第130話 修復家は苦悩する(1)
修復作業が一向に進まない。
あれから二日経った今でも、ルカは鬱屈した気持ちを抱えたままだった。
黄金色の絵画をぼんやりと眺める少年の顔にはまるで精気がない。キャンバス上に描かれた抱き合う男女のほうが、よほど血の気があるというものだ。
ルカがキャンバスの前で二の足を踏んでいる間に、作業場所はニキ邸の二階からパオリ学園の教室へと移っていた。
当初予定されていた教室の拝借猶予期間は数週間。それを撤回し、好きなだけ利用していいと太っ腹な態度を見せたのは、パオリ学園の長であるヨハネス・ゴドフリーその人だった。ハロウィンの明くる日に顔を合わせて以来、何故だかルカたちのことを気に入ってくれたらしい。
本来なら喜ぶべき歓迎ムードも、今のルカからすれば背中にのし掛かる石の十字架同然であった。
「もしかして体調わるいの?」
真剣な声がイーゼルの向こうから飛んでくる。ルカは目の前のくすんだ黄金色から顔をあげた。
「誰が……俺が?」
「うん。だって座ったままぼーっとしてるんだもん」
修復材料の買い出しに行っていたニノンが、ちょうど教室に顔を出したところだった。ニノンは画材店のロゴが押印された紙袋を机に置くなり、こちらの顔を見て「うわ、ひどい顔」と眉を窮屈そうに歪めた。
「夜中じゅう作業してた? それともアダムとずっと喋ってた?」
「すごいくまだよ」と言って、ニノンは人差し指で目の下をトントンと押さえた。
まさか、とルカは片眉を顰める。ニノンは昨晩ニコラスとニキ邸にいたからこちらの様子を知らないのだ。夜中じゅうどころか、むしろ作業はしていない。
「昨日はちゃんと寝たんだけどな」
ルカは意味もなく目元を手の甲で擦って誤魔化した。
「そう? だったらいいんだけど……」
口では納得しつつも、ニノンはまだ気掛かりを抱えているようだった。真新しいアンモニア水とクエン酸の瓶を鞄にしまい込んでいたルカは、ふと彼女の視線がキャンバスに向いていることに気付く。
懸念材料は体調不良だけではないと、その視線は暗に示していた。
「それ実は、まだ作業自体は始めてないんだ。下準備に時間が掛かってて」
聞かれてもいないのに、不必要に言葉が口をついて出る。
へぇ、とニノンの視線が物珍しげなものに変わった。
「ルカがいつも最初にやってる作業だよね? 下絵の確認をしたり、使われてる絵具の材質を調べたりってやつ」
「うん」
フェルメールから依頼を受けた黄金の絵画は、手つかずのままイーゼルに痛々しく鎮座している。
「薬剤に弱い顔料が使われていたら通常の洗浄液は使えないし、熱に弱い素材が使われているなら、キャンバス地を引き伸ばすときに過度な熱は加えられない。下準備っていってもかなり大事な作業なんだ。とくに今回は、普段と違った材料も使われてるし」
普段のルカらしからぬ饒舌ぶりに驚いたのか、ニノンはわずかに目を細めた。
ルカははっとして口を閉じる。これじゃあまるで言い訳だ。
「なんだか大変そう。じゃあ今回のは、けっこう時間掛かりそうなんだ?」
「うん、そうだな……どうかな……」
言葉は尻すぼみになり、ますます言い訳がましく聞こえてしまう。
「剥離箇所が多いから、多少時間は掛かると思う」
作業負荷が高いのは事実だ。
剥がれた部分を埋める作業――いわゆる補彩作業が増えれば、それだけ悩む時間も増大する。修復家も所詮は他人である。真っ白なジグソーパズルを組み上げるのが難解なように、画家が当時どんな気持ちで筆を乗せていたのか答え合わせができない修復もまた、難解なパズルなのだ。
「修復する前の絵からもはっきりとイメージを感じ取れたらよかったんだけどな。こういう時に役に立たないんだもんなー、この力」
ニノンは自身の桃色の髪を一房摘み上げ、疎ましげに呟いた。
感受の力で修復前の絵から読み取れるのは、断片的かつ原始的なイメージの欠片だけだ。疎通できる形でイメージを受け取るには、修復を終えて本来の姿に戻った絵画に触れなければならない。
「別にニノンが気負うことじゃない」
「でも、時々思うんだよ。どうせならこの力が直接修復の助けになったらもっと便利だったのになって」
「それは――でも、そうじゃなくてよかったと思う」
「え……?」
きょとんとするニノンに、ルカは小さく首を振った。
「他人の心の中が覗けるわけじゃないのは、誰だって同じだから。どんな思いで筆を執ったのかなんて、結局想像するしかないんだ」
ルカは絵画のなかの恋人たちに視線を向けた。
決して上手とはいえない、どこか歪んだデッサン。絡み合う腕、寄せる頬は、火照ったように朱く染まっている。今この時においては、二人はまさに幸せの只中にいるのだ――と、ひと目見ただけでも思い知らされる。
「分からないなりに手探りで修復するんだ、みんな。想像を現実に近付けるためのヒントは全部キャンバスの上にあるよ」
