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コルシカの修復家  作者: さかな
12章 世界の終わりと夜の虹

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第137話 ミーシャは何者?

「僕と彼女は昔、同じアトリエで絵を習っていたんです」


 テオの話を聞きながら、アダムとニノンはパオリ学園へと向かう坂道を下っていた。陽が差せば暖かいが、吹き抜ける風は肌に滲みる。そんな天候だった。


「それって、カヴィロさんたちが経営していた〈アトリエ・目覚まし時計(レヴェイユ)〉?」

「ええ、そうです。僕らはもともとパリの出身なので」

「そうなんだ」

「といいますか、僕の両親は僕をこのアトリエに通わせるためにパリに引っ越したんですよ」


 アダムを真ん中に挟んで、テオとニノンは口々に喋る。今はもう看板を下ろしてしまったが、パリにはアダムの師――カヴィロとシャルルの経営する人気のアトリエがあった。アトリエというのは、端的に言うと絵画教室のことだ。エリオと仲違いした後に、二人がパリでひらいたものである。

 アダムがテオと親しくなったのも、彼が師のアトリエに通っていた生徒だと知ったことがきっかけだった。


「その当時僕は女の子みたいに華奢でチビで、おまけに田舎の訛りが強かったこともあって、アトリエメイトの一部からしょっちゅうからかわれてたんですよね」

「テオ君が?」


 アダムとニノンは思わず顔を見合わせた。からかわれる側に立つ彼の姿というのが、どうにも想像しづらい。


「都会の洗礼ですよ。田舎者があそこに移り住むっていうのは、動物園のシマウマをサバンナに放り込むようなものなんです」

「ええ……都会って怖いなあ」

「そんな奴ら、ぶん殴ってやりゃいいのに」


 アダムは握りこぶしをつくり、ぶんっとひと振りした。


「テオ君はアダムみたいにガサツじゃないんだよ」

「ああ? 正当防衛だろ?」


 ふふ、とテオは昔を思い出して笑みを零した。


「ミーシャもそうやって堂々としていましたね」

「アトリエ時代の話か?」


 アダムが訊くと、テオは待ち構えていたように頷いた。


「ある日、アトリエの空きスペースでいつものように僕がなじられていると、偶然ミーシャがやってきたんです。彼女は見て見ぬ振りをするどころか、真っ直ぐこちらへやってきて、アトリエメイトたちに一喝してくれたんです――『うるさい、静かにして』って!」


 不機嫌に歪む美しい顔と、気怠く唸る声に、男子たちは思わず謝罪してしまうほどだったという。

 恍惚と語るテオの隣で、ニノンは怪訝な顔のまま口をひらいた。


「それ、単純にうるさ――もごっ」

「へーかっこいいじゃん」


 アダムは流れるような動作でニノンの口を手で覆い、限りなく正解に近い憶測を封じ込めた。

 ルカやニノンから聞き知った彼女の性格からするに、おそらくいじめっこたちの声が本当にうるさかったのだろう。作業の邪魔になるから注意したに過ぎないのかもしれない。

 だが、世の中知らなくていいこともある。


「彼女の才能はアトリエの中でも頭ひとつ分、いやそれ以上に飛び抜けていました。天才だったんです、先生たちも一目置くほどに。いじめっこたちも彼女には頭が上がらなかったようですね」


 テオは腕を組み、しみじみ言った。

 アダムも「ふうん」と唸ると、同じ顔をして顎をさすった。


「そこからテオは頭角を現して、頂点にのぼり詰めていったんだな」

「話を捏造しないでください。まぁ、のぼり詰めていきましたけど」

「あってるじゃねーかよ」


 テオの目標が明確に変わったのはそこからだったという。

 なんとなくアトリエに通ってスキルを習得することから、ミーシャの隣に立っても恥ずかしくない男になることへ。


 絵画にしか興味のない彼女の視界になんとか入り込みたくて、死に物狂いで勉強をした。見た目にも気を配り、訛りを消すために丁寧な言葉遣いを学んだ。好みの画風をそれとなく調べ、似たような絵を練習したりもした。

