第139話 君は色相環の向こう側(1)
階段を駆け足で下りきり、東棟の玄関ホールまでやってきたところでアダムは足を止めた。月曜日の遅い一限目がはじまるとあって、ホールは登園してくる学生たちで賑わっている。
「いねえし……」
当然ながら目当ての人物の姿はそこにはない。アダムは頭を搔きながら、足速すぎだろ、と心の中で毒づいた。
顔見知りの学生から、すれ違いざまに「おはようアダム君」「今日はどした? ついに入園すんの?」などと親しげに声を掛けられる。適当に挨拶を返しつつ、ニノンの姿を見掛けていないか尋ねてみた。
「ニノンちゃんなら見たよ」
ハロウィンナイトでバンシーの仮装をしていた派手な女生徒の一人が、けろりとした顔で頷いた。
えっ、と間の抜けた声を出し、アダムは彼女を二度見する。
「マジ? どっち行った?」
「イチョウ並木のほう。坂道下ってったけど」
と、女生徒はイチョウの葉と同じ色に塗った爪先でホールの入り口を指さした。
「どしたの。喧嘩でもした?」
「大通りの方……? 家には帰ってないのか」
「ああ、まーた余計なこと言ったんでしょ」
女生徒はニヤニヤと笑いながらアダムの脇腹を小突く。アダムはむっとして、イチョウ並木に向けていた視線を戻した。
「今回は俺じゃねえって。お前らの――」
友人のテオが原因だろ、と言いかけて口を噤む。
普段から教室で彼女たちがテオとつるんでいるところを目にしていたので、それなりに仲が良いのは知っていた。だが、先ほど露呈した彼のもう一つの顔まで知っているかと問われると疑問が残る。あのテオである。あんな醜態を誰にでも簡単に晒しているとは思い難い。
わざわざ自分がそれをバラすことはないよな、とアダムは冷静になった。
「私たちの、なによ?」
「なんでもねえ」
ぱちぱちと目を瞬く女生徒たちを、アダムは飛び回るハエでも追い払うかのようにしっしっと手で払う。
「それより今から授業だろ。さっさと行けよ」
「え、ヒドくない? ちゃんと情報提供してあげたのに」
「ありがとよ! これでいいだろ?」
「雑すぎでしょ」
アダムは笑いながら野次を飛ばしてくる女性グループを振り切り、人波に逆らって建物を出る。
途端にひゅっと冷たい風に頬を撫でられ、咄嗟に身をすくめた。
上着も羽織らずにどこ行ったんだか。などと呆れつつ、アダムは頭の中で坂道を上らなければ辿り着けないニキの家、頂上広場に大きく×印をつける。
ほかに思い当たる場所といえば、アーケード街かパオリ広場の噴水横のベンチ、それから最南端に位置する森の奥のフェルメール邸だろうか。もしくは、日雇いの仕事に出掛けたニコラスの元へでも向かったか。
パオリ学園から町の中央に位置するコルテ駅までは、歩いて二十分ほどで到着する。
駅舎の目の前にある広々としたロータリーを通り越したところでアダムは歩くペースを緩め、立派なアーケード街に足を踏み入れた。
アーチ状のガラス天井から日の光が降り注ぐため、中はさほど暗くない。
リストランテやバール、ブティック、床屋、菓子店。あらゆる店がひしめきあうその通りの中ほどに、目星をつけていたその店はある。
――〈手芸店〉。
独り身の老婆が慎ましく営む小さな店だ。そこの店主とニノンは今でも交流があると聞く。アダム、ルカ、ニノンの三人でハロウィン用のお菓子の買い出しに出かけたときに、ニノンが立ち寄りたがった店でもある。
アダムは深緑色の屋根看板の前で立ち止まり、そっとドアノブに手をかけた――そのとき、前方でガラガランとドアベルが鳴った。
手芸店の数軒先にあるパレット型の看板の店、〈グレコ画材店〉だ。中から出てきた人物を目にして、アダムは思わず「あっ」と声を出す。
赤いポンチョのフードをすっぽりと被った黄色いワンピース。
まさしく探していた少女だった。
ニノン――名を呼ぶ前に、中から出てきた少女のほうが先に「あれ!?」と驚いて駆け寄ってくる。
「アダム? 買い出しにきたの?」
「………………んん?」
想像していた様子と一八〇度違う反応に、アダムの頭はすっかり混乱していた。
フードの下から覗く瞳は憂いを帯びるどころか、「なぜここにいるのか」とこちらを問いただしている気すらする。
意中の相手が異性と仲睦まじく作業(なのかどうか詳細は分からないが)している現場を目の当たりにしてたまらずその場から逃げ出し、めそめそ涙など流しながらあてどなくその辺をさまよっている――そんな傷心中の少女はいったいどこへ?
