第131話 それぞれの暇乞い①ニノンの場合
「やっぱりルカ、あんまり調子よくないっぽいなあ」
ニノンはうーんと首を捻りながら、ひとり大通りの坂道を上る。
常に前を見据えている瞳が、迷いに揺れていた。そんな光景を目の当たりにしたのは、おそらく初めてだ。普段なら一も二もなく作業に明け暮れる少年である。それが、対象のキャンバスを前にぼんやりとしているなんて。
揃って寝込んだ先日の風邪が、まだ治りきっていないのかもしれない。
ルカに対する違和感に頭をめぐらせつつ、ニノンは噴水のある広場を通りすぎた。狭い石階段を上り、緩くカーブする坂を道なりに行けば、右手に見覚えのある帽子屋の看板が見えてくる。コルテにやって来たばかりの頃、一度だけ酷く道に迷ったことがあった。あれは、この店を道標にして道を覚えようとしたからだった。
今のニノンは足取りに迷いもなく、目を瞑っていても丘の上に立つニキ邸に帰り着くことができる。このまま真っ直ぐ行けば町唯一の駅があり、さらに登ればパオリ学園の正門に続くイチョウ並木が見えてくる。
人気のない教室の片隅では、修復家の少年が今も頑なに絵画と向き合っているはずだ。
*
遡ること数時間前。
暇乞いを言い渡されたニノンは、教室を出るとすぐに町の南の森へと向かった。
正しくは、森の僻地に佇む"フェルメール邸"だ。
事前調査で手いっぱいのルカに代わり、依頼主からもう少し絵画の話を聞き出そうと思い立ったのだ。たとえば画家のこと、絵画にまつわるエピソードのあれこれ、作品に出会ったきっかけ、といった具合に。
――手伝いはいらないって言われたけど、動くなとは言われてないもんね!
キャンバスから零れ落ちたヒントを拾うのだって立派な修復作業の介助になるはずだ。そしてこれはいい考えだぞ、とも思った。
突然の訪問者にフェルメールは一瞬キョトンとしたが、それでも快くニノンを迎え入れてくれた。
「お一人で来られたのですか?」
「うん。久しぶりにおじいちゃんに会いたいなって思って。そうだ、これお土産。ニコラスに教えてもらって一緒に焼いた栗粉のクッキー!」
そう言って紙袋を差し出すと、フェルメールは感激のあまり白い髭に埋もれた唇をわななかせた。
「ニ、ニノン様……わしのためにわざわざそんな……ッ!」
「あー、えっとこれは……」
「さぁさ、中に入ってさっそくいただくとしましょうかの。温かいミルクでも淹れて――ニノン様はココアがよろしいか? それともミルクティにしますかの?」
「み……ミルクで……」
そのはしゃぎっぷりといったら、さながら孫に初めて似顔絵を描いてもらった老人である。ニノンは誤魔化すように苦笑いを浮かべながら、間違っても"余り物"などと口走らなくて本当に良かった、と思った。
それから二人は一面青い壁の応接間に移動し、ソファに座ってゆったり語らいあった。
仕事もなく家族もないフェルメールは、日がな庭いじりに精を出しているようだ。庭に植えたコスモスのオレンジ色が今年は少し薄いことだとか、秋の野薔薇が綺麗に花を咲かせたことだとか、彼が語るのはおおよそが庭にまつわる話だった。
温めた羊のミルクに栗の蜂蜜をたっぷりと入れ、時にスプーンでかき混ぜながら、ニノンは自分にも祖父がいたらこんな感じなのだろうか、などと考えながら話を聞いた。ニノンの祖父は幼い頃に亡くなっているので、記憶はほぼ残っていない。だが、近くに暮らしていればきっと、こうしてしょっちゅう顔をだしていたことだろう。
「ねえ、おじいちゃん。今ルカが修復してる絵のこと、訊いてもいい?」
「ん? ああ、かまわんよ」
もっと渋るかと思いきや、頑ななはずの口元は案外緩んでいた。話し相手がニノンただひとりだったから、ということもあるかもしれない。
「あれはのう、タイトルを〈恋文〉というんじゃ」
え、とニノンが視線をやると、フェルメールは懐かしそうに目を眇めた。
「あの絵を描いた画家はの――」
時に心こそばゆそうにそわそわしながら、彼は件の絵画が生まれた経緯と画家にまつわる話を語って聞かせてくれた。
情熱を掻き抱く男と女。煌びやかで豪華絢爛。
どこか高貴で手の届かない場所に掲げられているような印象だった黄金の絵画も、彼の話を聞いた後では、少しは違って見えてくるというものだ。
一時間ほど滞在したところで、ニノンは礼を述べてフェルメール邸を後にした。
今回の収穫はきっと修復の糧になる。そうニノンは確信していた。
作業の手を四本には増やせなくても、手伝えることはいくらだってある。
手に成れないのなら、耳に成ればいい。
"助かったよ、ニノン"
青い瞳を細めて微笑む少年の幻が脳裏に現れ、甘い声でそう囁いた。
"やっぱり俺にはニノンが必要なんだ"
"ルカ――?"
