第142話 テオの正体(前編)
前回のあらすじ:スケッチブックに描かれた「カナンの壁画のスケッチ」を見たルカは、テオに「そのスケッチブックを見せてほしい」とお願いする。
テオは眉間にしわを寄せ、ルカをじとりと睨めつけた。
「あれだけ罵られたのにまだ僕のことが気になるなんて、ルカ君はマゾなんですか?」
「えっ」
何故そうなる。
気になるのはテオではない、テオが描いた絵のほうだ。そんなふうに頭の中で反論している間に、彼はそっぽを向いてスケッチブックを差し出してきた。またしてもルカは「え」と短い声を漏らす。てっきり断られるかと思っていたから、意外だった。
「……見せてくれるのか? ありがとう、テオ」
差し出されたそれを、ルカは唖然としながら受け取る。テオは横目でこちらを一瞥して「別に見られるくらい、どうってことないです」などとうそぶいた。意地悪なのか優しいのかよくわからない男だ。
彼の難解な態度を追求しても仕方がない。ルカは早々にスケッチブックのページをめくることにした。
群青色の表紙はおろしたてかと見紛うほどに新しく、角もほとんど潰れていない。なのに、ページは既に終わりの方まで描き込まれていた。
速筆か、もしくは勤勉なのだろうか。ひとつだけ言えるのは、彼がかなり多くの対象をスケッチしているということだ。
「熱心に眺めてるところ申し訳ないんですけど、一から一〇〇まで目を通してたら予鈴が鳴っちゃいますよ」
「あ……ごめん、見入ってた」
テオは一瞬両目をぎゅっと顔の中央に寄せたような顔をして、スケッチブックを奪い取った。「あっ」とルカが声を上げる間に彼は目当てのページを開き、スケッチブックの上下をこちらに合わせて突き返した。
「さっきのページはここです」
「え、ああ――ありがとう」
開かれていたのは、先ほどスケッチブックを床に落としてしまったときに見えたページだった。
そこには、コルテの頂上にそびえるシタデルの壁に描かれた壁画、あるいは大昔の巨匠・ドラクロワが描いた名画〈民衆を導く自由の女神〉のスケッチが描かれていた。
地面にのさばる死体の山を、果敢に踏み越える女性――これは自由の女神・マリアンヌだろう。ドレスは肩からずれ落ち、豊満な片乳房は惜しげもなくこぼれ落ちてしまっている。彼女は胸元を隠そうともせず、背後を振り返り、後に続く民衆を鼓舞せんと右腕を天に突き上げる。
民衆の身につけている衣服や年齢は様々で、皆一様に険しい顔つきで武器を携えている。
そこでふと、ルカは違和感を覚えた。
マスケット銃や二丁拳銃を構える者に混じって、絵筆やパレットナイフを握っている者がいる。むしろ、人を殺害できる武器よりも、そういった道具類のほうが多く描かれているほどだった。
〈民衆を導く自由の女神〉はAEPが発明されて間もなくエネルギーに還元された名画のうちの一つであり、莫大なエネルギーを生み出した絵画としても有名だ。学校の授業では必ず取り上げられるうえに、ルカはルーヴル発電所が提供しているデジタルアーカイブでこの作品を幾度も目にしている。元となった絵画には、絵筆やパレットナイフなどは一切描かれていないはずだ。
「パロディですよ。面白いでしょ?」
ルカの目線の先を辿ったのか、テオは先回りして答えた。
「壁画もこうだったか?」
「さぁ、どうでしょうね」
アダムとニノンの三人で壁画を見に行ったときは、それほど時間を掛けて観察できなかった。だから見落としたのだろうか。テオはニコニコと天使の笑みを浮かべている。
「今度行ったら確認してみてください。僕たちにとっては自由を勝ち取るための戦争なんだ……って皮肉を込めてるんですよ、このスケッチには。あはは――まぁ、結局はパロディですけどね。オリジナルじゃない」
言い終えると同時に、テオはマスケット銃のように物騒な眼差しをスケッチブックに差し向ける。そこでルカは妙に腑に落ちたのだった。描かれている人物たちの表情がどれもリアルで鬼気迫るものがあるのは、テオの感情が絵とうまくリンクしているからだ。
「テオの描く絵は表情がいいな」
「……はい?」
テオは怪訝そうに眉をひそめた。
「この二丁拳銃を構えている少年とか、この絵筆を握りしめている男性とか、中央の女性もそうだけど」
と、ルカは綿密に描き込まれた人物たちのスケッチを指差していく。
「必死さとか、力強さみたいなものを感じる。この人たちはどんな思いでここにいるんだろうって想像が膨らむから、面白い」
壁画のスケッチのはずなのに、別の作品を眺めているように思える。まるで、壁画の大元となった作品を咀嚼し、独自に解釈して再構築したような。テオの言葉を借りれば、まさしくパロディだ。
