第132話 それぞれの暇乞い③少女の場合
冷えた風の吹くコルテの頂上。
沈みかけた太陽が町全体をオレンジ色に染める頃、少女はシタデルの側に植わった栗の木にもたれ掛かり、財布の中身を数えていた。背後に広がる家々の煙突からは、ぽつぽつと白い煙が立ち上っている。
「三、四、五……ちぇー、たったこれだけかぁ」
少女は腰に届くほど長い黒髪を掻き上げる。風も起こせないほど薄っぺらな紙幣をもう一度慎重に数え始め、一呼吸終える間もなく数え終わった。間違えようもない少なさだ。
派手な衣装の人間ほど金持ちだと思っていたが、とんだ誤算だった。
「まぁ数日は飲み食いできるけど――あれ?」
財布を閉じかけたとき、ふとカードポケットに目がいった。空っぽのはずのそこに、紙のようなものが挟まっている。たとえばそう、紙幣くらいの大きさの。
少しの期待を胸に取り出してみると、それは二つ折りになった写真だった。
「なんだ、金じゃないのかよ」
盛大に舌打ちして、少女は広げた写真を睨みつける。
写っているのは二人の男性だった。
そこは暖炉のある部屋で、壁には大きな花瓶を描いた絵画が飾られている。まるでインテリアのようだ。金持ちの屋敷といった雰囲気である。
右に立つ男性は三十代から四十代くらいで、身に纏った衣装からはどことなく気品が漂っている。浮かべる笑顔も物腰の柔らかいもので、いかにも育ちのいい人間、という印象を受けた。
それから隣の人物に目をやり、少女はん、と眉をひそめる。
「これさっきの……若い頃の……?」
髪を緑に染めてもいないし、化粧をしているわけでもない。でも、顔立ちが何処となくニコラスに似ている。十代くらいに見えるから、かなり昔に撮影されたものらしい。
給仕服姿の青年は、癖のある茶髪をワックスで纏め、気恥ずかしそうにそっぽを向いている。
上質な衣装の男性の方が主人で、青年は使用人か何かなのだろうか。そんな風に憶測をつけながら、何気なく写真を裏返してみる。
「……?」
片隅にペンで何か走り書きがされていた。少女は滲んでぼやけた文字を読み取ろうと目を細める。
「……"オーランド”……”ベルナール様と"……?」
さらにその下に、小さく数字が並んでいる。おそらく日付なのだろうが、どこかで濡れたのか滲みが酷くて判別できない。
「――見つけた!」
そのとき、坂道の向こうから激昂する男の声が響いた。
「げっ、やばっ」
こちらに向かって走ってくる特徴的な緑髪の男の姿を目にするなり、少女は慌ててその場から逃げ出した――だが、相手の足は異様に速かった。
シタデルの壁際まで逃げたところで、少女はあっさりと追い詰められた。咄嗟に脇をすり抜けようとしたが、勢いよく壁に手を突かれ逃げ場を失った。
視界が翳り、耳の近くで心臓がどきりと音を立てる。
「逃がさないよ」
「あっ、と……」
恐る恐る顔を上げると、静かな怒りを湛えた瞳が遙か高いところからこちらを見下げていた。微かなホワイトムスクが鼻先を掠め、その距離の近さを思い知る。背中には煉瓦壁のごつごつとした感触。黒いワンピースの下を、冷や汗が一筋伝う。
「わ――偶然だね! また会うなんて……」
「偶然じゃない。見つけるのにどれだけ苦労したか」
「へえ、ふぅん……そんなにアタシに会いたかったんだ。意外と積極的なんだね?」
挑戦的な笑みを向けるも、相手にはまるで刺さっていないらしかった。
「私はあんたとお喋りしに来たわけじゃない」
冷めた声でそう吐き捨てたニコラスは、少女の手元を顎でしゃくった。
「取り返しに来たんだよ、それを」
左手にあるのは茶色の革財布。右手には先ほど驚いたせいでくしゃくしゃに握り潰してしまった札束がある。
「あ、あ〜これ? この財布、ニコラスさんのだったんだ? さっきのカフェで落ちてて……」
「落ちてて?」
矢のように飛んできた視線が、言い逃れはできないぞ、と案に示している。
「やだなぁニコラスさん。アタシを疑ってんの?」
少女は笑顔を貼り付けたまま、どうやってこの場を切り抜けようかと頭をフル回転させる。
「この場で返すなら警察には突き出さないけど?」
「うわっ、やっぱ疑ってんじゃん!」
ひっどいなあ、と少女はむくれてみせた。
「ちょっと中身確認してただけだってば。身分証明書があれば、落とした人に連絡してあげられるでしょ?」
心にもないことを説明しながら、ちらっと相手の肩越しに逃走経路を確認する。頂上広場の出入口は一箇所のみ。普通に逃げても足の速いニコラスには簡単に追いつかれるだろう。そう、普通に走れば、だ。
