第142話 テオの正体(中編)
二人が出会ったのは、アトリエ〈目覚まし時計〉の教室だった。
テオの両親はそこそこ名の通る画家だったが、積極的に我が子を同じ道へ押し進めることはしなかった。自分のやりたいことをすればいい、というスタンスだ。絵筆を握ることを強要せず、少しでも興味を抱けばどんな習い事でも受けさせ、欲しいとねだったものはなんだって買い与えてくれた。
そんなわけで、かのアトリエに入会したいと志願したのはテオ自身であった。
別に画家になりたかったわけでも、絵画に興味があったわけでもない。自らが挙手することで、両親が喜ぶと思ったのだ。
予想どおり、両親は我が子の願いを聞いてしばし目を瞬かせ、次の瞬間にはじわじわと喜びの表情を滲ませた。テオのひと声がきかっけで、一家はフランスの片田舎からパリへと引っ越すことになる。
*
その少女の噂は、入会してすぐのテオの耳にも届いた。
曰く、大人顔負けの技術をもつ天才がいるという。しかも、誰もが振り返らずにはいられない美少女ときた。
果たして天が二物を与えるだろうか。どうせ、可愛いという理由だけでちやほやされているんだろう――テオは接点もない相手に対して、一方的に妬みも甚だしい感情を抱いた。
それでも、初めて彼女の姿を教室で見かけたときには、さすがに噂の正当性を痛感せざるを得なかった。
驚くほど小さな顔。人形のようにすらりと伸びた手足。腰まで伸ばした艶やかな赤毛。宝石と見紛うエメラルドグリーンの瞳。その瞳の美しさを強調するように、髪の毛と同じ赤い色の睫毛が瞼の生え際からびしりと上を向いて伸びている。
整った愛らしい容姿とは裏腹に、彼女はいつもどこか大人びた表情を浮かべていた。ミステリアスな雰囲気は、周囲の人間を魅了する一因にもなっていただろう。
なにより、絵画を生み出す才能だ。
結論から言えば、彼女の実力は容姿のおまけとして持てはやされるようなレベルではなかった。自分と同じ年齢だと信じられないくらい精巧な絵を描き、それは見るものをしばしば諦念の境地に至らしめた。アトリエの先生でさえ一目置いているくらいなのだから、彼女の才能が抜きん出ていたことは明らかだ。
しかし、彼女はいつも一人ぼっちだった。
周りがそう仕向けているのではなく、自ら望んでその位置にいるらしい。アトリエメイトの誰もが、教室で他人と親しく会話している彼女の姿を見掛けなかった。
高嶺の花。常に近寄り難い雰囲気を放つ少女にはそんな言葉がよく似合う、とテオ以外の皆が感じていた。
――孤高の狼気取りですか。
一方、捻くれ者のテオはというと、ここぞとばかりに相手を心の中で罵った。
持てる者は、持たざる者のように自らへりくだる必要なんてないのだろう。他人に興味などないという顔をして、その裏で他人をバカにすらしているかもしれない。否、きっとそうに違いない、云々……。
「まさかこれ、この間の授業のメモ? 量すごすぎ」
そりの合わないアトリエメイトの一人が、語尾に嘲笑をぶら下げながら、テオのノートをつまみ上げる。レッスンが終わった後、教室が自由作業室として開放されると、彼らは楽しくもない会話を繰り広げるためにわざわざテオの机にやってくるのだ。
「僕は座学から入るタイプなんです。返してくれます?」
「そう怒るなよ。真面目だなぁ」
あからさまな言葉でなじられるわけではない。けれども、そこには悪意ともとれる空気がたしかに漂っている。
「ここまでやらないと、やっぱ親に怒られるんだ」
「へたに詳しいと口出ししてきそう。ってか、田舎ではこれが普通なの?」
彼らは折に触れてテオの両親が画家であることを話題に出したり、隠しきれないイントネーションの違いを田舎訛りだとからかったりした。
周りからすれば、友だち同士でじゃれ合っているように見えていただろうか。
どれほど柔らかなソフトボールでも、素手でキャッチし続ければ手のひらには確実に負荷がかかる。それは、言葉のキャッチボールでも同じだ。こうして受けたストレスを、頭の中で別の誰かにぶつける。テオもまた、彼らと同じことを繰り返している。
不健康で不毛な毎日は、しかし、唐突に終わりを告げた。
きっかけは、彼女――アルテミシア・ブォナローティだった。
「うるさい」
