第142話 テオの正体(後編1)
その日から、二人はそれとなく放課後の教室に居残るようになった。
約束を取り交わしたわけではない。けれど、授業が終われば自然と同じ場所にイーゼルを立て、各々が自分の作品に取り掛かった。
ミーシャの存在はまるで魔除けだ。二人で絵を描いている間は誰もテオに声を掛けてこなかった。
その甲斐あって、テオはなんとか期限内に課題絵画を提出することができた。
「ありがとうございます。初めて期限内に作品が提出できるなんて……っ、ミーシャのおかげです……!」
完成した絵画を頭上に掲げ、テオはその場でくるくる踊った。
「別にあたしのおかげじゃないから」
「ミーシャのおかげですよ!」
キャンバスをイーゼルに戻し、今度は勢いよく救世主の両手を掴んだ。そしてその手を上下にぶんぶん振り、何度も何度も礼を述べる。しかしすぐに顔の近さに気付いて、テオは赤面しながら自ら手を離した。
「ねぇ。それよりちゃんと見せてよ、その絵」
気怠げな声でそう言って、ミーシャはイーゼルに近付いた。
「も、もちろんです。ですがミーシャに見せるのはなんだかその、気が引けますね……レベルの違いに恥ずかしくなるというか」
「ごちゃごちゃうるさい」
「はい、黙ります」
ミーシャは時間をかけて自画像を眺めた。
そうして一通り眺め終えてから、ふっと口元に笑みを浮かべた。
――馬鹿にされた?
瞬間的にそう理解して、テオは泣きたくなった。親しくなれたとひとり舞い上がって馬鹿みたいだ、と後悔もした。
「どうせ凡人が描くとこんなものですよ」
「やっぱり、テオの描く表情っていいね」
「あなたにはわからないかもしれませんが……はい?」
テオは俯いていた顔をあげ、思わず間の抜けた声を漏らす。苦し紛れの言い訳が聞こえなかったのだろうか?
「こんな負の感情が滲み出てる自画像、初めて見た。この目なんか鋭すぎて人を殺せそう」
ミーシャは目元をやわらかく緩め、テオの自画像を眺めている。
「肌の緑色を濃くしてるのも雰囲気出てる。自画像というより、感情の具象化って感じ」
あのミーシャが。他人に興味のないミーシャが。テオの描いた自画像について熱く語っている。
お腹のあたりからカッと熱いものが込み上げてきて、鼻孔の奥をツンとした痛みが走った。テオは天井を仰ぎ見る。顔じゅうにこもる熱よ、早く冷めてくれ、と願いながら。
「あたしには絶対描けない…………って、え?」
ミーシャはふと振り返り、テオの悲惨な顔面を目の当たりにしてぎょっとした。
困惑している彼女の目の前で、テオは耐えきれず泣き笑いを漏らす。
「なに。え、気持ち悪い」
「そんなこと……言ってくれたの、あなたが初めてだったので」
「どれのこと? それより鼻水出てるけど」
しかめっ面で差し出されたポケットティッシュをありがたく受け取り、テオは隠れるようにして鼻をかむ。
「ミーシャは優しい人ですね」
「それはない」
と、ミーシャはきっぱり否定した。
「鼻水で汚れた顔なんて見てられないだけだから」
「ふふ――そっちじゃないですよ」
思わず笑いながらポケットティッシュを返すと、ミーシャに「いいよもう。いらない」と突っぱねられた。
「初めて声を掛けてくれたときのこと、覚えてますか」
テオが問うと、ミーシャは眉をひそめながらこちらを見た。
「ミーシャは『作業がしたいから』って生徒たちを追い出したんです。教室は他にも空いていたのに」
「……そうだっけ?」
「うぬぼれだったらごめんなさい。でも、最初から僕を助けるために声を掛けてくれたんじゃないですか? それに今だって、僕が元気になるように考えて言葉を掛けてくれてる。あなたは優しい人です」
ミーシャは逡巡したのち、視線を逸らして言った。
「別にどう思ってもらってもいいよ。けど、期待されるのは困る」
