第134話 ニノンの解(1)
ルカたちがレストニカ露天浴場にやってくる少し前――。
コルテ駅からバスに乗って数十分。ユリヤたっての希望で、ニノンは一足早く件の施設を訪れていた。
実は初めて利用するのだと、ユリヤは行きのバスの中でこっそり教えてくれた。ニノンにとっても記憶にある限り初めての体験だ。そしてこの、布地面積が異様に少ない特殊な衣服も同様である。
「うう、お腹がスースーする」
ニノンは日焼けしていないお腹をさすりつつ、脱衣所のロッカーの前で嘆いた。いつも胸元に下ろしている両サイドの長い髪は、今は後ろにまとめてピンで止めてある。
入湯するには必ず水着を着用しなければならない、というのが施設の決まりだ。レンタルカウンターでニノンが選んだのは、白地にレモン柄がプリントされた爽やかなデザインの水着だった。腰回りにはフリルがたっぷり付いているが、それに身体を隠してくれる役割はない。まるで服を着忘れたまま外に飛び出してしまったような、なんとも落ち着かない気分だ。
「お湯に浸かってしまえば気にならないわよ」
「う、うん。そうだね」
片やユリヤは堂々としたものだ。腰の両側にある蝶結びの紐以外これといった飾りも模様もない、黒地の水着を格好よく着こなしている。シンプルな黒に彼女の透き通る白い肌はよく映えた。
「でもどうして水着ってこういう形ばっかりなんだろう。なんていうか、パンツとブラジャー、みたいな……」
「ビキニ?」
「そう、それ。もっと胸元とか、隠せるタイプがあってもいいのに」
ニノンは口先を尖らせながら、なんとかフリルを引っ張ってむき出しになったボディラインを隠そうとする。
「そういうのも売ってるけど、ここのレンタル品はビキニばかりね」
「うーん、店長さんの趣味……」
「布地面積が少ないほうが乾きやすい。理に適ってると思うわ」
「そっちかあ」
「風邪ひく前に行きましょう、ニノン」
ユリヤは長いブロンドの髪が垂れないよう後ろで団子状に纏め終えると、脱衣所から直接外に繋がる扉を押し開けた。
「すごい、湯気が雲みたい」
冴えた空気とともに、湯けむり立ちのぼる露天浴場がいきなり目に飛び込んでくる。浴場は背の低い柵でぐるりと囲まれ、まばらに黄葉を交えた大自然が悠然と人々を見下ろしていた。
二人は掛け湯を済ませ、一番近い浴槽に入湯する。
日曜日だからなのか、客入りはそこそこ良いようだ。水着を着た老若男女が湯槽に浸かったり、キッチンカーで食べ物を頼んだり、その近くに設置された椅子に腰掛けたりして、思い思いに寛いでいる。
「そういえばニノン、クーザンは一緒じゃないの?」
「クーザン? って…………あっ」
問われてニノンはハッとする。
その名を思い出すのに数秒かかってしまった。
クーザンは、ルーヴルに乗り込む際に使ったジャックの偽名だ。
つまりユリヤは今でもジャックをクーザンだと思っているし、彼女が思い浮かべる姿は偉そうで高慢ちきな王子様ルックスの少年ではなく、おそらく瓶底メガネの垢抜けない少年のほうなのだ。
聡い彼女は、ニノンが誤魔化そうとしていることを機敏に察知したらしい。名探偵よろしく目を光らせ、さらっと告げる。
「そう、クーザンも偽名なのね」
ニノンはうぐ、と喉に言葉を詰まらせた。
これはもしかして、再会の感動で曖昧になっていた過去の過ちを今、じわじわと責められているのだろうか。名を偽り、同期だと嘘をついて、ぬけぬけと行動を共にしたことを――。
