第135話 弟子志願者
月曜日の早朝。
人気のない教室は静寂に包まれていた。太陽はまだ昇ったばかりで、窓辺からは白とも灰色ともつかない光が差し込んでいる。
静まり返った空間に、刷毛を動かす微かな音だけが響く。そこに時おり、洗浄液の入ったガラス瓶を机に置くカツンと乾いた音や、綿棒でキャンバスをクリーニングするときの袖の衣擦れ音が混じる。それから壁掛け時計の秒針がカチカチと時を刻む音。人の声はない。呼吸音も、無音に近い。
午前七時二十五分。
ルカはイーゼルに立て掛けた依頼品と向き合い、かれこれもう一時間近く作業に没頭していた。あともう少しでキリよく一部分の洗浄が終わる、というところで、後方から扉の開く音がした。
「おはよう、ルカ君」
ルカが振り返ると、その人物はマフラーを外しながら教室に入ってくるところだった。燃えるような赤髪の少女、アルテミシア――ミーシャ。ルカが学園内で唯一挨拶以外の言葉を交わす相手でもある。
「おはよう。はやいな」
「そっちこそ」
名残惜しさを感じつつ、ルカはキャンバスに布を掛けた。教室での作業はここまでになりそうだ。
「ルカ君っていつもこんなに早くから学園に来てるの? そんな薄着で寒くない?」
こちらに改めて焦点を合わせたミーシャは、不思議な生き物でも目撃したかのように眉根を寄せた。
ルカの服装は、薄手の黒い長袖にベージュのシャツを合わせたいつものスタイルだ。対してミーシャはウールのカーディガンを羽織っている。この辺りはコルシカ島の中でも特に寒暖差の激しい地域である。油断していると朝晩は冬のような冷え込みになる。この季節に薄手の長袖だけでは確かに心許ない。
ルカは申し訳程度に自身の両腕を手のひらで一、二度摩った。
「上着着たら?」
「厚着すると作業しにくいから」
「ああ、そうだよね。わかる」
ミーシャは頷きつつ、適当な机に荷物を下ろした。それから近くの作業用イーゼルをひとつ確保すると、足速にこちらへとやってくる。なんだろう、と思う間もなく、彼女は手に持っていたブラックウォッチ・タータンチェックのマフラーを何故かルカの首に巻き付けはじめる。
「……? これ、ミーシャのだろ」
ぬくもりの残る毛織の生地から、桃のような甘い香りがする。ルカが小首を傾げると、ミーシャは形のいい唇を持ち上げてくすりと笑った。
「首元だけでも暖めるといいらしいよ。まだもう少し作業するんでしょ。終わるまで貸してあげるよ」
「いや、今日はもうここでは作業しないから」
「どうして?」
ルカがマフラーを外そうとすると、ミーシャが手でやんわりそれを制した。
「そういう取り決めなんだ。あんまり人の目に触れてほしくないって、依頼主が」
「それで早朝から作業してたんだ。へぇ。ねえこれ、作業はけっこう進んでるの?」
ルカの肩の上から、人形のように小さな顔がひょいっとキャンバスを覗き込む。
「まだ全然。今朝始めたばっかりだから」
「なら良かった」
彼女は脈絡なく呟いて、無邪気に笑った。
「一度、ルカ君の修復作業をはじめから見てみたかったから。ちょうどいいね」
「話、聞いてなかったのか?」
訝しげに眉をひそめてルカが言い返すと、ミーシャは悪びれる様子もなく「聞いてたよ」と言った。
「あんまり見られたくない、でしょ。一人くらいならいいんじゃない。たとえば修復の助手をする人間がいたとしたら、その人だって依頼品は目にするわけだし。それに、作業してるところ見せてくれるって約束したよね、この間」
背後からぐるりとルカの前に回り込んだミーシャは、少し背を屈めて目線を合わせてくると「忘れちゃった?」と寂しげに囁いた。ルカは小さく呻きつつ、わずかに上体を後ろに反らす。
