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コルシカの修復家  作者: さかな
12章 世界の終わりと夜の虹

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第128話 フェルメール、再び

――相談したいことがある。


 電話口でそう告げられて、ルカたちは約一週間ぶりにフェルメール邸を訪れた。

 肝心の内容を明かされぬまま通された客間は相変わらず広く、一面ブルーの壁紙の鮮やかさもそのままだった。壁紙には細やかな金の模様が入っており、それは日本の山に自生するという山菜(ゼンマイ)に似た大小さまざまな渦を描いている。職人が精巧に施した刺繍のようにも見える。

 薄いつるばみ色のソファに腰かけ、ぐるぐる渦巻く金模様を眺めていたルカは、家主が姿を現すなり席を立った。


「わざわざすまんかったの。どれ、これでも飲んで身体を温めなさい」


 キッチンから戻ってきたフェルメールの手の上では、人数分のカップが乗った盆が不安定に揺れている。


「だ、大丈夫?」

 一目散に駆け寄ったニノンが、彼の手から盆ごと飲み物を受け取る。

「おお、すまんの」

 と、フェルメールは再び口にした。スパイスの香り漂うチャイは、彼の自家製だという。


 ニキは午後一番で受け持ちの授業があるとのことで、人足先に帰っていった。光太郎はまだこの家に滞在しているはずだが、どこかへ出掛けているのか姿は見えない。

 残っていたのはニコラスだけで、彼は先程から窓の外を眺めては難しそうな顔をしている。


 カップがそれぞれの手元に行き渡ったところで、四人はソファに座り直した。フェルメールが向かいのソファにどっしりと腰を下ろす。そこで一瞬だけ、ルカ以外の面々に気まずげな視線を走らせた。


 全員で来てはいけなかったのだろうか?――持ち上がりかけた疑問は、重量感のある咳払いによって払拭される。


「今日お前さんをここに呼びつけたのはのう……」


 ためらうような間があり、すぐにぼそぼそとした声が続いた。


「実はもう一枚、修復してほしいモノがあるからなのじゃ」


 修復。その言葉が、今のルカには妙に耳に残る。


「……はい。必要があれば、もちろん。まずは現物を見せていただけますか?」

「うむ」


 フェルメールは立ち上がると側の棚に向かい、横たえてあったキャンバスを手に取った。それは長辺が腕一本分ほどの長さで、古い布で幾重にも包まれている。厳重に梱包されたその絵にちらっと目をやってから、ルカは視線を自身の手元に移した。

 ひらいた手のひらには様々なものが染みついている。今までこなしてきた修復の経験と、かつて落としてきた数々の汚れ、触れてきた顔料、油のにおい。


 この手でまた一枚、絵画を修復する。

 修復して――その先は?


 ルカはひらいていた手をそっと閉じた。

 一人問答を繰り返していたって始まらない。手のひらは見つめるためにあるのではなく、作業道具を握るためにあるのだ。と、誰に言い聞かせるでもなくそんなことを思う。


「カナちゃんたちはその絵を回収しには来なかったんだな」


 アダムが思い出したように口にしたのは、かつてルーヴル発電所の職員だった少女の名前だ。既に退職の手続きを済ませて、故郷である日本に帰ってしまっただろうか。


「向こうの回収リストに載ってなかったのかしらね。だってあの子ならさ……」

「意地でも全部まとめて持っていきそうだもんね」


 修復家・善哉カナコのじゃじゃ馬ぶりを思い出したのだろう。ニコラスとニノンは一様に眉尻を下げた。


 己の実力を認めてほしかった、そんな未熟な想いから独断で過剰な修復を行ったカナコは、フェルメールの逆鱗に触れた。一連の事情を知ったルカは、彼女とともに同意なき変貌を遂げた絵画を再修復(・・・)することになる。

