第133話 アダムの解
いいところに連れて行ってやる、と行き先も告げられぬままアダムにおんぼろビートルへと乗せられ、レストニカ渓谷沿いの山道をひた走ること約十分。
なぜ自分は今パンツ一丁で大自然の中に突っ立っているのだろう――ルカは程よく晴れた空を仰いだ。
*
「……温泉?」
到着した建物の看板を見上げて、ルカはぽつりと呟いた。
「おう。しかも天然だぞ!」
「珍しいのか?」
「島じゃアジャクシオ近くとここ、二箇所にしかないからな」
「そうなのか」
相変わらずうっすい反応だな、とアダムは不貞腐れる。
温泉といっても要は屋外温水プールのようなもので、浴場にはスナックやドリンクを販売するキッチンカーが数台止まっていたりする。休日ともなれば水着を着た老若男女で賑わい、みな湯浴みや飲み食いを楽しむ――ここはそういった娯楽施設なのだという。
到着してすぐ、ルカは訳も分からぬままレンタルカウンターで無駄に派手な海水パンツを受け取った。生地は黄色いパプリカカラーで、股間部分に髭面の男の顔がでかでかとプリントされている。「これを履くのか…?」とルカは一瞬顔をしかめたが、流されるままにロッカーで着替えを済ませ、浴場に出て、今はアダムと共にキッチンカーの前でドリンクが出来上がるのを待っている。
アダムの海水パンツは無難なデザインだった。ネイビーの生地に島特有の△と線の模様がオレンジ色で入っており、むしろお洒落ですらある。なぜ股間に男の顔がない?
「パオリ学園の生徒はさ、近場で遊ぶってなったらここに来るんだってよ」
どこからどう見ても、この状況は”遊んでいる”で間違いない。そう思ったら、複雑な気分に拍車がかかった。ルカは落ち着かない様子で視線をさまよわせる。
雄々しい自然に囲まれた開放的な岩場と、豪邸の庭にありそうなプール程の大きさの浴槽が二つ。片方の浴槽の中央には、ナヴォーナ広場のオベリスクを思わせる背の高いモニュメントが突き立っている。オベリスクと違うのは、それが尖形ではなく太く立派な四角柱だということだ。
柱のてっぺんからは、長い髪をなびかせた女性――”島の英雄ディアーヌ”の動かぬ眼が、湯あみを楽しむ人々を静かに見下ろしている。
「確かにいいよな、ここ。ゆっくりできるしメシも食えるし」
アダムがのんびりと言った。ルカは視線をぐるりと前方に戻す。キッチンカーの中では、芯の太い黒髪を後ろでひとつに纏めた女性店員が、注文した商品の準備を手際よく進めている。
「おまけに女の子は水着だし」
「水着? 関係あるのか?」
「あるある、大ありだ。普段と違って開放的で健康的な感じがするだろ? 俺、そういうの結構好き」
「あ、そう」
アダムは湯あみする人々をじっと見つめ、肌色の曲線を網膜に焼きつけようとしている。あとでスケッチとして描き起こすつもりなのかもしれない。
「せっかくだし、誰かに声掛けてみるか」
「なんでだよ」
脊髄反射で声が出た。なにが”せっかく”なのか。
「スランプには気分転換が効くってよく言うだろ? 身も心もリフレッシュしなきゃな。たとえばほら――あ、あのセミロングの子とか」
ルカは眉根を寄せつつ、顎で指し示された先に目をやる。純粋そうな雰囲気の女の子が、友人と共に湯あみを楽しんでいる。
その姿に少しだけ、肩を落として教室を去っていった少女の背中が重なった。
「ちょっとニノンに似てる」
今頃彼女はどうしているだろうか。罪悪感めいたものを抱きつつ呟けば、隣でなぜかアダムが盛大に吹き出した。
「大丈夫か?」
ルカは咽せて苦しそうなアダムを背中越しに覗き込む。
「お、おう……いきなり変なこと言うなよ」
「……? なにか言ったか?」
本気で首を傾げると、途端にアダムの顔に動揺の色が広がった。
「いっ、言ってねーよ。誰が不埒だ!」
「いやそんなことは言ってない」
「う、うるせーな。第一、ちんちくりんは俺の趣味じゃねえっ」
「一体なんの話をしてるんだ……?」
ルカが真面目に考えている間に、アダムはごまかすようにカウンター向こうの女性店員とお喋りを始めた。サンバイザーのつばの下にはつぶらな瞳と小さな鼻。どこか小型犬を思わせる、東洋の顔立ちをした女性だ。
親しい挨拶を交わしているところを見るに、どうやらナンパではなく、顔馴染みの相手らしい。四人の中では、顔の広さで彼の横に出るものはいない。ここが生まれ育った町だと言われても違和感がないほどだ。
ルカは二人の会話には参加せず、意味もなく遠くに目をやった。