赤面するニノンの手を流れるような仕草ですくい上げる。そして静かに、けれど揺るぎない眼差しを携えて、こう告げるのだ。
"ずっと、一緒にいてほしい――"
「――なーんて言われたらどうしようっ!」
ニノンがひゃっと両手で頬を覆ったとき、頭上で遮断機がけたたましく鳴りはじめた。まるで行き過ぎた夢物語を勝手に覗かれ、咎められた気分だ。
「冗談だってば、冗談……ん?」
そこはかとない虚しさを頭から追いやっていると、線路を超えた先の道路に目がいった。視界を遮って降りてくる赤白模様の遮断棺の向こう、長いブロンドヘアーの女性が道端で困ったように肩を落としている。
「あの人、どこかで……?」
丈の長いグレーのチェスターコート、すらりとした黒革のブーツ。コルテの街並みからは浮いてしまうような、垢抜けた雰囲気を纏っている。こちらに背を向けているので顔は見えないが、それでもニノンはその背格好に薄っすらと既視感を覚えたのだった。
小ぶりのスーツケースを携えているので、旅行客だろうか。
しばらくその場で佇んでいた女性が、不意に横を向いた。さらりと色素の薄い髪が揺れて――その横顔を見た瞬間、ニノンはぎょっとした。
「ゆっ……!」
ガタタン、ガタタン。
車窓の大きい列車が、激しく揺れながら目の前を通過していく。
間違いない。彼女は――。
――ユリヤちゃん!? どうしてここに……!?
ニノンは心の中で叫んだ。
ルーヴルで行動を共にした、あのユリヤである。だが、海を隔てた地にいるはずの友人が、なぜこの町にいるのか。AEPの研究に携わっているはずの彼女が、まさか放浪の旅に出るはずもない。
嬉しさと困惑にのまれていたニノンは、そういえば、と思い出す。別れ際、ユリヤに打ち明けたのは名前だけだった。つまり、彼女は本来のニノンの姿を知らないのだ。声を掛けたところで、見知らぬ人間がいきなり近寄ってきたと不審がるかもしれない。異郷の地ならなおさらだ。
どうせなら、ルーヴルから脱する際にウィッグくらい取っておくべきだった。
ほどなくして列車は過ぎ去った。
ひらけた視界の先、彼女は変わらずそこに佇んでいる。そして、灰色がかった青色の瞳をじっと細め、疑うようにこちらを凝視している。切れ味のいいその眼差しはニノンをますます消極的にさせた。
片手を挙げて声を掛ければいい。
けたたましい音が止み、遮断桿が上がる。
その名を呼んで、久しぶり、と笑えばいいのだ。
少女は無表情のまま、速足でつかつかと近付いてくる――。
「――うえっ!?」
そして、そのまま飛びつく勢いで抱きしめられた。
「ニノン、会いたかった」
溜め息に似た呟きが耳元を掠める。
顔じゅうを包む、咲たての花のような香り。
同じだ。ルーヴルの廊下を並んで歩いたときに嗅いだものと、同じ香りだ。
「ユリヤちゃん……私も、会いたかったよ」
困惑と嬉しさでない交ぜになったまま、ニノンはおずおずとユリアの背に腕をまわした。ユリヤの腕にも、再会を確かめるようにぐっと力が籠ったのが分かった。
ニノンは少しだけ涙ぐんだ。それからすぐに、笑顔がたくさん溢れてきた。
名前しか知らない友人を、彼女は見つけ出してくれたのだ。
*