 それでも彼女はなかなか振り向いてくれなかった。

 月日はあっという間に過ぎ――やがて二人は画家の登竜門であるパオリ学園への入学を果たしたのだった。


「まさかお前、ミーシャちゃんの後を追ってパオリ学園に……?」

「テオ君、それってストーカーだよ」

「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ、お二人とも!」


 二人が冷ややかな視線を送ると、テオは表情を崩して否定した。が、すぐに言い訳めいたこと口にしはじめる。


「まぁたしかに、僕は彼女を目標にはしてましたよ。してましたけど、そもそも同じ道を志すなら進学先が被ることはよくありますし。なんならパオリ学園はパリでも有名ですからね!」

「有名ってなんだよ?」


 アダムが何気なく問うと、テオは訝しむように眉をひそめた。


「あなたたち、ご存知ないのですか?」

「だからなにをだよ」

「パオリ学園が、画家を目指す人たちのなかではかなり“人気の高い学び舎”だってことをです。なんていったってエネルギー総還元量世界一の巨匠、エリオ・グランヴィルの出身校ですからね」

「あー」


 師匠の名を聞いて、そういうことかとアダムは納得した。

 高度な教育とは無縁の人生を送ってきたアダムにとって、巷に流れるそういった話題にもまた縁がないのだ。


「まぁ、最近めっきり彼の活躍を見かけないのが残念ではありますが……」

「誰にだって休みたいときくらいあるだろ」


 テオが残念そうに言うので、アダムは脊椎反射でつい素っ気ない声を出した。

 ぱちくりと目を瞬きながら、テオはしばらくこちらを見つめていた。だがすぐに、「それもそうですね」と頷き返す。


「アダム君のそういうところ、けっこう好きですよ」

「そりゃあ嬉しいな」


 アダムは唇を尖らせて答えつつ、そういうところってなんだよ、と内心独りごちる。

 正義心から言っているわけではない。師匠が選んだ道を、本人以外が否定することは許さない。ただそれだけの話である。アダムが願うのは、師匠と師を囲む人たちの日常が穏やかであるように、ということだけだ。


「同学の士であるカヴィロ先生やシャルル先生をはじめ、このパオリ学園は著名人を多数輩出しているんです」

「へえー、みんな優秀なんだね」


 ニノンの視線が、葉を落としみすぼらしくなりはじめたイチョウ並木の先を向いた。地面はすっかり黄色い絨毯で覆われている。緩やかな坂道の続く先に、煉瓦造りの立派な建物が見えてきた。


「その中でもミーシャは群を抜いて優秀なんですよ。一般人とは格が違います」

「はいはい、わかったよ。ミーシャちゃんはお前の推しだもんな…………ん?」


 さりげなく胸を張る少年に呆れた視線を投げていたアダムは、ふとひっかかりを覚えて立ち止まった。

 黄色い落ち葉が、靴底の裏でくしゅっと乾いた音を立てる。

 イチョウ並木を通りすがる生徒の数はこの時間でもまばらだ。月曜日は授業の始まりが遅いからである。


「どうしたの、アダム?」


 ニノンが進めかけた足をぴたりと止めて振り返る。


「いや……そういえば今朝ミーシャちゃん、修復が苦手だから(・・・・・・・・)教えてもらうんだって言ってたんだよ。ルカが先生で、あの子が生徒。有名なアトリエで一目置かれるような子が、ルカにいったい何を教わるんだろうって思ってさ」


「――苦手(・・)?」


 なにか思うところがあったのか、テオの表情は途端に険しくなった。


「それ、本人が言ってたんですか?」

「ああ? そうだけど」


 問いの意図をはかりかねて、アダムは眉をひそめる。するとテオはさらに顔をしかめ、自身の顎先を指でさすりながら小さく唸った。


「おかしいですね。修復が苦手なんて、そんなはずありません」

「は? なんで?」

「彼女は絵画科の首席ですよ」

「首席!?」


 驚いた声が二人分重なる。枝にぶら下がったイチョウの葉が、はらりと一枚落ちた。


「ええ、そうです。もちろん修復の授業でも優秀さは健在でしたよ。苦手どころか、それ一本で食べていけるくらいには確かな腕を持っているはずです」

「それって……」

「ミーシャちゃんが嘘ついてる、ってことか?」


 言葉にした途端、なにかとてつもなく嫌な予感が喉の奥でぐうっと膨らんだ。


「さぁ、どうでしょう」


 テオは肩をすくめたが、その目には確信の色が浮かんでいた。懐疑的な視線が向いた先には、静かに佇む学園の正門があった。


「…………だったら、あの子の目的はいったい何なんだ?」


 おそるおそる呟くと、引き攣った顔のニノンと目が合った。きっと自分もいま同じ顔をしているのだろう、とアダムは思った。ごくりと揃って生唾をのみこんで、前方に視線を移す。