ルカは「見せてくれてありがとう」と礼を言い、固い顔をしているテオにスケッチブックを返した。
「見ていて飽きないのは良い絵だと思う」
「…………はは。今さら擦り寄ろうって魂胆ですか?」
嘲るような笑いをこぼしたテオは、次に敵意を秘めた眼差しを向けてきた。非難される理由が本気でわからなくて、ルカは内心首を傾げる。
「俺はテオの表情の描き方、いいなって思っただけだよ」
「――んふっ、ぐ」
不恰好な咳払いを数度繰り返してから、テオは一節置いて「はあ、なるほど」と何に対してかわからない相槌を打った。
「そうやってアダム君も手籠めにしたんですね」
テオはわざとらしく肩をすくめてみせる。
「手籠め……?」
「本人からたっぷり聞かされましたよ。彼の絵をすごく気に入ってるらしいじゃないですか? 褒めてくれる相手のことを悪く思わないのは人の性ですよねぇ。一緒にいれば気持ちいい言葉をくれるわけですし、そりゃ仲良くしたいですよね。はっ、まさかミーシャも同じ手段で丸め込んだんじゃ……」
「アダムはそんな奴じゃない」
ルカはむっとして言い返した。
話はまったく見えないが、友人に対する侮辱の言葉を確かに捉えた気がしたのだ。
「わかってますよ」
と、しかし不機嫌な声はそれを否定する。
「わかってます。アダム君はいい奴ですよ。ノリもいいし、一緒にいると楽しいですし。同じ絵描き同士ですから、話も合いますしね」
「テオはアダムの絵を見たことがあるのか?」
「ええ? 当然ありますよ。なんならこの間二人で一緒にスケッチしましたし? アダム君にはそのときたっぷりスケッチを見せてもらいましたから――あ、なんの絵を描いていたかルカ君には教えませんよ。他言しないって二人で約束しましたからね、ふふん」
言葉の端々からにじみ出る意地の悪さが癪に障る。この男はわざと相手を苛立たせようと画策しているのではないか、とさえ思う。
しかしルカは、わずかに眉根を寄せて「そうか」と頷くだけに留めた。
ややこしい相手にわざわざ自分から突っ込んでいく必要はない。
「アダム君って、もしかしてあんまり還元率のことを考えずに描いてるんですかね」
そのまま静かに教室を去ればいい。これ以上会話を続けることもない。
「それともわざとなのかな。“カナン”みたいに反抗心があるとか。だからあえて還元率の低い絵を描いてるんでしょうかね? でも、価値のない絵を送り続けたところで、画家としての評価が下がるだけなんですけどね。もっと他にやり方が……」
「どうして人の絵の価値を勝手に決めるんだ」
それでもルカは、伝えずにはいられなかった。
「アダムの絵を侮辱するな」
テオが片眉を持ち上げて振り返った。
廊下から賑やかな話し声が聞こえてくる。登校してきた学生たちだ。足音はすぐに遠ざかっていった。
「侮辱なんてしてませんよ。還元率が低そうだって思っただけです。……だったら教えてくださいよ、ルカ君から見たアダム君の絵の価値ってやつを」
テオは顎先を持ち上げ、挑発的な目でルカを睨みつけた。
ルカはその視線を挑発ごと受け止める。
「アダムの絵は懐かしくて優しい。見たことない景色なのに、どこかで出会ったことがあるような気がする。そんな思い出はないはずなのに、もしかしたらあったかもしれないと懐かしく思う。誰にでもそう思わせてくれるような、そういう絵を描くんだ」
言いながら、ルカは頭の中で彼の絵を思い起こした。
やさしい線、柔らかな色あい。平面に均された建造物や、自然の風景。表情の朧げな生き物たち。まるで、いつか誰もが幼い頃に見た夢の中のような世界。
「描き手の目線が優しいんだと思う。いろんな立場にいるいろんな人を、境界線を引かずに受け入れてくれる。だから俺はアダムの絵が好きだ」
「その“好き”が、あなたの価値基準ってことですか? エネルギーを得られなくても価値があると?」
ルカがこくりと頷けば、テオは口元に意地悪そうな笑みを浮かべた。
「でもその価値にだってバイアスがかかってますよ。『アダム君が描いた』って前提が、ルカ君の頭には無意識にへばりついてるんですよ」
「アダムはいい奴だし、一緒にいて楽しい。でも、だからその人の絵が好きってわけじゃない。たとえ知り合ってなくても、アダムの絵に出会ったらきっと、俺はその絵を好きになってる」
色素の薄い眉が、ぴくりと一度だけ動くのが見えた。
「そんなの……、オンファロスが導き出すエネルギー還元率と同じじゃないですか」
テオはくっと喉を鳴らして笑った。
