第139話 君は色相環の向こう側(2)
「そういやさ、あれはダメなのか? 頂上広場の――”カナンの壁画”」
二人の会話は再び感受の訓練内容に戻っていた。何気なく思い浮かんだ案を投げ掛けると、アダムは焼き立てのラザーニャにふぅふぅと息を吹きかけ、一気にそれを頬張った。半分ほど平らげたというのに、ラザーニャはまだ上顎を火傷しそうなほど熱い。
「いいかも」
アダムがごくごくとグラスの水を煽っていると、ニノンがぽつりと呟いた。そして今度は、はっきりと目を輝かせて言った。
「というかぴったりかも」
「なんで? 人があんま居ねえから?」
ニノンは勿体ぶるように視線を落とし、皿の中でラザーニャを小さく切って口に運ぶ。
「以前あの絵を見たとき、実はうまく感受がはたらかなくって」
「え」
初耳だった。
「イメージが何も伝わってこなかったってことか?」
「伝わってはくるんだけど……いろんなイメージがぐちゃぐちゃに重なってて、画家の気持ちがはっきり見えてこないっていうか。人混みとかレストランの中で、周りの人の話し声が重なって聞こえる、みたいな」
説明しづらいので、この話は誰にも伝えていないのだという。アダムはつけ合わせのピクルスを齧りながら、彼女の言う状況を頭の中で想像してみた。
賑わう店内にいる自分。
周りではそこかしこで誰かが喋っている。
ひそひそ、ざわざわ。耳に流れ込んでくる音は確かに何かの言葉だけれど、一つ一つの意味は捉えられない。それが意味するのは、つまり――。
「カナンの壁画は、複数人で描かれたってことか」
ニノンは頷く。
「少なくとも三人以上はいると思う」
噂の通りだな、とアダムは思った。画家集団・カナン。彼らは独自にネットワークを持ち、共通の思想のもと世界各地あらゆる場所に出没する。構成員は数十人とも、数百人とも言われている。
「じゃあ、その重なってる声を別々に聞き取れるよう訓練すればいいんだな。やり方はわかんねえけど。……気合いか?」
「気合いかなぁ」
ぼんやりと頷きかけて、ニノンは慌てて「違うよ」と首を振った。
「脱色症に詳しい人がいるから聞いてみるの」
「…………誰だ?」
運ばれてきたティラミスを前にアダムはしばし考えてみた。残念ながら、誰の顔も思い浮かばない。首を傾げている間に、ニノンは一足早くティラミスに手をつけ、頬に手をあてうっとりした。
*
昼食を終えた後は、二人で頂上広場に向かおうということになった。改めて壁画からイメージを汲み取ってみることにしたのだ。
「ありがとう、ごちそうさまでした」
アダムが会計を済ませて店を出ると、ニノンは待ち構えていたように礼を言った。
「いいよ別に。それより、俺が奢るって最後まで信じてなかっただろ」
「そ――そんなことないよ! あっ、最後のティラミス、あれおいしかったね!」
話の逸らし方が下手くそすぎるなと思いながらも、アダムはそのまま「頼んでよかったろ?」と乗っかることにした。ニノンが満面の笑みで頷いたので、薄情な態度を許してやろうとも思った。
「本当はね、あのお店前から気になってたんだ。アダムが入ろうって言ったとき、実は『やったー』って思ってた」
内心を打ち明けられても、アダムは涼しい顔でふぅんと頷くだけだ。だからこの店を選んだのだとは告げない。代わりに、「また来りゃいいじゃん。今度はあいつらも連れて」と言って口の端を持ち上げた。
「あ、そうだ。電話借りていい?」
ニノンが思い出したように片手を出す。
「いいぜ。ほらよ」
どうやら、脱色症に詳しい人物にコンタクトをとるらしい。アダムはポケットから携帯端末を取り出し、ぽいっと手渡した。ニノンはそれを受け取ると、ゆっくり歩きながら、手元に用意したメモと画面を見比べつつ端末を操作する。
「誰に掛けんだよ」
「三……ジャックに……五、〇……」
「ああ――え、あのお坊ちゃん?」
「うん」
ニノンは耳元に画面を押し当てながら、渋い顔で頷いた。
その表情の理由が、アダムにはなんとなくわかる。