 坂道の両端に、寒々しい装いの木々が続いている。剥きだしになった無数の枝が空へと伸びる姿は、まるで地面から突きでた不気味な手のように見えた。



* Luca



「金箔の洗浄か。授業では習わなかったな。その溶剤ってオリジナル?」

「うん。濃度が少しでも濃いと金箔が溶けるから、調節がけっこう難しくて」

「へぇ……繊細なんだね……」


 ミーシャはしばらく溶剤の原料瓶をいくつか見比べて、組成についてあれこれ尋ねてきた。そうしてひとしきり訊き終えると、


「手伝おうか?」


 と、机に置いてあった麺棒を手に取った。

 長方形の机を背にイーゼルに乗せられたキャンバスと向き合っていたルカは、首だけを捻って振り返る。


「あ、もちろんシビアな部分は触らないよ」

 こちらがなにか答える前にミーシャはさらに言葉を被せてきた。

「あたしにもできそうな――たとえば金箔の貼られていない人物の部分とか。そういうのだったら、力になれると思うんだけど」


 ルカは一瞬考えたのち、すぐに頷いて椅子を右にずらした。


「わかった。じゃあ、頼む」

「……了解!」


 ミーシャは軽く跳ねるようにやってきて、隣にすとんと腰を下ろした。スペースが限られているので、自身の左半身と彼女の右半身はどうしても擦れ合ってしまう。

 だが、修復作業に入ってしまえば狭さなど関係ない。二人はしばし無言で手元の作業に没頭した。


 小さな窓からぼんやりと差し込む光が、徐々に場所を移ろっていく。

 秒針が時を刻む音すら存在しない。ここの空気はどこか故郷の工房に似ている。だからだろうか、ルカは最近のどの自分よりも腕の調子がいいように感じた。


 ガラス瓶の中の透明の溶剤に綿棒を浸す。

 くすぶる黄金色の表面を、トン、トン、と擦る。

 赤子の耳を掃除するように、優しく、丁寧に。

 擦って、浸し、擦って、浸し……。



 どれくらい経っただろうか。

 ルカは目の前のキャンバスから意識を引き剥がし、深く息を吐き出した。

 画面の右上部にあたる、広範囲に張り込まれた金箔の洗浄がひと段落ついたころだった。隣を見やると、ミーシャもちょうど女の衣服の裾を綺麗にし終わるところだった。


 ルカの視線はその繊細な手先の動きに釘づけになる。

 フェルメールから預かった時には黒ずんでいてよくわからなかった袖のふちに、細やかな幾何学模様が蘇っていた。


「これがいまいち……?」

「――え?」


 作業する手を止め、ミーシャは顔を上げた。

 呟くつもりなどなかったのに、知らず声が漏れてしまったらしい。


「全然そんなことない」

「……そう? ありがと」


 ミーシャは顔を背けるように椅子から立ち上がると、先っぽの黒ずんだ綿棒をゴミ箱に放り捨てた。それから肩越しに振り返り、にこりと微笑む。


「ちょっと休憩しない?」


 ルカが頷くのも待たずに、彼女は机に放置したままの鞄を取りにいく。


「カフェ・ラッテしかないけどいい?」

「ああ、うん。ありがとう」


 ミーシャは赤色のタンブラーと再生紙の紙コップ、小さな紙袋を抱えて戻ってきた。


「随分用意がいいんだな」

「集中力が切れたら甘いものがいいんだよ。脳が活性化するからね。覚えておいたらいいよ。ルカ君ってどうせ、作業はじめたらろくに食事も摂らないタイプでしょ?」


 そう言って、ミーシャは紙コップになみなみとカフェ・ラッテを注いでいく。


「否定はしない」

「あはは、しないんだ。気持ちはわかるよ」

「ミーシャだってそのタイプだろ」

「失礼だな。あたしはちゃんと食べるタイプだよ」


 ミーシャは笑いながらそう返し、今度は紙袋をひっくり返しはじめた。中からキャンディのような形をしたチョコレートがたくさん出てくる。


「これ、よく食べてるチョコレート。あたしのおすすめはヘーゼルナッツのプラリネがたっぷり入ってるやつ。ルカ君、甘いの得意?」

「あんまり」

「じゃあダークがいいかな。ミントもいいかも。頭がすっきりするから」


