第138話 テオドール・マネの清々しき嫉妬
「………………近くないですか?」
ルカが驚いて振り向けば、スケッチブックを小脇に抱えたテオが教室の入り口で立ち尽くしていた。唇をわななかせ呟く少年の顔は、血の気が引いて真っ青だ。
その背後には、同じく青い顔をしたニノンと、きまりが悪そうに瞳を泳がせるアダムが並んで立っていた。
「ここに来るのはニノンだけだと思ってた」
ルカはなんとなく教室の入り口から目を逸らし、自らミーシャとの距離をとる。
「お二人が別室に移ったっていうから気になって見にきたんです。いけませんでした?」
そういう介入を避けたいから、あえて別室に移動したのだ。ルカが言葉にせず黙りこくっている間にも、テオはずかずかと遠慮なく教室に押し入ってくる。ミーシャは他人が乱入してきてからずっと、不機嫌な顔でだんまりを決め込んでいた。
「そんなことより、さっき何してたんですか? 近くなかったです? 近かったですよね? 顔、このへんにありませんでした? ねぇアダム君!」
振り返らず背後に同意を求めるテオに対して、アダムは明らかに「げ」という顔をした。
「俺を巻き込むなよ」
「依頼品の修復をしてたんじゃなかったんですか?」
自分から聞いておいて、テオはさらっとアダムの声を無視する。
「といいますか、そのマフラーってミーシャのですよね。なんであなたが巻いてるんですか?」
ルカは言い募られて、ちらっと自身の首元に視線を落とした。そういえば、ブラックウォッチ・タータンチェックのマフラーを巻いたままだ。
「貸してもらったんだ」
相手の勢いに気圧されながらそう答えると、テオは「へえ〜っ」とわざとらしい声を出した。
「貸してもらった。男女間でマフラーを。ははぁ、なるほど、なるほどなるほど」
「おーいテオ、あんまりしつこいと嫌がられるぞ」
諭すアダムの声は小声で、どこか遠慮がちだった。扉の向こうに立ったまま敷居をまたごうとせず、腰が引けている。
一方のテオはというと、受けた忠告を気にするどころか「ああそうだ!」となにか思いついたように目を輝かせる始末。
「ルカ君、僕にも教えてくださいよ」
屈託ない笑顔に嫌な予感を覚え、ルカはわずかに顎を引いた。
「なにを?」
「修復作業ですよ!」
「テオに?」
「はい!」
「……どうして?」
真面目に問うと、テオは「えーっ、いじわるだなぁ」とますます作り物めいた笑みを深くした。
「ミーシャに教えるくらいなんですから、ルカ君はそりゃあもうすごい技術をお持ちなんでしょう? 僕もいちおうパオリ学園の生徒ですし、そんなにすごい技術ならこの目で直に確かめたいんですよ。ね、僕とルカ君の仲じゃないですか」
「ごめん、記憶にない……」
ぶっ、と入り口でアダムが吹き出した。
一寸置いて、テオも余所ゆきの爽やかな声で笑う。
「あはは、辛辣ですねぇ。僕の片想いってわけですか。もう、そんな意地悪言わずに仲間に入れてくださいよ。一人が二人に増えたところで別に問題なくないですか? ぜひご教授願いたいなぁ、ルカ君に」
「ちょっと、いい加減にしなさいよ」
テオの執拗な要求に堪え兼ねたミーシャが、たまらずに抗議の声をあげる。
「どういうつもりなの?」
そこでようやく、テオの目がルカから逸れた。
「それは僕のセリフですよ。だっておかしいじゃないですか。僕だって知りたいんです。あなたが嘘までついて教えを乞いたがる理由が、一体なんなのか」
「――嘘?」
思わず訊き返したルカは、ハッとしてミーシャに顔を向けた。
彼女は何かを堪えるように足元に視線を落とす。頑なに誰とも目を合わせようとしないのは、指摘された内容が事実だからなのか?