期待なんて畏れ多くてするはずがない。テオは思ったが口には出さず、彼女の要望に頷きで応えた。
「ずっとお礼を言いたかったんです。あのとき声を掛けてくれてありがとうございます。おかげで僕は、僕の絵が好きになれそうです」
彼女は一瞬だけ照れ隠しのように視線を揺らしたかと思うと、ふいっと興味なさげに窓の向こうへ顔をやった。
*
それからも、二人は時折同じ教室で作業をした。他愛無い――といっても話題は絵画に関するものばかりだが――会話がぽつぽつと交わされるようになったある日、テオは初めてミーシャの家に誘われた。
なんでも、お気に入りの絵があるらしい。なんの気なしに「見てみたい」と口にすれば、彼女のほうが珍しく食いついてきたのだ。
「これってお家デート? お家デートだよな……うう、緊張しすぎて吐きそう」
口元を押さえながら指定された場所に向かう。
辿り着いたのはパリの一等地に佇むアパルトマンだった。
階段を上りきり、グリーンの色のドアの前でチャイムを押して待つ。アンティーク調のドアノブが回ってガチャリとドアが開き、クリスマスツリー柄のセーターを着たミーシャが出迎えた。
部屋着がダサすぎて、テオは思わずセーターの柄を二度見する。一瞬にして吐き気が引っ込んだが、「あがって」の一言で再び緊張感がせり上がってきた。
「お、おじゃまします」
緊張で震えた声が、静寂に包まれた廊下に吸い込まれていく。
左右に扉が並ぶ廊下は薄暗く、人の気配がない。
「誰もいないよ。伯母さんもおじさんも、仕事で夜遅くまで帰ってこないし」
「え!? そんなタイミングで……僕、あがっちゃっていいんですか?」
予期せぬ機会を与えられ、テオの頭は爆発寸前だ。
「別にいいよ。絵見たらすぐ帰ってもらうし」
「せっかく来たのに!?」
「絵を見たかったんじゃないの?」
「それはそうなんですがぁ……!」
彼女は伯母夫婦と暮らしていた。両親は腕利きの画商で、一般家庭や施設の中に埋もれた高エネルギーの原石を掘り起こすために世界中を忙しく駆け巡っているという。
「ご両親、すごい方々なんですね」
先導する彼女の背中に月並みな言葉を投げかけるが、返事はない。ややあって「そうかな」と小さな声がした。同時に木製のドアをガチャリと開けて、ミーシャは中へ入るよう促した。ごくり、とテオは咽頭を上下させる。
意を決して足を踏み入れると、彼女の部屋はなんとも殺風景だった。
クローゼットらしきドアはひとつあるが、広々とした部屋にはベッドと机くらいしか家具がない。あとは木製のイーゼルが一脚、机の隣に佇んでいるだけだ。
こざっぱりした部屋の印象も、わずかに漂うテレピン油のにおいも、テオが想像していた“女子の部屋”とは程遠いものだった。
若干拍子抜けしたところで、ふとドアの隣の壁を仰ぎ見る。
「これが見せたかった絵、ですか?」
「うん」
その壁には、長方形の大きな絵画が額縁に収まった状態で掛かっていた。子猫を抱えた青いワンピース姿の少女が、なにか語りかけるような顔でこちらを見ている。
「ダーフェンって画家が描いた、女の子の絵」
テオは勧められるままにデスクチェアへ腰を下ろす。真正面には巨大な絵画。斜向かいのベッドに腰掛けたミーシャは、まるで親しい友人でも紹介するかのように、その絵画について詳しく語ってくれた。
仕事先で両親がミーシャのために購入したものだということ。いつかタイミングがきたら還元しなさいと言付かっているけれど、ミーシャ自身はこの絵をルーヴルに送る気がないこと。なにより、少女の愛らしさについて。
テオは話を聞いている間じゅう、そわそわと落ち着かない気分だった。これほど無邪気に笑うミーシャの姿など見たことがなかったからだ。
しかも意中の相手と部屋で二人きりである。意識するなというほうが無理だ。
