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コルシカの修復家  作者: さかな
12章 世界の終わりと夜の虹

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第142話 テオの正体(後編2)

 ミーシャの家を訪れてから、テオは寝る間も惜しんでデッサンに明け暮れるようになった。


“彼女の隣に立つに相応しい男になってみせる”


 ひとえにその想いがテオのやる気を牽引したといってもいい。

 部屋の隅には使い終わったスケッチブックが見る間に積み上がり、その没頭具合は両親も呆れ返るほどだった。だが同時に息子の必死な姿勢に思うところもあったようで、どのようなモチーフや、色遣い、構図、技法を選べばエネルギー還元率が上がりやすいのか、最近の傾向はこうだという情報を度々語るようになった。

 父も母も、息子が本格的に画家の道を志すようになったと思ったようだ。

 与えられた助言を話半分に聞きつつ、昼夜を問わずあらゆる対象を模写した。


 その結果、テオのアトリエでの成績は右肩上がりに成長したのだった。

 彼女のために描いていた絵画も、いつしかアトリエの生徒代表作品枠に入るほどになった。四半期に一度ルーヴルに提出された作品が、そこそこ高いエネルギーに還元されるようにもなった。


「なぁテオ、次はどんな風に描けばいいかな?」

「俺のも見てくれよ。こんな感じのにしようと思うんだけど……」

「では、この技法を取り入れてみてはどうでしょう。こちらは構図をもう少し切り取って……そうすれば還元率が……」


 成績が上がるにつれて、まわりのテオを見る目も変わった。

 田舎者だ、親の七光りだと揶揄う人間はもういない。

 それどころか、どうすれば上手に絵が描けるようになるのかとアドバイスを乞われることも多くなった。かつて散々な態度をとってきたアトリエメイトたちでさえ、手のひらを返したように擦り寄ってきた。現金だなと内心で罵りつつ、テオはお得意の微笑みを顔に貼り付けて彼らを例外なく受け入れた。

 彼女にふさわしい男は、過去の恨みつらみで相手を無視するほどみみっちくないのだ。



 ある日、いつものように授業のあとに生徒たちと話していると、そのうちの一人がぽつりとこんなことを尋ねた。


「そういえば、最近あの子来てないよな。テオ、なにか知ってる?」

「あの子?」


 とぼけてみると、「隠さなくていいって」と生徒は楽しそうに肘でテオを小突いた。


「ブォナローティさんだよ。テオ、授業終わったあと教室でよく一緒に作業してただろ? みんなけっこう知ってるんだからな」


 居残った生徒たちで賑わう教室を見渡さずとも、赤い髪の少女の姿がないことはわかっている。


「さぁ……どうしたんでしょうね」

「テオも知らないのか。辞めちゃったのかな?」


 ここ最近、ミーシャは授業を立て続けに欠席している。

 本当は心配でたまらなくて、何度も彼女にメッセージを送っていた。最初こそ返信は来ていたものの、最近ではそれもなくなってしまった。

 それでもさほど焦らなかったのは、彼女が自分に一言も声を掛けずにアトリエを辞めるなんてありえないという自信があったからだ。授業をずっと休んでいるのは、学校が忙しいからだとか、身内関係で何かがあったとか、のっぴきならない理由によるものだろう。根拠もなく、そんなことを考えていた。

 なによりテオには、彼女を元気にさせる算段があった。


「そろそろ帰るか。ついでに駅前のパン屋寄ってこうぜ」

「すみません、今日はちょっと」


 帰りの誘いを断って、テオは机にチューブ絵の具や絵筆を並べる。


「えー? まだ残ってくのかよ」

「仕上げたい絵があるんです」


 つまらなさそうな顔をして帰っていく生徒を一人ひとり見送って、テオはひとりイーゼルの前の椅子に腰掛ける。


 目の前のキャンバスには、一人の少女の姿が描かれている。

 絵筆とパレットを携え、イーゼルの上のキャンバスと向き合う赤い髪の少女だ。その瞳はどこか寂しそうで、孤独をまとっているようにも見える。だが、彼女のまわりを囲む何枚ものキャンバスが、彼女の寂寥感を否定してもいた。

