第134話 ニノンの解(3)
「……きみは…………」
キャンバスの中の……と口の中で声にならない言葉を呟いたとき、目の前から懐かしい微笑みがふっと掻き消えた。代わりに真上からこちらを見下げていたのはニノンだった。
「あ、お――おはよっ」
「ニノン?」
慌てて視線を逸らす彼女の後ろに、木張りの天井が見えた。あまり明るくないエネルギーランプが二つ、間隔を空けて吊り下がっている。どうやらどこかの室内のようだ。
ルカは夢とうつつの間でぼんやりとしたまま、ゆっくり瞬きを繰り返す。
温泉にやってきたことまでは覚えている。アダムと湯に浸かっていたらニノンが後ろから飛び出してきて、そのあとニノンの友人だと名乗る人物と話をして、それから――そのときふと、ルカは後頭部に当たる柔らかい感触に気がついた。すぐにその正体に思い至り、途端に意識がクリアになる。
ニノンに膝枕をされている。
そのうえ、堂々と眠っていたらしい。
「ごめ……俺、湯船で倒れた?」
起き上がりかけたルカだったが、再び身が傾いで口元を手で覆う。まだ全身に帯びる気怠さと若干の吐き気が残っていた。
「あっ、無理に起きないほうがいいよ。湯当たりじゃないかってアダムが」
身を起こしたときに落ちたタオルを拾いながら、ニノンは「珍しく落ち込んでたよ、俺のせいかぁとか言って」と笑う。ルカは一瞬迷ったが、いさぎよくニノンの厚意に甘えることにした。
タオルを受け取り、一言詫びて再び身体を横たえる。謝罪に反してニノンはまったく迷惑そうな素振りを見せない。むしろにこにこした笑顔を浮かべて「どうぞ」と歓迎する余裕さえあった。
ニノンは厚手の青いパーカーを羽織っていたが、前のファスナーが中途半端な位置まで下がっていた。見るつもりはなかったが、その下に真白い素肌が覗いていた。パーカーの下は、湯船で一瞬だけ目にしたパイナップル柄のビキニのままだ。
「もしかして、ずっと介抱してくれてたのか?」
タオルを腹のあたりに掛け直しながら、ルカは尋ねる。室内は古びたエアコンのおかげで暖房が効いているが、着替える暇もなく身動きを封じてしまっていたのは申し訳ないの一言に尽きる。
「介抱ってほどじゃないってば。安静にしてればよくなるからって、ここの店長さんが使ってないロッカールームを貸してくれたの。最初はベンチに寝かせてたんだけど、あまりにも気持ち悪そうだったから、それで……。ほら、あの、枕になるものもなかったし!」
「枕に……してるな、今も」
やっぱり起き上がろうと肘を立てたルカの身体を、「いいの、いいのっ」とニノンは自身の膝に押し戻した。激しい動きに脳みそが揺れて、ルカの意識が一瞬遠のく。おおよそ病み上がりの人間相手に出すべき力強さではない。
「なんていうかほら、膝の上で黒猫が丸まって寝てるみたいで癒されるっていうか、髪の毛もじゃもじゃってするのも面白かったしっ」
「もじゃもじゃ?」
「えっ、さわ、触ってないよ? もちろんね、触ってない。触るわけないじゃん、あはは。それよりルカってけっこう睫毛長いよね? 黒いから余計にそう見えるのかな。羨ましいなあ……ってなんの話してたんだっけ?」
ニノンは一瞬だけこちらに話を振り、すぐさま「ああ、そうそう!」と自己解決した。
「アダムはいまね、ユリヤちゃんをコルテまで送りに行ってくれてるよ。ユリヤちゃんって、私と一緒に温泉に来てた友だち。ついでにニコラスにも事情を伝えてきてくれるって。だからアダムが戻ってくるまでゆっくり休んで」
「そ……そうか」
なにやら色々解説されたが、とりあえず今はまだ休んでいてもいいということだろう。
「もう少し横になってたら調子も戻ると思う」
「そっか、よかった。寝てるときちょっとうなされてたから心配だったんだよ」
安堵の溜め息をつくニノンの膝元で仰向けになりながら、ルカは先ほど見た夢を思い返す。
「小さい頃の夢を見てたんだ」
「小さい頃の?」
「五歳か六歳くらいの自分が、実家でおじいちゃんの修復作業を観察してた」
「おじいちゃんって、放浪癖のあるあの?」
「うん。今もどこにいるか分からない」
最近特に、自身の立ち位置について悩むことが多かったからだろうか。無意識のうちに祖父との再会を望んだのかもしれないとルカは思う。だから夢に見たのだ。
「おじいちゃんが修復してたのは、裁断される前の”白金の乙女”だった」