「ミーシャって、なんだかその……そう、まるで絵画と友だちみたいですね!」
「友だちか……。そうかもね」
「それに少し不思議です。話を聞いていたら、この絵はここに掛けられるために生まれてきたような、そんな気がしてきます」
緊張を誤魔化すためにとりあえず早口で言葉を紡ぐ。すると、ミーシャは勢いよく顔をテオのほうに向けて「そう思う?」と目を輝かせた。
「ねぇテオ、知ってる? 昔、ルーヴル発電所は“ルーヴル美術館”って名前の施設だったんだよ」
「美術館……? そうなんですか?」
「そこには何千、何万もの絵画が飾られていて、世界中からたくさんの人が絵画を観るためにやってくるんだって」
「“観る”ため?」
首を傾げると、もともと宝石のような緑色の瞳が一際大きく輝いた。
「リアン・テドング洞窟の壁画は知ってる?」
「いえ」
「インドネシアにある世界最古の洞窟壁画なんだけど」
テオはもう一度、自信なく首を横に振った。
「学校で習いましたっけ?」
「ううん。4万年以上も前に人類が残したイボイノシシの絵で、狩猟祈念とも、伝説を語り伝えるためとも言われてる。フランスにもラスコー洞窟の壁画が残ってる。テオ、教会には行くよね」
「え? ええ、はい。それはまぁ、行きますが」
話の流れが読めなくて、テオは徐々に不安になってくる。
「大昔はどこの教会にも宗教画が飾られてたんだよ。聖書の一場面を模したステンドグラスはその名残。その昔、文字が読めない人たちに聖書の教えを伝える役割をしていたんだって」
やけに詳しく語られるその内容を、テオはほとんど耳にしたことがなかった。学校でもアトリエでも習わないのに、なぜ彼女はこうも昔の絵画に精通しているのだろうか。
「随分詳しいですね。図書館の本でも読み漁ったんですか?」
「図書館の本には載ってないよ。詳しい人が知り合いにいて、教えてもらっただけ」
「へぇ……?」
「詳しい人」が脳内で自動的に「親しい人」に変換される。テオは心の中で唇をぶすっと突き出した。つもりだったが、自然と口角が下がってしまい、慌てて笑顔を取り繕った。ミーシャはこちらをちらりとも気にしていない。
「昔のことを知るたびに、羨ましくてたまらなくなる。あたし本当は、絵画をこうやって眺めたり、眺めて誰かと語らったりしたい。そんな施設があったら素敵だなって思う。この話をしたら、両親は笑うけど」
ミーシャは寂しげに瞼を伏せる。
「あの人たちにとっては還元量が価値のすべてだから。あたしの言葉は理解してもらえないし、おかしなことだって咎められもする。アトリエに通ってるのも、正しい技術を学んできなさいって言われたからなの。そうやってあの人たちは、あたしの頭の中を矯正しようとしてる。技術を学んだって笑われたって、あたしの中の気持ちは変わらないのに」
「ぼ――僕は笑いませんよ!」
なんとか彼女を励ましたくて、テオは咄嗟に語気を強めた。
ミーシャは驚いたように目を見開き、こちらを向いた。美しいエメラルド色の瞳は、わずかな期待を孕んでいる。
「あ……えっと、うちの両親もそうなんです」
「テオのご両親……画家をやっていらっしゃる?」
「はい。興味があるのは還元率のほうで、僕が描いた絵には関心がないんですよ。うわべでは笑ってくれてますけど、でもわかるんです。僕が描く絵は二人にとっては価値がないって」
喋っているうちに、自分の内に埋もれている望みの一角が、薄暗い泥の中から姿を見せた。テオの指先がそれに触れる。いったん触れてしまえば、その想いを表す言葉は次から次へと浮かび上がってきた。
「ミーシャとは少し……違うかもしれませんけど。僕は、代わりのきかない人間になりたいんだと思います。規格化された数値の向こうに絵を見透かすんじゃなくて、僕の絵が、僕の描いた絵だからこそ好きになってくれる――誰かにそう思ってもらうことが、僕にとっての価値なんです」