「……そっか。うん、そうだね」
ニノンは俯いていた頭をそっと持ち上げ、笑顔を作った。
日曜日の教室は普段とはうって変わって静まり返っている。
教室や廊下を見渡しても生徒の影はない。他人に見られる心配がないので、キャンバスはその面を開放したままだ。ルカはフェルメールから念押しされた他見無用の希望を、内心首を傾げながらも順守しようという心構えだった。
作業は人がいない今日が進め時なのだ。
頭では分かっているが、肝心の手が動かない。
「とりあえず、調査にはもうしばらく時間が掛かると思う」
「だったら私も……」
「ニノンはしばらく自由にしてていい」
えっ、とニノンは短く発した。目が零れ落ちそうなほど見開かれている。
「でも、時間が掛かるなら人手は多いほうがいいんじゃ――」
「大丈夫」
彼女の気遣いを、しかしルカは言葉で無理やり上塗りした。
「手伝いが必要になったら、声掛ける」
途端に、紫色の瞳に疑問と反論の入り混じった色が浮かぶ。ニノンは何か言いたげに口をひらいたが、ルカは黙ってその目を見返した。
「……そういうことなら。うん、わかった」
最終的に、折れたのはニノンのほうだった。
「でも無理しないでよ! また声掛けてよねっ」
最後に明るい口調で付け足して、足早に教室から出ていった。
足音はすぐに遠ざかり、誰もいない入口には侘しさだけが残された。
理由の分からない居心地の悪さに付き纏われ、ルカは意識の外で嘆息する。
「修復しなければ」と思えば思うほど、気持ちだけが先走って空回る。絡まった糸を解こうとして余計に結び目が固くなってしまった時のような、どうしようもない焦りと苛立ちに囚われていた。そして、この先何もかも上手くいかないのではないか、という妄念にも。
ルカは己が招いた悪循環から抜け出す手立てを見つけられないまま、無理やりキャンバスへと向き直る。
半ば意地だった。
ルカは、壊れて同じ動作しかできなくなった玩具のように、ひたすら丁寧に絵具層の材質を調査し続ける。
*
顔料の同定がひと段落したところで、張り詰めた空気にふうっと息を吐き出した。
事前調査はやり尽くした。足踏みしていられる時間は終わったのだ。いよいよ腰を据えて実作業に取り掛からねばならない。
いい加減気持ちを切り替えろ、と自身に発破をかける。
仮にも"道野修復工房"の看板を背負っているのだ。依頼を受けた以上、仕事を完遂するのが大義というものだ。
「――あ」
何気なく窓の外を見下ろしたとき、散り始めたイチョウ並木の黄色の隙間から、よく知るオレンジ色の頭がちらりと見えた。
気がつけばルカはキャンバスに布をかけ、一も二もなく教室を飛び出していた。
階段を駆け下りて校舎から出ると、冴えた空気に頬を打たれた。教室に上着を忘れたことに気付いたが、引き返さずに正門をくぐった。
逃げているわけじゃない。
これは――これは、ただの相談だ。
なんでもいい。修復を進めるためのきっかけが欲しかった。
*
「アダムはどういう時にキスしたくなる?」
「……ああ?」
イーゼルを担いで広場に向かうアダムの背中を、唐突な問い掛けで引き留めた。ルカの息はすっかり上がっていた。
「なんだその脈絡もクソもない質問は」
怪訝な顔をしながらも、アダムは黄色い葉の落ち始めた坂道を引き返してくる。
「今日は一日教室で作業するんじゃなかったのかよ」
「してたんだけど、窓からアダムの姿が見えたから」
「気晴らしに外にでも出ようって?」
「いや――うん、まぁそんなところ」
言葉を濁せば、アダムは納得するどころか意外そうな顔をして「熱でもあんのか?」とおどけてみせた。
「ニノンにも言われた。調子悪いのかって……そんな風に見えるか?」
「見える見える。一度修復始めたら休憩なんてろくにとらない奴が”気晴らし”ってよォ。めずらしいっつーか、不気味じゃん。熱じゃないなら今から槍でも降るんじゃねえのか?」
言いたい放題言ってから、アダムは「あ」と何かに勘付いたようにニヤリとした。
「難航してんだろ、修復!」
ぎくりとしてルカは目を逸らす。
「そういうわけじゃない」
「あ、違った? まあどっちでもいんだけどよ。俺、午後から助っ人に入れるぜ。それとも今からのほうがいいか?」
言うが早いかアダムの足が学園の正門へと向いたので、ルカは急いで腕を掴んで彼を引き留めた。
「なんだよっ」
アダムは半歩踏み出した体勢のまま、首だけで振り返る。
「別に、そういうつもりで出てきたわけじゃないから」
「ホントかあ?」
「嘘つく必要ないだろ」
すかさず降ってきた疑いの眼差しから逃れるように、無理やり顔を逸らす。ついでに掴んでいた腕も放した。
「ニノンも手伝ってくれるから人手は足りてるんだ。アダムは自分の絵を進めたらいい」