「でもここで会えてよかったよ。だってアタシ、今から交番に届けにいこうかなーって、思ってたとこ……だしッ!」
相手の顎先目掛けて、勢いよく肘を突き上げる。
「っ!」
反射的にニコラスは腕で顔を庇う。すんでのところで攻撃を防がれたが、相手が一瞬怯んだ隙に少女はうまく脇をすり抜け、背後にまわる。そして思いきり回し蹴りを繰り出した。
パシンッ――素早く振り返ったニコラスに、片手で容易く足首を掴まれる。
「ちょっと!」
「手癖だけじゃなくて足癖も悪いなんて、とんだじゃじゃ馬だね!」
「女子の素足を気安く触らないでよね。お金とるわよっ」
「あんたが先に仕掛けてきたんでしょうが!」
掴まれたままの足を軸にして、相手の腹部に思いきり突きを入れる。ニコラスが「うっ」と呻きよろめくと、少女はすかさず力の緩んだ手から足を引っ張り抜き、後方に跳躍して間合いをとった。
「た……たいした身のこなしじゃないか。げほっ」
腹をさすりながらも、ニコラスはじりじりと近付いてくる。少女は同じだけ後退して間合いを確保しつつ、軽快にファイティングポーズをとった。
「か弱い女の子だもん、護身術くらい身につけとかないとね。ほら、物騒な世の中じゃん?」
「護身術っていうより、もはや曲芸だね」
「なにそれ。ケンポーの技?」
「"人を魅了する技術"のことさ」
短く息を吐くと同時に、ニコラスが一気に距離を詰めてきた。
少女は自身を捕らえようと繰り出される手を必死に避け、逃げ回る。時折り蹴り技を打ち出しつつ、どう逃げ切ろうかと考える。
どこかで一発ぶち込んで動きが止まった隙に逃げる。これだ。
だが、そのチャンスがなかなか来ない。
「もうっ、なんなの! なんで、ハァ、そんなに……しつこいの!?」
長引く鬼ごっこに嫌気がさし、少女は息も絶え絶えに叫んだ。
「あんたがっ、人の物を、盗むからでしょうが……ッ」
「ちょっとしか入ってないんだからいいじゃん――あっ!」
喋るのに夢中になりすぎた。少女は転がる小石に足を取られて盛大に尻もちをつく。
立ち上がる間もなく、ニコラスが仁王立ちになって目の前に立ちはだかった。
自分のものよりも何回りも大きな腕が、こちらに向かって伸びてくる。少女は咄嗟に目を瞑り、ぎゅっと身に力を入れた――けれど、拳は一向に飛んでこない。
「……?」
そっと瞼をひらく。彼の大きな手のひらはこちらに向かって突き出されたままだった。
「返してほしいのは金じゃない。その財布だよ」
「……財布ぅ?」
少女は怪訝な顔で、差し出された手とニコラスの顔とを交互に見比べる。
「いいよ。別に容れ物になんか興味ないし。その代わりお金はくれるんでしょ?」
「は? どっちも返してもらうに決まってるだろ。ほら、さっさと立ち上がりな」
どうやら差し出された右手は返却の催促ではなく、助け起こすという意思表示だったようだ。
執念深いが、案外情に流されるタイプなのか。犯人を警察に突き出さないなんて、お人好しを通り越して馬鹿だ。財布が返ってくればそれでいいだなんて、よほどのお気に入りの財布なのか――そこで少女は、ふとある存在に思い至った。
「ねえ。ニコラスさんが本当に返してほしいものってコレじゃない?」
ポケットから取り出した例の写真をぴらりと顔の前にぶら下げる。
その瞬間、明らかに相手の表情が強ばったのが分かった。
少女は地面を弾くように跳ね起き、動揺する相手に遠慮なく足払いを掛ける。ニコラスは受け身を取る間もなく、背中から派手に転倒した。
「いッ……」
「じゃ、お元気でっ。もう会うこともないと思うけどー」
「ちょっ、待……!」
言うが早いか、戦利品をポケットに突っ込んで走り出す。
必死の声は背中を引っ掻く程度で、相手が追ってくる気配はない。打ち所が悪かったのかもしれない――無い良心を痛めつつ、今日にはこの町を出よう、と頭の中で算段をはじめる。
列車に乗って南下すれば、コルシカ島の首都・アジャクシオがあると聞く。ここよりも人口はおろか隠れ蓑だって多い。観光客の往来激しい港町は、しばらくの生活費を稼ぐにはうってつけと言える。
「返してくれ……」
縋るような声がした。
少女は強く手を引かれた心地がして、ぴたりと足を止める。
「それは……本当に大事な、ものなんだ……」
手元には、思わず持ってきてしまったぼろぼろの写真が一枚。照れ隠しのようにそっぽを向いている青年へと目を落とし、しばし考える。
――こんなぼろっちい写真たった一枚が?