浴槽から立ちのぼる白い湯気や、その向こうに霞む岩肌を晒した山々を見るともなしに眺めてみる。どれも、ちっとも面白味のない景色ばかりだ。
――これじゃまるで仕事をサボっているみたいだ。
無駄に時間を持て余している自分を俯瞰するもう一人の自分が、そんなことをぽつんと考える。
ニノンに「一人でやれる」と宣言した手前、どうしても後ろめたさが尾を引いてしまう。柄にもなくちっぽけな強がりを押し通したくせに、結局は仕事を放り出しているのだ。だが、あそこで情けない姿を見せたくないという思いがあったのもまた事実だった。
それよりも、とルカは胸中で首を振る。
なにより作業方針が決まっていないことが重大である。車のトランクに置き去りにしてきた依頼物を思うと、またしても胃が重たくなった。
まるで味のないパンを延々と咀嚼しているような、なんとも言えない居心地の悪さに支配されていると、「おまたせしました!」と威勢のいい声が飛び込んできた。
「セドラサイダー、おまけでフルーツ付けときました。あとフリッテレです」
メニュー表でごちゃついたカウンターにドリンクが二つ、逆三角錐型の紙カップに山盛りの丸い揚げ菓子が提供された。
「サンキュー」
「あ……どうも」
いいですいいです、と店員は顔の前で気さくに手を振った。炭酸ジュースがたっぷり注がれたグラスの縁には、大きな輪切りのオレンジが刺さっている。
「サービスくらいしますってば。テオのご友人ですし」
聞き知った名前が聞こえた気がして、ルカは「え」と顔を上げた。
「あれ、ルカ覚えてねえ? テオってほら、頂上広場で会った"顔だけ天使"」
アダムは小首をかしげながら、揚げたてのフリッテレを摘まんで口に放り込む。
「それはさすがに覚えてるけど」
忘れていたわけではない。気にしないでおこうと思う度に彼の名を耳にすることが多いので、反応が過敏になっているだけだ。それにしても顔だけ天使だなんて、酷いあだ名だ。
「この子、あいつの仲間内の一人だよ。この温泉教えてくれたのも――」
「はい、ワタシですよー。お買い上げありがとうございます!」
テオの友人ははつらつとした声で告げると、自分用の飲み物を持ってキッチンカーから出てきた。軽くパーカーを羽織ってはいるが、その下はやはり際どいデザインのビキニ姿である。陽気な雰囲気に気圧されて、ルカはなんとなく視線を自身の手元に逸らした。すぐに彼女が隣へとやってきて、ルカの視界に押し入るようにカウンターへ肘をつく。腕の間で豊満な胸元が押し潰されて、谷間がよりくっきりと強調される。
「ほうほう、アナタがルカって子ですか」
「…………?」
ルカはまたしても一方的な周知の視線を受ける羽目になった。訝しんでいるのを雰囲気から察したのか、彼女は付け加えるように続ける。
「テオが――あ、ワタシ彼と同じ学科なんですけど、最近ぼやいてたんですよねぇ。あなたと友だちになりたいって」
「えっ」
ルカはぎょっとした。まさかである。頂上広場で話した時はむしろ突き放すような物言いをしてきたのだ。その彼が「友だちになりたい」とは、一体どういう風の吹き回しだろう。身に覚えがなさすぎる。
ルカは眉根を寄せながら、存在しえない可能性を手探りで探してみた。
「――それ、聞き間違いじゃないですか?」
*
「いやドライすぎるだろ」
ディアーヌ像の柱にもたれ掛かり、胸元まで湯に浸かったアダムが、先ほどのやり取りを思い出してひいひい笑う。
「だって本当にそう思ったんだ」
「ひでえ奴だな!」
ルカが大真面目に答えると、アダムはまたしても声を出して笑った。
湯はぬるく、立ちのぼる湯気はわずかに硫黄のにおいがする。島の至るところに共同浴場があることはルカも知識として知っていたが、実際に訪れたのは今回が初めてだった。
「でも頂上広場で会ったとき、二人で何か喋ってたじゃねえか」
「それは……」
まさにそれがきっかけで今こうして悩んでいる。否、彼の言葉によって”今まで目を背けてきた問題”が掘り起こされたと言ったほうが正しい。
ルカはごまかすように、透明な湯の中で手足を伸ばした。凝り固まった筋肉がゆっくりとほぐれていく。緩んだのは身体だけじゃない――口もだ。
「実は、ここ最近ずっとそのことについて考えてた」
「なんだよ、面と向かって悪口でも言われたか?」
冗談めかして笑うアダムに曖昧な視線をやってから、ルカはそっと前を向いた。湯けむりの向こうに見える山の木々を意味もなく目でなぞりながら、先日テオと交わした内容を一つ一つ確かめるように口にする。
なぜ絵画を修復するのか。
還元率を上げる以外に理由があるのではないか?
