増している。最近では絵画に限らず、対象物に近付いただけで周囲にまでイメージを伝えてしまうのだ。力を使わないと誓っても、制御できないのでは意味がない。
疑問を口にすると、ニノンは「ふっふっふ」とくぐもった声を漏らし、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに盛大に胸を張った。
「ほえはへ――!」
「飲み込んでから喋れな」
アダムから渡されたグラスの水で一気に口の中のものを流しこみ、ニノンは改めて胸を張った。
「ふふ、実はねえ……ぷふふ、なんと! ……コントロールできるようになったんでーす!」
Vサインを掲げるニノンの背後で、盛大なファンファーレといくつものクラッカーが鳴り響く。
よっ、とまたしても謎の合いの手を入れる酔っ払い教師の横で、「いやっ、できてねーよ!」とアダムが突っ込みを入れる。
「ありゃ失敗だろ?」
「えー」
「いやほら、聞こえすぎっつーか……」
「細かいなぁ、アダムは」
「細かくねえわ」
唇を尖らせるニノンに、アダムが短く反論する。
「まぁたしかに、勢いは良すぎたかもだけど」
「それを失敗っていうんだよ! そもそもアレはいったい何なんだよ」
「アレ……?」
ルカをはじめ話についていけない三人は、ひたすら頭に「?」マークを浮かべている。当事者であるはずのニノンも顎に手を添えて小首を傾げていたが、やがて閃いたように手を叩いた。
「あ、秘策のこと?」
「ただの早口言葉だろ!」
「――ストップ。ちょっと待ってちょうだい」
「ああ?」
こめかみを押さえながらニコラスが会話に割って入った。二人は口を開きかけたまま、ぴたりと動きを止めてニコラスを見やる。
「ひとつ確認するけど。ニノンあんた、その力をコントロールできるようになったって?」
問われたニノンは「うん、そうなの!」と満面の笑みで頷く。
「あのね、早口言葉でね……」
「ほうほう。ニノンちゃん、賭け早口言葉勝負する? ぼく強いよ」
「先生はちょっと黙っててくれるかしら」
腕まくりする男の顔にワインボトルを押し付けて、ニコラスは大真面目な顔で椅子に座り直した。「んな深刻な話じゃねえぞ」と茶化すアダムの意見は頑として耳に入れない姿勢だ。
「あー、えっとニコラス? 実はその、アダムの言うとおり別にたいした話じゃないんだよね……盛り上げといてなんだけど、アハハ!」
「いいんだよ。聞かせてちょうだい。あのねニノン、もし本当に制御できるなら、それはあんたが思ってる以上にすごいことなんだよ」
ニノンに向けられた目は優しげで、慈愛に満ちている。彼のそういった表情を目の当たりにするとき、やはりニコラスは親みたいだなと、ルカはしみじみ思うのだ。
そしてその眼差しは、同時に彼の隠された事実を思い起こさせもした。
計画停電があった日の夜。扉の向こうから聞こえてきた秘密の会話。もうずっと昔から、彼がニノンを守ってきたということ。
なぜ自身の記憶が欠落していると嘘を吐いたのか。
彼が自ら語らないのなら、いつかこちらから聞かなければならない。たとえそれが、彼にとって隠さなければならない事実なのだとしても。
「最近、触れてないのに力が働いたり、暴走したりすることが増えてきてたでしょ。だからなんとかしたいってずっと思ってたの。それで、相談してみたんだけど――」
計画停電の夜に飛んでいたルカの意識が、はっと引き戻される。
感受を引き起こす原因、脱色症。多くの謎に包まれているこの病を研究している人物――ジャック・アンデルセンへと連絡を取ったときのことを、ニノンは訥々と語り始めた。
* jack
ニノン・ベルナールからの電話を脱色症の研究者・ゼファーに託して、ジャックは自室へと戻ってきた。
