第134話 ニノンの解(2)
アダムと共に温泉に入っていると、どういうわけか背後からニノンが飛び出してきた。
「ニノン?」
彼女は短く叫ぶとその場で勢いよく湯に飛び込み、そのまま動かなくなった。巣穴から頭だけ出したモグラのように、鼻下まで湯に浸かった状態で縮こまっている。
驚いたのはもちろんだが、ルカがまずはじめに抱いたのは若干の気まずさだった。先ほどまでの話を聞かれていたのだとしたら、ずいぶん弱気な姿を晒してしまったことになる。相手の目には、作業を放り出して逃げてきたようにも映っただろう。ルカは無意識に目の前の少女から視線を逸らす。
「おまえ、こんなとこで何してんだよ?」
アダムはモグラ状態のニノンに向かって左の人差し指を突きつける。
「お――温泉入りにきたんだよっ。っていうか私のほうが先に居たんだから!」
「そうなの? 全然見かけなかったけどな。まいいや。とにかく、出ろ」
アダムが親指で浴場の出入り口を指すと、ニノンは頬を膨らませてさらに身を沈ませた。
「いや」
「はあ? なんでだよ」
「……ルカがあっち向くまで出ない」
「え、俺?」
いきなり名指しされ、わけがわからないままルカはとりあえず横を向いた。
対してアダムはこの状況を正しく察したらしい。「はいはい」と白けた声を出しながら、ざぶざぶと湯ぶねの中を歩いてルカから遠ざかっていく。
「わかったから、湯あたりする前に上がれよ。顔が赤いんだって」
「それを言うならアダムだって顔赤いよ」
「赤くなってねえわ!」
「なってるよっ」
指摘された頬の赤みをアダムは左手で隠すように覆い、ついでにニノンの腕を引っ張り上げた。
「わーっ、やめてヘンタイ!」
「やめろその言い方、誤解を招くだろーが! どこで覚えてきた!? っつか着るならもっとあるだろ、ほら、ビキニ以外にほかのやつが――」
「私に言わないでよ、これしか置いてなかったんだもん!」
「なに!? 店長の野郎、悪趣味なヤツだな……」
「布が少ないほうが乾きやすいからって」
「んなわけねえだろ! 完全におっさんの趣味だよ!」
湯から上がるのではなかったのか――先ほどまで適度な露出は健康的でいいと喜んでいたアダムの、真反対の主張を背中越しに聞きながら、ルカはふと隣に気配を感じて振り向いた。
ニノンの側にいたはずのブロンドの髪の少女が、すぐ側で二人の騒がしい様子を見物していた。ルカはぎょっとして思わず身を引く。
「あの……」
「ニノンの友人のユリヤです。はじめまして」
「はぁ、どうも」
ユリヤ、という名前をどこかで聞いたことがあった。だが、クールな雰囲気を醸し出す彼女の容姿に覚えはない。
色素の薄い髪と白い肌に黒いビキニを身につけた少女は、にこりとも笑わないまま「よろしくどうぞ」と告げた。
「あなたはニノンの友人の……名字がわからない」
「ルカ・ミチノです」
「"青い目の男の子"ね」
「はい?」
このとき初めて、彼女の口の端が片方だけ持ち上がった。
「私たち、実はさっきからずっと後ろにいました」
そう言って、ユリヤは背後にそびえ立つ英雄ディアーヌの石像を指さした。
「出て行くタイミングを逃してしまって。それで、興味深いお話をされていたから、声を掛けてみようって思ったんです」
「はぁ」
この町にまだ会ったことのないニノンの友人がどれほど居たとしても、ルカはもう驚かない。それよりも、話が漏れ聞こえていたことに少しだけ気分が揺らぐ。
「この町にはカナンの壁画関係でやってきたんです」
「ああ、頂上広場の」
「今回模倣された“民衆を導く自由の女神”は一八三〇年にドラクロワによって製作されたもので、かつてルーヴルの貯蔵資源でした。聞いたことくらいはありますか?」
「はぁ、まあ……」
「AEP発電装置オンファロスが発明されてから早々にエネルギーへと還元された絵画で、その数値は歴史に名を残すほど高く――」
長く湯に浸かっていたせいだろうか、ルカの頭の中では先ほどから意識がふわふわと渦を巻いていた。喉も少し渇いている。ルカは適当に相槌をうって、露天浴場の出入り口にちらりと視線をやった。まだまだ湯ぶねから上がりそうにないアダムのことは放置して、一人でさっさと出てしまおう。ニノンとの遭遇は、そう思っていた矢先の出来事だった。