『結局そこ止まりか』
『もっと普通の人とは違う考えを持ってるのかと思ったんだけど、見当違いでした』
ガラス片のように鋭利なテオの言葉を思い出して、ルカは密かに苦い顔をした。一連の会話を言葉にしてみると、改めて己の信念が浅はかだという意見を遠回しに突き付けられたのだと痛感する。
彼の目にはその先の景色が見えているのだろうか。
「結局絵画を救うことはできないか……なるほどなー」
深く頷いたアダムは、頭の後ろで手を組んで、ごつんと岩の柱にもたれかかった。が、すぐに「そうだ」と身を起こす。
「このあと、うまいもんでも食いに行こう」
ん、とルカは思わず彼の顔を凝視した。脈絡がなさすぎて、今までの話を聞いていなかったのかと疑ってしまいそうになる。当の本人は、聞こえてなかったのか? と言わんばかりに「メシだよ、メシ」と繰り返した。
「いいか、疲れてるからそんなみみっちい考えになるんだ。ルカってさ、作業に入れば徹夜はざらだし、飯もろくに食わねえだろ? 日頃の不摂生が祟ったんじゃねーの」
「否定はできないけど、そういう問題じゃないよ」
「あのなァ。案外身体と心は繋がってるんだぜ。休むときはちゃんと休んだほうがいい」
「うん、でも……」
な、と有無を言わせない力強さで肩を叩かれ、ルカは押し黙った。アダムはそういう問題にしようとしてくれている。ルカが、立ち直りやすくなるように。
「休んだらもう、戻ってこれない気がする。失うために修復し続けるくらいなら、修復家で在ることを諦めたほうがいいんじゃないかって――ぶっ!?」
弱気な影を落とすルカの横顔に突如、ぶしゅっ、と湯が飛んできた。驚いて振り向けば、湯の中で両手を水鉄砲の形に組み合わせたアダムが、いたずらを成功させた子どものように笑っていた。
「いきなり何するんだよっ」
「バーカ、戻ってこれないワケねえだろ? 修復バカのお前が、修復やめて生きていけるかよ」
「バカ、バカって……それがわからないから悩んでるんだ」
「わかるんだよ!」
アダムは言うと同時にまたしても湯の鉄砲を撃った。
「う、それやめてくれ」
びしょびしょになった顔を手で拭おうとしたとき、アダムがそれまでとは違う、少しだけ真面目ぶった声色で「たとえばさ」と前置いた。
「医者の目の前に死にかけてる奴がいるとして、いつか寿命が来るからって医者はそいつを見殺しにすると思うか?」
「……? 助けられる命があるなら、手を尽くすんじゃないか」
「そうだよな。俺もそう思う。――お前だってそうだったんじゃねえのか、ルカ?」
「え……」
こちらを振り返ったアダムと目が合い、ルカは思い掛けずどきりとする。そこには、物事の本質を見抜こうとする画家の眼差しがあった。
「常に絵画のことだけ考えて修復してきたんだろ。還元率がどうのこうのなんて、考えずにいつも作業してきたんじゃねえのかよ」
「そうだよ。当たり前だ。そうじゃないときなんて、一度だってないよ」
「だったら過去の自分の味方になってやれよ」
「そんなの……」
続く言葉もなくルカはうつむいた。
口で言うほど簡単ではない、と叫びたかった。けれど本当は、誰よりも過去の自分の味方で在りたいと願っている。ルカの人生のほとんどは、修復作業と共にあったのだから。
一も二もなく、絵画のために修復を続けてきた。父からの教えが、祖父からの教えがそうであったように、今までずっと、本来の姿を取り戻すために修復してきたのだ。疑うことすらせずに、ひたむきに。
湯の中でぐにゃぐにゃに歪んだ握り拳を見つめていると、右側から「ほんとバカ野郎だぜ」と呆れるような声がした。
「お前が自分を信じられねえなら、俺たちが何度だって信じてやるっつーの」
あるいはそれは、背中を優しく押す手のひらのような、親しみのこもった声でもあった。ルカは何かを言いかけて、開きかけた口を閉じた。そんなことを言われたら、どんな顔をすればいいのか分からない。
下唇を噛みうつむいた視線の先に、ひとひらの葉が舞い落ちた。ニノンのワンピースを思わせる鮮やかな黄色の落ち葉が、水面に小さな波紋をつくる。
「……この世に存在する絵画は、エネルギーに換える為に描かれたものばかりじゃない。なのに、絵画だってだけですべて資源になる」
持ち上げた視線の先には味気ない岩山が広がっている。けれどその山間には、落ち葉と同じ色の木々がひっそりと寄り添うように繁っている。