 ミーシャは次々とチョコレートを指差し、ルカにあいそうな味をより分けていく。分け終えたところで、二人は温かいカフェ・ラッテを啜りながらチョコレートをかじった。


「ミーシャは修復が上手だな」

「そうかな。自分じゃよくわかんないよ」

「丁寧だし、なんていうか、作業の線引きがうまいんだ。ここまでは手を加えるけど、ここから先はやめておこうっていう」


 真面目に伝えたら、「あんまり褒めないで」と怒られた。ルカは頭に浮かんだ“?”マークをカフェ・ラッテとともに流し込みつつ、彼女が修復家仲間になった未来に少しだけ思いを馳せた。


「この学園を卒業したら、ミーシャはどの道に進むかもう決めてるのか?」

「…………んー、なんだろう。まだちゃんとは決めてないよ。そろそろ真面目に考えなきゃね、将来のこと」


 ミーシャはお気に入りだというプラリネノワゼットのチョコレートを無造作に口へ放り込み、事務的に咀嚼した。それから湯気の立つカフェ・ラッテをひと口啜り、何気ない口調でぽつりと尋ねた。


「ルカ君さ――ダーフェンって画家、知ってる?」


 黄緑色の包み紙から黒っぽいチョコレートをつまみ上げていたルカは、そこで手を止めてしばらく考え込んだ。

 ダーフェン、と頭の中で反芻してみる。


「いや、知らないな」


 小さくかぶりを振ると、疑うような視線が飛んできた。


「…………本当に?」

「えっと……うん、たぶん。そんなに有名な画家なのか?」


 尋ねざまに横を向けば、思った以上にミーシャの顔が近くにあった。ルカはパッと前に向き直る。やはりこの部屋は、二人でいるには少々狭苦しい。


「あたしの好きな画家ってだけで、有名なわけじゃないと思う。博識なルカ君なら知ってるかなって。そっか、知らないか」


 ミーシャは肩をそっとすくめた。


「どんな絵を描く画家なんだ?」

「お人形みたいにかわいい女の子の絵。それしか知らないんだけどね。昔あたしの家に一枚だけあったんだ。描き手のやさしい眼差しが映り込んだような、やわらかい色彩が特徴的でね。青いワンピースを着た女の子が、物陰に隠れてこっちを見てるの。一緒に遊ぼうって言っているような、楽しげな目でね。人物画なのに、不思議と五月の日差しのような移ろう光を感じる絵だった。昔一度だけ、コルシカ島に住んでいる修復家になおしてもらったっけな。とても綺麗に仕立ててもらって……」


 記憶の中の絵画に目を眇めながら、ミーシャは一枚の絵画について語る。

 その横顔を眺めながら、やはりミーシャと自分は根っこの部分が似ている気がするとルカは思うのだった。絵画に向ける眼差しに親近感を覚えるのも、きっと同じ理由なのだろう。


「大切なんだな、その絵が」

「…………うん」


 それまで弾んでいた声が静けさを取り戻す。ミーシャは視線を下げて頷いた。


「あたしの唯一の友だちだったからね」


 一瞬、作りもののような瞳がルカを射抜き――しかしすぐにそれは引っ込んでしまった。ミーシャはカップの中身をすべてごくりと飲み干すと、画家の話題を潔く切り上げた。


「他人の絵画を触るのって、あたし、実はすごく苦手。自分の一筆がこの絵のポテンシャルを潰すかもって考えたらさ……なんだか怖くない(・・・・)? そんなこと感じるのは、おかしいかもしれないけど」

「――おかしくないよ」

「ルカ君?」


 気がつけば、ルカは食らいつくように声を出していた。自分でも驚くくらいの勢いがあった。その珍しい反応に気圧されたのか、ミーシャが驚いたように目を瞬かせている。


「俺だって作業をはじめるときはいつもそうだ。不安も、恐怖も感じるよ」

「……そうなの?」


 ルカは強く頷く。


道野修復工房(うち)のタブーは、画家の聖域に踏み込むことなんだ。でも、元の姿に戻そうと思ったら、見えない線のギリギリまで近づくこともしなくちゃいけない。それは真夜中の山道を明かりもなしに歩くのと同じくらい怖いことだと思う」