 これは、孤独と安寧にまみれたひとりの少女の姿。

 テオから見た、ミーシャの肖像である。


 夕暮れの色に染まる寂しい教室で、テオは彼女のことを思い出しながら筆をとる。


『ここの表現、いいね』


 かつて与えられた肯定の言葉がふっと耳を掠めては消えていく。

 この教室には、いつも隣にいた少女の姿も、もう一脚のイーゼルもない。


――絵を描くのって、こんなに寂しかったっけ。


 完成間近のキャンバスに筆を乗せようとして、テオの腕はふと止まる。

 一見すると仄暗い絵だ。こんなものを見せられても、気持ちは塞がる一方なのではないか?

 一度疑ってしまったら、もうそうとしか思えなくなってしまう。


――僕はなにを描きたいんだろう……。


 今のテオは、荒れ狂う大海原でたったひとり舵を切る船乗りも同然だ。航路を示すコンパスも地図もない。マストの先端で航海の無事を祈る女神の像も、今やぽっきりと折れて海の中に沈んでしまっている。海――海。深くてどこまでも青い海。

 そうだ、とテオは手にしていたパレットを放り出す。

 そして、半月掛けて進めてきた絵をまるごと塗りつぶすことに決めた。


 自分が描きたいものを追い求めるのではなく、相手が喜ぶものを描こう。彼女が元気になる絵を。


 テオは夜空の色に似たインダンスレンブルーでキャンバスの一面を塗りつぶす。その上に、エッフェル塔の地下にある小さな水族館・シネアクアを描くことにした。

 正しくは、シネアクアの水槽の一角を眺める客たちの姿だ。


 フタロブルーとフタログリーンに筆先ほどの白を混ぜて、鮮やかなターコイズブルーを作る。人工的なその色を使って、テオは観光客の顔を描いた。

 ノージカ海洋センターを訪れたとき、テオは水槽の前に立つ人々の肌がみな魚人のように青いことを知った。だからターコイズブルーは、水面から降り注ぐ光が水槽を眺める人々の肌を染める色なのだ。


 父親に抱きかかえられた幼い女の子が指先をこちら側に向けてはしゃいでいる。隣を歩く母親は水槽に目もくれず、ひたすらカメラを幼い我が子の横顔に向ける――。

 昨年訪れた水族館での思い出を継ぎはぎしつつ、幼いミーシャの姿を重ねながら、テオは彼女に贈る絵画を完成させた。


『ミーシャのために絵を描きました。ぜひ見にきてください。お待ちしています』


 送ったメッセージに返信はなかった。

 一日経ち、二日経ち、一週間経ったところで辛抱できなくなり、テオはキャンバスを抱えて彼女のアパルトマンを訪れた。



「ミーシャ、いるんでしょう? 僕です、テオです」


 チャイムを三度鳴らし、ドアを十回以上叩いて、ようやくグリーンの色のドアが力なくキィと開いた。


「……近所迷惑なんだけど」


 中から現れたミーシャの顔には覇気がなく、髪もボサついていた。元気そうでよかった、なんて定型分は間違っても使えない姿だ。押しかけたのは自分なのに、入り口に突っ立ったまま「お久しぶりです」と呟くのが精一杯だった。


 以前家を訪れたときと同じく人気のない廊下を通り過ぎ、彼女の後ろについてキッチンに向かう。


「学校には行ってるんですか?」


 エスプレッソマシンを操作しているミーシャの背中に問い掛ける。ブシュウ、と勢いよくスチームミルクが噴出する音に混じって、「行ってるよ」とぶっきらぼうな答えが返ってきた。


