第140話 透明のよすが
頂上広場に到着したアダムとニノンは、遠目にシタデルを認めてふと眉をひそめた。すっかり人気のなくなっていたカナンの壁画前に、二人の人物が佇んでいた。
「こんな時に限って先客かよ」
壁画前に佇む男女を一心に見つめるニノンの隣で、アダムは小さく舌打ちした。
男性のほうは女性よりも頭三つ分ほどは背が高いだろうか。どちらもパンツスーツを着用しており、なにやら真面目な雰囲気で壁画をしげしげと眺めていた。その手に、各々柄の長いブラシを携えながら――。
「デッキブラシ?」
何故、とアダムは小首をかしげた。絵面がちぐはぐすぎる。
「まっ――待って! ストップストップ、ユリヤちゃーん!!」
「は?」
聞き知った名前を叫ぶなり、ニノンは真っ先に駆けだした。
アダムも訳がわからないままその背中を追う。
「え、ニノン!?」
色白の美少女がデッキブラシ片手に振り返る。先日、露店温泉からコルテのホテルまで送り届けた少女で間違いなかった。
「よお。この間ぶりだな――」
軽々しく片手を挙げたところで、隣にいた男性がこちらを振り返った。
その瞬間、アダムは頭上に岩でも落とされたかのような衝撃を受けた。
男は驚いたように、わずかに目を見開く。
「どうしてこんなところにいるの?」
「カナンの壁画を見にきたんだよ。ユリヤちゃんこそなにしてるの? その手のやつって、掃除道具……だよね?」
ニノンはおそるおそるといった風に、ブラシで床を擦るジェスチャーをした。
「ああ、これ。そうよ、今から消すの。この絵を」
「やっぱり~!?」
少女たちの騒ぐ声が遠くに聞こえる。しかし、もはやアダムの目には男性の姿しか映っていない。
見紛うはずがない。目の前の、この男は。
「……シャルル」
唸るような声でその名を呼ぶ。
なにかを覚悟したような男の顔を、アダムは真正面から忌々しげに睨みつけた。
彼こそは、アダムに絵の描き方を指南してくれた師匠のうちの一人。
そして、残る二人の師匠を裏切った男。
シャルル・ド・シスレーである。
*
崖先に生えた栗の木の下に立ち、アダムは見るともなしにコルテの街並みを見下ろしていた。隣には、同じく口を閉ざしたままのシャルルが立っている。
風は凪ぎ、連なる岩山の上に漂うほそい雲も、今はぴたりと動きを止めたままだ。
呼び出したはいいものの、どう声を掛けるべきか――アダムは腕を組み、不機嫌のポーズを保ったまま、次の言葉を必死に探していた。
師匠との邂逅は、アダムに去る夏の記憶を生々しく思い出させた。
ヴィヴァリオで開催された絵画の祭典、サロン・ド・コルシカ。そこでシャルルは、かつて共同生活を送っていたエリオ・グランヴィルが実の娘と幼馴染の女性のために制作し、ひっそりと隠し続けてきたひまわり畑の絵画をルーヴルに明け渡したのだ。
その後、風の噂でシャルルとカヴィロ(エリオと同じく、彼もシャルルと共同生活を送っていた友人の一人)が、経営していたアトリエを閉じたことは耳にしていた。けれど、その先のことまでは把握していなかった。
それでもアダムは、カナンの壁画前で“ルーヴル発電所職員”のユリヤと並び立つシャルルを目にした瞬間、師匠だった男が今どこに身を置いているのかをめざとく嗅ぎ取った。
そうして気がつけば、相手の胸倉を掴む勢いで「面ァ貸せよ」と迫っていたのだった。
「――あれから絵は描いているのか?」
ごく自然に沈黙を破ったのは、落ち着いた大人の声のほうだった。
「俺が筆を折ろうが折るまいが、別に関係ねえだろ」
アダムは遠くに連なる岩山を睨みつけながら、はねのけるように言った。
そう、アダムが絵を描こうが描くまいが、世界には毛ほどの影響もないのだ。なぜなら、アダムの描いた絵が今後エネルギーに換わることはもうないからである。
遡ること数カ月前。サロン・ド・コルシカで講評を務めていたルーヴル発電所の重鎮・ヴルーベリ――彼の口から発せられる聞き捨てならない暴言に、アダムとアダムの師・カヴィロは耐えきれず噛みついた。その結果、二人は事実上AEP界からの追放を宣言された。
「そう斜に構えるな。といっても無理な話か。ただ気になっていたんだ、お前たちは絵を描くことが好きだったから」
どの口が言うのか。反論を込めてアダムが鋭い視線を向けると、かっちりと着込んだネイビーのジャケットの襟で、覆りようのない裏切りの証拠が鈍く光った。
“L”の字を象った黄金のバッジ。それが何を意味するのか、アダムはもう知っている。
「ああ、これか?」