こちらに話を聞く気がないと早々に悟ったユリヤは、いさぎよく喋るのをやめた。そして、赤みがかった真白のうなじを捻り、二人のほうに視線を向けると、「出ていかないわね……」とため息にも似た独り言を漏らした。
ルカも倣って視線を向ける。どういう経緯でそうなったのか、アダムとニノンは顎先まで湯に浸かって互いを視線で牽制しあい、我慢くらべのようなものを始めていた。
湯から上がるのではなかったのか? と、再び同じ疑問を抱いたときだった。
「ニノンって、本当に素直でいい子だと思いません?」
ユリヤがぽつりとそう零した。
立ちのぼる湯けむりの中、彼女の口元に浮かぶ優しい笑みが見えた気がした。
「ちょうど就職したばかりの頃、あの子と"夢"について話したことがあって」
「夢?」
「将来のこと、これから自分がしたいこと、望むこと。そこでニノン、"絵画が失くならない世界になったらいい"って言ったんですよ」
「そんなことを……」
彼女が口にしたことは、ルカが迷って迷ってやっと朧げに掴んだ望みでもあった。
「そのときの彼女の言葉は、うわべだけのものじゃないんだろうなと思ったんです。そう思わされるほど、真っ直ぐな瞳だったの。聞いたことない、そんな考え。両親も親戚も友人も、周りはみんな保守的な人間ばかりだったから……」
「ニノンとはこの町で出会ったわけじゃないんですか? なんとなく、もっとずっと前からの知り合いみたいに聞こえて」
「あら。私、あなたとも一度会ってるわ」
「……?」
どこで、と問おうとしたとき、突如ぐらりと視界が揺れた。
「ほら、…………で……逃走のお手伝いを……」
身体にうまく力が入らない。
「ニノンは私の大切な友人なの……あなたの行き過ぎた行動であの子を悲しませてほしくない。たとえば……画家集団カナンのような反絵画資源行為……によく似た破壊行為…………」
ユリヤが何か言っている。その口元から言葉を拾おうとしても、焦点が合わず、彼女の輪郭が二重にも三重にも重なって見えた。
「あなたたちの語っていたことは……ちょっとあなた、大丈夫………」
急激な吐き気が胃の底から込み上げてきて、ルカは思わず口元を手で覆った。覆ったはずが、そのまま顔からぬるい湯の中に倒れ込み、視界が真っ暗になった。
*
色褪せた記憶の景色が、眼前にたゆたっている。
故郷レヴィの小高い丘に建つ家の二階には、ルカの祖父が使っている小さな私室があった。工房は家の隣に独立して建っているが、祖父はちょっとした作業なら自室の小狭い机で済ませてしまうのが常だった。
――おじいちゃん、さっき修復がおわったばかりなのに、もう次のをやってるの?
――見学するか、ルカ。
机の端から背伸びで頭を覗かせていたルカは、祖父に両脇を持って抱えられ、丸椅子の上にストンと下ろされた。
祖父は寡黙な男だった。普段はほとんど口をひらかないが、修復のことを尋ねたときだけは別だ。道具の使い方から細かな作業の加減、キャンバスに描かれた絵の意味まで、わからないことはなんでも教えてくれた。その頃のルカはといえば、祖父の姿を見かけるとそれとなく傍らについてまわり、貴重な一言一句を聞き漏らすまいと耳をそばたてていた。
――またこの絵の修復してるの。
ああ、と頷きながら祖父は埃取り用の大きな刷毛でキャンバス上をなぞる。ルカはその分厚く大きな手のしわに入り込んだ、洗浄液や絵の具汚れを見つめた。
ああ、そうだ――ルカはうっすらと思い出す。
祖父が、とある絵画の修復を幾度も繰り返していたらしいことを。依頼が途絶えて少し余裕ができれば、祖父はたびたび自室にこもってその絵に手を加えていた。
実際にその絵を目にしたのは一度か二度だっただろうか。父親が修復家業を継いでから祖父は家を空けることが多くなったので、ルカはそんな絵のことなどすっかり忘れていたのだった。
どうして修復し続けているのか、そんなに時間がかかるほど難しい絵なのか。いつの日か、ルカがそのようなことを尋ねたのだろう。祖父は珍しく作業の手をとめて、キャンバスに注いでいた視線をルカのほうにずらした。
――ある日目が覚めて、周りが自分の知らない世界に変わっていたら、どう思う?
