第130話 修復家は苦悩する(2)
「何年か前の話だけど」
アダムが歩きながら話しはじめるのを、ルカは隣でそわそわしながら待ち構えていた。彼の抱いた違和感とはなんなのか、自分と似たような悩みから生み出されたのではないか。そんなことを期待しながら。
「ウィーンの美術倉庫で蔵出しがあったんだよ」
「うん」
「古いものだと三〇〇年前の絵なんかも出てきたんだったっけな」
蔵出しとは、美術倉庫に貯蔵されている古い絵画を選別してルーヴル発電所に送り出し、エネルギーに還元する作業のことである。
その昔"美術館"と名のついた施設は、現在おおよそ"倉庫"としてその役割を全うしている。世界中から日々送られてくる絵画を束にしても、電力の供給が追いつかない日もあるのだろう。過去の画家たちが遺した資源は、それら過需要への帳尻合わせのために各国が所有する倉庫にプールされている。
「その中に黄金を貼りつけた有名な絵があったんだ。結構なエネルギーに換わったってんで、界隈ではけっこう話題になったんだけど」
その絵はしばらく当たりだともてはやされ、金箔を貼り付ける作風が流行った時期もあったのだという。それもほんの二、三年前の出来事らしい。実際にその流行に触れる機会のなかったルカには、いまいちぴんと来ない話題だ。完成したばかりの絵画は劣化していない。ゆえに、それらは修復家の元まで流れてこないのだ。
それにしても――と無人の廊下を歩きながら、ルカは頭の中で首を傾げる。
ウィーンの蔵出しの話とアダムの感じた違和感は、一体どう繋がってくるのだろう。
「作品自体は二五〇年くらい前に制作されたんだっけな。俺もアーカイブでしか見たことねえんだけどさ――」
突き当たりに面した教室までやって来たところで、アダムはガチャリと扉を開けた。
中の様子は出てきたときとなんら変わりない。人影はなく、イーゼルごと布を被ったままの絵画が、静まり返った部屋の隅にぽつねんと取り残されているだけである。
「まぁ、これはあくまで個人的な意見なんだけどよ」
「うん」
「……んーと」
アダムはそのまま言い淀み、なかなか続きを口にしない。無言で先を促せば、彼は視線を斜め上に投げたまま、言い辛そうにぼそぼそっと何事かを呟いた。
「え、なんだって?」
「だから……、じいさんの依頼品が、どうもその絵に似てる気がするんだよ」
「うん…………うん?」
話の内容に若干の相違を感じはじめたルカは、頷きかけたまま訝しげに眉をひそめた。
一旦口にしてしまえばもうすっかり吹っ切れたようで、アダムは机の合間を縫って颯爽とイーゼルへ近付いた。
「この絵、サインはまだ見つかってないんだよな?」
「え、うん、そうだけど……?」
「そうか……」
言いながら、アダムは絵画に被さっていた布をばさっと遠慮なく取り去った。その目は、あらわになった黄金色のキャンバスを疑わし気に見つめている。まるで進捗のなさを見透かされているような、鋭い視線だ。ルカの目もぎこちなくキャンバスに向かう。
稀にだが、受け取った時点でサインが見当たらない依頼品も存在する。ほとんどは汚れによってサインが埋もれてしまっているか、サイン自体が劣化して色褪せているかのどちらかである。
本来、作者名は依頼を受けた段階で把握するのだが、フェルメールに限っては違った。彼は、作者の話になると途端に「誰だったか思い出せん」と呆け出すのだった。
何度確かめようとしても結果は同じだったので、最終的に無理強いするのはやめた。どのみち洗浄すれば自ずと明らかになるのだし、と、その時のルカは楽観的に受け止めていたのだが――。
「こいつが仮に有名な画家の作品だったとしたらだぜ、あのカナちゃんが取り逃すはずねえよな? だって有名なんだから」
「…………?」
「俺は訳アリだと思ってる。たとえば――」
いっとう声を潜めて呟かれたのは、予想だにしない考えだった。
「この絵が実は"盗品"だったりとか」
ルカは息を呑み、曝け出された黄金の絵画とアダムとを交互に見比べる。彼の表情は至って真剣だ。
――ルーヴルは、フェルメールさんが黄金の絵画を所持している事実を把握していない。
それは当初から挙がっている疑問だった。
考えられるのは、なんらかの理由でこの絵が回収リストから漏れている場合。
或いは、存在は把握しているが、所持者が異なっている場合だ。
「……どこかで盗難情報でも出てるのか?」
「それは知らねえ」
「知らないのに自信満々なのか」
「なぁルカ、依頼を受けたときのじいさんの様子、なんかおかしくなかったか?」
アダムはこちらの言葉を無視して、顔をぐっと近付けてきた。
「ほら、異様に隠したがってただろ、絵を」
思い返さずとも、その場面は脳内で容易に再生された。
依頼を受けて邸宅に赴いた日、フェルメールは布に包まれた絵画をこちらに押しつけながら「この絵に興味を持つな」と念を押した。今から修復する人間に対してやや難しい注文であるにもかかわらず、だ。
あの時はただ、情熱的な恋人たちの絵画を所持していることに気恥ずかしさを抱いているのかと思っていた。それがアンリ・フェルメールという男の性質なのだろうという認識だった。
だがもしも、ほかに理由があったとしたら?