「そうですか。よかったです、病気とかじゃなくて」

「アトリエ、無断欠席じゃないから」

「はい」

「先生には休むって言ってあるし」

「わかってますってば」

 言ってから、テオは数秒考えた後に切り出した。

「……なにかあったんですか?」

「別になにも」

 脊椎反射のごとく素早い返答だった。

「答えにくい話なら無理しなくて結構です。でも、僕で力になれることがあったら嬉しいなと思いまして……」

「そんなんじゃない」

 と、ミーシャは小さな息を吐く。

「ただ、行く必要を感じなくなっただけ」


 吐き捨てるようなその声には、それ以上踏み込んでくるなというはっきりとした拒絶が籠っていた。テオは眉尻を下げ、寂しさに下唇を噛んだ。


「アトリエ……辞めちゃうんですか?」

「かもね」


 ミーシャが戻ってきて、テーブルに二つ分のマグカップを置いた。白い泡がカップの縁までこんもり膨らんでいて、中央に二つ、茶色いシミがある。

 テオはマグカップを受け取り、静かに口をつけた。温かくて甘いココアだった。


「絵画のこと、嫌いになっちゃったんですか」


 これを飲みきったら、もうミーシャとは二度と会えなくなるのだろうか。そう考えたら、舌の上に残る甘さが途端に砂利のような味に思えた。


「なんで……? 嫌いになんか、なれるわけないじゃん」


 眉間にしわを寄せながら、ミーシャは怒ったように言い放つ。形の良い唇が言葉に合わせて動くのを、テオは魔法にでもかけられたかのようにじっと目で追っていた。


「今もこれからも、あたしはきっと死ぬまで絵画を好きでいる」

「そう、ですか。そうですか……」


 よかった、とテオは心の底から安堵した。彼女はまだ絵画への――自分への興味を失くしたわけではない、と。手元のマグカップをぐいと傾け、中身をひと飲みしてから、テオは持ち前の笑みを取り戻した。


「メッセージでも送りましたけど、今日は完成した絵を持ってきたんです。見てもらえますか?」


 尋ねておきながら、返答も待たずに布に包んだキャンバスをテーブルに置いた。巻きつけていた布を取り去り、描いた面がよく見えるようにミーシャの方に向けてキャンバスを抱え上げる。

 それまで覇気のなかったミーシャの目が、驚いたように大きく見開かれる。


「これは、〈シネアクアを訪れる人々〉です。ミーシャの水族館の絵にインスパイアされて描いたんですよ」


 ミーシャの描く水族館の絵は水槽がメインだった。人影は飾り程度のもので、黒一色でシルエットを描くのみである。

 対してテオが描いたのは、カメラを水槽の反対側に向けたような構図だった。メインはあくまで水族館を訪れる客たちの様子だ。


「この中央の女の子はミーシャをイメージしました。もっといえば、ミーシャの部屋に飾られているあの絵の女の子です」


 ミーシャは口を引き結んだまま、じっとキャンバスを見つめている。それに気を良くしたテオは、得意げにキャンバスの随所随所を指差しながら解説を加えていく。


「小さい頃にシネアクアを訪れたって言ってましたよね。楽しい思い出をなんとか絵にできないかなと思いまして。あの女の子を参考にしたのは、ミーシャのお気に入りの画風に少しでも近付けたかったからです」


 ここまでひと息に言いきると、テオは一旦言葉を切り、ごくりと唾を飲み込んで次の言葉を発した。


「これ、ルーヴル発電所へ送るのは辞退しようと思うんです。よければ受け取っていただけませんか? あなたの為に描いた絵なので――あの、もちろん気に入らなければルーヴルに送るなりなんなりしてもらって構いませんよ! 一応還元率のことも考えながら描いたので、損するほど低いエネルギー量にはならないと思いますから……」