理由がどうあれ、他人のIDカードを借用して(盗んだのはアダムだが)施設内に立ち入ったのは、たしかに立派な不法侵入である。現職員が不法侵入者を無断で逃したとなると、上からこっぴどく叱られるに違いない。いや、叱られるどころでは済まないかもしれない。ユリヤが怒るのも当然だ。
「本当の名前はジャックっていうの。手助けをしてくれた友人で、同期じゃない」
俯いたままぼそぼそと呟けば、「そう」と気のない返事が返ってきた。
「まぁ、それはそうよね。彼も修復家――には見えなかったけど」
「うん。ジャックはそういうのとは関係なくて、なんだっけ……名前忘れちゃったけど、自分ではどこかの偉い人だって言ってた」
へぇ、とひとり納得したように呟くユリヤの、遠くの景色に向けられた眼差しは鋭い。またしてもニノンは尻込みしてしまう。
「あの、ユリヤちゃん。この間はその……嘘、ついててごめんね。……お、怒られた……? あのあと、偉い人から……」
意を決して尋ねると、ユリヤは青緑の瞳をきゅっと丸くした。何故そんなことを訊くのか、と驚いているような表情だった。
「私が? ……ふふ。ニノンって本当、面白い」
「えっ。ユリヤちゃん……怒ってないの?」
「何を怒るの?」
「う、ほら、いろいろあるでしょ」
責められることを覚悟していたニノンは、想定外の反応にしどろもどろになってしまった。
「あんな大それたことをやってのけるのに、他人が怒られるのを気にするなんて。ニノンって本当におかしい。大丈夫、バレてないし、お咎めもないから」
「うそ、本当に?」
「本当」
部外者が不法侵入したというニュースは、職員間でもほぼ広まっていないらしい。むしろ揉み消されたに近い形で、騒動があったことすら忘れ去られているという。大きな組織になればなるほどそんなものなのか、とニノンは一人訝しむ。
「ルーヴルでお別れしてからずっと、あなたのこと考えてたわ。私の友人は本当に存在してたのか、実は夢の中の出来事だったんじゃないかって。あなたといる間に起こった出来事って物語みたいで、まるで現実味がないんだもの」
「ユリヤちゃん……」
そんな風に考えてくれていたなんて、ニノンは思いもよらなかった。自然と笑顔が溢れてくる。
「でも、また会えたね」
「ええ。もう一度よく見せて、ニノン。あなたの瞳の色」
白魚のようにか細い指がニノンの頬にそっと触れた。透き通った青い瞳がすぐ近くに迫り、この世にただ一つの、紫色の瞳をつぶさに覗き込む。彼女はそのまま数度まぶたを閉じた。まるで、瞬きしても目の前のそれが消えてしまわないか、確認しているような仕草だった。
「夜明けの空を閉じ込めたような色ね」
ユリヤは破顔して、触れていた指先をそっと離した。それから「少し安心した」と言うと、短く息を吐いた。
「え?」
「ニノンったらまた一人でいたから、青い目の男の子を探して無茶してるんじゃないかと思って」
「あはは、そんなにしょっちゅうはぐれないよ。あのときが特別だっただけ」
「その彼とは、今は一緒じゃないの?」
ユリヤは湯に浸かった腕をゆるく指先でなぞりながら、以前の探しものの行方について尋ねてくる。
「ルカは今修復作業の真っ最中なんだ。私はお手伝いの番がくるまで待機中」
「へぇ。彼、フリーランスなんでしょう。ルーヴルに所属していないなんて今どき珍しいのに、立ち寄った先の縁もゆかりもない土地で仕事を受けるなんて」
