第132話 それぞれの暇乞い④少女の場合
《前回のあらすじ》
財布を盗んだ自称・モデルの少女を町の頂上広場で捕まえたニコラス。怪しい言動を繰り返す少女をさらに問い詰めると、彼女は「モデルでもなんでもない」と告白しはじめ――。
その昔、少女には母と兄がいた。今となっては記憶も朧ろげで、顔もほとんど思い出せない。それは見知らぬ男たちに攫われて以来、家族と離れ離れで生きていくことを余儀なくされたからだった。
まだ幼い少女が連れて来られたのは、昼も夜も関係ない薄汚れた小部屋だった。扉には錠がかけられ、戸外にはいつも屈強な男が仁王立ちし見張り番をしていた。周りには知らない言葉が溢れていて、意思疎通もままならない。
そこが少女の新たな寝床になった。
残されたのは、貧しい女の子がお姫様になるまでを描いた絵本が一冊。自身の幼い頃の写真が一枚。それから兄の聞かせてくれた物語。それだけ。
好機が訪れたのはもっとずっと後の話だ。
あるとき、常連だった男が寝台で夢のような話を持ち掛けてきた(彼は度々手土産としてこっそり新聞の数ページを渡してくれる老紳士で、少女はそれを使って少しずつ文字を学んだ)。
なんでもここから逃げ出す手立てをしてくれるという。
そんな馬鹿なこと、と冗談半分で頷いた少女に、男は紳士的な笑みを向けた。
それからはあっという間だった。少女は荷物のようにスーツケースへと詰め込まれ、瞬く間に店の門をくぐり、そして二度とそこに戻ることはなかった。
今思えば、男は脱走の手助けをしたのではなく、いくらかの金を積んで少女を買い上げたのかもしれない。いくら考えたところで確かめようもない話だ。
ともあれ、あれほど永遠にも思えた少女の春をひさぐ日々は、あっけなく終わりを迎えたのだった。
「そのままその人のお屋敷で働くことになってさあ」
話に耳を傾けるニコラスの表情は実に複雑そうだった。
頂上広場の隅に並ぶ二組の背もたれのないベンチに、二人は隣り合って腰かけている。ちょうどカナンの壁画を真正面に臨める場所だ。
「毎日毎日、何百とある窓を拭いて、何千って階段を磨くんだよ。シーツ類を洗濯するでしょ、干すでしょ、食器を洗うでしょ……新しい仕事は健全だったんだけど、とにかく量が多くって」
「そうあってほしいもんだよ」
「だからそうだったんだって」
吹き抜ける風はいよいよ冷たさを増し、資料館の入り口に設置されたエネルギーランプに明かりが灯り始める。沈みかけた太陽の放つ残光は、まだしばらく好きなように語ればよい、と背中に僅かばかりの温もりを与えてくる。
「それでもねえ、掃除の合間に窓辺から眺める鉄塔の姿だけは、いっとき現実を忘れさせてくれたんだ」
雨上がりのエッフェル塔は特に美しい。早朝の薄紫の空に貼りついた切絵のように鋭い塔の輪郭も、少女のお気に入りの風景の一つだ。
「あのあたりの通りを歩く人たちってみんなお洒落な服着てるんだよ。『あ、あのワンピースいいなー』とか、『あの日傘可愛いなー』って思いながらいっつも窓の外眺めてたな」
「みんなあの街に合わせて洒落込むのさ。世界中の人々が集まる場所だからね」
「そっか。あそこが世界の中心なんだね」
そんな場所で暮らしていた過去の自分を、少女は少しだけ誇らしく感じた。
「風を通すために窓を開け放つでしょ、そうするとどこかから焼きたてのクロワッサンの香りが漂ってくるの。ああ良い匂いってお腹すかせながら掃除して、太陽がギラギラしだす頃には大通りから賑やかな音が溢れてきてさ。そうしたら、今度はセーヌ川の向こうから鐘が……ノートルダム大聖堂の鐘の音が響いてきて……」
初めてこの地を踏んだときのあの、空気を肺いっぱいに吸い込めなかった感覚を覚えている。ごつごつして歩きにくかった石畳の感触も、やけに高い空も、行き交う人々の話す言葉の響きの不思議さも。