 急に弱気になり、余計なことを口走る。ふと顔をあげると、ミーシャは傷ついたという顔をしてテオを見つめていた。


「え……、えっ……?」

「あたしは、あたしの為に絵を描いてほしかったわけじゃない」

「でも僕、ミーシャが喜ぶと思って」

「あたしが喜ぶ?」


 ミーシャは吐き捨てるように言った。


「あの人たちはこんなふうに笑ってなんかいなかった。いつも腕時計気にして、あたしの顔なんか見てなかったよ。忙しいのにわざわざ付き合ってくれてるんだって、気まずかったことしか覚えてない。あたしにとっては楽しい思い出なんかじゃない」

「そんな……でも、だって!」


 自分が描きたいのだと言って、水族館の絵を描いていたではないか。実際に訪れた水族館ではなく、わざわざ行ったことのない場所を選んで――そこでテオは、彼女の絵画の意味を今さらながらに理解した。

 家族と過ごした数少ない思い出は、彼女にとって幸福なものではなかった。己の行為は、彼女を元気にするどころか、古傷を抉っていただけだったのだ。


「テオはあたしの為に絵を描いたんじゃない。自分の為に描いたんでしょ? あたしはこの絵を見てにこにこ笑って、手放しで喜べばよかったの?」


 なにも答えられなかった。

 ごくりと唾を飲み込んだ音が、耳の側でやけに大きく響く。


「あたしはテオの絵が好きだったよ。テオの、自分と向き合って描いた絵が」

「…………あの、」

「わるいけど、帰ってくれる」

「あっ……待って、ミーシャ!」


 ミーシャが逃げるようにキッチンを出ていく。テオは咄嗟にその背を追いかけた。


「そんなつもりじゃなかったんです。僕はただ……!」


 彼女の自室の扉が閉まる直前、テオはすき間に腕を差し込んで扉をこじ開けた。

 鼻腔の奥を突き刺す強烈なテレピン油のにおいに、一瞬くらりと眩暈がする。

 瞬きの次に目に入ったのは、雑然としたミーシャの自室だった。使用済みのスケッチブックがそこかしこで散乱し、絵筆も絵の具チューブもケースからすべて飛び出し、床という床に散らばっている。絵の具のチューブのふたはほとんど外れた状態で、油壺のふたも開けっぱなしだ。


 そして、イーゼルの上に乗ったキャンバスに目がいった瞬間――テオの背筋はぞわりと粟立った。

 あらゆる色の絵の具が塗りたくられている。それだけの絵なのに、ひどく惹きつけられるものがあった。ぐちゃぐちゃに混ざり合った絵の具は、嵐の日の濁った空のようだ。まるで、色の墓場だ。


「ミーシャ、これはいったい……」


 言いかけて、ふと違和感に気付く。テオは首を捻り、入り口の隣の壁を見上げた。

 そこにミーシャのお気に入りだった少女の姿はなかった。ただ墓標のように、がらんどうの額縁が一つ掛かっているだけだ。


「ダーフェンの絵、どこにやったんですか?」


 ミーシャはベッドに顔を埋めるようにして座り込んだまま、答えない。一抹の不安が過ぎる。テオはベッドに駆け寄り、腰を落として彼女の両肩を掴んだ。

 パッと振り向いた美しい顔が、くしゃりと歪んでいた。

 その瞬間、テオの中の疑念が確信に変わった。


「あの絵になにかあったんですね?」


「……ルーヴルに送られたの」


 と、ミーシャの口からか細い声が漏れた。


「え?」

「同じ作者の作品から高い還元率の絵が出たんだって。学校から帰ってきたら額縁の中、空っぽになってて」


 彼女は顔を隠すようにぐっと俯いた。誰がダーフェンの絵をルーヴルに送ったのか、明言はしていない。それでもはっきりと分かってしまう。

 ここから絵を持ち出したのは、彼女の両親だ。


「あの絵を買ったのはあたしの為だと思ってた。一緒にいられない代わりに、側にいてくれる友だちを選んでくれたんだって。でもそうじゃなかった。『時がきたら還元しなさい』ってあの人たちはあたしにこの絵を渡したの。そのときは冗談だと思ってたけど……あの人たちは本気で言ってたんだ。あたしに画商(バイヤー)の勉強をさせたかっただけなんだ」