たしかに頼れる相手だが、頼りたくはない。頼ったら最後、後で十倍も二十倍も謝意を表せよとしつこく迫られそうだ。それよりも、なぜ相手の番号を知っているのだろう。気になって尋ねてみたら、ニノンは応答を待っている間に「無理やり持たされたの。今度実験台になれって」と恐ろしいことを口にした。
「お前さあ……。気をつけろよな、マジで。兄ちゃん心配だわ」
「ん、わかった……気をつける」
明らかな空返事を受けたアダムがますます不安を募らせていると、ニノンは諦めたように画面を耳から離し、通話ボタンを押した。相手は不在だったようだ。
「ありがとう。またあとで借りてもいい?」
「おう」
アダムは礼とともに返された携帯端末をポケットにしまった。
「残念。話が聞けると思ったのにな――」
わずかに落胆した瞳がふとアダムを通り越し、何かを見つけてパッと明るくなる。
「ん……?」
アダムもつられて後ろを振り返る。
彼女の視線の先にあったのは、通りを挟んではす向かいに立つ一棟のアパルトマン。そしてその一階に収まる、小さな雑貨店だった。大通りに面した店の壁には、麻ひもで編んだかごバッグやカラフルな鼻緒のサンダル、帽子にストールなどが吊り下がっている。
なるほど、いかにもニノンが好みそうな店だ。
「寄ってくか?」
「えっ、いいの!?」
何気なく提案した途端、紫の瞳がこぼれ落ちそうなほどまん丸に見開かれた。
「そ、そんなに行きたいのかよ」
ぴかぴかに磨かれた宝石のような瞳にあてられて、アダムはわずかに狼狽えた。
彼女が甘えたような視線で見上げてくるのは、完全に身長差のせいだ。わかってはいるけれど、男という生き物は上目遣いに弱いのだ――。
「ううん。やっぱり行かない!」
アダムが心の中で誰ともなしに弁明しているうちに、ニノンが勢いよく宣言した。
「楽しい時間は特訓後のご褒美としてとっておくの……!」
「はあ? なんでだよ、入ろうぜ。どうせ暇だろ」
「うっ……。こ、これから忙しくなるの」
「やっぱ今は暇なんじゃねえか。ほら、行くぞ」
うだうだ言っているニノンを一蹴し、アダムは反論が返ってくる前に先陣を切って店に向かう。
彼女が遠慮がちだったのは最初のうちだけで、店に入れば頭からは文句も遠慮もすべて吹き飛んでしまったようだった。
ほわぁと口を開けたニノンは、まるで異世界に迷い込んだかのように店内を見渡している。
こまごまとした雑貨で埋め尽くされた店内は、画材屋とはまた違った煩雑さがある。迂闊に歩けばなにかが落っこちてきそうで、アダムの肩は自然と縮こまった。
「こんなお店、知らなかった。ちょっと見てもいい?」
「お好きなだけどうぞ、お嬢さん」
アダムが紳士然として答えると、ニノンの笑顔のまわりに小さな花がたくさん咲いた。
それから彼女は浮足だった様子で、小さな品物ひとつひとつを、覗き込んだり手に取ったりして見てまわった。アダムはその楽しげな様子を背中越しに眺めながら、ゆっくり後ろをついていく。
せまい店内には女性客がいくらかいて、彼女たちも皆一様に浮足だった様子である。少し前を歩く二人組の少女は、ニノンと同じくらいかそれよりも二つほど下だろうか。
丈の長い黒のワンピースに、やわらかく波打つ亜麻色の長い髪。ふとその背中に、孤児院に残してきた妹たちの影が重なった。
マグノリア、サンダーソニア、ミリオンベル、フィーコ、モナルダ、それから、ミモザ。
もう数年も前の話だ。
アダムはとある仕事を請け負い、それに伴って故郷を出た。妹たちを、ひいてはミモザを自由にしてやりたいという兄心から請けた仕事だった。
牧師の元にいては、妹たちは幸せになれない。なぜならば、あの男にとって子は庇護すべき存在ではなく、ルーヴル発電所における絵画のようなものだからだ。そう学んだのは、幼い頃から自分たちの世話を焼き、育ててくれた姉たちが順に卒業し、やがて自分たちが孤児院の最年長になった頃だった。
薄々わかっていたことだ。けれど信じたくなかった。
彼は、腐っても自分たちの保護者だったから。
「見てこれ、かわいい」
「ほんとだ。かわいいー」
口々に囁きながら、目の前を別の客が横切っていく。そのまま棚の小物を物色しはじめた少女の髪は縮れ毛で、少し赤茶けている。