ルカは行動と乖離した言葉を吐きながら、ちらりと絵具で汚れた二つのトートバッグに目をやった。筆先の乾ききっていない平筆やブラシ、ペインティングナイフに刷毛。片方のバッグの口からは、あらゆる画材道具が雑草のように突き出ている。
もう片方には、布に包まれたキャンバスがしまわれていた。
――絵を描くことに対して、アダムがどことなく消極的になっている。そう感じたのは、サロン・ド・コルシカで彼が理不尽な評価を受けてからだ。
『あいつらに評価されたってこれっぽっちも嬉しくねえよ』
本人はそう豪語していたし、事実そのあと件の出来事を蒸し返すこともなかったから、気のせいだと言われればその通りなのだろう。
だが、往々にして違和感は嘘をつかない。
コルテにやって来た当初、アダムはフェルメールの絵画を修復するのに手一杯なルカに代わってよく家事当番をかって出てくれたものだ。キャンバスはおろか、スケッチブックすら持て余して……。
ルカは――ルカだけでなく、ニノンやニコラスもだ――口にはせずとも、漠然とした彼の不調をそれとなく察知していた。
そんなアダムが精力的にキャンバスと向き合いはじめたのは、つい最近のことだ。
「何の絵を描いてるのか、まだ見せてくれないのか?」
「ああ、これ?」
肩先を顎で示したアダムは、トートバッグを担ぎ直し、「ふっふっふ……見たいか?」と、にんまりした。
素直に頷けば、アダムはたっぷりと間を置いてから、いたずらを打ち明けるように耳打ちした。
「…………内緒だ!」
ルカの瞼が三割閉じる。
「……引き留めて悪かった。さっさと行っていいよ」
「おいやめろよ、そのゴミを見るような目を」
オープンなようでいて、その実内心の昏い部分をあまり他人に見せたがらないのがアダムという男だ。
どのような心境の変化があったのかルカは今でも知らずじまいだし、どんな絵を描き進めているのかも恥ずかしがって見せてはくれないが、それでもいいのだ。本人がまたキャンバスと向き合いたいと思えるようになったのならば、それで。
「なんだよ、教室から出てきたのってホントにただの気晴らしだったのか。いいぜ、だったら俺、マジで行っちまうからな?」
アダムはぶつくさ文句を言いながら、今度こそ広場へ向かおうと踵を返しかける。
「――でも、質問には答えてほしい。それだけ聞いたら俺も教室に戻る」
「はあ?」
踏み出し損ねた足をおかしな方向に着地させながら、アダムは撃たれた鳩のように目を丸くした。
「さっきのあれ、マジな質問だったのか?」
「冗談で聞くか」
「キスを――なんだっけ?」
「したくなるタイミング」
うわあ、と今度は恥じらう少女を演じて顔を両手で覆う。
「なに」
渋い顔をしてルカが問うと、アダムは指と指の隙間から弓なりに曲がる瞳を覗かせた。
「お前いつの間にニノンとそういう関係になったんだよ?」
「なんでそこでニノンが出てくるんだ」
「ほかに誰がいるってんだよ。カナちゃんか? それともあの赤毛の美少女か?」
「だから、なんでそういう話になるんだよ」
ルカの脳裏をハロウィンの夜に起こったある事故が過ぎったが、すぐさまその光景を掻き消した。握手を組み交わすときに肌が触れるのと同様に、アレは、人命救助のための手段に過ぎない。第一、相手は覚えていない。
「お兄ちゃんなんにも聞いてねえぞ」
「誰がお兄ちゃんだ」
だんだんと茶番が面倒になり、ルカは黙って冷めた視線をぶつけた。アダムはへらへらと笑いながらも「ま、冗談は置いておいて」と仕切り直す。
「つまりじいさんから預かってる絵のことだろ?」
「うん。経験豊富だろ、アダム。参考にしたい」
「偏見だろ! 否定はしねえけど、いやなんの参考だよ。じゃなくてそれ、修復と関係あんのか?」
「それは……」
一瞬言葉に詰まったが、悟られないように声を絞り出す。
「画家の……絵を手掛けていた当時の心境の参考に、しようと」
「ほお。それは修復するうえで重大な問題なのか?」
問い掛けるのと同時に、鋭く光る視線が二度、三度素早く動いてルカを見定める。
「それとも、なにか別の問題があんのか?」
次いで、視線より鋭利な言葉がズバッと切り込んできた。
「…………」
アダムは変なところで察しが良い。ルカは「あ」の形に口を開いたが、返すべき言葉が何も浮かんでこなかった。
思い返せば、人生の中で一度だって誰かに相談を持ちかけたことなどなかった。少しの壁ならば自分一人で登ってしまえたからだ。これはその弊害だ。相談の仕方が、分からない。
「正直俺もな? あの絵を見たときからちょっとは引っかかってたんだよ」
答えに窮していると、アダムはやにわに切り出した。
「え――アダムも?」
ルカは思わず肩を揺らした。アダムはいわくありげに頷くと、「ここじゃちょっと」と周りを窺うそぶりを見せる。
せっかく駆け足で正門まで出てきたが、ルカはアダムと連れ立って再び教室に戻ることになった。