「どうして画家や所持者には、絵画の末路を選択できる自由がないんだろう。どうして音楽とか、踊りとか……そういうものと同じように、人の心に何かを与える存在であり続けることができないんだろう」
生活の利便性と進歩を優先するあまり地球を蔑ろにした結果、人類は大いなるしっぺ返しを食らった。恥ずべき歴史を、現代の子どもたちはみな学校教育ではじめのうちに習う。冷たい地に平伏して、過去を猛省し、後悔した――そんな絶望の年月があったことを、誰しもが常識として脳に刻み込まれる。
彗星の如く現れたAEPは、人々にしてみればノアの箱舟同然だったという。
大洪水が引いた後も人々の心には鳩が咥えてきたオリーブの枝葉が残り続け、それはやがて大地に根を張り、質素倹約を是とする木になったのだ。
「ひとつを許せば規律が乱れる。それが今の世の中の在り方だってことはわかってるけど。そこには自由がないよ」
力強く糾弾するわけでもなく、言いきるには消極的な声だった。
ルカは感情だけで突っ走る方法をまだ知らない。だから、ぼうっとする頭の片隅で自由を叫ぶための理由を探っている。胸を張って自由を求められる言い訳を。
「俺、そういうのなんていうか知ってる。不公平だ」
「……えっ?」
得意げに放たれたその一言を、ルカは思わず取り損ねてしまった。
「だってそうだろ。歌は自由に歌っていいしサーカスだって観てもいいのに、絵は飾っちゃいけないし、絵本を作るってなるといい顔されねえ。不公平以外になんて言えばいいんだよ。描かなきゃいけねえもんはちゃんと納める、でも時には大事にしまっておきたいものもある。誰かのために描きたい絵だってあるんだ。世間はよ、画家を野放しにすれば生産性がゼロになるとでも思ってんのか? 俺たちはそんなにバカじゃねーっつの」
アダムは、ルカが口にすることすら憚っていた感情をためらいもなくぶつけてくる。
「頭ごなしに禁止されるとムカつくんだよ」
堂々と言いきる友人の横顔を、ルカは目を点にして見つめることしかできなかった。彼の主張は子どもっぽくて、けれど素直で、正論を真正面から跳ね飛ばすほど力強い。剣を弾くのに剣を使う必要はないのだと、実戦で証明された気分だ。
「自分の気持ちを変える必要なんかねえよ。変えんのは”やり方”だ」
アダムは満足したようにふんっと鼻を鳴らした。
やり方――絵画を修復し、同時に存命させる手段。人々の生活の基盤に絵画が敷かれているこの世の中で、そんな意見がまかり通るのだろうか。
そこまで考えて、ルカは心の内でかぶりを振った。
通るかどうかじゃない。通すのだ。
「そうだよな……このままじゃ、今まで手掛けてきた絵画に顔向けもできない」
美しいものを美しいと感じる心。己の信じる正しいものを、正しいと捉える感性。失くしてはならない大切なものを、危うく視界の外へ置き忘れてしまうところだった。
「俺は絵画修復家だから、傷付いた絵画がそこにあれば修復する。そうやって続けてきた過去の自分の行為は、やっぱり赦せない」
「ああ? でもそれは――」
「だけどこれからは、本当の意味で絵画を守っていきたいんだ」
否定しかけたアダムの声を遮って、ルカは手探りで言葉を繋いだ。
「どうやって未来に絵画を残せるのか、やり方なんて全然わからない。けど、考えることを諦めないって、いま、決めた」
岩肌の剥き出しになった山と山の間に繁る、黄色や橙に染まった木々。
何故先ほどは気づかなかったのだろう。
この島はいつだって、美しいもので溢れている。
「おう。そうこなくっちゃな!」
嬉しそうに笑うアダムに、ルカは静かに頷いた。そして口の端を少しだけ持ち上げ、彼の言い分を借用することにした。
「不公平なのはムカつくからな」
*
一方、同刻。
「なっ、なっ……なん……っ」
太い岩の柱を隔てて真反対に、身を縮こめ、顔を真っ赤にして湯に浸かる少女が一人。と、その少女を不思議そうに見つめる少女が一人いた。
――なんでルカがここにいるの!? しかもなんでアダムとデート!?
「なぜ小声なの、ニ――」
ニノン、と名前を呼び掛けた少女の口もとを慌てて手で覆い、ニノンは「しーっ」と人差し指を唇に当てた。
「こ、こんな恥ずかしい恰好で見つかりたくないからだよっ」