たどたどしい説明にも、ミーシャは真剣な顔で耳を傾けている。頭の中に浮かぶ言葉は断片的で、相手に伝えようとすると手元からするりと零れ落ちてしまう。けれどここで零してしまってはいけないと、テオは強く思った。
「僕、自分の絵に自信が持てなくて。でも、課題で描いた自画像をミーシャが好きだって言ってくれたから、だから僕も僕の絵を好きになれそうな気がしたんです」
必死になって言葉を繋ぐテオに、ミーシャはにこりと微笑んだ。まるで自分の思いを認めてもらえた証のような気がして、テオはどうしようもなく泣きそうになった。
「あの、僕……っ」
「やっぱりテオはそうなんだ」
「え? そうって……?」
微笑みだと思ったその表情は、知らない土地で仲間を見つけたときのような、安堵の笑みに変わっていた。
「テオは、画家集団のカナンって知ってる?」
「画家集団……?」
博識らしく頷きたかったが、弱々しく首を横に振ることしかできなかった。そんな名前は聞いたことがない。
「絵画のことを好きかどうかで見る人たち、だよ」
ミーシャはぽつりと呟くと、すぐに前のめりになって「ねぇ」とテオの瞳を覗き込んだ。テオの心臓はどきりと高鳴り、誤魔化すように唾を飲み込んだ。
「音楽を聴いて心を躍らせたり落ち着かせたりするみたいに、一枚の絵を好きか嫌いかで語ったっていいよね。大好きな絵をずっと自分のそばに飾っていたっていいよね?」
真っ直ぐ向けられた緑色の瞳の中に、一瞬、深い深い海が見えた。
水面から降り注ぐ光を受けてきらめく小魚の群れ、尾ひれを揺らすマンタ。巨大な水槽を見上げる家族のシルエット――海を閉じ込めた横長の大きなキャンバスがシンプルな額縁に収まり、白い壁に掛かっている。
その部屋では、幼い赤毛の女の子と男の子が駆け回っている。子どもたちは時おり絵画の前で立ち止まり、キャンバスの中の生き物を指差して、マンタ、と叫んだりする。母親になったミーシャが、子どもたちのそばで美しく微笑んでいる。
その絵はママが描いたんだよと、後ろから子どもたちを抱きすくめ、父親になった自分が教えてやるのだ。
そんな幸せな未来のビジョンが、テオの腕を無意識に動かした。
気がつけば、ミーシャの両肩を掴んでこちらに振り向かせていた。
「テオ――?」
「好きです」
口に出した瞬間、テオはしまった、と思った。
それまで楽しそうだったミーシャの顔が見る間に凍りついたからだった。それは、心の大事な部分を傷つけられたような表情にも見えた。
「――っ、ミーシャの描いてた、水族館の絵!」
「えっ……」
「僕ならどんな絵を部屋に飾りたいかなって考えてたんです。そうしたら、ふとあの絵を思い出して。僕、あの絵が好きなんだなって思ったんです」
「……あ、ああ、あの絵……。びっくりした。そう、ありがと。うれしいよ」
垣間見えた絶望的な表情はすぐさま消え去った。代わりに、彼女の顔じゅうに安堵したような笑顔が広がっていく。泣きたくなる気持ちを今度はちゃんと心の中に抑え込んで、テオは意地悪く笑ってみせた。
「もしかして僕に告白されたと思いました?」
「ごめん。実はちょっと思った」
ミーシャは申し訳なさそうに視線を落とす。
「そんなキッチュな感情を僕が抱くわけないじゃないですか。失礼ですね。あなたはヒーローなんですよ? この胸にあるのは敬愛です、敬愛!」
テオは両手を広げ、大げさに天を仰いだ。
「それもちょっと気持ち悪い」
困ったように眉尻を下げ、しかしミーシャは笑いながら言った。
彼女のただ一人の理解者になれるなら、こんなに光栄なことはない。側にいて、たまに笑顔を向けてくれるだけでいい。
そのためならテオは、自分の感情なんていくらでも捨てられると思った。




