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コルシカの修復家  作者: さかな
12章 世界の終わりと夜の虹

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第129話 嘆きの川の罪人よ

 ニキの家に戻った四人は、一息つく間もなく頭を突き合わせた。不審者の対応について話し合うためだ。


 話を進めるなかで早々に浮上したのが、足跡の犯人はベニスの仮面ではないかという仮説だった。

 確たる証拠はないが、屋根の上に残された足跡が複数人のものだったこと、フェルメールの家が狙って近付かなければ見つけられないような森の中にあることから、そのような結論に至ったのだった。


 そこでルカたちは、しばらくの間ニキ邸とフェルメール邸の二手に分かれて寝泊りすることに決めた。わずかでも可能性があるのならこちらからとっ捕まえてやろうという寸法だ。

 回収した絵画はすべてニキの家の物置部屋に隠してあるが、なんらかの事情で情報が漏れているとも限らない。向こうの家が狙われることも念頭に置いての分担だった。


「うーん。まあ確かに、修復最中の作業部屋に見えなくもないかしらね……?」


 首を傾げたニコラスは、準備したモノ(・・)を前にぽつりと漏らす。

 フェルメール邸二階の空き部屋、窓の外から覗き込むと真正面に見える位置に、一脚のイーゼルが置いてある。彼の懐疑的な視線は、その上に設置されたボロボロの絵画に注がれていた。


 絵画というよりは切断されたキャンバス生地。

 正しくは、ルカが所持している〈白金の乙女〉の偽物(フェイク)だ。


 イーゼルの側に置いてある机の上には、油壺、筆が数本、ピンセット、消しゴム、綿棒、洗浄液の入った瓶などが、いかにも使いかけであるかのように散らばっている。

 (いぶか)っているのはニコラスだけではない。


「今時こんな子ども騙しの罠に引っかかるかあ?」


 アダムもまた、片眉を上げて用意したセットをじろじろ見つめた。

 本来、裁断された絵画を個々のパーツ毎に修復することはない。キャンバス地を縫い合わせ、木枠に張ってからじゃないと、それ以前に修復した部分が崩れて作業の二度手間になるからだ。やるにしても使われている顔料や痛み具合の調査か、表面の簡単なクリーニング程度のものだ。

 だから今のこの状況は、専門の人間が見れば茶番も甚だしいのである。


「大丈夫だってば!」


 提案した張本人であるニノンは、作戦の成功を一〇〇%信じて鼻を鳴らす。


「賢いねずみだってチーズを前にしたらねずみ捕り(トラッポラ)に引っ掛かっちゃうでしょ? 今回の作戦はチーズの出来がいい(・・・・・・・・・)から、絶対成功するよ」


 ニノンの立てた作戦はこうだ。

 フェルメールの家に残る二人は、前述の通り作業部屋を装った空き部屋で夜を過ごす。窓の鍵はかけず、カーテンも部屋の中が見えるように開けておく。窓の外から見えない部分に寝袋を並べて眠るようにし、目当ての絵画を発見した不審者たちが部屋の中に侵入してきたところで、そのまま捕まえる――。