どっしりとしたマホガニーデスクの上には、三台のパソコンモニターが並んでいる。そのうちのひとつに表示された組織内連絡ツールに、先ほどはなかった作業依頼通知が数十件溜まっていた。発信者の名前を見てジャックは舌打ちをする。
「ウィンのやつめ、あとで覚えてろよ……」
それは、不満を表すには説得力に欠ける浮ついた声だった。ジャックは溜まる一方の作業を流れるような早さで捌いていく。頭の中は先ほど通話画面に映った少女の姿でいっぱいだった。
“フランカルドの町までやってきたら連絡をしろ“
そう言付けてから約三ヶ月。たったの一度も連絡を寄こさなかった少女が、やっと電話を掛けてきた。こんなに待たされるならこちらから携帯端末を支給しておけばよかった――などと後悔しつつ話を聞けば、どうやらまだ指定した町には辿り着いていないという。
つまり、一方的な相談の電話だった。
彼女曰く、近頃感受の扱いにかなり苦戦しているため、対策をしたいということである。脱色症を研究している研究員がいるという話を覚えていたようだ。
ジャックはさんざん文句をぶつけた後、しぶしぶ専門の研究員を呼び出してやることにした。
端末のディスプレイに映る少女は、協力に感謝し満面の笑みで何度も礼を述べた。ありがとうと言えばなんでも許されると思っているに違いない。通話中、ジャックは何度そう確信したか知れない。
「チッ、今度会ったらたっぷり説教してやる……ふん………フフ」
金色の眉は相変わらず不機嫌そうにつり上がったままだったが、キーボードを叩く音にはやがて小さな鼻歌が混じりはじめた。
「終わりましたじゃー」
「ウァーーーーッ!!」
遠慮なく扉が開かれる音と、ジャックの割れるような叫び声が響いたのはほぼ同時だった。
ゴーグルそっくりの眼鏡をかけた小柄な老人は、大声に驚いて一歩後ずさり、引きずっていた白衣の裾を踏んずけて仰向けにすっ転んだ。
「…………ゼファー、扉を開けるときはノックしろと何度言ったらわかる……」
「すまんの~。そんなに驚くとは思わんかったんじゃもん」
よろよろと立ち上がったゼファーは「おお、イテテ……」と打ちつけた尻をさすっていたが、ふと思いついたようににやりと笑った。
「さては坊ちゃん、えっちな動画でも見とったんじゃろ?」
「なっ」
「ひっひっひ、お若いのう」
「貴様と一緒にするな!」
ジャックは躊躇うことなくセクハラ老人の尻を蹴り上げた。
「ひぎゃっ! じ、冗談じゃよォ。真面目に報告するからわしのお尻蹴らないで」
「…………フン」
ジャックは腕を組み、無言で先を促した。
「えー、まずあの子には早口言葉を教えてあげましたじゃ」
ゼファーはそそくさと携帯端末を返却する。真面目に耳を傾けていたジャックは、ふざけた言葉が耳に入って思わず眉をひそめた。
「もう一発喰らいたいのか?」
「ま、真面目な話じゃよォ!」
ゼファーは両手でサッと自身の尻を隠し、勢いよく後ずさった。
そして、仕切り直しとばかりに大きな咳ばらいをひとつする。
「脱色症患者が見えざる手を持っとるのは、坊ちゃんもご存知のとおりですな?」
「感情の残像をキャッチする……超感覚的知覚だな」
「ですじゃ。ある者はそれを視覚に変換し、またある者は聴覚に変換する。もしくは脳に直接イメージとして伝わってくる者もおります。力が暴走するというのはつまり、その手が常に感情の残像をキャッチしようと忙しなく動いている状態なのですじゃ。むやみやたらに情報をキャッチせんために必要なのは、リハビリか……あるいは投薬じゃ。まぁ薬のほうは治験段階ですがの」
「それであいつにはリハビリの方法を?」
「うむ。まぁ、応急措置だの」
ゼファーはデスクに近寄って椅子によじ登る。それからモニターのひとつを操作し、アプリケーションの中からメモツールを立ち上げた。シワだらけの人差し指はするすると画面上を動き、不格好なマネキンの首を描きだす。