えっ、とニノンは目を丸くして驚き、そのままの勢いでルカの顔を覗き込んだ。
「もともとはルカの家に全部あったってこと?」
「わからない。でも、確かにこの目で見たことがある気がするんだ。じゃないと裁断される前の絵の全容を知りようがない。家の地下室に保管してあった四分の一絵画は、結局一度も目にできないままベニスの仮面に奪われてるから」
ウィグル・ゾラ、ニキ・ボルゲーゼ、アンリ・フェルメール。それぞれから回収した絵のピースはすべて手元にあり、時間があれば少しずつ修復作業も進めている。しかし皮肉なことに、自分の家の地下で保管してあったその一枚だけは、手にすることはおろか一目たりとも目にできていないのだ。
「その絵にはなにが描かれてたの?」
そう問われ、ルカは既にぼんやりし始めている夢の断片を頭の中で掻き集める。
「女の子だ。二人――今手元にあるのは三枚だけだから、顔が見えているのは一人分だけど、二人の人間が描かれている点は合ってる。水の張った大きな銀盆を二人で支えてて……これも手元にある三枚分の絵画と合致する」
「じゃあ、やっぱりもともとは一枚の絵画として保管されてたんだね。それがいつかどこかのタイミングで……誰かに、切断された…………?」
「一度、父さんに聞いてみないと」
そう言ったきりルカは口を噤み、ゆらゆらと揺れる弱弱しいエネルギーランプを見るともなしに見つめた。
父に訊ねるしかないが、父が事実を知っているとは思い難かった。コルテの広場で再会を果たしたとき、父は隠していた事実をすべてルカに打ち明けてくれたのだ。母の死のこと、道野家がコルシカ島に移住するに至った経緯。そこに謎の絵画に関する話は出てきていない。
ルカはなんとなく、祖父がすべてを知っているような気がした。
「早く盗まれたピースを取り返したいよね」
「うん。誰が描いた絵なのか、どうして隠さなきゃいけなかったのか……。全部揃わないと、何もわからないままだ」
唯一手元にない、キャンバスの右上に位置するピース。もしも取り戻すことができたら、夢の中で邂逅した絵画の少女を再び目にできる。ニノンにそっくりだった少女の姿を、確かめられる。
そのとき不意に、ルカはマキの森でニノンに出会ったときのことを思い出した。
不思議な既視感。初めて会うはずなのに、妙な懐かしさを覚えたことを。
あのときは、世にも珍しい髪の色が、毎日起き抜けに目にしていた朝焼けの色にそっくりだからだと思っていた。けれど幼い頃にその姿を一度目にしていたのなら、奇妙な既視感にも納得がいく。
――だからなのか? ニノンと初めて会ったときに“懐かしさ”を感じたのは……。
たとえば、あの絵画に描かれているのが本当にニノンだとしたら。
「あの、ルカ――私の顔に、なにかついてる?」
無意識のうちにニノンの顔を見つめていたらしい。ニノンは気恥ずかしそうに視線を逸らす。ルカはかぶりを振り、そんなわけないか、とどんどん先走っていく思考を振り払った。
謎の絵画にニノンが描かれていることなどあり得ない。何故なら、コルシカ島の四方に散らばる絵画はもう何十年も前に製作されたものだからだ。
だとすれば、白金の乙女として描かれている二人の少女はベルナール家の人間かもしれない。由緒ある家系だから、どこかの画家に娘の肖像画を描かせたのではないだろうか。彼女たちと、その血を引くニノンの顔立ちが似ているのはなんら不思議なことではない。
「――あのね」
じっと考え込んでいると、迷いを含んだような声が降ってきた。
ルカは意識を現実に引き戻す。ニノンの視線はゆらゆらと宙をさまよい、次の言葉を発するべきか否か悩んでいるようだった。逡巡したのも束の間、ニノンは意を決したように口を引き結び、そしてひらいた。
「さっき温泉でね、二人の会話聞いちゃった。話してたよね。修復のこと、悩んでるって……」
ルカは静かに息を呑んだ。
聞かれていた。想定済みではあったが、どうせなら聞かれたくはなかった。
「全部、聞こえてた?」
「うん」
まっすぐ頷くニノンの輪郭を通り越し、ルカは逃げるようにしてその向こうに揺れるエネルギーランプに焦点を合わせる。
「二人の話を聞いてて私ね、今までのことちょっと思い出してたんだ。ポルトヴェッキオのビアンカさんのポスター、ジルダの宿にあった星空の絵画、ゾラさんが大切にしてた絵画、エリオさんがベルさんとコニファーのために描いたひまわりの絵……」