赤毛の縮れ毛――よく似た髪色の少女を思い出した途端、喉の奥に酸っぱいものが広がるのをアダムは感じた。
マリーゴールド。
その昔、孤児院にそう名付けられた少女がいた。
ミモザとアシンドラ、アダムの同年代として孤児院で育った女の子で、彼女もまた癖の強い赤毛だった。
よく通路を走っては、牧師にこっぴどくしかられていた。アシンドラとよく口喧嘩をし、あの彼をたびたび疲弊させていたのが印象的だった。勝気な笑みが似合う子で、鏡を眺めては、頬に散るそばかすをいつも気にしていた。主日演奏会に参加するメンバーの中でも歌は上手くないほうで、けれど人一倍世話焼きで。
そんな、どこにでもいるような女の子だった。
そしてもう、二度と年を取ることのない女の子だ。
「……?」
アダムが顔を上げれば、文房具コーナーの棚の向こうで、先ほどの少女たちがこちらを気にしながらコソコソ囁き合っていた。
はたと目があい、アダムは爽やかな笑顔を浮かべて軽く手を振ってみた。途端に少女たちはひゃっと小さな悲鳴をあげ、素早く棚の影に隠れた。「え、かっこいいよね」「モデル?」と色めいた声は、囁き声でも本人の耳に十分届く。
「なあ。お連れさん、かっこいいって」
アクセサリーコーナーを物色しているニノンに背後から近付き、アダムは気のないふりでそう言った。
「んー? そっかぁ、よかったね……」
適当にあしらうどころか、ニノンは顔すら上げない。自分の連れている男がいかに男前かということより、目の前の数ユーロもしないような雑貨を見てまわるほうが重要らしい。
「ほんっと興味ねえよな、俺に」
アダムはしらけ顔でふらりとその場を離れ、一人あたりをうろつくことにした。
ごみごみした棚を見るともなしに見て回っていると、先ほどの客とまたしても目があった。
少女たちはもう店を出るようで、出口付近で振り返るなり、アダムに向かって遠慮がちに手を振った。余所行きの笑顔をたたえてアダムが手を振り返せば、その場でわっと小さく声があがる。そうして少女たちは、逃げるように店から出ていった。
引っ込めるタイミングを失った笑顔を貼りつけたまま、アダムは誰もいない出入口をしばらく見つめていた。
孤児院の妹たちも真に自由に生きることができたなら。好きな服を着て本当の趣味を謳歌し、ただ楽しむためだけに誰かとこのような店を訪れることができるのだろうか。
ここにいるはずのない少女たちの残像が、楽しげに目の前を通り過ぎてゆく。
残り香のような彼女たちを無下に払うこともできず、アダムは一度ぎゅっと目を瞑って無理に店の奥へと引き返した。
「女子ってほんとアクセサリー好きな」
アクセサリーコーナーで熱心に俯いているニノンの後ろから、アダムはそっと顔を覗かせ呟いた。
「うん。見てるだけでも楽しいんだ」
などと言いながら、ニノンはデイジーの花が三つ連なった色違いのバレッタを自身の髪に充てがうのに忙しい。彼女の手の中にあるのは白色と黄色と、ピンクだ。孤児院の中庭にもデイジーは咲いていたが、あれは何色だっただろうかとアダムは思う。
「白がいいんじゃね」
「やっぱり?」
ぱっと振り返ったニノンは輝く笑顔をたたえ、桃色の髪には白いデイジーが咲いていた。
アダムは思わず真顔になる。今顔を動かしたら、変なものが滲み出てしまいそうだった。
「私も白が一番かわいいと思った! 髪がこんな色だし、黄色とかピンクだとうるさくなりすぎるんだよね」
そのとき、折りよくポケットで携帯端末がブブブ、と震えた。
「あ、掛かってきた」
「ジャック?」
「たぶんな」
震える端末を手渡せば、ニノンは商品を棚に戻し、慌てて店の外へと出ていった。
甘ったるい装いの店内にぽつんと取り残されたアダムは、意味もなくぐるりと商品棚を見渡した。まるで下着屋に男が単身で乗り込んだような、己が異物にでもなった気分だ。
所在なくふらついていた視線がふと、溢れんばかりに並べられたアクセサリーの山の中の、三つ並んだデイジーの花に留まる。
――私も白が一番かわいいと思った!