「今どき詐欺まがいのバイヤーなんてごまんといるんだ。じいさんがたまたまそいつらから絵を購入してたら?」
布地に包まれた絵画を差し出す時の、フェルメールの警戒した眼差し。作者が分からないと口にするときの、ぎこちなさ。
思えば疑わしさはあちこちで露見していた。盗品云々の真相は別にして、なにか後ろ暗いことがあるのは確かなように思われた。
「もし依頼品が盗品で、それを修復でもしてみろ。お前、犯罪の片棒担がされることになるぜ」
少々話が飛躍しすぎな気もするが、アダムは本気で言っているらしい。乱雑に丸めた古布を小脇に抱え、尚もキャンバスを上から下まで入念に観察している。どこかに盗品の証拠が隠れていないか探っているのだ。
「もう一度じいさんとちゃんと話したほうがいいんじゃねえの? こんなところで机上の空論するよりよっぽど有意義だろ」
「――それなら大丈夫だ」
「あ?」
アダムの視線が絵画から離れ、ぱっとこちらを向いた。
「これは盗品じゃない」
「どうしてそんなにハッキリ言いきれるんだよ?」
「劣化はひどいけど、二五〇年も経っているようには見えない」
「そんなの、見てくれだけじゃわかんねーだろ」
「わかるよ」
「は……」
反論される前に、押し付けるようにして言葉を被せる。
「せいぜい八〇〜九〇年前ってところだと思う」
「そりゃあお前の"勘"だろ?」
「"経験"だ」
無意識のうちに語気が強まっていた。アダムの口が不服そうにへの字に曲がるのが見えたが、「それに」とルカは構わず言い募る。
「調査すれば証拠だって手に入る。木枠に印字された型番を見ればキャンバスの製造年代がわかるし、学園の装置を借りてC14炭素を分析すれば制作年代もだいたい割り出せる。こっちは絵具を削り出さなきゃいけないからあんまりやりたくないけど。あとは……」
「わかった、わかったよ!」
埒の明かない議論を振り払うようにアダムは片手をヒラヒラさせ、近場にあった椅子を引き寄せた。そして、背もたれを前にしてそのままどかっと腰を下ろした。
「そこまで言うんなら確証があるんだな」
頷きつつも、ルカの内心は荒んでいた。
ただの逃げだと自分でも分かっている。修復をするのかしないのか。その答えを持ちあわせないまま、依頼主の前に顔を出す勇気をまだ引っ張り出せていないのだ。
「でもなァ……そうは言ってもな……」
アダムはというと、渋い顔をして何事かをぶちぶちと呟いていた。窮屈に折り曲がった両脚が物申したげにゆらゆらと揺れている。何やらまだ煮え切らぬ様子である。
やがてアダムは、意を決したように鋭い視線をこちらに向けた。
「なんかやっぱちょっと変だぞ、ルカ」
「変って、なにが」
「何をそんなに焦ってんだよ?」
不意に胸を棒で突かれたように、ルカの心臓がどくんと跳ねる。
「あ――焦ってなんかない」
「いいや、焦ってるね。いつものお前だったら、俺なんかじゃなくてもっとじいさんと対話を重ねてるはずだろ?」
ルカは黙りこくったまま、机の上に無造作に置かれた油壺の禿げかけたラベルを意味もなく凝視する。
「今のお前は問題に真正面からぶつからずに、さっさと作業を終えたいって躍起になってるように見える。そのくせ一方じゃうじうじ悩んでるしよ。努力の方向がブレてんじゃねえのか?」
「い、言いたい放題だな」
「正直者だからな。裏表がなくてイイ奴だろ?」
「自分で言うのか……」
なじられたことも気にせずに、アダムはかかっと笑った。
良い奴の定義はさておき、彼の言う通りだとルカも思った。ルカだって、あけすけに言われるほうが、胸に仕舞われ続けるよりもずっと良いのだ。
「なぁ、ルカ」
しばらくして笑いを引っ込めたアダムは、先ほどとは違って真面目な声色でぽつんと名を呼んだ。
「一度泥のついた靴底ってのは、どんだけ地面で拭おうが真っさらには戻らねえ。慎重にいけよな、ルカ。一度の過ちで取り返しのつかない傷を負うことだってあるんだ」
アダムは俯きながら、近くの机に広げてあった作業道具を意味もなく弄っている。
絵筆の先が乾いていることに、果たして彼は気付いているだろうか。洗浄用の綿棒が減っていないことには?