しばらくしてすっかり落ち着いた二人は、大通りを歩きながら簡単に事情を話しあった。
ひと月半ほど前にコルテにやって来たこと、現在請け負っている修復の仕事が終わるまではここに滞在すること、それが終わればまた違う町へ向かうこと――話しながら、ニノンは彼女との再会がいかに奇跡的だったかを思い知らされた。
一方、ユリヤは仕事でコルテにやって来たのだという。昼食をとったまではいいが、今日泊まる予定のホテルの場所が分からず、この辺りを右往左往していたらしい。
「地図を見ればこの辺りなのは間違いないはず。でも、さっぱりわからないわ」
ユリヤは大真面目な顔で携帯端末の画面を見下ろした。ニノンもつられて彼女の手元を覗き込んでみたが、表示された地図の見方がまず分からない。
これはたしかに"さっぱり"だと、潔く諦めて顔を上げる。
「つまり、迷子だね」
「ええ。どうやらそのようだわ」
二人は顔を見合わせ、堂々と頷きあった。
「こんなことなら一緒に来た人と昼食をとればよかった」
使い物にならないデジタル機器をポケットに突っ込みながら、ユリヤは面倒くさそうに呟く。
「え、ユリヤちゃん一人で来たんじゃないの? あっ――もしかしてグァナファト!?」
ニノンは前のめりになって尋ねる。ひっくり返しても表の面しか出てこなさそうな、おばあちゃんっ子の小麦肌少年。ルーヴル発電所で出会った明るくて人懐っこいもう一人の同期。
彼にももう一度会えるかもしれない、と、瞳を輝かせたのも束の間。
「違うわ」
淡い希望は、真顔のユリヤによってぴしゃりと跳ね除けられた。
「同じ部署の人間で、一緒に仕事してる相手」
「そっか。なんだ……」
同伴者はまた別の同僚らしい。
しょんぼりと肩を落としつつ、わざわざ食事を別でとった理由を尋ねてみると、なんと「食べたいものが別だったから」らしい。随分と割り切りがいいなとニノンは思ったが、二人の関係には触れないでおくことにした。
「その人に電話は?」
「掛けたけど通じないの」
寝てるのかしら、と非難めいた言葉が聞こえてきたところで、ニノンは当然のように提案した。
「じゃあ、今からもう一度一緒に探そう! 二人でならきっとすぐに見つかるよ」
え、とユリヤは驚いたように目を細める。
「それはとてもありがたいけど……でもいいの? ニノン、なにか用事があったんじゃないの?」
「あー」
本当は、このあとすぐに学園へ戻って、ルカの作業を手伝うつもりでいた。誰もいない静かな教室に手土産でも持ち帰って――物言わぬ鋼鉄の背中から集中させてくれオーラが滲み出ている様子がありありと思い浮かぶ。
ニノンは一瞬だけ返答に迷った後、すぐに頭の中で優先順位を入れ替えた。
「大丈夫。いま、自由時間だから」
「ツアー客みたいな言い方ね……」
ニノンはにひひと笑って赤いフードを被り直した。
明日の依頼より今日の友だ。
「それにしてもユリヤちゃん、どうして私だってわかったの? あの時とは別人みたいでしょ、髪の色も瞳の色も。前はどっちも真っ黒だったのに」
隣に並び歩きながらも、ニノンはいまだ夢心地だった。
足元が浮き立つ感覚を止められそうにない。だってまさか、海を隔てた地で出会った友人とこの島で再会できるなんて。一体どうして想像できただろうか?