「確かにそれは、言ったけど」
いつでも作業を見に来たらいい。もっと話をしよう。
ハロウィンの夜、大焚火の前でそんなやりとりをしたのは間違いない。むしろ誘ったのはこちらである。修復や絵画のことを対等に語り合える仲間ができたようで、嬉しかったのだ。
だが今は、タイミングが悪い。
「やっぱり駄目だ。また別のタイミングで……」
「別のタイミングっていつ? それ、本当に存在する?」
ミーシャは語気を強めて言い募った。
「ルカ君、もうすぐしたらこの町を出ていくんでしょ」
「うん、まぁ」
「だったら、その絵がこの町で修復する最後の作品なんじゃないの? あたしがルカ君の修復作業を見られるチャンスもこれが最後ってこと。そうでしょ」
覆い被さるように迫る彼女の体の節々から、焦りとも苛立ちとも言えぬ感情がほとばしっている。
「近いよ、ミーシャ」
「ごめん。でも退かない」
「どうしてそんなに必死になって……」
ルカの言葉を遮るように、ミーシャの腕がルカの肩を掴んだ。差し迫る緑色の双眸が、手負いの狩人がやっとのことで獲物を追い詰めた瞬間のように力強く光る。そして彼女は赤い唇をそっとルカの耳元に寄せ、吐息を吐くように囁いた。
「二人きりになれる場所、あたしが用意してあげよっか」
「え……」
「そこでなら見学していいよね。日中も学園で作業できるし、ルカ君にとってもいい話だと思う」
世の中には美しい造形というものがある。
間近に迫った彼女の口元が嘘みたいに美しく笑むのを見て、ルカはそんな場違いなことを考えていた。何度も視線でその輪郭をなぞりたくなるような曲線美。思わず筆をとりたくなるほどの、計算されたバランスで配置されたパーツ。焦りに歪められてなお、彼女の顔は整っている。
「ううん、見るだけじゃ足りないよ――あたしを弟子にして、ルカ君」
「弟子……え、弟子?」
ルカは目を瞬いて反芻した。
聞き間違いかと思ったが、彼女は大きく頷いて肯定した。
「この間日本人の女の子に修復の作業を教えてたでしょ」
「ああ――」
善哉カナコのことだ。
「本当はずっと羨ましかった。あたし、修復の腕、いまいちだから」
「えっと……たぶん、いまいちのレベルが違うと思うけど」
パオリ学園で授業を受けている以上、彼女の知識や技術は一定の水準を超えているはずだ。カナコの腕の酷さを知る由もない彼女にとっては、己の腕をいまいちだと表現するのも致し方ないのかもしれないが。
「そもそも善哉さんは弟子じゃない。ただ一緒に作業してただけだ。普段の作業なら見てもらって構わないし、聞かれたことには答える。でも、弟子っていうのはちょっと」
突飛な申し出を断ってはみたが、ミーシャはなおも食い下がる。
「この町を出ていくまででいい。学園で学べないことを知りたいの。あたしがもってなくて、ルカ君がもってるものを」
「でも」
有無を言わせない強い瞳が眼前に迫り、距離がさらにぐっと縮まった。
思わず身を引こうとしてルカは息をのむ。目の前の微笑が、今にも焦りに吞み込まれそうに歪んだからだった。
「いいでしょ、だってこれが最後なんだから。ね……お願い、ルカ君」
形のいい唇が、縋るように名前を呼ぶ。それはルカを覆っていた外皮の隙間からするりと内側に入り込み、拒否する意思をねじ伏せた。
勘違いかもしれない。けれどルカは藁を掴むようなその必死さに覚えがあった。自分の知らない知識を誰かが持っているならば、それを知りたくなるのが人の性なのだ。祖父についてまわっていた頃の幼い自分が、ミーシャの姿と重なって見えた。