ニノンの声が、目を眇めるように懐かしい絵画の面影をなぞる。
すべてルカが修復を手掛けてきた絵画たちだ。
「キャンバスの中には描いた人の想いがたくさん詰まってて、修復して初めて見えてくる想いもあって、やっと元の姿に戻せたと思ったら次にはもう二度と目にできなくなって……。じゃあ、キャンバスに込められた想いはどうなっちゃうんだろうって。燃えてなくなるの? この世からひとつ残らず? 描いた人にとって、それが本当の願いだったのかな」
会ったこともない人間の心に思いを馳せてか、ニノンの眉尻は悲しげに下がった。
「……修復が必要な絵画は」
ルカは呟くように喋る。
「そのほとんどが、AEPが存在するよりも昔の時代に製作されてる」
絵画がまだエネルギー源ではなかった時代が、この世界には確かに存在した。
それはつまり、絵画に”エネルギーとしての価値以外のなにか”があったことに他ならない。
「どこかの家の居間や寝室や、美術館、ホテルのロビー、教会や修道院に飾られて、誰かの目に映ることを望んでたんじゃないかな。俺が画家だったら……きっとそう思う」
部屋の外から客の賑わう音が聞こえてくる。そこに、息を吹きかければ消えてしまいそうなほど微かな鐘の音が混じった。ニノンの顎先が扉の方に向く。さらりと桃色の髪が胸元で揺れ、露わになったままの膨らみにかかる。ルカはなんとなく見てはいけない気がして、手のひらを自身の額に乗せ、視界の上半分を覆い隠した。
鐘は五回鳴ったきりで、その後は耳を澄ましても客の声がするだけだった。
「今まで手掛けてきた絵画は、自分が修復をすることによってその命を落としてきたって、ルカ言ってたよね」
「事実だよ」
「今もそう思ってる? 過去の自分を赦せないって」
「それでも修復を続けていくって決めたんだ。過去をなかったことにはできないけど、それでも進まないとって思ってる」
「ねぇ、ルカ。なかったことにはできなくても変えられるよ、過去は」
「……できないよ」
拗ねた子どものような声が出てしまう。
できないから、過去や未来といった区別が存在するのだ。
できていたらこんなに悩み苦しむこともない。罪人が嘆きの川で永遠に氷漬けにされることもないのだ。
「私ならそれができる」
したたかな声がして、ふっと視界が翳る。
誘われるようにルカが視線をあげると、紫色の双眸が放つ、真剣さを帯びた眼差しとぶつかった。己の声を聞き洩らさせまいとするかの如く、ニノンは覆いかぶさるようにルカを見下げている。
「今までずっとルカの隣で修復された絵画を見てきたし、声だって聞いてきた。だからわかるんだよ。伝わってくるんだよ。絵画から、本来の姿を通して誰かに一瞬でも何かを伝えられた喜びが」
「本来の姿に戻すのが修復家の仕事だからだよ。別に特別なことじゃない」
ルカは逃げるようにして上体を起こし、一瞬揺らいだ視界を正そうとこめかみに手を添えた。
「違うよ。ルカ全然わかってない」
ニノンはルカに対して珍しく眉を吊り上げた。
「誰か別の修復家じゃダメなの。エネルギーがどれだけ得られるかなんて関係ない、ただ忠実に元の姿に戻すことを考えてきたルカにしかできないんだよ。思い出して、今まで自分がなおしてきた絵のこと、その持ち主のこと」
「…………」
「色褪せたビアンカさんを、もう一度綺麗な紫色のドレスで着飾ったよね。トレミーさんの連作に描かれてた星空が実在するって証明もした。あの絵のおかげで、フィリドーザの村は活気を取り戻したよ。ボロボロのホテルで忘れ去られてた不気味な絵も助けたじゃない。ほかにもたくさん――」
行き場のないヴェネチアンマスクを人々の装飾品に仕立て直す手伝いをしたこともあった。一面黒塗りの大作は、修復をしなければ本来の美しいひまわり畑は永遠に失われたままだった。その絵が、届けられるべき女性と娘の手にひと時でも渡ることだってなかっただろう。フェルメールがもう二度と目にできないと諦めていた旧友の傑作も、ルカがいなければこの世に蘇りはしなかった。
脳裏を過ぎっていく数々の絵画は、まるで人の命のように一瞬の煌めきを遺して消えてゆく。