チャンスなのだと思った。
これは神様が与えてくれたチャンスだ。予め決められていたはずの道から外れ、新たな世界へと踏み出すための。そう、たとえば、貧しい身分からプリンセスになった絵本の主人公のように――当時の少女は随分とそう意気込んでいたものだ。
だがしばらくしないうちに、早朝から始まる掃除や洗濯に加え、毎夜仕事を課せられるようになった。数年前の生活の再来だった。
結局、主人は元いた檻から逃してくれたのではない。少女を別の檻に仕舞うために手を差し伸べたに過ぎなかったのだと知った。
望まぬ生活は数年に及んだ。不貞行為が奥方にばれたとき、少女はうんざりするほど周囲から罵声を浴びせられた。あばずれ、売女、溝鼠……。執拗に虐め抜かれた末に門から叩き出されたのが数カ月前の話。そこからなけなしの金で日々を食いつなぎ、やがて今に至る。
「なんか思い出したらムカついてきた。追い出される前に金目の物でも盗んでくるんだった!」
威勢よく吐き捨てたとき、ニコラスが遠慮するようにこちらを見ていることに気がついた。少女はその湿ったらしい視線を吹き飛ばすように、元気よく伸びをする。
「誰かに喋ったら頭の中すっきりしたかも」
「そうかい。ならよかった」
誰かと会話をするのが楽しいのは嘘じゃない。きっと、今までろくな話し相手もいなかったせいだ。
少女はにこっと笑ってから、そっと肩を竦める。
「優しさってギフトの包み紙みたい。包まれたものはいつだって見栄えがいいんだ。中には真反対の感情が詰まってんのにさ? 世の中偽物だらけで嫌になっちゃうよ」
「見返りを期待しない優しさなんて、他者に求めるのは間違ってるのかもね」
「うん――だから、ニコラスさんだってそうなんでしょ?」
え、と小さな声が聞こえた頃にはもう、少女は相手の太腿の上に片膝を立てていた。
「いいよ。話聞いてくれたお礼だから」
「は……?」
ベンチの背もたれに手を掛け、自分よりも背の高い男を見下げる。少女には返せるものがひとつしかない。それ以外の方法を知らない。
意味を察してぎょっとしたニコラスが身じろぎする。その動きを封じるように、両肩を手で押さえつけた。
「ちょ、ちょっと待――!」
背を屈めた直後、少女は思いきり身体を押し退けられた。そのまま勢い余ってベンチから転がり落ちる。
「うきゃっ」
「こら、ひとの同意なしにそういうことするんじゃない!」
ニコラスはさっとベンチの端に身を寄せると、眉根を寄せて嫌悪感を露わにする。まるで汚らわしいモノを見るような目だ。
少女は恥ずかしさと悔しさで、自身の頬が熱くなるのを感じた。自信を持ってぴかぴかに磨き上げた武器を、素手で叩き落とされた気分だった。
「うう、なによぅ……!」
少女は地面から跳ね起き、流れるような速さでニコラスをベンチの上に押し倒した。「うっ」と悲痛な声を出して、相手はされるがままだ。先ほど打ち付けた腰がまだ痛むのだろう。
「見返りを求めない優しさなんて変だよ! 裏表のない優しさなんて、そんなものこの世にある!?」
大きく叫んだ声があたりにこだまする。
夕闇に沈みかけた町の頂上広場には二つの人影しかない。静まり返った空気の外側で、微かに警笛の音が響いた。本日の最終列車がコルテの駅から出発するのだ。
「あるよ」
揺らぐことのない声が、はっきりとそう告げた。
「は……」
「あんたの見てる世界の外側にはちゃんとあるよ」
「そんなの――嘘つき、証明なんてできないくせに」
「嘘ついて得することなんて、私にはないよ」
少女は胸倉を掴んでいた手を静かに放した。そして、跨っていた腹の上から退くと、ベンチに力なく腰を下ろす。
ニコラスがそういう見返りを求めていないことくらい、少女にだって分かる。欲しいのはそこに辿り着くまでの過程であって、答えではないのだ。