「そうですよ」
代わりに、高揚した少年の声が堂々と応えた。
「彼女は才能の塊、修復の腕だって一級なんですから。下手くそだなんてただの嘘です」
そうしてテオは、慈愛に満ちた聖母のような微笑みを浮かべ、ミーシャにやわらかな声で語りかけた。
「やさしいあなたのことです、きっとルカ君に合わせてあげたんですよね? 彼のプライドを傷つけないようにって」
「あ、あたしはっ――」
動揺が彼女の声を震わせる。
テオは満足したように彼女から顔を背け、次にこちらへと向き直った。
「だからルカ君、勘違いしないでくださいね。ミーシャはあなたが何かを教えるような相手じゃないんです」
にこ、と口角がやわらかく持ち上がる。先ほどミーシャに向けたものとは打って変わって、形だけの、完全なる作り物の笑みだった。
「……違う」
「はい?」
「ミーシャは嘘なんかついてない」
だがルカは、狼狽える少女を背中に庇って毅然と立ち上がった。
テオは一瞬目を丸くしたが、すぐに表情を崩してあはは、と笑った。
「だから、違いますって」
「ミーシャの修復の腕が一級なのは確かだ。でも、事実と認識がいつだって一致してるわけじゃない」
「事実? 認識? なんの話ですか。へりくつですか?」
偽りの笑顔は、いまやニヤニヤといやらしいものに変わっている。
それでもルカは、顔色ひとつ変えずに言葉を続けた。
「知らない知識に出会えば、自分はまだまだだって思う。学ぶチャンスがあれば貪欲になることだってある。それを嘘とは言わない――だからミーシャは嘘なんかついてない」
睨むように見据えた相手の、蜂蜜色の眉毛がぴくりと動いて不快感を示した。
「へえ。随分とご自分の知識に自信があるようですね」
「おいテオ! もういいだろ」
業を煮やしたアダムが大きく一声発し、大股で近づいてテオの肩を掴んだ。蜂蜜色の眉が、今度こそはっきりとつり上がる。
「放してくださいよ。アダム君には関係ないでしょ?」
「関係あるっつの。ルカは俺の仲間だぞ。悪く言われて黙ってられるか」
「別に悪くなんて言ってないじゃないですか。ただ僕はルカ君が勘違いする前に忠告を――」
「いい加減にして!」
ガタン、と音のしたほうに一同の視線が集まる。椅子から立ち上がったミーシャは、机に片手を突いてテオを睨みつけていた。
「あたしがお願いしたの。ルカ君の修復してる姿を見て、技を学びたいと思ったから。全部あたしが言ったこと。ルカ君は関係ない」
え、と小さく呻く声が漏れて、テオの咽頭が静かに上下した。
「で、でもミーシャ、今まで誰のこともそんな風に相手にしなかったじゃないですか。そんな急に、変ですよ。どうしてルカ君なんですか?」
「いいでしょ別に。それこそテオには関係ない」
う、とひしゃげた声を漏らし、テオの顔が握りつぶしたように歪んだ。
「関係…………なくなんか、ないですよ」
一度ぐっと俯いたテオは、泣きそうな顔を再び上げて、声をふり絞った。
「関係なくなんかありません。だって僕らお互いに、この学園の中で一番長い付き合いじゃないですか。どうして心をひらく相手がルカ君なんですか。親しみを感じていたのは僕だけだったんですか? アトリエに通ってた頃はもっと話しかけてくれたじゃないですか。あの頃のミーシャはもっと……」
「黙って。それ以上聞きたくない」
緑色の瞳にじっとりと睨みつけられて、テオはぐっと唇を噛む。
「じきにこの町から出ていく人と、そんなに親しくなったってしょうがないじゃないですか。使い捨ての関係性に、果たして意味があるんですか?」
「うるさいなぁ」
ミーシャの口から、泥の中を這うような忌々しい声が漏れた。
深紅の髪のすき間から、鮮やかな緑色の瞳が鋭い光を宿して目の前の少年を睨みつける。
「外野がごちゃごちゃ口出さないで。せっかく二人で作業してたのに……邪魔しないでよ…………さっさと、出てってよ……!」
ゆっくりと、だが言葉を一つ一つ叩き落すような言い方だった。
教室が一気に静まり返る。金縛りにあったように、誰もぴくりとも動けない。
「い――行こう、テオ君」
やがて最初に反応を示したのはニノンだった。
ほらほらっと急かすニノンに、けれどテオは「どうしてです?」と侮蔑の眼差しを向ける。
「ニノンさんだってさっきは乗り気だったじゃないですか」
「乗り気なんかじゃないよ!?」
雷に打たれたような声で叫び、ニノンはぶんぶんと両手を振った。
「いいや、乗り気でしたね。二人が一緒にいるって聞いて真っ先に駆け出したのはニノンさんじゃないですか」
「なに言ってるの!? テオ君のほうが早かったでしょ! そうだよね、アダム!」
「えっ、あー……ああ、うん。そうだっけな」
瞳を泳がせるアダムに、つんとそっぽを向くテオ。二人を交互に見やりながら、ニノンは悔しげなうめき声をあげた。
「ううっ……テオ君さいてーだよ。私は作業の邪魔するのには反対だもん。テオ君と一緒にしないでよね! 悪魔! キャベツ!」
「あっ、おいニノン待てって!」