シャルルはこちらの視線に気付き、感心したような顔で襟元の記章をなぞった。
「そうだ。俺は今ルーヴル発電所に所属している」
「……ふざけんなよ!」
勢いよく相手の襟首に掴みかかり、アダムは眼前の男をぎらぎらと睨みつけた。
男はまるで初めからそうされることを見通していたように、されるがままに大人しくしている。その態度がさらにアダムを苛立たせた。
「エリオが黒い絵の具で塗りつぶしてまで隠したがった絵画をシャルルがルーヴルに売ったのは、ベルやコニファーを絵画無断所持の罪から守るためなんだろ? まさか端からルーヴルに取り入ろうって考えだったわけじゃねえよな? 違うよな、シャルルがあの二人を裏切るはずないもんな。そうだろ、なあ……答えろよ、シャルル……!」
神に誓って違うと言え。
俺が仲間を裏切るはずがないだろうと、愚かな弟子を叱責してくれ――。
アダムは祈りにも似た感情を込めて、目の前の男を力強く睨みつけた。
「その通りだ」
だがシャルルは、こともなげに頷いてそう告げた。
「な――……」
アダムは絶句した。記憶の中の師匠は、そんなことを言わない。常に冷静沈着で、思慮深く、能天気なエリオと、どこか荒っぽく突っ走るタイプのカヴィロをうまくコントロールするストッパー的存在。公平で、私利私欲で動いたりしない。
シャルルとは、そのような男のはずだった。
決して仲間を売るような人間じゃない。
理由があるに違いないのだ。そうせざるを得なかった理由が、きっと。
「あのとき俺が絵画の情報をルーヴルに渡したのは、そうすることで引き抜いてもらえるのではと期待したからだ。そして、思惑通りになった」
アダムは信じられない気持ちで師匠を見つめた。
涙は出ずとも、視界が悔しさで歪んだ。
「エリオの……気持ちを、知ってたくせに……」
胸の内に大切にしまってきた期待がぼろぼろと崩れ落ち、じわじわと濁った色に変わる。その音を、アダムは心の内側ではっきりと聞いた気がした。
「……なんでだよ……!」
膨れ上がった感情を抑えきれなくなり、アダムは左拳をぐんっと振りかぶった。
そのとき、ひどく冷静な顔で佇む師匠の鈍色の瞳の中に、眉を吊り上げた己の顔が映り込んだ。
「…………ッ」
アダムの拳はシャルルの右頬を掠め、力なく相手の肩にぽすんと落ちた。そのままうずくまるように顔を伏せ、力なく握った拳をジャケットの上で輝く記章へと打ちつける。
「アダム、」
「シャルルにとっては」
何かを言いかけた男の言葉を遮るように、アダムはうわ言を押しつけた。
「過去の楽しかった思い出をあっさり捨てられるほど薄っぺらい関係だったのかよ。それとも、その思い出も全部嘘なのか?」
相槌を打つでもなく、シャルルはただひたすらにその場で拳を受け止め続ける。
「昔っから俺は、楽しそうに絵を描く師匠たちを見るのが好きで……打ち込めるものがあるってかっこいいなって。一緒に打ち込める仲間がいるっていいなって思ってた。そんな師匠たちに、俺ずっと憧れててさ。ずっと……憧れてたんだよ……」
アダムの言葉はだんだん尻すぼみになり、最後は聞き取れないほどの掠れ声になっていた。
勝手に憧れて勝手に失望したのは自分だ。言い募るには自分勝手で稚拙な理由だろう。そうと分かっていても、悔しさは栓をしたはずの穴からじわじわと滲み出してくる。
「そうか。アダムには、俺たちがそんな風に見えていたんだな」
頭上から降ってきた言葉には、しかし微かな喜びが滲んでいた。アダムは思わず眉をひそめ、顔をあげる。聞き間違いかと思ったが、やはりシャルルは嬉しそうに微笑んでいた。
「なに、笑ってんだよ」
「嬉しかったんだ。俺も同じ気持ちだったからな」
「……は?」
「あの頃はとても楽しかった。だから今この場にいることを選んだ。結果的に裏切ることになってしまったが――」
シャルルはアダムの拳を掴んでやんわりと下に降ろす。そして、目下に広がるコルテの街並みへと視線を移した。
「エリオもカヴィロも、絵を描くことを心から愛している。己のすべてを懸けているといってもいい。仲違いするほどにな」
シャルルの眼差しは、懐かしい思い出を語るように眇められている。
天性の才能に恵まれた巨匠、エリオ・グランヴィル。努力が報われない画家、カヴィロ・アングル。二人はいつしか衝突を繰り返すようになり、最後にはエリオの“絵を描きたくない”という願いによって果てしなく深い溝が穿たれ、ついには離別した。