うれしそうな少女の横顔が脳裏を過ぎる。アダムの手は自然と白色のデイジーをすくい上げていた。そのまま、制御されたロボットのようにレジへと向かう。
外の世界を知らず、壁に囲まれた神聖なる花畑で粛々と暮らす妹たちを、そしてあの場所から巣立っていった姉たちを思うとき、アダムは得も言われぬ罪悪感に苛まれる。
故郷とは違う大地を踏みしめる自分は、彼女たちの目にはさぞかし”自由を掴んだ幸福な男”に見えるだろう。
実際にアシンドラがそうだった。
ヴェネチアでマスカレードカーニバルが開催された夜、偶然にも目の前に現れた彼は、アダムに想像通りの苛立ちをぶつけて去っていった。お前は自由を得ることと引き換えに故郷を捨てたのだと、憎しみに満ちた氷色の瞳で睨めつねられた。
アシンドラの言うとおりだ、とアダムは思う。孤児院の外に飛び出して、好きなようにあちこちぶらついて。それが自由以外のなにものだというのだ。
――間違っちゃいねえよな。実際、楽しんでるんだから。
だが、ヴェネチアの夜を思い出すたびに、アダムの心に深く刻まれた傷はじくじくと痛みをぶり返した。
お前が故郷を捨てるはずないと、同胞に疑われすらしなかった。信頼されていないのだと思った。なにより、突きつけられたその事実を否定できない自分に対して、アダムはひどく失望した。
「プレゼントですか?」
「えっ」
唐突に尋ねられ、アダムの口から変な声がでる。
尋ねた店員も「え」と少し驚いた顔をした。
「ギフト用にお包みしますか?」
「あ――いや、そのままでいいです」
値札のシールを剥がされただけのバレッタを受け取り、アダムはふらふらとレジを後にした。
しばらくしてはっと我に返り、自身の左手を見下ろして途方に暮れる。
「なにやってんだよ、マジで……」
こんなものを買って、どうしようというのか。
刺繍でできた白いデイジーの花々は、何も知らない顔で凛と咲いている。
――わたしを手に取ったあなたにはもう、故郷の仲間と同じ苦しみを背負う資格などない。
――愚かな人。わたしをあの子に贈る資格すら、あなたにはないというのに。
――あなたはどっちつかずだね。
可憐な花たちが無邪気な声で現実を囁く。
うるせえな、わかってるよ――噴出しそうになった昏い影を、アダムはバレッタとともにパンツのポケットにねじ込んだ。
*
店を出ると、ニノンもちょうど電話を終えたところだった。なにか収穫があったのだろう。うれしそうに駆け寄ってくる少女を、アダムはいつもの笑顔で出迎えた。
「いろいろ話が聞けたから、やっぱり私このまま頂上広場に向かうね」
連れ立って歩きながら、ニノンは「アダムは?」と首を傾げる。
「このあとどうする? 一旦お家に戻る?」
「なんで? 俺もついてくつもりだけど」
「絵の続き、進めなくていいのかなと思って」
「あー、よくねえよ。ちゃんと描くよ。けど壁画のことが気になるから、それ終わってからな」
「そっか」
頷くと、ニノンはひと呼吸置いて、
「ありがとう」
と言った。
「なんだよ、急に改まって」
「だって、気持ちって言葉にしないと氷みたいにどんどん溶けていっちゃうんだもん」
「なんだそりゃ」
アダムは鼻の頭をぽりぽりと掻いた。
「心配してくれたんでしょ、アダム。教室から追いかけてきてくれたのだって、興味ない買い物に付き合ってくれたのだって、全部そう」