「この世にはちゃんと、包み隠すためじゃない優しさを持ってる人間が存在する」
いつしか立ち上がったニコラスが、コルテの町並みを見下ろしながら言う。
少女はふと隣に立つその横顔を見上げた。
「だって私は、一度そういう人間に助けられてるから」
アンバーの瞳の中で、燃える太陽が一瞬だけ光を放ち、やがて闇の向こうに没した。
「――オーランド・ベルナールさん」
「……ッ、え!?」
「でしょ? 助けてくれた人の名前って」
ぐるん、と勢いよく振り返ったニコラスの顔は驚きと焦りで強ばっていた。
「な、なんでそれっ……」
口をぱくぱくさせる様を悪戯っぽく笑ってから、少女はベンチから飛び降りた。
「写真の裏に書いてあったもん。ご主人様なの?」
返ってこない答えを肯定と受け取って、ふーんそうなんだ、と勝手に会話を進める。背中に突き刺さる強がりの視線は、むしろ痒いところを刺激してくれる。
「アタシも前の主とそういう風になれてたら幸せだったのかなぁ。その人の側にいるだけで幸せっていうの? わかんないけど。誰かを慕ったことなんて人生で一度もないし――うきゃ!」
何気なく振り返り、少女は思わず飛び上がった。鼻先がぶつかりそうなほど間近に、血の気のないニコラスの顔があった。
「び、びっくりしたなーもう。急に後ろに立たないでよ。っていうか顔怖いよ、ニコラスさん」
「――――して」
「え、なに?」
「絶っ対に、誰にも言わないって、約束して」
「……はぁ?」
「こんな、肌身離さず写真を持ってるなんて知られたら、どう思われるか……!」
あまりにも真剣な声色だった。真剣すぎて、少女は思わず吹き出した。
「ちょっと、私は真剣に!」
「ごめんごめん。大丈夫だよ、言いふらさないってば。そもそもアタシたちに共通の知り合いなんかいないし」
「そ、それはそうなんだけど、一応……」
「アタシがご主人様だったら嬉しいけどな。だってそれ、ニコラスさんの宝物なんでしょ? 誰かの心の支えになれる人間って普通にすごいじゃん」
「でも……気持ち悪いでしょう、こんな……」
「え、なんで? 首から十字架ぶら下げてるようなもんでしょ?」
ニコラスはぽかんと口を開けた。え、と少女も同じ顔で相手を見返す。誤魔化すように数秒視線をさまよわせたニコラスは、そのまま短く息を吐いた。
「そうだね……十字架だね……」
「だったらもう他人に盗られないように気を付けなきゃね」
「あんたに言われたくない!」
少女はいひひと笑って背を向けると、「じゃあね」と元気よく別れを告げて駆け出した。まだまだ文句を言いたげなニコラスの、中途半端な声が背中を追ってくる。でも戻らない。こんな馬鹿みたいに優しい人間に世話になるのはもうやめよう、と少女は思った。
なのに、追いかけてきた相手にぐっと腕を引かれ、引き留められる。
「あ、お別れのハグする?」
「違う!」
両手を広げれば、ニコラスは割と本気で否定した。
「あんた、またさっきみたいなことする気じゃないだろうね?」
さっきみたいなとは、路地裏で客を引っ掛けようとしていたことだろう。
「え~。だったらニコラスさんがパトロンになってくれる?」
「なるわけないでしょうが!」
「だよねー。ニコラスさん、お金持ってないし」
「くっ……」
ニコラスは一瞬ムッとしたが、すぐに真面目な顔に戻ると、
「今日の晩ご飯くらい、これでなんとかできるだろ?」
と財布から何か抜き取って、それを握らせてきた。
なけなしの紙幣だった。
少女はきょとんとしてニコラスを見返す。
「なんで……いいの?」
「いいんだよ。子どもの保護は大人の役目」
「……そ? じゃ、ありがたくー」
少女は素直に紙幣を受け取り、ポケットにねじ込んだ。
「ここを下りて二つ目の広場を右にいくと古い教会がある」