ドアが開く音と同時に放たれたその一言が、アトリエメイトたちを蹴散らした。
普段は授業が終わると早々に姿を消すはずのアルテミシアが、なぜかその日は大判のキャンバスと画材道具を携えて、テオたちのいる教室にやってきたのだった。
「やるならどこか違うところへ行って。あたし、絵を描きたいので」
蛇に睨まれた蛙のごとく、アトリエメイトたちは一瞬にして縮み上がり、次の瞬間には逃げるようにして教室から出ていった。
呆然と突っ立ったままのテオを放置し、アルテミシアは黙って作業の準備を始めた。イーゼルに描きかけのキャンバスを立て掛け、鞄の中から道具を取り出す。
「あ……あの……」
声を掛けてみると、アルテミシアはこちらに視線を寄越さずにぽつりと言った。
「そっちのイーゼル、使ってもいいよ」
彼女の目の前にあるイーゼルからかなり離れた距離にもう一脚、誰かが仕舞い忘れたイーゼルが立っていた。一緒に絵を描こう、と誘われているのだろうか? テオは目をキョロキョロさせたり身体を左右に揺らしたりして、挙動不審な動きをした。
「……いいんですか? 僕に話しかけたりなんかして」
質問の意味がわからないとでも言いたげに、アルテミシアは不機嫌に眉根を寄せた。
「二人きりで喋ってるところなんか見られたら、噂好きの生徒たちの格好の的になりますよ」
「それがなにか問題あるの?」
「も、問題ですよ。他人にあることないこと噂されるわけだし。しかも相手が僕なんですよ? たいして絵描きの才能もない男だし、喋ってても田舎訛りが鼻につくでしょう? あなたが相手にする価値はないと思いますけど」
喋れば喋るほど、アルテミシアの眉間に刻まれたしわが深くなっていく。
「イーゼル」
「え」
「使わないならそれ、仕舞ってから帰って」
静かな声で会話を中断され、テオはハッと口を噤む。
「あっ、い……今使おうと思ってたんです」
慌ててイーゼルに駆け寄り、テオは遠慮がちに椅子に腰かける。それから背中に担いでいたキャンバスを下ろし、包んでいた布を取り去った。裸のキャンバスを持ち上げかけて教室の外に目をやり、人影がないことを確認してから、こそこそとキャンバスをイーゼルに乗せる。
――彼女が僕を助けた? 本当に? まさか、そんなはず……。
テオはほんのり期待しかけて、即座に己の楽観的な思考を厳しく律した。がちゃがちゃと忙しない音を立てて、画材道具を机の上に並べていく。
他人に興味がない少女が、こちらの事情を察して行動を起こすはずがない。
声を掛けたのだって、ただの気まぐれだ。同じ教室で作業をするか提案したのも、偶然イーゼルが余っていたからに過ぎない。そうに違いない。
かた、と音を立てて、絵筆が机の上を転がった。
――でも……。
空いている教室は他にもたくさんあったはず。
それなのに、彼女はわざわざこの教室にやってきた。
その事実を頭の中で反芻したとき、テオの鼻の奥にツンとした痛みが広がった。
目の前のキャンバスには、バストアップの自分が中途半端な状態で描かれている。
アトリエでは「課題絵画」と呼ばれるプログラムを採用している。期限内に決められたテーマで作品を仕上げるというものだ。そして今回、アトリエから出された課題は『自画像』だった。
提出が数日後に迫ったテオの課題絵画は、アトリエメイトたちに邪魔されたせいでまだ半分以上が空白のままだ。
テオはアトリエに入ってから一度も期限内に作品を提出したことがない。正確には、できなかった。
期限を守れなければ、当然成績も下がる。今までおおらかに息子の成長を見守ってきた両親も、同じことを繰り返せばさすがに出来損ないの判を押すに違いない。表では笑顔を見繕いつつ、裏で自分たちの血を受け継がなかった息子に失望し、嘆息する。
そんな両親の姿を想像して、血の気が引いた。
なんとかして良い成績を収めなければならない、と気が急いていた。だから、このタイミングでのお誘いは、正直ありがたかった。
テオは焦る手つきで数本のチューブから絵の具を捻り出し、パレットになすりつけた。緑色と白色の絵の具を筆先で少量すくい取り、混ぜ合わせ、下塗りだけを終えたポリゴン状の人間の肌に少しずつ置いていく。