ニノンは満面の笑みで頷き返した。ルカが褒められたことを我がことのように喜んでいるわけではない。二本の手では送りきれない拍手と労いを、誰かと同じ位置から送れることが嬉しいのだ。
「ルカってね、いつも絵画に寄り添った仕事をするの。キャンバスに向ける目や、触れる指先に優しさがつまってるの、見ててわかるんだ」
ニノンは目を眇め、ゆらゆら立ちのぼる湯けむりの向こうに、旅路の途中で出会った数々の絵画を思い出す。そして、それらが一人の修復家と出会ったことにより手にしたものを想った。
「本人はあんまり多くを語ったりしないけど、誰より絵画のことを大切におもってるって私は知ってる。ルカに直してもらえる絵画たちは幸せものだよ」
その手は絵画を救う唯一無二の手なのだと、言葉を尽くして褒めそやしたくなる。相手はきっと、そんなものいらないと撥ねつけるのだろうが。
「ニノンにとって本当に大切な存在なのね、その男の子」
「たっ、え――いやあ、あはは」
唐突に突き付けられた言葉に、熟しはじめて間もない蟠桃のようだったニノンの頬は、見る間に真っ赤になった。しかしすぐに、おずおずと首を縮こめるようにして小さく頷いた。
「うん……。好き、だから……ルカのこと。きっともうずっと昔から、大好きなの」
改めて言葉にすれば、それは面白いほどしっくりくる気持ちだった。自分はルカが好きなのだ。ニノンが自覚すればするほど、身体のあちこちで熱の花が開花する。
「知ってる。自ら海を渡って追いかけてくるくらいだもの」
「ユリヤちゃんがいなくなったって追いかけるよ!」
ふふ、とユリヤは小さな笑みをこぼす。誤魔化すようにニノンが空を見上げると、視線の先に小さな真昼の月が浮かんでいた。判押しが失敗したスタンプのように下半分が欠けているその月は、目を凝らさないと見つけられないほど淡く白い。
「ずっと昔からって、どれくらい?」
ユリヤは興味深げに尋ねる。
「うーん、すごく小さい頃……字もまだうまく書けないくらい?」
「幼馴染みなの?」
「そうなのかな。同じお屋敷に住んでたから、そうかも」
「……? 幼馴染みは同じ屋根の下では暮らさないわよ」
「え、そうなの?」
「大多数は……そうだと思うわ」
ユリヤが真面目な顔で小首をかしげるので、ニノンも不安になって彼と過ごしてきた長い年月を思い起こした。
「うちのお屋敷に住み込みで働いてたの。その頃から家族で修復の仕事をしてて……」
朧げに思い出せるのは、だだっ広い廊下で父親の膝に両腕いっぱいを広げてしがみつく自分。向かいには背の高い大人が一人、その隣には男の子が手を引かれて立っていた。
歳も背も同じくらいのその男の子は、ごわごわとした黒い髪をしていた。俯いているから、表情はよく分からない。
――今日からここで暮らすことになった……だ。ニノン、挨拶しなさい。
父親がこちらを見下げ、言った。
そのときどんな挨拶をしたのか、ニノンはもうよく覚えてはいない。ただ、あのときの喜びだけが記憶に残っている。
クリスマスの朝、モミの木の下にラッピングされたプレゼントを見つけたときよりも大きい興奮、初めて屋敷をこっそり抜け出したときよりも膨らんだ期待が、体中を駆け巡っていた。
友だちができる!
365日家族と使用人に囲まれて生きてきたニノンに、歳の近い友人はいない。これは、可哀想な娘に父親が用意した粋な計らいなのだとさえ思えた。
――わたしはニノン。あなたは?