「教会?」
「今日はそこに泊まりな。宿、ないんだろう?」
「ああ、うん。そうだった」
仕事に勤しんで一晩を明かすつもりだったので、すっかり忘れていた。
「一晩くらいうちで……って言いたいところだけど、私も借り暮らしなんでね」
借り暮らしってなんだろう、と不思議に思ったが、ここは素直に頷いておいた。
「わかった。とりあえず行ってみる。ニコラスさん、色々ありがとね」
ひらひらと手を振って別れを告げ、今度こそ広場を出て坂道を下った。
――子どもの保護は大人の役目、か。
先ほどの言葉が少女の頭の中でぐるぐる渦を巻く。
そんなこと、考えたこともなかった。
ニコラスの中で子どもは守るべき存在で、彼にとってこちらに手を差し出す行為には、本当に見返りを求める気持ちなどないのだろう。きっと彼にとってそれは義務なのだ。昔の自分がそうしてもらったように。
薄紫の空の下、街灯がぽつぽつ灯りはじめた道をゆく。
石畳を叩く足音が、ひとつ、ふたつ…………。
「――いやなんでついてきてんの!?」
少女は勢いよく振り返り、ぴったりと後をついてくるニコラスを見上げて叫んだ。
「私もこっちが帰り道なんだよ!」
「あ、そうなの?」
「そうだよ。駅近くのマーケットに寄る用事もあるから、ついでに教会まで送り届けてあげようか? あんた一人だと絶対あやしい通りに戻るだろうし」
「何それひどくない? 全然信用してないじゃんアタシのこと!」
「するわけないだろう盗っ人のことなんか」
「はあー!? そのことについてはしっかり謝ったでしょ!」
「謝ってない! 偉そうに突っ返されただけだよ!」
「あっそう、謝ればいいんでしょ! ご・め・ん・な・さ――」
バンッ! と通りに面した家の窓がけたたましく開き、中から顔を突き出した住人にきつく睨まれた。二人は慌てて口を噤む。ニコラスが瞬時に顔の前で手を合わせると、住人は最後にいっと歯を剥いて頭をすっ込め、ガラスが外れそうな勢いで窓を閉めた。
「最悪だわ……」
「同感」
二人は示し合わせたように無言で睨み合った。
*
それからの道中も小声での小競り合いは絶えなかった。どちらのほうがうるさかっただの、そっちのせいで叱られただの云々。そうして教会の近くまでやって来た頃には、罵り合いにも飽きてどちらも口数が減っていた。
「さっきさー」
「うん?」
「ニコラスさん、小さい頃に自分も助けられたって言ってたよね」
節電のためか、ぼんやりと頼りない街頭の下を歩きながら、少女はぽつりとそんなことを尋ねた。
「昔、なにがあったの?」
日はすっかり暮れ、空は藍色と紫の入り混じったような色に変わっていた。隣を歩くニコラスの視線が一瞬だけちらりとこちらを向き、すぐに前方へと逸れた。
「――私には双子の弟がいるんだけど」
何も答えないかと思いきや、彼はおもむろにそう切り出した。
「あんたが攫われるよりもう少しだけ大きかった頃だと思う。私たちの住んでいた村はちょっと特殊で、時々殺人が起こるような場所でね」
少女は無意識に息をのむ。日頃から耳にはすれど、身近では馴染みのない言葉が聞こえた気がした。
「……もしかして、殺されそうになったの?」
「あの村に生まれた瞬間から、いつかはそうなるって決まってたのさ。私たちはまだ小さかったし、力も弱くて、大人に襲われたら抵抗しても無駄だっただろう。でもある日、あの方が――オーランド様が私たちを助けてくれた。文字通り、命の恩人ってやつでさ」
「え、ちょっと待ってよ……決まってたってなに?」
少女は堪らず口を挟む。
淡々と語るニコラスの声も、静まり返った夜の町も、薄暗い街頭も、すべてが不気味で仕方なかった。
「人を殺していい理由なんてあるわけないじゃん……その村、おかしいよ」
