第141話 ニノンの秘策
前回のあらすじ:頂上広場の壁画前でユリヤとシャルルに遭遇したニノンたちは、不運にも感受について追及されることに……。
普段クールな人間が瞳をらんらんと輝かせることほど厄介なものはない。
その場から逃げ出すこともままならず、ニノンは結局ルーヴル職員たちに感受の一切を説明する羽目になった。アダムは隣に立ち、懸命に言葉を絞り出す彼女をそわそわした面持ちで見守ることしかできない。
「――で、さっきみたいに、頭の中にワーッって感情が流れ込んでくるの」
「なるほど。つまり、ニノンはなんらかのロジックを経て絵画に蓄積された残留思念を読み取れるのね」
一節遅れて、ニノンは「そういうこと」と便乗した。
はにかむ少女をあきれ顔で眺めつつ、アダムは一方でユリヤの理解能力の高さに感心してもいた。
以前、ルカが露天浴場で倒れたとき、彼女を宿泊先のホテルまで送り届けたことがある。
おんぼろビートルの助手席に乗り込んだ彼女は、車窓を流れるレストニカ渓谷の風景をただ見るともなしに眺めていた。
よく知りもしない相手と過ごす密室ほど気を遣うものはない。それも、フレンドリーな雰囲気を醸し出す気配のない相手とならなおさらだ。アダムが問い掛けるどうでもいい質問に気のない相槌を返すユリヤだったが、ただひとつ、目の色を変える話題があった。
それは、画家集団・カナンに関するものだった。
「カナンのこと、ご存知なんですか?」
仕事でカナンの壁画を見にこの町へやってきた、というユリヤに、アダムがつい先日件の壁画を見てきたと漏らしたら、そう返ってきた。
「そりゃまあ……いやだって有名だろ? 本物を見たのはこれが初めてだけど。ユリヤちゃんは初めて、ってわけじゃなさそうだな」
アダムは横目でユリヤの様子を窺った。相変わらず彼女は車窓を眺めていて、「そうですね」と無表情に近い顔で頷くのみだ。
「今回も仕事で来てますから」
「仕事ねえ……壁画くり抜いて資源にするとか?」
ユリヤは答えなかった。
車内に充満する空気がピリついているのは、アダムが好戦的な声色で試すような問いを吹っ掛けたからでもある。
彼女の言う仕事とは、かつてクロード・ゴーギャンや善哉カナコがおこなっていた、ヴェネチアンマスクのように新たな資源を発掘するための活動ではないか。などということを、アダムは薄ら疑っていた。まさか彼女の仕事の正体が壁画自体を抹消することだなんて、このときは考えもつかなかったのだ。
「あなたはカナンの壁画を見て何かを感じましたか?」
唐突に問われ、アダムは眉をひそめた。質問の真意がわからず、一瞬言葉にまごついてしまう。
「あの有名な絵画を描いたのかー、ってくらいだな。それより、人だかりが多くて見るのに時間がかかったことのほうが記憶に残ってるぜ。ほら、コルテにはパオリ学園があるだろ。あそこの絵画科の学生がわんさか見にきててさ」
「画家を志す若い人材ですね」
「はは、人材って」
間違ってはいないが、どこか機械じみた言葉選びだと思う。アダムは口元をひきつらせながら、ハンドルを右にきった。勾配が緩やかになりはじめた山道をひた走れば、周囲は徐々にひらけた景色に変わっていく。
「画家を志す感受性の強い若者たちが、あの壁画を目にしたらどう感じるでしょう。もしも彼らが、カナンの活動を身近に感じたとしたら」
「感化されるってか? そしたら集団の規模が膨れ上がっちまうなあ」
アダムは軽く笑って答る。何の気はない、ただの相槌のつもりだった。
「しまいにはみんなキャンバスじゃなくて壁に絵を描きだすかもな――」
そこまで言ってハッと口を噤む。
相変わらず景色を眺めていたユリヤが、そのとき初めてアダムのほうを振り向いた。