「別に〜? 俺もあの場から退散したかっただけだし」
苦し紛れの言い訳に聞こえただろうか。
ニノンがこちらを見てにこにこしている気がする。アダムはその生ぬるい視線から逃れるように、ふいっと顔を背ける。坂道の先に、枝をむき出しにしたイチョウ並木の入り口が見えた。
「けどさ、ニノンも強くなったよな。ちょっと前なら絶対めそめそ泣いてたよ」
「うそだぁ。そんなにすぐ泣かないよ」
「泣き虫の自覚ないのかよ」
「え、ないよ……」
ニノンは眉をひそめて奇妙そうな顔をし、それから短く息を吐いた。
「別に落ち込んでない。本当だよ。ただ足手まといになりたくないだけ。私が持ってるのはこの不思議な力だけだもん。それをどんどん鍛えていけば、胸を張って隣に立てると思うんだ」
アダムは照れ笑いする少女に一瞬だけ目をやり、またすぐに前を向いた。
「なってねえよ、足手まといになんか」
一瞬きょとんとした顔をして、ニノンはすぐに「ありがと」と笑う。
「嘘じゃねえって。マジで言ってんだよ。そもそも足手まといってなんだよ? そんなこと思うヤツと一緒にいるのかよ、お前は。違うだろ?」
「…………うん」
「力のあるなしなんて関係ねえだろ。んなもんはついでなんだよ。別にそれが目当てなわけじゃねえし、お前が持ってんのはその変な力だけじゃねえし」
「そうかなぁ」
「方向音痴だしすぐ変な奴に捕まるし、厄介ごとにはとりあえず首突っ込むし、あとすげえ食う」
「全然褒めてないよ!?」
むしろ貶されてる! と喚くニノンの幼い反応に、アダムは気を良くした。こちらの放つ言葉ひとつで表情がころころ変わる、そんな少女の存在がたまらなく可笑しかった。
「一緒にいて飽きねえって言ってんだよ。その明るさに救われることだってある………………って、ルカも思ってるよ」
黄色い絨毯が敷かれたようなイチョウ並木を、二人並んで歩く。靴の裏でさく、さく、と落ち葉の潰れる音がする。
「アダムってモテそう」
「モテそうじゃねえ、モテるんだよ」
あはは、と、ニノンは今度こそ本当の笑顔を溢す。
一歩遅れて、アダムの耳元で心臓がドクン、ドクンと大げさに音を立てた。その音を隠すように、アダムは口元に出来合いの笑顔を貼りつけ、あははと笑ってみせた。
危ない。危なかった。
アダムは知らず心の中で呟く。
慌ててルカに擦りつけたが、これじゃあまるで自分が救われているような口ぶりだ――。
パオリ学園の正門を通り過ぎ、二人はそのまま坂道をのぼって、頂上広場を目指す。その間も他愛無い会話が途切れることはなく、隣では花より可憐な笑顔が咲き誇っていた。
――絵が描きたい。
原始的な衝動が、アダムの脳裏にふっと浮かんで留まった。
ここはとても居心地がいい。
生まれてしまった感情をなかったことにできないのなら、せめてそれを顔料にして絵を描こう。
いま心を満たしている淡い光を目に見える形として残せたなら。
そうすればこれからも生きていける。
大切なものを手放したあとも――きっと、振り返らずに生きていける。
アダムの過去については、いずれ孤児院編で詳しく書きます。
次回、頂上広場にやってきた二人は、壁画の前でデッキブラシ片手に佇む男女に遭遇。それはアダムにとって因縁の相手で――。
「第140話 透明のよすが」よろしくお願いします。