呟くような疑問を最後に重たい沈黙が流れた。石畳を下る二人分の足音が、夜の空に奇妙に響く。
「”ヴェンデッタの村”、って聞いたことあるかい?」
広場をつっきって右に曲がる。このあたりの街頭はいっとうぼんやりとして、ほぼその役割を果たしていない。薄暗さは不安を余計に掻き立てた。
「さぁ、聞いたことない。どこにあるの? この島のどこか?」
「存在しないよ」
「は?」
「住人が皆いなくなって、地図から消えた。残ったのはどこの誰が呼び始めたかもわからない、仮の名前だけ」
「地図から消えた? その村が一体――」
どう関係しているのか、と尋ねかけたところで、少女は「あっ」と合点する。
「ああ。”ヴェンデッタの村”は、私の故郷につけられた名前だ」
胸の内で正体不明の不安が渦巻き、少女は思わず相手の服の裾を掴んだ。
「ヴェンデッタって……どういう意味?」
恐る恐る口を開いたとき、ぴたりとニコラスの足が止まった。少女も倣って立ち止まる。目の前に、質素な煉瓦造りの教会がひっそりと建っていた。
「さ、お話はもう終いだよ。あんまり夜分に押し掛けるのも悪いから、さっさと行こうか」
「え、ええー。続きは?」
「ない。潰れかけてた村から双子が助けられたってだけさ。気になるなら自分で調べりゃいい」
「やだ。耳で聞くのがいい」
ニコラスは返答の代わりに教会の扉を叩いた。しばらくしないうちに扉が開き、少女はとっさにニコラスの背中に隠れた。出てきたのは温和な雰囲気の神父で、二人を見るなり「おやおやどうされましたか」と尋ねた。
大人同士で事情を話している間、少女は二コラスの服の裾を掴んだまま、彼の背中から神父の禿げ上がった頭頂部をじっと盗み見ていた。中途半端に開いた扉の縁から、やわらかい明かりがこぼれている。メイン通りから離れているせいか、あたりはやけに静かだ。
「――では、よろしくお願いします」
「ええ。ご引率ありがとうございます」
頭の禿げ上がった神父は、ふくよかな頬を持ち上げて微笑むと、次に少女へ顔を向けた。
「用意が整うまで遠慮なく寝泊まりしていいですよ。朝食も簡単なものなら出せますからね。今夜は安心して眠りなさい」
「……あ、ありがとう……ござぃ……ます」
神父はもう一度微笑むと、「支度をしてくるので、中に入って待っていてください」と言って戻っていった。
「これで心配事がひとつ減ったわ」
背中をぱしんと軽く叩かれ、少女は振り返る。
「心配事ってアタシのこと?」
「あんた以外に誰がいるんだい。ま、あんたはしっかり者だし、もう心配してないけどね。でも他人の物を盗むのはダメだよ。相手のこともちゃんと考えな。わかったね」
「う……うん。ニコラスさん、あの……」
「ん?」
「アタシ…………ごめんなさい」
そのたった一言を口にすることが、物を盗む一瞬よりも遥かに緊張するだなんて、少女は知らなかった。言葉が喉に詰まる感覚を初めて知った。今までの人生において、一度も知る機会のなかったことばかりだ。
ニコラスは満足げに頷くと、踵を返した。ピンクと緑の派手な服装も、すぐに闇夜に紛れて霞んでしまう。まるではじめからそこに居なかったかのように、呆気なく消えてしまう……。
「あ――アタシの名前! ルクサナって言うの」
もう二度と会わない相手に名乗るなんてどうかしている。そう思いながらも、少女は彼の背中に声を掛けずにはいられなかった。
「いつかまた話の続き聞かせてよ! 中途半端なままだと気になるじゃん!」
振り向かないまま片手を振るその素振りが肯定なのかどうか、ルクサナには分からない。ただ、相手に声が届いたということしか。
今頃路頭に迷っていたはずの少女は、相手の背中に向かって手を振り返す。
日の沈みきった町の空に一番星が輝いていた。
次回はルカ視点に戻ります。アダムに連れて行かれた場所とは…?