彼らの身に起きた出来事を、アダムは過去にニノンの能力で目の当たりにしていた。だからいま、シャルルがどんな場面を思い浮かべているのか、朧げながら理解することができた。
「二人には絵を描き続けてほしいと思ってるんだ。大切な友人だからな」
「だったらどうしてあのとき二人を裏切るようなことをしたんだよ」
思わず責めるような物言いになってしまい、アダムは一瞬口を噤んだ。
しかしすぐに思い直し、言葉を続けた。このままではいけない気がした。
「絵画を受け渡すなんて強引なことしなくたって、別の方法があったはずだろ。俺には難しいことはわかんねえけど……でも、シャルルならそれくらい考えつく。そうすれば今も三人で一緒にいられたんじゃねえのかよ」
「はは。そうだったかもな」
シャルルは飾りのような笑い声で応える。
「あのときは俺も、少し動揺していたんだろう。エリオがまさかあんなことになっているとは……いや、格好のチャンスだと思って飛びついたのは事実だ。目先の欲に駆られてな」
シャルルが一瞬言い淀んだのを聞いて、アダムはハッとした。ミュラシオルの村で二人の師匠と邂逅したとき、彼らはエリオが失踪していることを知らなかったのだ。
「もう画家として活動するつもりはねえのかよ、シャルル」
「そうだな……いまのところはないな」
「マジで言ってんのか」
「嘘をついても仕方ないだろう」
仕方がなかったとしても、ショックを拭いきることは容易ではない。
アダムが愕然とした表情を隠しきれずにいると、シャルルは唐突に話題を戻した。
「三人でのアトリエ生活を解消したあと、俺とカヴィロがパリでアトリエを営んでいたことは知っているな」
「え? ああ……目覚まし時計、だっけ」
「そうだ。そのアトリエを経営する傍ら、俺はAEP還元率のロジックを解明しようとあらゆる資料を読み漁った」
「ろ――なに?」
いきなり会話の解像度が下がり、アダムは眉間にしわを寄せた。
「過去の還元実績を比較したり、実際に推論を立てて何枚も絵画をAEPに還元したりもした。だが結局、手掛かりは掴めずじまいだった。なんの成果も得られないまま数年が過ぎ――俺はいつしかルーヴルに対して興味を抱くようになった」
「待ってくれ、よくわかんねえよ。つまりシャルルは、えーと、ずっと一人で研究してたのか? AEPの?」
「研究というほどじゃない。知りたかったんだ、どういう原理で絵画からエネルギーが生まれるのか。暗闇のなか手探りで絵を描くよりも、手元を照らす灯りがあったほうが描きやすいだろう?」
シャルルは口元に僅かな笑みを浮かべた。難しい言葉のひとつひとつを咀嚼していたアダムは、ふとそこで顔を上げた。
もう筆をとらないと決めた男が、画家にとってよりよい環境を作りたいと願う理由は、なんだ?
「それって、誰のためだよ」
シャルルは答えない。
それでも彼の視線の先に二人の盟友がいることは明らかだった。
それは同時に、師匠に対する浅はかな勘違いをアダムに自覚させもした。
シャルルはほかの二人を真に裏切っていたわけではなかった。彼らが絵を描く最良の環境を整えたくて、自ら未開の土地に飛び込んだのだ。
「なんだよそれ。俺、最低かよ」
アダムは顔を伏せ、左手を力強く握り込んだ。今まで相手にぶつけてきた怒りや憎しみを全て回収して、その何倍もの力で己を殴りつけたい衝動に駆られた。誰かに信じてもらえないことがどれほど惨めなのかを、誰よりも知っているはずだったのに。
「ごめん、俺、本当に……殴ってくれよ、気がすむまで……」
アダムは男の前に足をひらいて立つと、目をぎゅっと瞑り、両頬を差し出した。だが、しばらくしても覚悟していた衝撃は勿論やってこなかった。すぐ目の前で、小さく吹き出す音が聞こえた。
「こんなにもかわいい弟子を殴るはずないだろう。そもそも俺は暴力は苦手だ。お前は少し血の気が多いんじゃないか、アダム」
「おいっ、子ども扱いすんな! それに拳で解決したほうがフェアだろ!」
フェアではないだろう、とシャルルはもう一度笑って、今度は栗の木に立て掛けてあったデッキブラシを手に取った。油を売る時間はもうおしまいらしい。シタデルに向かって歩き出す彼の背中を一瞥しつつも、アダムはその後を追いかける。
「シャルルは三人で絵を描いてた時間が好きだったんだろ。だったら今の努力の仕方は間違ってんじゃん。本当に望んた場所は取り戻せないなんて……そんなの、おかしくねえ? 理想を捨てて対価を得たってさ、幸せにはなれねえよ」
こちらに背を向けたまま、彼は「対価か……」と考え入るように呟いた。
「足だ」
「足……?」