「……ミーシャ……」


 ミーシャは肩の上の手を振り払い、その場から逃げるように立ち上がった。彼女の表情は険しく、緑色の瞳がぎらぎらと輝いている。そこにはあらゆる方向に対しての憎悪が満ち溢れているようだった。


「AEP事業に携わる人間はみんな嫌い。エネルギーのために絵を描く画家も、自分勝手に絵画をつくりかえる修復家も、みんなみんな、大嫌い……!」


 誰にともしれない呪詛まがいの言葉を吐いて、ミーシャはテオを家から追い出した。


 何度もチャイムを鳴らしたが、緑色の扉が開くことは二度となかった。

 日を改めて訪れてみるも居留守を使われ、送ったメッセージに反応はなく、電話にも出ない。アトリエにも、彼女はもちろん姿を現さなかった。


 そうしている間に月日は流れ――ある日、彼女が退会したことを講師のうちの一人であるカヴィロ・アングルから告げられた。

 授業が終わったあとの、誰もいない教室でのことだった。

 課題絵画の張り替えをするためにやってきたカヴィロを捕まえて、軽く探りを入れてみたのだ。堅物のシャルル・ド・シスレーよりも格段にフランクなこの教師は、いとも簡単に吐いてくれた。


「引っ越しに伴う退会だと聞いてるが――本人はなにも言ってなかったのか?」

「初耳です」


 隣でキャンバスを外していた手がぴたりと動きを止める。こちらを見下げるカヴィロは、眉をひそめ「しくじった」という顔をしていた。


「マジか……。あー、お前はブォナローティと仲が良かっただろ? だからてっきり聞いてるものかと……。クソッ、シャルルの奴にバレたら情報漏洩がどうとか叱られるじゃねぇか」


 カヴィロは頭を掻きながら独り言を漏らす。ややあって小さく息を吐き出すと、表情を引き締めテオの方に向き直った。


「わるいが俺からこの話を聞いたってのは他言無用だ。いいな」


 カヴィロは講師が口にしてはいけないような言葉を堂々と告げ、真剣な顔でテオの肩を押し込むように叩いた。

 テオが素直に頷くと、カヴィロは安堵のため息をつき、再び手を動かし始めた。


「それにしても寂しくなるな。テオドール、あの子とよく自主活動してただろ?」

「すみません、教室を占領していたつもりではなかったんですが」


 すると、カヴィロはがははと声を出して笑い、「違う、違う」と否定した。


「俺もシャルル先生も感心してたのさ。あの時期ぐらいから腕もぐんぐん上がったし、良い影響を受けたんだな」

「……そう……ですかね。僕はそうですけど、彼女は別になんとも思ってませんよ」


 キャンバスを壁から外しながら、テオは自分の吐いた言葉で気落ちする。結局自分は、彼女にとってただのアトリエメイトの一人に過ぎなかったのだ。


「そんなことないと思うぞ」


 ふと隣から素朴な声が降ってきて、テオは顔をあげる。


「え?」

「最後の挨拶に来た日、ブォナローティはお前の絵画を長いこと眺めてたよ。気に入ったか、って声を掛けてみたんだが、その絵についてはだんまりでな。でもそのあと、こんなことを話してくれたんだよ」


――制作した課題絵画が教室の壁に張り出されたら、その中で自分が好きだと思う絵画を探すんです。


 黄昏に染まるオレンジ色の教室。赤い髪をなびかせた少女が喋る。その姿が、テオの脳裏にありありと映し出される。


――そこで毎回いいなって思う絵には、いつも同じ名前がサインしてあって。


 振り返った彼女は極上の笑顔を浮かべていた。キャンバスの中の少女に向けられていた、あの笑顔だ。


「――それが、“テオドール・マネ”なんだと」


 ほれ、とカヴィロは外し終えたキャンバスをテオに手渡した。楽しそうに水槽を眺める親子の姿が群青とターコイズブルーで描かれている。この絵を、ミーシャはただひとり、いったいどのような感情で見つめていたのだろうか。