距離を空けて置かれたイーゼルの間に会話はない。ただ、キャンバスの生地を擦る絵筆の音が一定のリズムで聞こえてくるだけだ。
テオは横目で彼女の様子を窺った。アルテミシアの視界には、目の前にある己のキャンバスしか収まっていないらしい。背中に定規でも充てがっているかのようにぴしりと背筋を伸ばし、黙々と筆を動かしている。
「……なに?」
けれど、他人の視線には気がついたようだ。
咎めるような一言だけが鋭く飛んでくる。テオは「あっ」と呻いてすぐさま視線を自分のキャンバスに移した。
「今回の課題って『自画像』じゃなかったですか?」
「そうだけど」
言葉のキャッチボールが続いたことに内心ホッとして、テオは視線を相手のキャンバスに戻した。
「アル……ブォナローティさんが描いてるのって、海の中……ですよね?」
彼女の目の前にあるキャンバスは、一面に深みのあるコバルトブルーが塗られている。
人の顔は描かれていない。
そこにあるのは、美しい海の中を群れをなして泳ぐ、巨魚から剥がれ落ちた鱗のような魚たちの姿だ。その上を、尾ひれを揺らしながらマンタが優雅に横切っている。鼻の先がハンマーのような形をしているシュモクザメの姿も見てとれた。
「はじめに断っておきますが、批判するつもりじゃないですよ。――それ、自分の顔じゃなくないですか? テーマから逸れてる気がするというか。いや、ブォナローティさん独自の解釈だったらそれはそれでなかなか深いとは思いますが、もしテーマを勘違いしていたら大変だなと思ってですね…………いやその、すみませんでしゃばりました」
言葉の途中で鋭い視線を感じ、テオは無意識に謝った。
「ミーシャでいいよ」
「え?」
「名前。長いからミーシャでいい」
「ええっと……」
「それとこれ、課題絵画じゃないから」
「わかりま……え?」
「課題はもう提出済み。これは、ただ描きたいから描いてるだけ」
「えっ――へえェ!?」
テオは思わず情けない声をあげた。ミーシャの眉間にしわが寄り、うるさいと視線で訴えられる。
ほとんどの生徒たちが期限ギリギリまで絵画を制作している状況で、既に課題絵画を仕上げて、二枚目でさえ完成しそうな勢いなのだ。異次元の制作ペースである。驚くくらいさせてほしい、とテオは恨みがましい目を向ける。
「海じゃなくて、水族館」
ミーシャは握っていた絵筆をパレットに置く。そのか細い指で、今度は長く艶やかな赤い髪をすくい上げ、耳にかけた。なんてことのない動作ひとつひとつが、ため息をつくほどに美しい。
「ブローニュ=シュル=メールにあるノージカ海洋センター。知ってる?」
「ええ。ヨーロッパで最大の水槽がある場所ですよね」
よく見ると、キャンバスの下のほうに黒い絵の具で人影が三つ描かれていた。背の大きい人間が二人、あとの一人は片方の影に抱っこされている。つまりこの絵は、巨大水槽を観ている親子を描いたものということだ。
「詳しいね。行ったことあるの?」
「ちょうど去年の夏休み、両親に連れられて訪れました。とっても大きい水槽があって、まるで海の中に潜り込んだみたいでしたよ。……って、ミーシャも行ったことあるんでしたっけ」
その記憶を頼りにキャンバスを埋めているのだろう、と、このときは思ったのだ。だが、ミーシャは再び絵筆を手に取り、首を横に振った。
「あたしが行ったことあるのは、エッフェル塔の地下にある水族館くらい……かな。小さくてあんまり覚えてないけど」
「そうなんですか。てっきり行ったことがあるのかと……」
「一度行ってみたいなって思って。それで描いてみたの。大きい?」
「え? 魚が?」
「水槽。この絵に描いてある人の大きさ、これくらいであってる?」
小首を傾げるミーシャの肩から、艶やかな赤髪がさらりと流れて落ちる。
テオはごくりと生唾を呑み込みながらかろうじて頷いた、と記憶している。自信はない。そのあとどんな会話を続けたのか、詳しいことをなにも覚えていないのだ。
ただ彼女に一瞬でも頼られたという事実が、トロフィーのように頭の中で輝き続けていたことだけは、今でも鮮明に思い出せた。
その昔、テオとミーシャは共に絵を描きあう仲だった。舞い上がったテオが、ある行動を起こすまでは。
次話「テオの正体(後編)」は近いうちに更新予定です。