だが消えてなお、煌めきはその絵画が確かに存在したという証明を、目にしたものの心に残していく。絵画の遺した一筋の証明はその者の意思の一塊に溶け込み、いつか誰かへと伝わっていくのだ。さながら、生物が後世に種を残すように。
そうであればいいと願っているのは、ほかでもない、ルカの心だ。
「修復が終わるたびに、私が隣で絵画の声を聞くよ」
目には見えない絵の具や汚れが染みついたルカの手を、ニノンは自身の両手でぎゅっと握りしめた。
「ルカの修復が絵画を救ったんだって、何度だって証明してみせる。私やっとわかったの。この力はきっとそのためにあるんだ」
そう言ってニノンは、橙色に似た穏やかな笑顔を浮かべた。
「大丈夫。ルカの手は絵画を救う手だって、ちゃんと知ってるよ」
優しさと力強さを伴ったその言葉がルカの身体にすっと溶け込むと、腹の底からなにかがじわじわと湧いてくるのを感じた。それは春の日差しよりもあたたかくて、けれどどこかよそよそしい感じのする感情だった。こそばゆくて、すぐに呑み込んでしまいたくなるような。
ルカはまだその感情の名前を知らない。
「うえっ、ルカ? あの、あ……」
気がつけばルカは、無意識にニノンの両手を握り返していた。
「今までずっと修復ばかりやってきた。俺にできるのはそれくらいしかない」
今までも、たぶんこれからもそうなのだろう、とルカは思う。
ずっとそうやって生きていきたいのだ。
「失くしたくない。修復家でいることを諦めたくない。だから側で支えてほしいんだ、ニノン。そうしてくれたら嬉しい」
ニノンは視線を目いっぱい脇に逸らして、何度も首を縦にゆすった。頷きすぎて耳が真っ赤になっていた。
これからのことを快諾してくれたのだと勝手に解釈したルカは、「ありがとう。助かる」とあっさり礼を言って手を離した。
「ルカ、あの……その、それって」
「ん?」
「こ……っ、言葉通りに受け取ってもいいのでしょうか……?」
「…………うん……?」
息も絶え絶えに問うニノンは、さっと俯いたきりこちらの答えを待っている。
言葉のどこかに裏があるとでも思われたのだろうか。だったら尚更言葉通りに受け取ってもらえればいい。
「まぁ、だいたいあってる」
「だ、だいたい!?」
予想外の返答とでも言わんばかりにニノンは嘆いた。
ルカはもう一度曖昧に頷いてから、ついでに先ほどから気になっていたことを指摘する。
「ニノン、実は、パーカーのファスナーが……」
「!!!」
該当箇所を指さす前に、ニノンは掻きむしるように自身の胸元を手で隠し、勢いよくファスナーを首元まで閉め上げた。
「ご、ごめん。後ろ向く」
ルカは咄嗟に謝って背中を向けたが、「もう閉めたよ!」と怒られてしまった。
「なんかルカ元気そうだし、着替えてこようかな……はぁ」
「あ、うん。ありがとう」
背後で立ち上がりそうな気配がしたが、すぐに消えて、代わりに剥き出しのルカの背中にトンと何かが触れた。ニノンの背中だった。
「……やっぱり、ちょっとだけこうしてていい?」
「ん、うん」
ルカはぎこちなく頷く。
背中に預けられた小さな重みに、へんに意識を集中させてしまう。重なったおもみがわずかに揺れて、ニノンの照れたような笑い声が聞こえた。
「じわじわ嬉しくなってきちゃった。私、修復のことなんにも分からないし、絵にあかるいわけでもないから、いつも役に立ててるか不安で……だから……へへ、嬉しいな」
言葉の最後で、急に声に湿りっけが混じった。
ルカは思わず振り返り、ぎょっとする。その頬にまるい滴がぽろりとこぼれ落ちたからだった。
「な、なんで泣くんだ、ニノン」
「わ――わかんない。ルカが元気になってよかったって、ホッとしたらなんか……へんなの、悲しくなんか、ないのに……」
気がつけばルカは、涙をこぼしながら笑うニノンを抱きしめていた。
「うえっ……ルカ……よ、汚れるよ……!」
「こうしたら止まるかと思って――涙腺が」
「ええ…………あは、なにそれ」
本当は何も考えていない。無意識に身体が動いただけだった。
けれどニノンが少しでも笑ってくれたので、ルカはほっとして身体を離した。
ニノンの涙は止まっていた。
「それに服着てないから汚れない」
「あ、そうだったね。ふふ。ね、実は気になってたんだけど。その水着……自分で選んだの?」
「え? いや、これは」
ルカは自身の股間部分に視線を落とす。
真っ黄色を背景に、ニヒルな笑みを湛える髭面の男と目があった。