 なんてことはない、昔から野生動物に対して使い古されてきたオーソドックスな仕掛け罠である。


「なーにが大丈夫だよ」

 アダムは鼻にしわを寄せて、厭そうに吐き捨てる。

「もしこんなもんで本当に引っ掛かったら、そん時はあいつらのことパンテガーナ(ドブネズミ)って呼んでやる」

「はいはい、そんなにカリカリしない」

 と、ニコラスが寝袋を敷きながら宥める。

「捕まえられたらアダムちゃんの功績じゃないの」

「全然嬉しくねえよ!」


 ぶつくさ文句を言うアダムは、偽物の絵画を用意するのに一役買っている。(つたな)い作戦の片棒を担がされたことに、未だに納得がいってないのだろう。


「とにかく、今日から始めてみようよ。題して『トラッポラ作戦』!」

「勝手に題すな」


 見張りの組み合わせは三日置きに一人ずつずらすことになった。

 最初の三日間はくじ引きで決める。その結果、ルカとアダムがフェルメール邸、ニノンとニコラスがニキ邸という割り振りになった。


「日中は普段どおりにすればいいんだね?」

 ニコラスは確認しつつ、腰を上げる。

「うん。晩ごはんは今までどおりニキ先生の家だよ」

「今日のご飯当番って誰だ? ニノン?」

「そう、私」

 ニノンは片手を挙げて申告する。

「この後買い出しにいって、そのままニキ先生のところに帰るよ」

「んじゃ俺も買い出し行くかあ」

 と、アダムは大きく伸びをする。

「荷物持ってやるよ。それが終わったらちょっと出掛けてくるわ。テオと会う約束してるんだ」

「テオと?」


 その名を耳が拾って、ルカはぽつりと反芻する。


「おすすめの画材を教えてくれるんだってさ。仕上げたい絵もあるからそのあと俺は広場に行くけど……」


 そう言いながら窓の外を見上げる。森が深いのであたりは薄暗いが、葉の隙間から覗くコルテの空は今日も気持ちの良い秋晴れだ。

 アダムは思い出したようにぐるんと首をまわすと、


「ルカ、お前も行くか? 画材屋」


 と、何の気なしにそう尋ねてきた。


「いや、俺はいい」

「そうか?」


 ルカは逡巡する間もなく、反射的にその誘いを断っていた。

 首を傾げるアダムの隣で、ほかの二人も不思議そうな顔をしている。


 なんとなく、今テオに会うのは気まずかった。

 三人は町の頂上で交わされたやり取りを知らない。秘密事を囁くように問われた疑問の意味を、ルカはあれからずっと一人で考え続けている。


「ルカはフェルメールおじいちゃんから依頼された絵を修復するんだから。ね、ルカ」


 嗜めるように言うニノンの顔が、同意を求めてくるっとこちらを向く。ルカは一瞬戸惑い、だがすぐに頷いた。


「……このあとすぐに着手する。明日からは学園の教室を借りて進めるよ」


 いつものように抑揚のない声で答えると、散らばる筆の位置を意味もなく調整した。「じゃあ私も手伝うね」と快く申し出てくれた、無垢な瞳を見返せないまま。



 * Nicolas



 コルテは島内唯一の大学を有する町だ。首都アジャクシオに次いで二番目に人口が多いのは、親元から離れて一人暮らしを始める学生の存在によるところが大きい。

 そんな現状もあって、午後の授業が始まる時間になると通りからは途端に人の姿が消え、街中はどこか閑散とする。 


 下流に広がる森から抜け出たニコラスは、町の上へ上へと、曲がりくねる坂道を歩いていた。

 普段ならば、今の時間帯は大通りや広場でパフォーマンスをしているか、日雇いの仕事を入れていることが多い。けれど今日は違う。少しだけ暇をもらって、見損ねた"例の壁画"を訪ねるつもりだった。


「ん……?」


 通り過ぎた横道から複数の声がして、ニコラスはふと足を止めた。

 町中が静かだと、細い脇路地で交わされる話し声さえも耳に届く。ニコラスが違和感を覚えたのはその組み合わせ(・・・・・)だった。


 公衆トイレの角の向こうから、声は聞こえてくる。


 野太い男の声が複数と、か細い女性の声。

 女性はなにやら困窮しているようだった。言い淀む相手に、男たちは鼻息荒く畳み掛けている。


「じゃあ二〇〇ユーロでどうだ?」

「あの……でも」

「このあたりの相場の倍は出すって言ってるんだよ。悪くない話だろ」

「アタシ……」

「お嬢ちゃんもそのつもり(・・・・・)でココに立ってたんだろう?」

「今さら『やめときます』はないよな。だったら二五〇だ。それならいいだろ――」


 女性の危険を察知してニコラスは路地に踏み込んだ。


「お兄さんたち、そういうことがしたいなら然るべき店があるでしょうよ」

「……ん?」


 予想通り、獣のように目をギラつかせたゴロツキ共が、二回りも三回りも小さな女性を囲い込んでいた。

 獣の目は次々に視線を上げ、邪魔者を睨めつける。


「何の用ですかね?」

「まるでこっちが悪者みたいに……なぁ?」

「ふっかけてきたのはそっちだぜ。そんな格好でココに立ってんのが悪いんだ」


 男たちは互いに目配せして嘲り笑う。

 彼らに囲まれたままの女性――もしかしたら少女かもしれない――は、浅黒い肌に長い黒髪を腰まで垂らし、花柄の網レースを裾にあしらった黒いワンピースを身につけている。胸元は多少開いていても、過剰な露出があるわけではない。明らかな言い掛かりだ。