向かいの大人に何か促されて、俯く少年はさらに背を丸めて会釈をした。挨拶のときでさえ言葉を発しない、無口な性格のようだった。
代わって隣に立っていた大人が挨拶をする。父親が、相手と何か言葉を交わしている。それから父親は屈み込み、ニノンに少年の名を教えてくれた。
――じゃあキミのこと、ルカって呼ぶ。
ニノンは一歩踏み込み、少年の前に立って右手を差し出した。
――わたしのことは、ニノンって呼んで。
マキの森で意識を取り戻してから今日までの、五感と共に刻み込まれてきた記憶のさらにその向こう。ルカの頭の中に眠ったままの、ニノンだけが抱きしめている遠い思い出。ボニファシオの地で暮らしていた頃の、擦れた映像でのみ蘇る、幼い少年の姿を。
「私、小さい頃からこの髪色のせいでずっとお屋敷に閉じこもってばかりだったんだ。パパが心配性でさ、ママが同じ病気で死んじゃったからってお外に出してくれなかったの。ひどいよね」
ニノンはややおどけたような口振りをしてみせる。暗い雰囲気にしたくなかったからだった。ユリヤはやっぱり真面目な顔のままで、一瞬何かを考え込むように眉をひそめてから、静かに口をひらく。
「脱色症患者は太陽の光に当たると症状が進むって、聞いたことがあるわ。研究が進んでない時代に生まれた迷信なのだろうけど……そう信じてしまう症例もあったのかもしれないわね」
最後に付け足された言葉はユリヤなりの優しさだった。父親に対する擁護の言葉がそのまま娘を庇うということを、彼女はおそらく分かっている。ニノンは彼女の気遣いにはにかみを返した。
「そのときにいつも隣にいてくれたのがルカだったの」
ルカ――それはとある男の子の名前。
黒い髪に、頬や手の甲、いつもどこかしらが絵の具で汚れていて。絵画のことを語る瞳は静かに輝いて。屋敷の向こうに広がる世界を、修復した絵画を通して見せてくれた。そんな、ニノンにとって代わりのいない、大切な男の子の名前だ。
「だから私、外に出られなくても全然寂しくなかった」
ニノンはもうずっと昔から、彼に恋をしている。
「そんな風に言われると、一度会ってみたくなる」
「え……、えええっ!?」
一節置いて言葉の意味を理解したニノンは、勢いよく仰け反った。
「ゆ、ユリヤちゃんもまさか、ルカを……!?」
「そんなわけないでしょ」
慌てふためくニノンをユリヤは一言でばっさりと切り捨てた。
「ニノンを託すに値するか確かめたいだけよ」
「託すってなに!? そもそもただの私の、か、片思いっていうか、憧れっていうか! ほんと、そんなのじゃないから!」
「でも好きなんでしょ?」
「すっ、すっ……それは、そうだけど――!」
でも、と声を張り上げかけたニノンは、視界の隅に見覚えのある影を捉えてハッと口を噤んだ。それから急いでユリヤの腕を引っぱり、ディアーヌ像の太い四角柱の陰に飛び込む。
「ニノン……!? どうしたのいきなり――」
「しっ、静かに」
ニノンは短く応え、状況が呑み込めていないユリヤの口もとをパッと手で覆った。息をひそめて柱の影からこっそり顔を出し、浴場の入り口を窺う。
「なんで……」
いる。やはりいる。
見慣れた二つの背中が、白いキッチンカーの前で佇んでいる。
黒い髪に、派手な黄色のパンツを履いた少年。もう一人は背の高い、明るい太陽の色をした髪の少年。もうずっと寝食を共にしている仲間の後ろ姿を、今さら見間違えるはずがない。
*
下着一枚といっても差し支えない格好を見られたくないがために、後先考えずに岩柱の影に身を潜めたのがよくなかった。ルカとアダムはキッチンカーでドリンクを受け取ったあと、あろうことかニノンたちが隠れている真反対の場所にざぶざぶと入湯し、のんびりお喋りを始めたのである。
そうして湯船から上がれなくなり、今に至る。
「試しにそっと抜け出してみたら?」
案外見つからないんじゃないかしら、と頬に手をあてるユリヤに対して、ニノンは激しく首を横に振った。
露天浴場の出入り口は一か所しかない。たとえ慎重に出口へ向かったとしても、現実離れした髪色はあまりに目立つ。ルカは変に勘が鋭いし、アダムはあれで案外周りをよく見ているので、きっとすぐにバレてしまうだろう。そうなれば、めでたく擬似下着姿を彼らの前に晒してしまうわけだ。向こうもパンツ一丁には変わりないが。
「(私温泉だーいすき! 長湯したほうが勝ちだもんね)」