 やがて二人はリリー・Oが求めていた夕暮れをキャンバス上に蘇らせた。

 真の姿を取り戻した絵画を前にカナコは何かを悟り、ルーヴルから身を引くことを決めた。


 すべて、たった数週間前の出来事だ。

 あの時はまだこの町に善哉カナコがいた。ルーヴルの上層部に席を置くことになった、クロード・ゴーギャンの姿も。


「なあじいさん、それもリリー・Oの描いた絵なのか?」


 アダムは上半身をひねり、ソファの背もたれに肘を乗せながら尋ねた。返事はない。それどころか、問われた本人は固い結び目を解くのに手間取っていて、反応すら示さない。


「聞こえてねェや」


 まいいか、とソファに座り直したアダムは、カップを手に堂々と寛ぎはじめた。


 実際、カナコはリリー・Oの〈夕暮れ時〉だけを回収して立ち去っている。そのほかの絵画について言及することもなかった。クロード・ゴーギャンも同様だ。ニコラスの推測どおり、フェルメールがもう一枚絵画を所有しているという事実を、ルーヴル(あちら)側は把握していないのかもしれない。

 ルカは意識を半分頭に沈めながら、出されたまま手をつけていなかったカップを持ち上げた。


――よほど世間に認知されていない画家だったのか? それとも……。


 湯気立つチャイをひと口啜り――ぎょっとして、思わずカップの中身を覗き込みそうになった。

 甘ったるさが必要以上に舌に残る。まるでスパイスを混ぜた砂糖を飲んでいるようだ。しかし、油断しているとジンジャーの強烈な辛味が舌の上をビリビリと追い上げてくる。


 これはチャイなのか。

 それともその名を偽ったまったく別の創作飲料なのか。


 隣に目をやると、ニノンもまたなんとも名状し難い顔をして固まっていた。

 我慢しきれなかったアダムが「ぐふッ」とえずく。


「――ミチノ」


 眼光鋭くこちらを見据えたフェルメールが、片手でちょいとルカを手招く。

 咳き込んだのはオレンジ色の髪の方なんですが……などと心の中で難じながら、ルカはやむ無く立ち上がった。通りすがるとき、犯人が手元で小さく懺悔しているのが見えた。

 フェルメールは神妙な面持ちで絵画を小脇に抱え、ルカを連れて廊下に出る。


「実はその、あまり人に見せとうなくてな」

「見せたくない……?」


 何事かと思えば、男の態度は急にしおらしくなった。しきりにうなじを擦ったり、手を揉んでみたり、そわそわとして落ち着きがない。


「これはその、つまりじゃな。えー、絵であって絵ではない」

「……? 謎かけですか?」

「ちがう、ちがう。なるべく絵そのものに関心を持たず、修復作業にあたってもらいたいのじゃ」

「はぁ」


 なんともまだるっこしい言い方だ。フェルメールは隠すように包みをルカの手に押し付けて、尚も小声で念を押してくる。


「だからあまり他人には見られぬように作業をじゃな……こ、こらっ、ここで広げるでない!」


 制止の声を振りきって包みをひらく。

 中身を目にした瞬間、ルカは図らずも息をのんだ。


 黄金、だった。


 (まばゆ)い金色の光の中で抱きあう一組の男女。

 女のか細い腕は男の太いうなじに、男のたくましい腕は女のくびれに巻きついて、さながら一体の生き物のように密着している。

 男の首は奇妙に折れ曲がり、その唇をもう一方の唇か――あるいは頬に寄せて、熱い接吻でも落としているように見えた(・・・・・・)


 というのも、実際に口づけをしているかどうか確かめられないからだ。

 かつて男女の触れ合いを描いていたであろう箇所は、絵具層がぼろりと大きく剥がれ落ち、下地の色が見えてしまっていた。


「劣化が激しいですね。長い間どこかに飾ってありましたか?」

「数十年前に倉庫に仕舞ったきりじゃが、それまではダイニングに飾っておったの」

「そうですか……」


 食堂やダイニングなど、食べ物の湯気が充満しやすい場所は、往々にして痛みが激しい場合が多い。

 実際問題、今手にしているこの絵画も、塗り重ねられた絵具層は亀裂(きれつ)を通り越し、かなりの範囲で剥離(はくり)を起こしている。劣化しにくい金箔でさえ、油汚れなどの蓄積によって若干黒ずんでいる――。