左右に引っ張れば裂けてばらばらになりそうなほど劣化しているのは、肌身離さず持ち歩いているせいだろうか。そんなにも大切なのか。ただ一枚の古びた写真を追って、日が沈むまで町の中を奔走するほどに……。
少女はふん、と鼻で小さく息を吐くと、くるりと踵を返した。ニコラスは地面に座り込んで、背中を押さえている。俯く彼のもとまでつかつかと歩いていき、財布とその中身を無言で突き返した。
「え……」
ん、ともう一度手を突き出せば、「え?」とまたしても困惑された。
「なによ、いらないの?」
「いや……ありがとう……」
ニコラスはひどく驚いたような顔をして、大事そうに写真を受け取った。
「そんなに大切なの、それ。命よりも?」
「命より……いや、なんだろう。心の支え……みたいなもんかな」
まるで恥ずかしい秘密を暴露するかのような言い方だった。少女は「ふーん。あるよね、そういうの」と頷きながら、ニコラスの手を掴んで体を引っ張り起こそうとする。
「いっ……も、もうちょっと優しく」
情けない声を出すので、今度は背中に腕を回してゆっくり立ち上がらせた。
「アタシにもあるな、心の支え。大好きな絵本でしょ、初めて撮ってもらった自分の写真でしょ。それから――」
少女はくるりと城塞に背を向けた。目の前に、赤く染まるコルテの街並みが広がる。
「それから、寝る前にいつもお兄ちゃんが聞かせてくれた物語」
栗の木の枝葉からこぼれる西日がまぶしくて、思わず目を細めた。輪郭のぼんやりとしたオレンジ色の太陽が、山脈の向こうに溶け始めている。
「物語?」
「うん」
夜になると思い出す物語がある。
「知ってる? ちょっといじわるなお爺ちゃんドラゴンが、世界中を飛び回る話なんだけど」
少し考え込んだ後、ニコラスは申し訳なさそうに首を振った。
「聞いたことないね」
「だよね。うん、あんまり有名じゃないんだと思う。知ってるって人に出会ったことないもん。でも絶対どこかに存在してるはずなんだよね、その本。だって、その話をアタシが覚えてるんだから」
ニコラスはこちらの話に耳を傾けながらも、ゆっくりと煉瓦壁のほうに近づいて、例の壁画を眺めている。
青いスプレーと切り絵を使って描かれたグラフィティ。背後に続く民衆を鼓舞するように、女神が天に向かって旗を掲げている――その有名な名画のオマージュの隣に、雰囲気の違う絵がひとつある。
冠を頭に乗せた女の子の絵。決して上手くはない、子どもの落書きのようなそれは、名画ほど有名ではないとある絵本のオマージュだった。
カナンの集団に紛れて少女が勝手に落書きしたものだ。
そんなことなどつゆ知らず、ニコラスはしげしげと目の前の壁画に見入っている。
「心の中では何度だって思い返せる、けど、やっぱりさ……幻と実体は違うじゃん。だからいつか絶対見つけ出して、手元に置いておきたいの。まぁ、どこの誰が書いた話なのかも、なんてタイトルなのかもわかんないけどね」
「いいんじゃないの?」
「うわぁ、ざっくりした肯定」
「あの世と違ってこの世は全て地続きなんだ。歩き続けてりゃいつかは見つかるかもしれないね」
「ふーん。つまり頑張れってこと?」
少女はうんと伸びをして、身体いっぱいに西日を浴びた。
これで列車に乗る金もなくなった。今夜からまたしばらく寝なし草である。ひとまず適当な場所で客を引っ掛けて、当面の生活費でも稼ごう――などと考えている時だった。
ようやく壁画に飽きたらしいニコラスが、やにわにこちらを振り向いた。
「あんたさ、パリでモデルやってるってあれ、本当の話なの?」
予期せぬ問い掛けだった。
心臓めがけて石を投げられたような衝撃が走る。
「え、えなにいきなり? どういうコト?」
少女は振り返り、明るい声で返す。
「いや、さっきたまたまあの男たちに会ってね。少し……聞いたんだ。あんたがモデルやってるなんて嘘なんじゃないかって」
まるで水の中にでもいるかのように、相手の声は遠く、ひどくぼんやりしていた。そのくせ心臓は耳元でどくんどくんと鮮明に脈打っている。
「まぁ、あいつらが恨みつらみで適当なことを言ってるだけかもしれないけどさ」
言葉を続けあぐねるニコラスの目に、少しの哀れみを見つけた気がして、少女は苛立ちを覚えた。
金にもならない同情心は、不快だ。
「……ニコラスさんも、アタシのこと嘘つきだと思ってるんだ?」
「違う、違う。ただちょっとほら、心配というか」
取り繕うようにそう言って、ニコラスは真っ直ぐこちらを見据えた。
「あんた今日泊まるところはあるの? もう日も暮れるし、そろそろ宿に戻ったほうが――」
「ないっ」
「えっ」
少女はぎょっとするニコラスの顔を見て、少しだけ気分が良くなった。
「だってモデルじゃないもん。宿代なんて持ってないでしょ」
「え、でもさっき、パリのアパルトマンに住んでるって……」
「住み込みで下働きしてただけ。自分の家じゃない。でもそのお屋敷の窓から見えるエッフェル塔が、アタシ大好きで――」