「情報を過剰に取得してしまう患者の場合、感受のコントロールに必要なのは鈍感力じゃ。つまり、対象物との間にシャッターを下ろすようなもんじゃの。あの子のように手を何本も持っている場合はなおさらのこと。なんでもかんでも情報を拾いすぎんよう、こうやって――意識的にシャットアウトできればOKじゃ」
マネキンの頭から飛び出た何本の腕と、その向かいに描かれた□――おそらく絵画のつもりだろう――の間に、縦線が一本描き加えられる。
「それには訓練が必要だでの。今回は別のものに集中することで、意識の矛先を分散させたっちゅーわけじゃ」
マネキンの口からは、外に向かって矢印が放出されている。意識を集中させるには、早口言葉でも頭の中でワード・チェーンを続けるでもなんでもいいようだ。
「早くあの子に会いたいものですなぁ、坊ちゃん。きっといいデータが取れるじゃろうて。あの子は……わしらの希望じゃな」
真面目なトーンで呟く老人は、やはり一端の研究者である。
ジャックが信頼の眼差しを向けた瞬間、ゼファーの鼻の下がでろんと伸びきった。
「モノホンもきっとかわいいんじゃろうなー♡ 早く会いたいのう、生のおなごに……むふふ」
「……このっ、エロじじぃが!」
「ひぎゃっ!」
尻に二度目の蹴りを喰らった老人は、デスクの向こう側に勢いよく飛んでいく。彼は両手で尻を庇い、白衣を引きずりながら慌てて部屋を出ていった。
「はぁ……先が思いやられる」
再び訪れた静寂に、ため息がひとつ漏れる。
ジャックは静かに椅子へと腰掛け、パソコンのフォルダを次々と開いていった。
数あるファイルの中から一つのデータを立ち上げる。画面には細かな字がびっしりと並び、時おり折れ線グラフや数字の敷き詰められた表が姿を見せる。ジャックは頬杖をつき、画面を眺めた。
現在研究の補佐をしてくれているエドワード・ブレイクは、ケアレスミスも少なく頼りになる男だ。
この研究の根幹を握るロロ・ブーシェは、なよつく精神が気にかかるものの、目の付け所は技術者のそれであり、ジャックとしても彼のセンスは買っている。
脱色症の研究を行っているゼファーも、薬の開発に精を出しているあの男も、その他アシスタントスタッフも腕が立つ者ばかりだ。成果は着実に生まれつつある。
そして、ニノン・ベルナール・ド・ボニファシオ。
彼女の持つ力の正体を解明できれば、この研究はゴールに辿り着けるだろう。
「早くこっちに来い、ニノン・ベルナール」
ジャックはファイルを閉じ、再び手つかずのタスクを消化しはじめる。
ファイルのタイトルには、“新資源を用いたAEP代替エネルギーについて”と記されていた。
* Luca
食事を終えた一同は、ニキ邸の二階にある寝室の一角に場所を移した。
号令をかけたのはアダムだ。
四人はベッドの上で小さな輪になって座る。胡坐をかいたアダムが、それぞれの顔をぐるりと見渡してから「ひとつわかったことがある」と静かに告げた。
「画家集団カナンのメンバーに、パオリ学園の生徒がいるんだ」
この家の主は泥酔状態で、現在一階のソファで眠りこけている。彼は一応学園の教師だ。生徒が世間を賑わせる活動に参加していると知れば、指導の立場に回るはずだ。場所を移してこの話題を出したのは、アダムなりに壁画を描いた人物を庇ってのことなのだろう。
「それも、たぶん俺たちの知ってる人物で――」
「テオだ」
「そう、テオが……へえぇ!?」
アダムが膝に置いていた腕ごとずるっと滑り落ちる。その隣でニノンもひどく驚いた顔をした。
「えっ、な、なんでルカが知ってるの?」
「本人にそう言われた」
「おいおいウソだろ? 自分からバラしたのか?」
「テオにスケッチブックを見せてもらったんだ。そこに壁画のスケッチが――」
説明の途中で、ルカは「エスキースがあって」と言い直した。