「すげえ。金箔だ」

「恋人同士かなあ?」

「とは限らねェだろ」

「どうしてよ」


 フェルメールがものすごい速さで振り返る。

 すぐ後ろに、アダムとニノンがとぼけ顔で立っていた。


「な、なんじゃおぬしら、ダイニングで待っとれと言ったじゃろ!」

「え? 待ってろなんて言われてないっす、俺たち」


 悪びれる様子のないアダムに、フェルメールは「くぅ」と下唇を噛んだ。


「では今から申し渡そう。あっちで、おとなしく、待っておれ!」


 ずんぐりした指が容赦なくダイニングへの扉を指す。


「ええ~、だって寛ぐのも飽きちゃったし。なあ?」


 アダムは鼻をほじりそうな顔で平然とニノンに同意を仰ぐ。ニノンはつやつやした顔で大きく二度頷いた。


「隠されると余計暴きたくなっちゃうよね!」

「ニ、ニノン様……! なんという……っ」


 輝く目を向けられては、フェルメールも怒りを引っ込めて狼狽えるしかない。どうも孫に玩具をねだられて困り果てた祖父にしか見えない。


「こやつですなッ」

「あ?」


 白髪眉に埋もれかけたつぶらな瞳が一気に開眼し、悪い顔の男を力いっぱい指差した。


「俗に染められてはなりませんぞ!」

「だーれが俗だ!」

「貴様しかおらんわい!」

「間近で人を指さすなっ」


 脊髄反射で突っ込みを入れたアダムは、ついでに突きつけられた指を払い退けた。


「俺じゃねー、こいつの気質だろ」

「ニノン様が他人の秘匿にしておきたい部分をこっそり覗く下劣な人間と申すか!」

「そうだ! なんたって、スパイごっこ大好き女だぞ?」

「す、す、スパイ?」

「ちょっと、私の悪口大会になってるよ!?」

 悲鳴を上げるニノンの肩を、ルカは慰めるつもりで軽くたたく。

「ニノン。悪口言ってるのはアダムだけだ」

「あそっか、アダムだけかあ」


 笑顔で涙するニノン、ぎゃいぎゃい騒がしいアダムとともに、案外力のある老体に押し戻されて、ルカは再び客間へと戻ってきた。


「すまないね、フェルメールさん。手綱を着けてないもんだから」


 ニコラスは謝りながらも半分笑っている。「っていうか結局俺たちもあとで見るんだから、ここで隠したって一緒じゃね?」とうそぶくアダムから、フェルメールは気まずげに目を逸らしてばかりだ。


「フェルメールさん。絵画の修復、承ります」

「おお、そうか!」


 やっと面倒な詮索から逃れられると、フェルメールは安心顔でこちらにやってくる。


「ちゃんと直りそうかのう」

「金箔の剥離が激しいので一〇〇%というわけには……一概には言えませんが」

「よい、よい。やれるところまででよいのじゃ」

「それはもちろん、やるからには全力を尽くします」

「うむ。ではよろしく頼む」


 絵画に関して不明な点が出てきたら問い合わせることなどを約束して、ルカは布に包み直した縦長のキャンバスを受け取った。これがこの町で受ける最後の依頼になる。


「お二人とも、話は済んだようだね」


 振り返ると、先ほどまで冗談を言っていたニコラスが神妙な面持ちでそこに立っていた。


「ニコラス……どうかしたのか?」


 何かあったのだ、とルカは瞬時に悟る。

 それも良いことではなく、十中八九まずいことが。


「さっきフェルメールさんには話したんだけどね」

 彼は組んでいた腕をほどくと、こめかみに手を当てた。

「何者かがこの家の周辺を彷徨(うろつ)いてるみたいなんだ」

「こんな森ん中を? 不審人物の目撃証言でもあったのか?」

 横から口を挟むアダムに、ニコラスはゆるくかぶりを振った。

「午前中にニキ先生と屋根の修理をしているときに見つけたんだよ。屋根にたくさんの足跡(・・)があった」

「えっ……」


 一同から笑顔が消え、途端にざわめきが広がった。


「雨が降ったのが五日前だから、それより後だろう。そいつはどうも家への侵入を試みているようなんだ――どう思う、ルカ?」


 誰だと思う、とニコラスの視線が問うてくる。

 確信の宿ったアンバーの瞳にルカの姿が映り込んだ。

 緊張を帯びたその顔はゆらりと歪み、真白のヴェネチアンマスクに変貌する。くり抜かれた仮面の穴から、氷のように冷たい眼差しがこちらを睨みつけている。


「ベニスの仮面……」


 アダムが視線を上げ、ニノンが息を呑む。

 早まりだした鼓動を抑えるように、ルカは自身の左手薬指にはまった鈍色の指輪を、親指の腹でそっとなぞった。


 冬の嵐が、すぐそこまで迫っている。

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