――……? わからない。
――“孤独を感じる”。だから人は、変わらないものを見つけると安心するんだ。
祖父は汚れだらけの手のひらをルカの頭に乗せ、黒い髪をひと撫でした。
――人も世の中も、価値観も、時とともに変化し続ける。だが、時が経っても変わらないものがあったっていい。
幼いルカにとって、祖父の言葉はなんとも咀嚼しがたいものだった。頷きあぐねる孫に向けて、祖父は目尻にわずかなしわを寄せた。
――いずれお前も悩むときがくる。
――どうしてそんなことがわかるの?
――お前が道野家の人間だからだ。
ルカは夜空にも似た祖父の黒い瞳を見つめる。その眼差しは幼い子どもに向けるものではなく、ひとりの男に対して向けられるもののように思えた。
ルカは丸椅子の上で姿勢を正し、教師に教えを乞う生徒のように尋ねる。
――おじいちゃん。そのときは、どうしたらいい?
――己の気持ちを大事にしろ。それまでは技術の習得に邁進することだ。深い知識と正しい技術は修復家のおおいなる武器になる。守りたいものを守れない人間になるのは、ルカも厭だろう。
最後に引っかかる物言いを残して、祖父は口を閉ざした。
その違和感は勘違いではない。いつも彼の言葉を聞き逃すまいと努めてきたルカにはなんとなく分かった。
厭だったのが誰なのか。
後悔しているのは誰なのか。
――おじいちゃんは……守りたいものを守れなかったの?
何気なく問いかけたルカの瞳に、祖父の無表情な横顔が映り込んだ。深い瑠璃の海の中で、年老いた口元がわずかに動く。
――守りたいものを守るために、いま、修復しているんだ。
その目があまりに遠くを見つめていたから、祖父がそのまま知らない場所へ行ってしまうのではないかとルカは怖くなった。
違う、知っているのだ。
この先祖父は幾度も家を空ける。そしてついには帰ってこなくなることを、十五歳のルカは知っている。
――おじいちゃん、俺、その時期にきたよ。きたんだよ。
ルカは夢の中の祖父に語りかけた。彼は再びこちらに背を向け、作業途中の絵画を修復しはじめる。
祖父は今ごろどこで何をしているのだろうか。ルカの胸の内に眠っていた無意識の願望が、そっと顔を出す。
祖父に会いたい。
指南を受けたいことが山ほどある。話したいことだってごまんとある。たとえば修復の新しい技術について。たとえば自らが手を加えることで絵画が消滅することについて、どう考えるのか。
祖父は、ルカにとって永遠の師匠だ。
ふと、刷毛を動かしていた手が止まる。細かな修復を終えた絵を仕舞いにいくのだろう。縦向きのキャンバスを抱えて祖父は席を立つ。
確かに目にしたことがあるのに、どんな絵だったのか思い出せない。だけどなにか――そう、誰かが描かれていたような気がする。それも、一人ではなく――そこでルカは、祖父の手に抱かれたキャンバスをはっきりと目にした。
純白のワンピース姿の、隣り合う少女たち。二人で支える水の張った銀盆――。
“白金の乙女”だ。
それもバラバラに切断される前の、完璧な姿だった。
――元々は、おじいちゃんが持ってた……?
記憶があやふやで細部まで鮮明には思い描けない。微笑む二人の少女の顔も水で滲んだようにぼやけている。
けれどルカは、この少女に奇妙な既視感を覚えていた。どこか別の場所で少女の笑顔を見た気がするのだ。記憶の断片が脳裏を過ぎっては消えていく。
動かない微笑みではない。
生きて、こちらに笑いかける彼女の姿だ。
遠い記憶の中ではなく、もっと、ずっと近くで。
――ルカ。
呼び声に誘われ、薄く瞼をひらく。
その向こうに、微笑むキャンバスの少女がいた。