「”カナン”が描いたとされる〈民衆を導く自由の女神〉の模倣壁画の隣に、見慣れない絵が描かれていました」
「え? ああ……あのテイストの違う絵か」
彼女が口にした絵のことを、アダムは数日前の記憶から掘り起こした。同じ青のスプレーで描かれた、頭に王冠を乗せた女の子の絵だ。名画の模倣とは完成度もタッチもまるで違う、少し異質な感じのする壁画だったことはなんとなく覚えている。
「メンバーの誰かがあの場で突発的に描いたんじゃねえの?」
「彼らは元来、エネルギーに還元され失われてしまった名画を模倣する集団です。それも、あらかじめ計画を立て、最短の時間で描きあげる。思いつきで描くなんて事例は聞いたことがありません」
「……で? なにが言いたいんだよ」
「すでに模倣犯が生まれ始めているのではないか、ということです」
アダムは不覚にもドキリとした。鋭い視線が、己の横顔に突き刺さるのを感じだからだ。
彼女は露天浴場でこちらの会話を聞いていた。あのとき声高に語ったのは、まさにAEP産業に対する批判だ。彼女の眼差しはアダムやルカのことを疑っているように思われた。
「キャンバスを放棄する行為が横行すれば、エネルギーが集められなくなります。私たちはそうなることを危惧しているんです。絵画は、自然に生えてくるわけではありませんから」
――あのときユリヤが見せたわずかな眉間のしわに、アダムは彼女の確固たる信条を垣間見た気がした。その警戒心を秘めた眼差しは、自分たちの思想が異端であることをいやでも知らしめてくる。それも、まごうことなき正攻法で。
だからアダムは、ニノンの友人を名乗るこの少女に、どことなく苦手意識を抱いてしまうのだった。
「触れたときは常にその現象が起こるのかしら?」
「今まではそうだったよ」
「触れるものは絵画だけと決まっている?」
先日の出来事をつらつらと思い出していたアダムの目の前で、ニノンは容赦ない質問の嵐に襲われていた。
「えっと、最近は触れなくても……」
「触れなくても? 接触を介さずに起こせるの?」
「え、う、うん。そういうときもあるし、そうじゃないときもあるし……あ、最近は他のものでも」
「他のもの? 絵画以外にも対象物があるの?」
「あー、うんと、たとえばイヤリングとか」
「アクセサリー……絵画とはまったく形状が違うのね」
「思い出が詰まってるものというかなんというか、うーんと、えーとえーと」
ついにニノンがぐるぐる目を回し始めたので、アダムはこれ以上見ていられず、とうとう二人の間に割って入った。
「はいはいはい――ストップ、ストーップ!」
知恵熱でも出てしまいそうなニノンを自身の背中に隠しつつ、アダムはユリヤに向かってぎこちなくはにかんだ。
「なんでしょうか」
「いや、ほら、力のことはこいつ自身もよくわかってねえからさ。質問するだけ無駄だぜ」
「むっ、むだ……!?」
「俺たちはそろそろこのへんで。お仕事の邪魔しちゃわるいしな。さー、帰るぞニノン」
背後でショックを受けるニノンの腕を引き、そのままこの場をずらかろうとした。だが師匠である男がそれを許さない。今まで傍観していたシャルルがずいっと身を乗り出した。
「言葉で説明するのに限界があるなら、もう一度実演してみてはどうだろう」
「はいっ」
「断る!」
両腕で大きく×印を作ったアダムが、ぎょっとして隣を見やる。やる気に満ち溢れた拳をふたつ握りしめ、ニノンも「え」と驚いた顔をしている。なんでだ。アダムは慌ててニノンの腕を引っぱり、相手方に聞こえないようにこっそり耳打ちする。
「おい、なに考えてんだよ」
「私はただ、絵画には描いた人の気持ちが詰まってるってユリヤちゃんに伝えたくて……」
アダムは呆れたように短く嘆息した。