「疑り深さはお前の取り柄だろ?」
そう言って、油壷を手の内で転がしていたアダムはこちらを向いた。
信頼しきった笑顔も、善意の言葉もすべて、今は鋭利なナイフとなってルカの心にぐさぐさと突き刺さる。
俯いた先の手のひらには消えることのない、目に見えない汚れが染みついている。
赤や青、緑に黄色。テレピン油のにおいがする血潮。
それはこの手で殺した絵画の血潮なのかもしれなかった。
今さら汚れた手足を真っさらになんか、戻せない。
「……一度でも」
窓の外で黄色い銀杏並木が風に揺れている。
「一度でも汚れたら、どうなる?」
葉が散って、また一本、乾いた枝が剥き出しになる。
「そりゃあ、いずれ汚しちまったことを後悔するときが来るんだよ」
アダムは抽象的な問い掛けにも迷いなく答え、視線を窓の外に向けた。まるで彼自身が経験してきたことであるかのように、明確で素早い答え方だった。
「後悔して、それでもまだ泥道を進まなきゃいけないとしたら?」
縋るように、目がオレンジ色の髪の毛を追いかける。
「進み続けて、これ以上汚れないくらい汚れたら――後悔すらしなくなるのか?」
最初は手を汚したことに感傷的でも、次第にその感覚も薄らいでいくのではないだろうか。
慣れて、いつしか当たり前になって、悩むことさえしなくなる。
人はそれを進歩と呼ぶのかもしれないが、前に進む代わりに、大切な何かを手放してやしないだろうか。
それはとても悲しいことなのではないだろうか。
「一度汚れたら、二度汚れるのも同じなのか?」
肯定があれば、罪を重ねて前に進む覚悟ができるだろうか。
今のルカに足りない、大切にしてきたものを捨てる勇気が生まれるのだろうか。
肯定があれば――。
「同じじゃねーよ」
きっぱりとした否定の声に、ルカは思わず目を瞬いた。思いのほかキツい語調になってしまったらしく、口にした本人もハッとした顔をして視線を逸らした。それからすぐに、今度はやさぐれた目でこちらを見た。
「汚れたら何度だってイヤな気持ちになる。俺がイヤじゃないのは絵描いてる時の汚れだけだね。絵具汚れは画家の勲章だからな」
「そんなの俺だって……俺は……」
厭だと認めたところで、何かが変わるのか?