「人間の気持ちは機械が価値を測るようにはいかないと思いますよ? 誰だって少なからずバックボーンに影響されるし、相手への好意や、同情や物珍しさが“好き”って気持ちを錯覚させることだってあるんです。人間が人間である限り、その原則からは逃れられませんよ」
言い募るごとにテオの表情は自虐的に歪む。まるで、自らが放った毒で己自身を蝕んでいるかのようだった。
「それは、テオの言うとおりだと思う。…………思うけど」
ルカは一呼吸置き、相手の目を見据えた。
「それでも俺は信じるよ。“好き”だって感じた自分の心も、アダムの絵の価値も」
テオは目を見開いて驚いた顔をした。
それからしばらく逡巡するような素振りを見せていたが、彼がなにか言う前に、二人の会話を断ち切るように予鈴の鐘が鳴り響いた。
ルカは目が覚めたようにハッと息をのみ、首元に手を当てた。指先には今朝方ミーシャに借りたままのマフラーの感触がある。しまった、と思った。その矢先、机の上に置きっぱなしになっているミーシャの鞄が目に留まった。あの中には授業に使う教科書や文房具なども入っているのではないだろうか。
「それじゃあ」
彼女の鞄を引っ掴み、慌てて立ち去ろうとしたときだった。
「ま、待ってください!」
ルカの腕を、今度はテオが引っ張って引き留めた。
半ばバランスを崩すように後ろを振り返り――そこでルカはぎょっとした。相手の顔が、焦燥と恥じらいでいっぱいいっぱいになっていたからだ。
あまりに不気味だったので、ルカは心の中で素直に引いた。
「確かに僕はアダム君のことを侮辱していたかもしれません。酷いことを言いました」
「そうか」
再び出口に向かおうと、ルカは踵を返す。
「だから、待ってくださいって!」
今度はマフラーの端を思いきり引っ張られた。
首が締まり、ルカの口から「ぐぅ」と奇妙な声が漏れる。
「あの――今度、僕の家に遊びに来ませんか」
「え……行かない」
即断だった。
「そ、そんな即答しないでくださいよ! これでも勇気出して誘ってるんですけど」
もじもじしながら喋る様は、ルカの肌を粟立たせた。
手のひら返しが酷いだけなのか、だとしたらどのタイミングでひっくり返ったのか。それとも新手の嫌がらせなのか。今までのやり取りでなぜその誘いが口から出てくるのか、皆目検討がつかない。
「いいんですか? 僕の誘いを断って」
「いいよ、別に」
ルカがさらに一歩後退れば、テオはその倍距離を詰めた。
「ルカ君が喜びそうなとっておきの話題を持ってるって言ったら?」
「とっておき、の……話題……?」
「そうです。気になるでしょ? 教えてほしいですか?」
「う、うん……どうかな…………ちょっと近くないか……」
いよいよ密着と呼ぶに近い距離まで詰め寄られ、ルカは息も絶え絶えだった。心理的にも物理的にも、パーソナルスペースを侵されることは、ルカにとって苦手なものの上位にランクインする。
「頂上広場のシタデルにある“カナン”の壁画についてなんですけど。……興味ありません?」
間近で自信に満ちた両眼がらんらんと輝いている。こちらが絶対に断らないと知っている目だ。
答えあぐねている間にも会話は続く。
テオは、秘密をこっそり打ち明けるときのようにそっと囁いた。
「あれを描いたの、僕たちです」
* Théodore
教室の白壁を活用した巨大なスクリーンに、過去のAEP還元事例が次々と映し出される。すぐ側には四〇代半ばの女性教員が立っていて、手に持ったポインタでスクリーン上の絵画を指しながら、事細かに解説を垂れ流している。
生徒たちは半すり鉢状になった座席にまばらに座っている。熱心に授業を聞く者、隣り合う友人とこそこそお喋りする者、はたまた船を漕いでいる者もいる。
月曜日、午後一の授業はいつもこんな雰囲気だ。
テオは自席で肘をつき、緩急のない語り口をBGMに、スクリーンに映し出される名画の影をぼんやりと眺めていた。
――俺はテオの表情の描き方、いいなって思っただけだよ。
先ほどからもう何度も、ルカに言われた言葉が頭の中でリフレインしている。思わず緩んだ口元を、テオは慌てて手の甲で覆い隠した。
彼が見たのは単なる有名な絵画のスケッチ、正確にはシタデルの壁に描いたカナンの壁画のエスキースだ。
それを彼は上手いと言わず、いいなと褒めた。
テオにとってはそれは、なによりも嬉しい褒め言葉だった。
幸福感に満ちたその一言は、テオの中に仕舞い込まれた思い出の扉をそっとひらく。
かつて、同じ言葉をくれた人物がもう一人いた。
彼女の名はミーシャ。
アルテミシア・ブォナローティ。