「ああ。歩き続けるための足が手に入る。手放した先にしか見えない景色もあるしな。だがな、アダム。お前はひとつ勘違いをしている」
「は? 何をだよ」
「絵画はたった一人でも制作できる。しかし、誰かと刺激しあうのもまたいいものだと、あの二人は教えてくれた。――俺はな、もう先にもらってるんだ。だったら、返さないわけにはいかないだろう?」
未練もなにもないかのような口ぶりで、男は言う。
あるいは本当に未練なんてないのかもしれない。
なぜだか無性に悲しくなって――あるいはたった一人で歩く師匠の背中を見ていられなくて、アダムは駆け寄り、男の隣に並んで歩いた。
「俺は、シャルルみたいにはなれそうもねえよ」
「ああ、俺みたいにはなるな」
「はあ!? どっちだよ!」
わめく弟子を宥めるように、師匠の面影を残した男はにこりと微笑んだ。
「後悔はしても悔いは残すな。いいか、アダム。どうしても諦めたくないものに出会ったら、絶対に手放すなよ」
「わ……わかってるよ」
アダムが曖昧に頷くと、シャルルは念を押すように背中を軽く叩いた。
彼はいつもアドバイスを口にしたあと、こうして相手の背中を叩くのが癖だった。積極的に指南してくれるわけではない。口数が多いわけでもない。そのぶん、ぎゅっと絞った濃度の高い言葉をくれるのだ。昔からそうだ。
そう、昔から彼はそうなのだ。
「師匠。俺が持ってやるよ、そのブラシ」
「あ、おいアダム」
返事を待たずにデッキブラシを奪い取り、アダムは師の前をゆく。
昔となんら変わらない。
シャルルは、シャルルのままだった。
気分よくブラシを振り回していると、柄になにか文字が書かれていることに気がついた。
パオリ学園――どうやらこのデッキブラシは学園の備品らしい。
「なぁ、そういえばさっき壁画を消すとかなんとか言ってたよな――」
「わーっ、ごめんっ! 失敗しちゃったー!」
シャルルに声をかけようとアダムが後ろを振り返ったとき、壁画のほうから騒々しい叫び声が聞こえた。
「どうした!?」
アダムとシャルルが急いでシタデルに駆け戻ると、ふらつくユリヤの背中をニノンが焦った様子で支えていた。もともと白い彼女の顔は、血の気が引いてさらに青白くなっている。
まさか、という思いでアダムはじろりとニノンを見やる。
「力が働きすぎて、ユリヤちゃんが倒れちゃった……!」
そのまさかだった。
どのような経緯があったのかは分からないが、どうやらニノンはユリヤの前で感受を発動させたらしい。しかも、うまく制御できない形で。
「あのなあニノン、なにもこいつらの前で使う必要ねえだろ! わかってんのかよ、こいつらはルーヴルの人間で……!」
「わ、わかってるよう! ごめんなさい……!」
アダムは腰に手を当て、きつく叱る。ここまで焦っているのは、師匠であるエリオがかつてルーヴルから受けた仕打ちを知っているからだ。物珍しい力に興味を抱かれれば最後、彼らはあの手この手でこの少女を手込めにするのではないか――そんな不安があったのだ。
当の本人も己の失態は重々承知しているようで、両手をぱちんと合わせて何度も平謝りしている。ニノンがきつく目を閉じ猛省していると、ユリヤはしなだれていた身をゆっくりと起こし「大丈夫」と片手を挙げた。
「すこし立ち眩みがしただけよ……。それにしても驚いた。あれは一体なに? ニノン、あなたがやったの?」
「あの……うん、そう……。どうしてもこの壁画を残しておいてほしくて、そのためには描いた人の気持ちに触れるのが一番かなって思ったの……うまくいくかなって思ったんだけど……ダメだった!」
「ダメだった、じゃねえだろ!」
「だからごめんってばー!」
一喝するアダムからニノンを守るように彼女の手を取ったユリヤは、一言「すごいわ」と真顔で呟いた。至近距離からの熱視線に、さすがのニノンも腰が引けている。蚊帳の外状態のシャルルは、そんな二人をただただ傍観していた。口を挟もうにも端から端までわけが分からない状態なのだろう。
「あなたといると不思議なことばかり起こるわ。――話を聞かせてくれるわね?」
その声色からは、絶対に逃さないという気概が感じられた。煌々と燃える炎を灯した瞳を目の当たりにして、アダムはまたとんでもない人間を引っ掛けてきたなと一人頭を抱えるのであった。
ユリヤに迫られ、力の実演をすることになったニノン。暴走を心配するアダムだったが、ニノンには力をコントロールする秘策があるようで…。
次回は「141話 ニノンの秘策」の予定です。