「勝ちって言ってる時点で……まぁ、いいわ。湯当たりしない程度にね?」
呆れたようにため息をついたユリヤは、肩まで浸かっていた姿勢を正し、浅く腰掛け直した。口調とはうらはらに、長湯にしっかり付き合ってくれる心積もりのようだ。ありがとう、と頷いて、ニノンも彼女に倣って腰を浮かせた。
アダムとルカは、ニノンとユリヤのように久々に再会した友人というわけではない。それほど積もる話もないだろうから、まさか長湯はしないだろう――そんなニノンの期待は、身体じゅうの血の巡りがよくなりすぎて、いよいよ頭がくらくらしはじめた頃には霞んでほとんど消えてしまっていた。
もうかれこれ二十分は話し込んでいるのではないか。あの二人だからと侮っていた。誰だって積もる話くらいあるものだ、なんて今更思い直してももう遅い。
それよりも気になるのは、彼らの話している内容だった。
声を出せない手前、自然と向こうの会話を聞く態勢になってしまう。岩柱を挟んですぐ向こうにいる二人の会話は、反対側にまでよく聞こえてきた。
「……修復家で在ることを諦めたほうが……」
ルカは悩んでいた。
今回の修復は下準備に時間がかかるから――と、最後に会ったとき彼は言っていた。それが苦し紛れの言い訳で、本当は立ち止まって思い悩んでいたのだと、ニノンはこのとき初めて知った。
何々という食べ物が苦手で食べられないとか、愛用していたズボンが破れただとか、日常の些細な悩みなどではない。それはもっと、彼の人生観を根幹から揺るがすような悩みだった。
――だから教室で様子がヘンだったんだ。何も知らずに私、手伝うなんて言って……ああ、だからあのとき……。
珍しく修復作業が進まないと漏らす少年の、余裕のない背中を思い出す。
あのとき見せた態度の理由がゆっくりと紐解かれていく度に、どこか突き放されたように感じて拗ねていた自分の肩を強く揺さぶりたくなった。絵画の声は聞こえるくせに、大切な人の心ひとつも覗けやしない。
ニノンはやり場のない感情を深い息とともに吐き出した。
後悔はいつだって後から押し寄せてくる。
「……そこには、自由がないよ」
漏れる会話を忍び聞いているうちに、ニノンは露天浴場から抜け出すことなどどうでもよくなっていた。
彼の苦しみを取り除くための力になりたい。
一刻も早く元の彼に戻ってほしい。
きっと似たような思いを、ルカも絵画に対して抱いてきたのだろう。傷付いた相手を癒したい。それは、愛がなければ抱けない願いだから。
「俺たちはそんなにバカじゃねーっつの」
鬱々と考えにふけっていると、大きな声が耳に飛び込んできて、ニノンはびくりと肩を揺らした。
「頭ごなしに禁止されるとムカつくんだよ」
アダムがルーヴルの陰口を大声で叩き始めたのだと分かり、「あーっ」と叫びそうになる。おそるおそる隣へと視線をやると、ユリヤは口を真一文字に引き結び、堂々と腕を組んで糾弾の一部始終を静聴していた。
否、心穏やかにというわけではない。その形のいい眉と眉の間に、一筋のしわが刻まれているのを見つけてしまった。ニノンの顔からサッと血の気がひく。
――怒ってる!
そりゃそうだろう、とニノンはひとり納得する。自分が属する組織を悪く言われて、気分を害さない人はあまりいない。けれど、アダムが反抗的になる気持ちも分かるのだ。ヴィヴァリオの町で開かれた〈サロン・ド・コルシカ〉において、彼がいかに酷い扱いを受けたかを、間近にずっと見聞きしていたのだから。
ニノンが双方の感情に板挟みになっていると、今度は背後で「ザバッ」という予期せぬ飛沫があがった。
反射的に振り返ったところで、ニノンは口を「あ」の字に開けたまま固まった。
そこには、立ち昇る湯けむりの中毅然と立ち上がるユリヤの姿があった。あろうことか、彼女はあまりにも堂々と、今最も出くわしたくない相手の元へと向かって歩き出す。
「だっ――だめだめ、そっちはダメー!」
彼女の腕を掴もうと思わず後を追い、まんまと隠れ蓑から飛び出た瞬間。
「あっ」
「え」
「ん!?」
各々の反応が重なった。しまった、と顔をあげたニノンの視線と、驚く二人の男たちのそれがかち合う。
頭の中で試合終了のゴングが鳴り響いた。
「……ニノン?」
名を呼ばれると同時に、ニノンは言葉にならない声を発しながら、目にも止まらぬ速さで湯船の中にダイブした。