他人(ひと)のせいにするような輩にろくな人間はいやしないね」


 ため息とともに吐き出した呟きは、小さすぎて相手の耳には届かなかったらしい。ニコラスは怯える少女の華奢な手を引き、自身の背中に隠すと、厳しい声でこう咎めた。


「仮にそれが事実だとしても、売春は罪じゃない。通報されて困るのはあんたらだろう? 買春は立派な違法だよ」

「チッ――そんなことわかってる」

「もういいや。萎えたわ。カマ野郎が」

「くだらねぇ。あっち行こうぜ」


 男たちは苦い顔をしてそそくさと逃げていく。去り際に残していったつまらない罵倒から耳を背け、後ろを振り返る。


「災難だったね。大丈夫かい」


 可哀想に、少女は未だに肩を小さく震わせて俯いている。


 ワンピースの裾から伸びる脚は膝上まで暖かそうな黒いブーツで隠されているが、それでも折れそうなほどに細いのが分かる。

 シルエットだけでも十分可憐な少女だ。こんな子が一人で人気のない路地に佇んでいたら、間違いが起きるのも頷ける。


「あんたもこれで懲りたろう。次からは一人で路地裏なんてうろつかないことだね。昼間でも危ない場所はたくさんあるんだ。観光ならせめてもう二本隣の大通りを――」

「…………わね」


 咎める言葉を遮って、少女が何かを口にした。

 ニコラスは確かめるように視線を下げる。


「え?」


 少女は勢いよく顔をあげた。


「――よくも邪魔してくれたわねっ。せっかくもっと値段を吊り上げられると思ったのに!」


 予期せぬ叱責に、ニコラスは唖然として目の前の少女を見つめた。赤みを帯びた茶色い瞳は怒りによって吊り上がり、その目に映る呆け面の男を火炙りにする。

 窮地を救ったはずが、どうしたことか激しく責め立てられている――何故?


「あんた、だってさっき、言い寄られて困って……」

「こんな何にもない路地で一人ぶらぶらするワケないでしょ! どうしてくれんのよ、アタシの二五〇ユーロっ」


 少女は怒りのままに吠え、眉を吊り上げたまま浅黒い手のひらをニコラスの真ん前に突き出した。


「お兄さんが変わりに買ってくれるんでしょうね?」


 彼女の肩が打ち震えていたのは、群がる輩がそら恐ろしかったからではない。赤の他人に獲物を逃された怒りによるものだったのだ。

 今更気付いたってもう遅い。静まり返る路地裏には対峙する二人しかいないのだから。


 ニコラスは突き出された手のひらを前に、ほとほと困り果ててしまった。



 * Luca



"ルカくんが絵画を修復する理由ってなんですか?"

 

 今朝方いきなり突きつけられた言葉の刃が、脳裏をざりざりと傷をつけながら過ぎっていく。ルカはこれ以上自傷行為を繰り返さないよう、二階の一室に籠って半ば無理やり修復作業に没頭していた。


 作業といっても、まだキャンバスに手はつけない。

 まずはその絵がどれだけ痛んでいるのか、どのような材質の顔料を使っているのか、剥離が激しい場合は下絵がどのように描かれているのか――諸々の事前調査が必要になる。


 初めに小型カメラで絵画をあらゆる角度から撮影し、次にX線を照射して下絵を確認する。それから金色に塗られた背景を薄く削ぎ、然るべき処置をして機械にかける。


 結果を待っている間にも、蓋をしたはずの思考はゆっくり頭の中に滲み出してくる。

 思い返せばリリー・Oの〈夕暮れ時〉を再修復したときからもうずっと、暗雲は頭上に垂れ込めていたのかもしれない。絵画を手放したくないと訴えたフェルメールの、滾る感情を目の当たりにしたあのときからずっと。

 テオの言葉はきっかけに過ぎない。こうして思考が囚われたままなのは、自分自身もどこか心当たりがあったからなのだろうと、ルカは思い始める。


 しばらく待つと、白黒の簡素なグラフデータが排紙口からプリントされて出てきた。データは心電図のように波打ち、その波は真ん中あたりで一際大きく盛り上がっている。このデータを読み解いて、顔料の組成を解析するのだ。


"エネルギー還元率を上げるため……だけじゃないよね?"