ニノンは、リリー・Oの《夕暮れ刻》とカナコの間に起きた事象を再現しようとしているのだろうか。つまり、尊敬する祖母が描いた絵画を通して描き手の情熱に触れ、絵画に対する見方が変わったカナコのように、ユリヤにも化学反応が起こることを期待している。
だとしたら、今から触れようとしている絵画は条件が悪すぎる。カナンの壁画の存在意義がAEP産業への反発である以上、その絵に込められているメッセージはルーヴル発電所にとって許容しがたいものであるはずだからだ。
考えが変わるどころか、下手すればこちら側の排斥を助長しかねない。
「あの子がお前のお友だちでも、あいつらはルーヴルの人間なんだぞ? エリオみたく実験台にされたいのかよ」
「ユリヤちゃんはそんなことしないよ!」
「あの子がそうでも上は違うだろ!」
つい声を荒げると、動向を見守っていたらしいルーヴル二人組から厳しい視線が飛んできた。アダムは小さく咳払いをし、居住まいを正す。
「そもそもお前、まだちゃんとその力コントロールできてないんだろ?」
先ほどニノンが感受を発動させたとき、側にいたユリヤは一度倒れている。それが力の暴走なのか、彼女に耐性がないだけなのかは分からないが、同じことになる予感しかしないのだった。
「ふっふっふ……それなら大丈夫だよ、アダム。秘策があるから」
「秘策ぅ?」
全然信用できねえ――盛大に顔をしかめるアダムとは裏腹に、ニノンは余裕たっぷりに笑う。そのまま彼女は壁画に向き直ってしまった。
こうなると何を言っても聞かないのがニノンの厄介なことろだ。壁にそっと手を伸ばす少女の背中を、アダムは納得いかない面持ちで見守るしかなかった。デッキブラシを携えた二人も、ごくりと喉を鳴らし、彼女の背中を見つめている。
「じゃあ、いくね」
はつらつとした宣言とともに、か細い指先が青いインクで描かれた女神の頬に触れる。
その瞬間――頭の中に、複雑なノイズ音が怒涛の勢いで流れ込んできた。
「うッ……!」
アダムは思わずこめかみを押さえてうめいた。
耳鳴りがして、少し気分が悪くなる。強烈なノイズ音だけが原因ではない。音とともに、断片的なイメージ映像も流れ込んできたのだ。
それは書き散らしたスケッチを何十枚も透かし重ねたような、これまた複雑なイメージだった。黒や赤、青、黄色。色も線の太さもばらばらで、一体なにを表しているのか理解が及ばない。
「……ラーナ……ネラ、エラーラ……」
そのときふと、耳が不可解な言葉の羅列を捉えた。
アダムは薄目をあけて壁画のほうを見やり、ぎょっとした。
壁に手をつきながら、ニノンが何やら怪しい呪文をぶつぶつと呟いていたのだ。
「お、おい、ニノン……?」
力の使いすぎで気でも触れたか。戦々恐々としながら覗き込むと――。
「カエルぴょこぴょこみぴょこぴょこ、あわせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ、カエルぴょこぴょこ――」
「……ハァ!?」
どう聞いてもただの早口言葉だ。
それが、ジャックから掛かってきた電話口の向こうにいた“自称脱色症研究員”の老人・ゼファーの指南によるものだということは後に発覚する。が、理解不能すぎて卒倒しそうになっているアダムには知る由もない。
とにかくこの不快な感覚を遮断してしまおうと、アダムが少女に手を伸ばしたときだった。
不思議なことに、ぐちゃぐちゃに折り重なっていたイメージが乖離をはじめたのだ。
イメージだけではない。複雑なノイズ音も、まるで絡み合っていたネックレスのチェーンが解けるように、それぞれのあるべき音声へと分かれていく。
突如、いっさいの音と線が消えた。
真白の空間に、誰かの声が響く。
――新聞に載っちゃったりしたら、有名人じゃん!?