 すべては幼い頃から教わってきた言葉だ。祖父、または父から、あるいは同じ工房で働いていたクロード・ゴーギャンから。


「だけど、恐怖心は振り払える。身につけた技術の数だけ、修復家は強くなれるんだ」


 しばらくこちらの言葉を咀嚼するように黙り込んでいたミーシャは、ややあって面を上げた。そして、唐突にこんなことを問うた。


「踏み込むことでより多くのエネルギーが得られるとしたら? ルカ君は描き換えないの?」

「しないよ、そんなこと」


 迷わず言いきると、ミーシャの顔にわずかな動揺が広がった。


「確実に還元率が増えるってわかってても? それでルカ君になんのメリットがあるっていうの」

「俺は別にエネルギーに換えたいから修復してるわけじゃない。傷ついた絵画を元の姿に戻したいだけなんだ」


 疑うような、あるいは海よりも深い青の奥に潜む真意を探るような、鋭い眼差しがルカを射抜く。


「作業をはじめるときに怖さを感じるのは、自分が境界線を踏み越えて、その絵を台無しにするかもしれないと思うからだ」


 ミーシャだって同じなのではないのか?

 絵画を元の姿に戻すことこそが修復家の使命だと、そう思うからこそ恐怖心を抱くのではないのか。


 ルカが見据えた先で、ミーシャの緑色の瞳が震えた。


「ルカ君は――今まで手をつけてきた絵画を一度も蔑ろにしたことがないって、自信を持って言える?」

「それは……」


 ルカは言葉に詰まった。

 自信はない。だがその問いかけは、人生で一度も嘘をついたことがないか、という愚問と同じだとも思えた。


「失敗をしたことはある。数えきれないくらい何度もある。でも、志を変えたこと(・・・・・・・)は一度もない(・・・・・・)。絵画のことを一番に考える。それが道野(うち)の修復工房の方針だから」

「………………、……そう」


 ミーシャはそれだけを搾り出すと、下唇をぎゅっと噛んで俯いた。


「ミーシャは自分の力をもっと客観的に把握したらいいと思う。……修復家にはならないのか?」


 あわよくばという期待が、つい口をついて出てしまう。

 似たような感性を持ち、互いを高め合える。そんな存在はルカにとって新鮮だったのだ。

 しかし――。


「私は、修復家にはならないよ」


 ミーシャは、伸ばされた手を振り払うように吐き捨てた。嫌悪感すら滲むその声に、ルカは思わず息を詰める。「そうか」と口の中で答えてみたが、それが言葉になっていたかはわからない。

 ふいに、黙りこくったままのルカの右頬に白くてか細い指先が伸ばされた。


「なに――」

「頬に洗浄液の汚れがついてる」


 あとで洗うからいい、と断る間もなく、ミーシャは身を乗り出した。ルカの頬に影が落ちる。


「取ってあげる。じっとして」


 ミーシャはポケットからハンカチを取りだし、ルカの頬をそっとぬぐった。

 洗いたてのサボンの香りが鼻先を掠める。ルカは半ば無意識的に息をとめた。窓から差し込んだ光が伏し目がちな彼女のまつ毛に降り注ぎ、きら、きら、と瞬く。

 何度も頬を拭う彼女の手つきは、さながら絵画をやさしく洗浄する修復家のそれだ。少なくともルカにはそう感じられた。

 ふ、とその手が止まり、ミーシャはぽつりと呟く。


「ルカ君、どうして修復家になったの?」

「…………え?」


 その声があまりにも悲しそうだったから、ルカはまるで自分が責められているような気になった。

 吐息がかかりそうなほど近くで二人は見つめあう――そのとき、背後でガチャッと扉の開く音がした。

次回は「テオドール・マネの清々しき嫉妬」です。(出オチ感)

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― 新着の感想 ―
[一言]  テオに対してすこしとっつきやすくなったかなぁと思いはじめた矢先、コメディのにおいが漂う終わり方で、テオがまた面倒な奴になりそうですね^^
[一言] 完璧なる前振り!(わくわく) 絵に携わるものとして、彼女も悩んでるのだろうなぁ。
[良い点] 次回予告!笑 ち、違うんです、テオくん! これはそういうことじゃないんですよ!(誰に言い訳を) いや、でも単にルカくん狙いなのかと思ってたら、修復家であるということがなにやら彼女の中で大き…
感想一覧
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