 突き上がった波の頂点から、指先でそのまま下に辿り、ぶつかった数値を拾う。その数値と手元にある表を照らし合わせ、試料の材質を突き止める――金、九十四.二%。


"ふぅん、結局そこ止まりなんだ"


 鼻にかかる声が、ふとした瞬間鋭いナイフに変わる。


「……ちがう……」


 裂けた皮膚から抗うことなく鮮血が流れ出るように、ルカの口から自然と言葉が零れた。


「還元率を上げたいからなんて、そんなこと、思ったこともない…………」


 言葉尻が掠れて途切れたのは、自分が思っている以上に己の声に悔しさが滲んでいたからだ。


――俺はただ、傷ついた絵画の、本来の姿を取り戻したいだけだ。救うことに理由なんて……。


 ルカは机の上のキャンバスを手に取り、ぼんやりとした汚れに覆われた恋人たちに目をやった。劣化しにくい金でさえ、今はくすんで輝きを失っているように見える。

 修復を終えた暁には、この絵は二人の愛でもっと満ち溢れるに違いない。


 画家が伝えたかった本当の姿を、早くこの目で見たい。この絵画を救いたい。

 呼吸するようにそう願うのに、もう一方で沸き起こる相反する感情が邪魔をする。それはまだ名を持たないが、一瞬でも目を向けてしまったら、すぐにでも喰らいついてきそうな予感を伴っていた。

 いつもならすぐにでも作業に取り掛かっているはずが、ルカの右手は強い意志を抱いて、指先ひとつ動こうとしない。


――俺は……修復、したくないのか……?


 画家の想いは観たものの心に残る。

 けれど結局はそこ止まりで、絵画はエネルギーに換わる。一片の彩りさえ残さず消滅する絵画の最期を変えることはできない。

 ルーヴル発電所で出会った修復部門の長、ドラクロワ女史が修復家を納棺師(・・・)に喩えたのは、案外的を得ていたということだ。


"本来の姿を取り戻しても――"


 ふと、昏い眼裏に言葉が蘇る。

 ウィリアム・クレーの絵画を前にぽつりと漏らした、ニノンの本音だ。


"未来にそれを託せないのは、悲しいよ"


 一旦意識しはじめると、今まで点在してきた違和感が一本の糸で繋がれてゆくのを止められなかった。

 ニノンの訴えも、フェルメールの後悔も。それだけじゃない。一度は筆を折った巨匠エリオ・グランヴィルの苦悩も、ルーヴルに真っ向から立ち向かったカヴィロの願いも、アダムの密かなる夢も。

 すべては同じ想いに繋がっている。


――絵画を失うのは悲しい。悲しくて……悔しい。


 その想いは星の瞬きに似た光を眼裏(まなうら)に残していく。

 ふっと漏らした吐息の先で、ルカはついぞ天命を知った。


 時の流れに浸食され、汚れ、本来の姿を失った絵画の数々。それらを救うのが修復家の使命だと、今まで信じて歩んできた。

 正しい道を選んでいるという確固たる自信があった。疑いもしなかった。

 だが、そうではなかった。


――自分が本当に望んでいるのは、傷ついた絵画を修復することじゃない……。


 ヒトが作り出した"魂の結晶"を、時の流れに抗い、継承していくことだ。

 生物が種を残し、命を繋いでいくように。

 ヒトの魂の種を遺したいのだ、この世に。


 それが自分の本当の願いだとしたら。


 認めなければならない。


「――修復家では、絵画を救えない」


 目を背け続けてきたその事実を。

 今までやってきたことすべてを、否定しなければならない。


 階下から賑やかな気配がした。買い出しを終えて、アダムとニノンが帰ってきたのだろう。だが、階段を下りて「おかえり」と声を掛ける気にはどうしてもなれなかった。

 代わりに、肺を絞るようにして深く息を吐く。それでも気分が晴れることはない。むしろ五臓六腑がじわじわと腐れ落ちる幻痛さえ抱かせた。

 自身の信念を知らぬうちに裏切っていた(・・・・・・)という現実は、ルカにとっては思った以上に受け止め難いものだった。


――裏切り者は、地獄の最下層に落ちる……。


 こんなときでさえ、脳裏にはかつて目にした絵画がちらついて仕方ない。

 後にエネルギーに還元されてしまったその絵には、すり鉢状の地獄が描かれていた。とある叙事詩の一場面を表したものだ。罪を犯した人間は身分も立場も関係なく、その身に然るべき罰が下される。


 地獄の最下層は裏切りをはたらいた者が辿りつく場所だという。

 嘆きの川(コキュートス)――裏切り者はそう呼ばれる極寒の地で永遠に氷漬けにされ、終わりのない罰にもがき苦しむことになる。


 ルカは机から離れるようにして椅子の背に深くもたれ掛かり、目頭を指で揉んだ。


 暗闇の中に佇んでいることを一度でも自覚してしまったら、人は、光なくして歩き出すことはできない。

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