――仕事として描いていくの、ダルいんだよなぁ。
――もう一度あの人に認めてもらいたい。
――思い出作りっていうの? こういうことできるのって、学生のうちだけだよね。
声域も喋り方もまるで違う。それぞれの言葉は独立して飛び交い、今やそのひとつひとつを区別して聞き分けられるまでになっている。そのどれもが、アダムには聞き覚えのある声に思えてならなかった。
――最近、なんかツマンナイんですよね。
またしても聞き覚えのある女性の声がしたと思ったら、今度は目の前に鉛筆画が描かれはじめた。
ガサガサした黒鉛の線はいくつもの有名な絵画を模倣し、消され、やがて天に旗を突き上げる女神の姿を紡いでいく。
――小さなころから周りより少しだけ絵が上手かった。得意なものって好きになるじゃないですか。この学校選んだ理由もそんな感じでしたね。
ネイルで彩られた指が鉛筆を握る。
いくつもの線が縦横無尽に行き交い、エスキースはあっという間に完成した。
――……昔はもっと、好きだったんだけどなぁ。
諦観を含んだ声が白い空間に降り注ぐ。
そして視界は暗転する。
気がつけば、アダムは夜の帳が下りる頂上広場に立っていた。
壁画の前には、黒いフードを被った人物たちがスプレー缶を片手に集まっている。
――授業で習うような、いくつものルールを組み合わせながら描くやり方じゃなくて。絵は、もっと自由に描いていいんだって。
――なんかさ、いいよね。“カナン”って。
静まり返る闇夜の中、聞こえてくるのはシューッとスプレーを噴射する音だけ。
手元を照らすライトが、闇夜の中をいくつも動き回っている。寒々しい空の下、幾人もの描き手が集まり、まさにこの瞬間、ひとつの作品を生み出さんとしているのだ。
――意味なんかなくていい。そう言ってもらえたら、もっと楽しくなるんでしょうか。
――さぁ、わかんない。けど今、最高に楽しいんじゃん?
キャンバスの外に飛び出した彼女たちの手は、鳥籠から抜け出した小鳥が羽をばたつかせるように、縦横無尽に空を掻いた。心を満たす高揚した気持ち、単純な楽しさが、ニノンの力を介してアダムたちの心に直接伝わってくる。
意義、大義。そういった枠組みの向こう側にも、世界は存在していてもいい。そんな、女性たちの楽しげな声のただ中に、一点だけをじっと見つめているような静かな男の声があった。
――君のために描きます。
アダムはハッとして暗闇に目を凝らす。
声の主は、スプレーを噴射し続ける集団の中央にいた。
『描きたいものがあるとか、僕にはよくわかりませんね』
かつてアダムにそう断言した彼は、闇夜に溶け込む黒いフードを目深に被り、淡々と手を動かしていた。
――君の大切な友人を奪った世の中に”拒否”を突きつけます。今度は僕が君のヒーローになる。
――だからもう一度僕を見て、ミーシャ。
* luca
沈黙に包まれた教室の中で、二人の少年はたった今床に落ちたスケッチブックをじっと見つめた。
カーテンの隙間から漏れた細切れの光が、露わになったページに降り注いでいる。
すぐさまテオが中途半端に伸びたルカの手を払いのけ、弾けるようにスケッチブックを拾い上げた。彼は何も言わず、くるりと背を向ける。
「それ……ウジェーヌ・ドラクロワの〈民衆を導く自由の女神〉?」
そのまま教室を出ていこうとするテオの背中に、ルカは静かに問いかけた。
ほんの数秒しか目にできなかったが、それは確かにかつて多大なエネルギーを生み出した名画のスケッチで間違いなかった。
「コルテ頂上のシタデルにある、カナンの壁画の元絵だ。スケッチしたのか」
「だったらなんです? もう行っていいですかね。そろそろ授業始まるんですけど……」
苛立った様子で振り向いたテオの腕を、しかしルカは強く掴んで引き留める。
その途端、テオの顔が煩わしげに歪んだ。
「離してくださいよ。なんなんですか、さっきから」
「見せてほしい」
「は?」
ルカは離すどころか、ぐっと握る手に力を込めた。
テオはぽかんと口を開けたまま固まっている。
聞こえていなかったのだろうか、とルカはもう一度繰り返した。
「すごく上手だったから。もっとじっくり見たいんだ、そのスケッチブック」
「いや……え、ハァ??」
次回「142話 テオの正体」
天然タラシが世界を救う?(とは限りません)