「泣いてたんじゃなかったのかよ」
「誰が?」
「誰がって……あれだよほら、さっきルカとミーシャちゃんが――」
アダムの中で、なにかとんでもなく見当違いのことを言おうとしているのではないかという疑念が頭をもたげる。
結局言葉がまとまらず、「一人だとまた道に迷うだろ」と思ってもいない理由が口をついて出た。
真剣に話を聞いていたニノンは、それを聞いて「さすがにもう迷わないよ」と苦笑した。
「つかなんで画材屋にいたんだよ」
誤魔化すように呟いて、アダムは店のドアと同じ色に塗られた窓枠の向こうに目をやった。”グレコ爺さん”と学生たちに呼び慕われる老人が、カウンターの奥に座り、白髪髭だらけの口でパイプをふかしている。
「えっと……絵を探してて」
ニノンはやや迷ってからそう口にし、アーケード街を駅方面に向かって歩き出した。
「絵?」
と、アダムも横に並んでゆっくり歩きはじめる。
「そう。画材屋さんに行ったら置いてあるかなって」
「画材屋とバイヤーは一緒じゃねえぞ?」
「さっきお店でも言われた」
続けて、グレコ画材店の店主に「学園のホールに一枚飾られてるから行ってみてはどうか」と提案されたので、曖昧に笑って店を出てきたのだという。ウィルの肖像画ではダメらしい。あるいは、学園に戻りづらいだけなのかもしれないが。
「で、それ探してどうすんだよ」
「…………練習、しようと思ったの」
ニノンはお腹の前で指先をもじもじと合わせ、自信なさげに答える。絵を描くことに興味があったのか、と一瞬驚いたアダムだったが、すぐに彼女の言葉の意味するところを理解した。
絵を描きたいわけではない。
絵画からイメージを汲み取る力の練習をしたいのだ。
「あの魔法みたいなやつか」
「感受?」
「そう、それ。コントロールできるようにって?」
「うん。どうにかできないかなって、最近ずっと考えてたんだ。ほら、触れてないのに勝手にイメージが溢れちゃったりしてたから。そういうの、あんまり……気持ちいいものじゃないでしょ」
言ってからすぐに、ニノンは「迂闊に作品に近づけないのもめんどうだし」と笑って付け加えた。
彼女はいま、フェルメールの一件を思い出したのだろうか。
力の暴走は生理現象みたいなものだから、それほど気に病むこともないだろうにとアダムは思う。けれど、己の力だからこそ手綱を引き締めたいという気持ちも理解できる。
「まあ、そうだなあ」
肯定も否定もせず曖昧に頷けば、「でしょ!」と勢いよく握り拳が突き上げられた。
「いつもはね、流れてきたものをそのまま受け取っちゃうんだけど。それがそもそもダメなんだと思うんだよねっ」
「うお、なんだ急に」
あろうことか、ニノンはそのままの勢いで“自分が考えた最強の修行マニュアル”を語りはじめる。アダムは支離滅裂な提案を適当に聞き流しながら、ちらりとその横顔を盗み見た。
から元気、というわけではないが、教室で目の当たりにした事実が尾を引いていないわけでもなさそうだった。唐突に“修行”などと言い出したのだって、その裏には「自分だってもっと役に立てる」という思いが隠れているのではないか。
やっぱちょっと気にしてんじゃねえか、とアダムは心の中で嘆息した。
「――こんな感じなんだけど。アダム、どう思う?」
「パーフェクト。非の打ちどころなし」
「それ、聞いてないときの反応!」
はは、とアダムは鼻にしわを寄せて笑った。
「てかさあ、腹減ってね? メシ食いいこうぜ」
「ええ? でもルカたちがまだ……」
「俺たちがいたら余計ややこしくなるだけだって。邪魔しないのが一番」
「まぁ――うん、そうだよね」
未だに後ろ髪を引かれているらしいニノンの手首を掴み、アダムは無理やりアーケード街の外へと連れ出した。
途端、視界にわっと光が溢れて思わず目を細める。
コルシカ島に降り注ぐ、溢れんばかりの光の束。
白くまばゆいその先には、冴え冴えと晴れ渡った青空が広がっている。
*
いまだに遠慮がちなニノンを連れて、アダムは一軒のカフェにやってきた。噴水を中央に据えたガフォリ広場の一角に佇む、老舗のカフェレストランだ。
以前この前を通りすがった際、立て看板の前でニノンがふと立ち止まったのをアダムは覚えていた。この店を選んだのは、たった数秒のできごとを頭の中で拾い上げたからだ。
二人は深緑色のテント屋根を張ったテラス席に案内され、四角いテーブルに向かい合わせで座った。小さなテーブルの上にはメニュー表が一つだけ置いてある。
「今日は俺が奢ってやるからさ。なんでも好きなもん頼めよ」
アダムはメニュー表を覗き込みながらさらっと告げる。
看板メニューなのだろうか、メニュー表の一番上にはラザーニャの写真が大きく掲載されている。その下に、豆と野菜を煮込んだスープ、トリッパのトマト煮込み、山羊のチーズきのこたっぷりのキッシュなどが続く。
「共通のお財布から出すお金でしょ?」
「ちげーよ。俺のポケットマネーから出すんだよ」
「ふーん……?」
アダムはニノンの疑わしげな視線を受け流し、「なににしようかな〜」と独り言にしては大きすぎる声で呟いた。そういえば二人で食事をするのは初めてだな、なんて改まったことを考えながら。
「俺はやっぱラザーニャだな」
「ううう、おいしそう……」
餌を前に「待て」を指示された犬よろしく、ニノンの目がラザーニャの写真に釘付けになる。アダムは主人の影に気付かないふりをして、自らの手で豪快にページをめくった。
「あとこのティラミス。外の看板見てうまそうだったからさ、絶対頼むって決めてたんだよ」
「わかる……絶対おいしいよこれ」
魅惑的なメニュー表を前に、ニノンは必死に考えているようだった。二つの感情に押し潰され、悶え苦しむ表情を見て、アダムは吹き出しそうになった。そんなに悩むことか。
「デザート、セットにしたら安くなるってよ。ニノンお前どうする?」
やがてニノンは天秤に掛けていた一方をごくりと飲み込み、叫んだ。
「――食べる!!」
「声がでけえよ」
どうやら「待て」を諦めたらしい。ニノンがあまりにもうれしそうに笑うので、アダムの口元もすっかり緩んでしまった。
長くなったので2つに分けます。すみません。
次回、甘いだけじゃないアダムとニノンのデート回後半です。