「あれを描いたのは自分たちだ、って。別に隠してる様子でもなかったけど」
「うへえ、自己顕示欲の強い放火犯かよ」
確かに、あのときのテオはどことなく生き生きとしていた。
そこからだ。それまでの高圧的で刺々しい態度が一変し、妙に馴れ馴れしくなったのは。それはもう気味が悪いほどだった。彼の奇行を思い出して、ルカの肌がぞわぞわと粟立った。
「なんでテオ君、ルカにそんなことバラしたんだろ……うーん、なんとなくわかる気が……」
「わかるのか?」
気味悪さを払拭したくて、ルカは前のめりになった。
「いやっ、えーっとね」
途端にニノンの視線が泳ぐ。
「テオはミーシャちゃんが推しだからな。お前にマウントとってんだろ、マウント」
「ちょっとアダム!」
「壁画から聞こえてきた声もそんな感じだったじゃん」
アダムは悪びれる様子もなく言う。
「テオはさ、なんでか知らねえけどミーシャちゃんのためにカナンのメンバーになってんだよ。そうすることでミーシャちゃんが喜ぶと思ってんだ」
理由を聞いても、ルカにはさっぱりだった。
二人の憶測が飛び交うなか、ニコラスが頬に手をあて、しっとりと溜め息を吐く。
「しかし、テオって子もさぞかし残念だろうねぇ。自分の描いた絵が消されちまうなんてさ」
憂いを帯びた様子に、三人は目を瞬かせる。
彼がそれほどテオに感情移入する理由が、いまいち見当たらなかったからだ。
「ニコラスがそんなに感傷的になるなんて……」
ニノンが呟くと、ニコラスはぱっと頬から手を離した。
「ああ、あの壁画が消えちまって落ち込んでる知り合いがいたもんだから。それを思い出すとちょっとかわいそうでね」
「へぇ……? その人、よっぽどカナンの壁画が気に入ってたんだね」
「まぁ、そうだねぇ」
ニコラスは考え込むように呟いたきりで、それ以上は言及しなかった。
しかし、これでニコラスが浮かない顔をしていた理由もはっきりした。それぞれが、それぞれの不安や問題を抱えてこの家に戻ってきている。それは、ルカとて例外ではなかった。
目の前で会話を続ける三人の姿をぼうっと眺めながら、ルカは頭の中にうずくまるしこりのような問題に目を向ける。
妙な態度のテオを教室から追いやったあと、ルカは中途半端に止まっていた修復作業を一人で再開した。普段どおりの工程を踏み、普段と同じ薬剤を使い、普段と変わらない冷静さで手を動かす。
なにも問題ないはずだった。
けれど、問題は起こった。
繰り返し映像を確認する検察官のように、何度もその日の記憶を思い浮かべてみた。けれど、特に変わったことなど見つからない。何度か用を足すために席を立った程度で、作業は集中して行えていたはずだ。
だとしたら何故? どこで? 何を?
考えれば考えるほど、焦りばかりが背中を這い上ってくる。
「――だからよ。なぁルカ……おい、聞いてるか?」
声を掛けられて、ルカははっとする。
「ごめん。聞いてなかった」
「飯食って眠くなったか?」
アダムは笑いながら、傍らにあった枕をこちらに投げて寄こした。
白い枕はふかふかで、顔を埋めるとお日様の匂いがした。
「作業続きで疲れたんでしょう。例の修復、うまく進んでいるそうじゃないか」
「私も手伝うから、いつでも声掛けてね」
「ペースの上げ方が極端なんだよなァ。おいルカ、ちゃんと昼飯は食えよ?」
各々の励ましがルカの肩を通り過ぎていく。このまま深い眠りに落ちていきたい。そんな欲が頭を過ぎる。ルカは顔を埋めたまま、枕をきつく抱きしめた。
「失敗したかもしれない」
だから、その一言はくぐもってしまって、うまく伝わらなかった。
「え? なに?」
訊き返されて後がなくなると、ルカはのそりと顔をもたげた。
そしてもう一度、同じ言葉を呟いた。
「修復……失敗したかもしれない」