「この絵、ルーヴルに送らなくてもいいですか?」

「そう言うと思ったよ。持って帰れ」

「……ありがとうございます」


 テオが心からの礼を述べると、カヴィロは腕を組み、にっと白い歯を見せた。





 まだミーシャと交流があった頃、一度だけ将来についての具体的な話をしたことがある。そのとき偶然にも聞き出した『パオリ学園』という単語を、テオは大切にその手に握りここまでやってきた。

 あれほどまでに画家を嫌ったミーシャがどうして画家を志す学園に在学しているのかも、あの時どうして好きになれないと否定したテオの絵画を眺めていたのかも、なにも聞けていない。


 だからまだ、彼女を諦めきれない。

 もう一度振り向いてほしい。そうして自分を見て笑ってほしい。

 テオは、そのために画家集団“カナン”を名乗っているのだ。


――ルカ君、結局誘いに乗ってくれなかったなぁ。


 テオは生あくびを噛み殺しながら思い起こす。最初は、ルカのことをミーシャに無遠慮に近付く部外者だと思っていた。

 けれどどうしたことか、知れば知るほど憧れの少女との共通点が浮き彫りになってくるのだ。

 ルカとミーシャは、きっと根本的な部分がよく似ているのだろう。

 そのことに気付いてから、テオはルカに興味を抱き始めた。あわよくば仲良くなりたいとも思っている。


『今度、僕の家に遊びに来ませんか』

『え……行かない』


 交流を深めたいと迫れば、ルカは途端にうろんな目を向けた。それも、本鈴の鐘が鳴るまでしつこく家に誘った結果、最後にはすっかり怯えた目に変わってしまった。


「…………く」


 またしても笑いが込み上げてきて、テオは慌てて両手で顔の半分を覆い隠した。

 その絵を“好き”と感じた気持ちは変わらないとルカは言う。たとえどこの国のどんな人間が描いた絵か知らなくても、たとえ高いエネルギーを保持していなくても。


――もしもルカ君の気持ちが普遍的なものならば、僕はもっともっと、彼に嫌われたい。


 ルカに敬遠され、疎まれたい。

 周囲の掘りを深めて高さのある砂山を築くように、自分に対する興味のなさを確認すればするほど、彼の発言の価値は純度を増すのだ。


 彼からの絵画に対する好意が不動のものであると証明できたなら。そうしたら、今よりもっと自分の絵が好きになれる。

 自分の絵に自信が持てたら、今度こそミーシャは振り向いてくれるはずだ。


「なにニヤけてんの? テオ、怖いんだけど」


 隣に座る派手な女友だちが、ニヤつきながらテオの脇を小突く。会話を聞きつけたその他の面々も、おっ、という顔をして耳をそば立てた。テオが普段つるんでいる仲間たちはお喋りが好きな人間が多い。


「新作、描きませんか?」

「え? なんの話?」


 唐突な話題に、女生徒たちはぽかんと口を開ける。

 テオは周囲を一瞥した後、いっとう声を潜めて囁いた。


「もう一度トライしましょう、壁画に」


これにてテオの回想は終了。次回はルカ視点に戻ります。

いよいよ佳境に差しかかった修復作業に、取り返しのつかない問題が発生したようで…。


「失敗したかもしれない」

「え!?」

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― 新着の感想 ―
[良い点] テオくん、こンのひねくれものめぇ……! けど、気持ちちょっとだけわかるよね。「君のことは嫌いだが、君の作品はとても素晴らしい」って、作品に対しての最大の賛辞だもんね。
[一言] あー!もう!ひねくれんぼ! すでにあるものに気付けなくて、でも、追い求める物も間違いじゃないから、どんどんズレて行っちゃってる感じ。 ミーシャがルカに興味を示すのは解る。だけど、ルカは修復家…
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