「一度目にした相手はたいがい覚えられる。私の特技よ」
「うわお、スゴ技だね。私他人の顔って全然覚えられないから羨ましい…………まって、それって変装前後で見た目そんなに変わってないってこと?」
ニノンは行き過ぎた会話を慌てて巻き戻す。
「あの時も今も、一緒よ。ニノンはニノンだわ」
と、ユリヤはよく分からないことを言う。どうも腑に落ちなかったが、ニノンは「ふーん……?」と半端な相槌を打って、透ける桃色の髪を指先で弄った。
傍から見ればその態度が拗ねたように映ったのか、ユリヤは不器用に口もとを緩めた。彼女のそれは無理に笑うというよりは、込み上げてくるものを抑えきれなくなった、といった表情だった。
「えっ、なに?」
「別に、なにも」
「えー、変なの。……ふふ」
つられるようにして、ニノンも笑顔になった。
坂道が続くコルテの町は、道半ばで足を留めれば、びっしりと立ち並ぶ家々のテラコッタ屋根を見渡すことができる。二人は素朴な町並みを目下に駅ロータリーの真ん中にある警察署まで足を運び、改めて道を訊いた。そこで教えられたとおりの道を辿ると、今度は迷わず宿屋を見つけることができた。
「ここで合ってたわ。ありがとう、ニノン」
両脇のアパルトマンに押し潰されそうな細長い建物を見上げていると、中からチェックインを済ませたユリヤが戻ってきた。
「お役に立ててなによりだよ」
誇らしげに頷くと同時に、ニノンの胸を少しの寂しさが過ぎった。
再会を果たしてまだ数十分。街路樹の枝葉に引っかかる辺り――太陽は先ほどと少しも変わらない位置で輝いている。
目的はあっけなく果たされた。
つまり、この場に足を留めておく理由も無くなったということだ。
「えーっと……うん、よかった。本当に」
二人の間に名残惜しい空気が漂っていた。
別れの言葉を告げられずにいると、ユリヤが「ねぇ」と口火を切った。
「このあと時間ある?」
その一言だけで、相手が同じことを考えていたのだと悟るには十分だった。
ニノンは堪らず前のめりになった。
「あるっ。あるよ、たーっくさんある!」
「そんなに沢山なくてもいいわ」
「えっ」
ニノンは己のはしゃぎっぷりを恥じた。行き場を失くした握りこぶしに、クールな友人の冷えた手がそっと添えられる。
「私も今日は移動日だから、このあと特に予定は入ってないの。よければ付き合ってくれない?」
「つきあう……?」
半べそ状態だったニノンの顔にぱっと笑顔が戻る。
「もちろん! どこに行きたい? ショッピング? カフェ?」
「それなんだけど……一人じゃちょっと行きにくい場所なの」
ユリヤは冷静な表情こそ崩さなかったが、心なしか声量は抑え気味だった。
一人じゃ行きにくいところってどこだろう――ニノンが頭に疑問符を浮かべているうちに、彼女は「すぐ戻るわ」と言って荷物を置きに宿へと消えた。
*
一方その頃、ニコラスはというと――。
爽やかな風の吹きぬけるカフェテラス席。路地裏で助けたはずの長い黒髪の少女と、どういうわけか机を挟んで向かい合うように座っていた。
少女の目の前に鎮座しているのは、どっしりとした巨大なティラミスチョコレートパフェだ。
「いただきまあーす」
浅黒い肌の少女は語尾にハートを付けながら、茶色い新雪原に遠慮なくスプーンを突き立てた。ニコラスは努めて冷静さを保とうとエスプレッソカップを指先でつまみ、普段通りに口を付ける。だが、ちびりと中身を飲んだところで、すくい上げられたティラミスのあまりの山盛りぶりにぎょっとした。
若干引き気味の視線に臆することもなく、少女は大きく口を開け、ぱくりとひと口。
「ふわー、おーいしいっ」
と、頬に手をあて、とろける声を出した。
少女は極上の笑顔を浮かべ、何度も「しあわせ〜!」と可愛らしくはしゃいでいる。並大抵の男なら一発で骨抜きにされているところだ。
遠目に見れば、派手目なファッションを好む歳の差カップルにでも見えるだろうか。
「……これで勘弁してくれるんでしょうね」
ただし、片方がろくにカップに口もつけず、くたびれきった表情で項垂れていることを除けば、だ。
次回は「それぞれの暇乞い②ニコラスの場合」――で、謎の少女に振り回されるニコラスの回?