またしても言葉に詰まったことが気に入らなかったのか、アダムは椅子から立ち上がり、ずんずん距離を詰めてきた。
「お前、一度糞を踏んだからって、二度目も三度目も気にせず踏みつけられるのか?」
「な……なんでいきなり汚い話になるんだ」
「泥も糞も踏めば汚れるんだから一緒だろ」
食べ物は口に入れれば皆同じ理論ではないか。ルカは唐突に飛んできた稚拙な単語にうっかり顔をしかめる。
「ふーん。じゃあいいんだな、足が糞まみれになっても」
「なんでだよ。いやに決まってるだろ」
くだらないと思いつつも、口元は自然と緩んでいた。「ほらな」とアダムは得意げに鼻を鳴らす。
「イヤな気持ちに慣れる必要なんかねえよ。慣れるって結局はさ、自分の心を殺してるってことなんだから」
心を殺す、とルカは口の中で反芻した。ノートの大事な部分にマーカーを引くような感覚だった。
「殺したって楽になんかならねえ。見える世界が平坦になってつまらなくなるだけだ。だったら苦しくても生きてるほうがよくねーか、って俺は思うけどな…………ウン」
気恥ずかしさが追いついてきたのか、アダムの言葉は急に尻すぼみになり、目が左右に泳ぎはじめた。
「いやさっきからなんの話をしてんだよ俺たちは――おい、笑うなっ」
「笑ってないよ」
「どう見ても笑ってんだろうが、ここが!」
緩んでいたらしい口元を思いきり指でぐにぐにと引っ張られ、ルカは「痛い、痛い」としまりのない声で抗議した。
もみくちゃにされても、口元には次々と笑顔が溢れてくる。忖度のない意見が――否定の言葉が嬉しかったのだと、気付いたからだった。
「クソッ、独りクサイ台詞劇場みたいになってるじゃねェかよ。俺はてっきり依頼品が盗品かもって気付いてて、それに悩んでんのかと思ってたんだぜ。なんだよ違うのかよ? じゃあなにに悩んでんだ?」
「いや、俺はただ……」
矢継ぎ早に問い詰められ、ルカは一瞬何を迷っていたのか忘れそうになった。
「画家がどんな気持ちでこの絵を描いたのか、想像するところから始めようと……思ったんだ」
そうだ。初心に戻ればいいのだと思ったのだ。
言葉をひり出すその裏側で、思考が自身の抱く感情を噛み砕いていく。
――迷いなく修復していた頃の自分を思い出せたら、出口の見えないトンネルから抜け出せると思ったから?
画家がどんな思いで筆をとったのか。見知らぬ人間の思考に思いを馳せ、目の前のキャンバスと真摯に向き合う。一つ一つの作業を丁寧に、抜かりなくこなしていく。
それは落とし物を探すために、もと来た道を一から辿り直す行為によく似ている。
「初心に戻れば踏ん切りがつくんじゃないか、って、思ったんだ」
でも本当は、同じ道を引き返したって意味がないことも、ルカは知っている。
進むためには何かを捨てなければならないということも。
「踏ん切りがつく?」
アダムのぎょっとした声を聞いて、ルカは己の失言に気がついた。
「あ、いや――」
「ルカ、お前さ、もしかして」
しまったと思ったが、もう遅い。
「作業、まだはじめてないのか? 昨日も、一昨日もあったのに?」
ルカの心情ははっきりと顔に表れていたらしい。アダムは大変なことに気付いてしまったというように、大きく目を見開いた。
「それって、スランプじゃねえの」
その瞬間、ルカの腹の中で戸惑いがぐうっとふくらんだ。
「スランプ」
「そう。いきなり不調になる、アレだ」
アダムは深刻な顔をして人差し指を立てる。ルカは咄嗟に視線を足元に落とした。
「……スランプ……」
名前だけは知っている。それがどういった悪行をはたらくのかも。ルカが顔を青くしたのは、まさか己の身にそんなトラブルが降りかかるなんて考えてもみなかったからだ。
「そうかもしれない……いや……かもしれないというか、そうだ……」
「うげっ、そんなに落ち込むなよ。言っといてなんだけど、違うかもしんねェだろ?」
「別に落ち込んでない」
履き潰してボロボロになったコンフォートシューズのつま先を睨みつけながら、ルカはぼそぼそと呟く。アダムは困ったように頭を掻いた。
「じゃあその――元気がないのは、ほかに原因があるんだって。たとえば腹が減ってるからだとか、天気が悪いからだとかさ……」
と、窓の外を見上げてすぐに視線を戻し、肩を竦めた。
「まあ、今日はあいにくの快晴だけど」
強い風が吹いたのか、窓ガラスの向こうで黄色い葉が一際多く空を舞った。
頭上に立ち込めていた暗雲は、名を与えられると同時にルカの両肩に水を吸った布団のようにのし掛かってくる。
疑う余地もない。まごうことなきスランプである。
ただし原因は分かっている。故に、出口もない。気分はさながらトンネルの中を彷徨う亡霊だ。
「…………よし」
項垂れていたルカの耳に、短い溜息と小さな決意の声が届く。視線をあげると、アダムが口の端を持ち上げながら、左手で大きく空を扇いで「ついてこい」とジェスチャーした。
「今からいいところに連れていってやる」