「場所を……用意、してくれるなら」
なんとか絞り出した声は干からびて掠れていた。
ミーシャの笑みにようやく余裕が戻る。
「うれしい。ありがと――ルカ先生」
「その呼び方、好きじゃない」
「そう? いいと思ったんだけど。じゃあ心の中でそう呼ぶよ」
「心の中でもやめてくれ」
美しいものは時に人間に畏怖の念を抱かせる。
大きなエネルギーが得られそうなほど惚れ惚れする笑みなのに、背筋を指先で撫でられるようなうすら寒さを覚えるのは、きっとそういうことなのだ。力強く光る緑色の瞳に捕食されたとも気付かずに、ルカは早朝よりも冷ややかな教室の中でそんなことを思った。
*
ミーシャが用意したのは、普段ほとんど使われることのないという小さな空き教室だった。
教室というより、備品庫に近い。ドアを挟んで左右の壁には天井まで届く高さの棚が並び、中央に置かれた長机のせいで自由に動き回ることも難しい。縦に長い室内には、扉を開けて真正面の壁に換気用の窓がひとつ付いている。ただし、アルミ戸棚によって下半分が塞がれているので、室内は昼間だというのにひどく薄暗かった。
「教室がうるさいときとか、一人で集中したいときによく使ってる場所なの。ここなら誰も来ないから気兼ねなく作業できるでしょ」
照明のスイッチを入れながらミーシャは説明を続ける。曰く、入学してから今までの間、誰かがこの部屋に入ってきたことはないという。鍵は付いていないが、ここなら確かに日中作業をしていても他人に見られることはないだろう。
ルカは道具一式と依頼品を机に並べ、椅子に腰掛けた。少し身じろぎするだけで背中に戸棚が当たる。
「ごめん。ちょっと狭かったかな」
ミーシャが悪戯っぽく笑う。
確かに狭いが、実家の工房だって同じようなものだ。それよりもルカは、人の声が遮断された静寂さをいたく気に入った。
「いい場所だ」
「でしょう。誰かにこの場所教えたのって、あたし初めて。他人に作業邪魔されるの嫌いなんだよね。耳に入ってくる喋り声とか、椅子を引く音とか。視界を誰かがチラつくのも無理」
「そんな大事な場所、教えてよかったのか? しばらくここを使うと思うけど」
「ん。いいの――ルカ君ならいいよ」
無意味に見つめてくるミーシャの視線を振り切って、ルカはあたりをぐるりと見渡した。この部屋に時計はない。折りよく、学園の屋上に設置された鐘が八時を知らせる音を響かせる。
大教室を出てくるとき、様子を見にやってきたアダムと廊下で出くわした。彼はこの後頂上広場で絵を進めるのだという。
ここから広場までの道中にニキの家はある。ついでなので、本日の買い出しに出掛けているニノンに、作業の場所が変わる旨を伝えてもらうことにした。東棟二階のF〇一八、と書いたメモまで手渡してある。これならニノンも迷わずやってこれるだろう。彼女には細かな作業を頼むつもりでいる。
ルカの頭はもうすっかり作業モードに切り替わっていた。使い古した黒いエプロンに袖を通し、作業道具を所定の位置に並べていく。隣でミーシャが腕まくりをする。女性らしい白くてほっそりした腕が露わになった。
「さぁ、ルカ君は作業に集中して。こっちも真面目に目で見て盗ませてもらうから」
そう意気込んで、ミーシャは遠慮なく隣に詰めて座った。
ルカは頷き、目の前の包みに向き直る。視界はもう依頼品に一直線だ。優しい手つきでキャンバスを包んでいた布を解く。丸裸になった依頼品を、机に敷き広げた古新聞の上に赤子のように横たえた。
くすんだ黄金の中で一組の男女が熱く接吻を交わしている。
ルカの手に握られた刷毛が、輝く愛を取り戻すために動き出した。