逃げるように教室を飛び出したニノンを追って、アダムも慌てて教室から出ていく。
バタンと扉が閉まり、教室に再び重たい沈黙が落ちた。立ち尽くすミーシャを挟み、ルカとテオは対立するように立っている。
「ミーシャ、今のは言い過ぎだ」
うつむくミーシャに、ルカは一言告げる。
すると、彼女を庇うようにテオが間に割って入ってきた。
「親しい人間ヅラしないでください。出会って間もないあなたに何がわかるっていうんですか? ルカ君、ミーシャのことなにも知らないじゃないですか」
「知ってなきゃいけないのか」
「当たり前じゃないですか。近付く資格、ありませんよ」
「じゃあ、ひとつ知ってることがある」
「は?」
間近にあるテオの顔に露骨な苛立ちが表れた。
「俺は、ミーシャが絵を大切に思う人間だってことを知ってる」
テオの背後で、鮮やかな緑色の瞳が水の中に落とされたガラス玉のように揺らいだ。
「はぁ? そんなの僕だって知ってますけど」
「だったら作業の邪魔をしないでほしい」
「そっ、それとこれとは話が別です。そもそも邪魔なんてしてませんし! とんだ言い掛かりですよ――――ミーシャ、どこに!?」
叫ぶテオと驚くルカの身体を押し退けて、ミーシャは逃げるように教室から出ていった。脇を通り過ぎるとき、彼女が腕で目元を隠しているのが見えた気がした。
「ミ……ミーシャ……」
バタンと閉まった扉に向かって、テオの片腕が虚しく伸びる。
やがて届かなかったその手を引っ込めると、今度はくるりとこちらを振り返り、一気に距離を詰めてきた。
「どうしてくれるんですか!」
「わっ――」
勢いよく胸ぐらを掴まれ、がくがくと左右に揺さぶられる。その勢いに反して、テオは半べそをかいていた。
「ルカ君のせいでミーシャが怒っちゃったじゃないですか!」
どちらかというとテオのせいでは、と思ったが、ルカは口には出さずにのみこんだ。これ以上刺激すればテオの涙腺が決壊してしまいそうだったからだ。
「…………付き合ってるんですか」
「え?」
「恋人同士なんですかって聞いてるんですこの鈍感クソ野郎!」
耳元で叫ばれて、ルカは「うっ」と耳を押さえた。音は物理だとはよく言ったものだ。
「やっぱり、既にそういう関係なんじゃないですか! 嘘つきはあんたですよ散々“興味な〜い”みたいな顔してしっかり手出してるんですからね! いやー余計タチ悪い。もうね害虫ですよ害虫。害虫は駆除しなきゃですよね!?」
「違うっ。なんだ、そういうって。意味がわからない」
烈火のごとく怒りを露わにしていた少年は、その言葉を聞いた途端ふっと真顔に戻り、じっとこちらの眼を覗き込んできた。
「…………本当に? 本当に違うんですね?」
「だから、違うって言ってるだろ。あとでミーシャに聞いてみればわかる」
ルカは胸元の縋る手をやんわりと振り払った。テオの顔には、見るからに安堵した様子と、なにか納得のいかない感情がない混ぜになって浮かんでいる。これは触れないほうがいいやつだ、と本能が告げている。
「二人は知り合いだったんだな」
ルカはヨレてしまった服のしわを伸ばしつつ、当たり障りのない話題を選んで尋ねた。
「そうですよ」
と、テオが唇を尖らせて呟く。
「ルカ君と違って小さい頃からミーシャの隣にいたんです、僕は。絵画のことを共に学んできた仲間でもありました。なのに、出会って数週間のあなたにどうしてそんなに、彼女は……」
テオは言葉を詰まらせた。またしても外れの話題を出してしまった――と、ルカが後悔したのも束の間、今度はべったりと身体に縋りつかれた。思わず「ぅゎ」と声が漏れる。
「僕だって真面目にやれば修復のひとつやふたつ、パパッと捌けますよ。絵の成績も上位だし、彼女の興味を惹く絵だって少しは描けていたはずなんです!」
「テオ」
「顔だってルカ君に負けてないですよね? 一般的に見てかわいい方だと思いません?」
「服がのびる」
「身長だって同じくらいじゃないですか。会話するときはいつも僕から声を掛けるんですよ。なのにミーシャ、ルカ君には自分から話しかけるじゃないですか。なんですかそれ興味津々すぎでしょ! いったい僕のどこがダメなんですかあ!」
「俺に言われても……」
もはや酒癖の悪い酔っ払いである。面倒な絡みが始まったことで、ルカの心境は“逃げモード”に振り切っていた。
うんざりしながら縋りつくテオを引き剥がそうと身をよじる。そのとき、机に置いてあったスケッチブックに肘が当たった。
「あ」
「僕の……ッ」
それはバラバラとページを開きながら床に落下した。
ごめん、と小さく謝ってルカは素早く背をかがめる。スケッチブックを拾おうと手を伸ばし――ふと、その手が止まる。視線は、見開かれたページにまっすぐ向いていた。
「これ――」
そこには、旗を片手に後ろを振り返り群衆を鼓舞する女神の姿が描かれていた。
一方、傷心(?)のニノンを追いかけたアダム。なぜか二人でデートすることになって……。
次回、「139話 君は色相環の向こう側」の予定です。




